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川柳的逍遥 人の世の一家言
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二度づけをしてからなんとなく不死身  田村ひろ子





          つくりごとか史実か




「宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘」

通説によってこの対決をまとめると次のようになる。武蔵は約束の時間
に遅れ小舟に乗ってようやく登場。見え透いた武蔵の作戦に、小次郎が
怒りのあまり、刀の鞘を海に投げ捨てると「小次郎早や破れたり!」と
有名なセリフを吐く。勝つ者がなぜ、刀の鞘を捨てるか、というのだ。
これに焦った小次郎は平常心を失い、はからずも武蔵の剣に屈した。
古い記録を検証すると、小次郎が3尺にあまる長い刀を用い、武蔵が木
刀を用いたということは、どの記録でも一致しているそうである。




消えてしまった天国への階段  藤井孝作

「私たちが、今知っている歴史が正しいものとは限らない」


① 史実とは「その時点で確認されている事柄」に過ぎず、本当にその
  時代にそれが起こっていたのかどうか? は、その時代その場所に
  いってみないと確認できないのだから…。
否、その時代その場所にいても真実は見えていないこともある。
② 史実とは 歴史学者などの間で一般的に事実と認められていること
  を指す。それは、当時の、文献や証言、物証などから事実とされる。
ただし、証言や文献も間違いが非常に多くあるので、何を史実とするかは
難しいと歴史学者は本音を漏らす。


棒読みであれシガシガのガムであれ  酒井かがり






史実を少し折り曲げて面白くする歌舞伎の演目



「どうする家康」 時代考証






             歴史の新説

比叡山周辺で織田信長と対陣していた浅井長政が、大浦黒山寺に宛てた
税の免除と安全確保を約束した新発見書状(覚伝寺蔵




さてここで大河ドラマ「どうする家康」「時代考証」である。
NHKで時代考証を担当するディレクターは、「
「ドラマの時代考証とは、番組で取り上げられる史実・時代背景・美術
 小道具等をチェックして、なるべく史的に正しい形にしていく作業、
 つき詰めれば <へんなものを出さない>ための仕事>という。
その流れは、台本の初稿ができあがると、脚本家・演出家、外部の専門
家(各種考証担当者)および、制作側の考証担当者が、定期的に集まる
「考証会議」が設けられる。
原稿の「読み合わせ」が行われ、考証の見地からの意見が出されて議論
が行われ、「台本原稿が修正」されていき、最終的な台本が仕上がる。
考証会議で物語そのものが、変更されることは、基本的にはないという。
又考証者の見解をどの程度反映するかは、脚本家や演出家の判断となる。

壁紙が主張しすぎていませんか  徳山泰子

シナリオチェックでは、セリフの言葉遣いや、歴史的事実<このような
出来事はあり得ない>また<この人物がここにいるのはおかしい>など
の確認が行われる。
そして当時代に使われていた日本語かどうかも細かくチェックする。
例えば、「絶対家族を守る」というセリフがあるとする。
だが「絶対」「家族」も当時の日本語にはないのだ。さらにありがち
なのは『現代の感覚を過去にさかのぼらせたことによる誤り』だ。
また歴史人物の名前の読み方である。
例えば、お市の方の夫になる浅井長政は、<あさいながまさ>ではなく
<あざいながまさ>でなければならない。
さて本編では『どうなる 浅井』は…?
役者はちゃんとた正しく読むのだろうか……そこが見どころ。

本物のいたこだスワヒリ語のお告げ  宮井いずみ


「どうする家康の第四話をリピートでみてみよう」




        おいちの肖像画  (竜安寺)
お市の長女の淀殿は、父・長政の十七回忌、及び、母・市の七回忌に菩
提を弔うために、両親の肖像画を描かせた。
この肖像画は高野山の持明院に伝えられている。

「その前にお市を予習しておこう」


通説では、1547年(天文16)尾張那古野城内で生まれたとする。
父は織田信秀、母は土田御前とされているが、生母は不詳。
信長の妹で五女と伝えられ信長とは13歳離れている。
『祖父物語』によればお市は「天下一の美人の聞へ」と美人の誉が高く
『賤嶽合戦記』では「天下第一番の御生(みあれ)付」と、あって
「貴人として尊敬された」という描写がある。
戦国の三大美女の一人である。肖像画をみても、市の血を引く三人の娘
(淀・江・江与)をみても、お市の美しさは本物だろう。
(残る三大美女は、2位に明智玉子(細川ガラシャ)3位に松の丸殿
(秀吉側室)と続く)



黒髪が一駅ごとに上下する  稲葉良岩



     
家康が織田家で人質生活を送った1547年(天文16)から1548
年の2年間、家康と信長は交流があったとされるが、お市は、この15
47年(天文16)に生まれている。
当時5歳だった家康と生まれたてのお市の方の間に、接する機会があっ
たのか? お市の幼少のころの記録は、不詳と伝承されている。
次のような説もある。
(徳川家臣・松平家忠「家忠日記」によると、家康とお市の方の間に、
結婚話がもちあがっていたというのである。
「家忠日記」に「天正10年(1582)5月に、織田信長が徳川家康
とお市の方を娶せた」という記録が残っているのだ。
お市35歳である。
その年の5月といえば、信長が「本能寺の変」で落命する一ヶ月前だ。

オプションで笑う機能が付いている  川田由紀子


この日の『家忠日記』によると、信長みずから家康の食事を配膳し、
当時、人気のあったお菓子・「麦こがし」を作り、もてなしたとある。
その際、信長から家康に「引き出物」として与えられた品の中には、
女性用の絹織物である「紅の生絹(すずし)」も入っていた。
これこそ、信長がお市と家康の婚約を祝った行為ではないか…を根拠と
しているようだが、「本能寺の変」の翌年にお市の方は、二番目の夫・
柴田勝家と自害している。あり得ないことを堂々と書く日記もある。

そんなことしたら和尚に叱られる  吉川  幸







 
「四話のリピートへ戻る」

信長元康と相撲をとるシーンがある。信長の勝利で決着がつくと、
そこへ木下藤吉郎(ムロツヨシ)があらわれ、
「元康さま、もう一人、手合わせしたいという方がいらっしゃいます」
というと、元康は訝しい顔をして藤吉郎に向かい「もう一人?」と訊ね
ると、小柄な仮面の人物が登場し、いきなり木製の薙刀で元康に攻撃を
仕掛けてくる。
元康も稽古用の槍を柴田勝家から受け取り、槍をもって激しく応戦する。
最後は、元康が優位に追い詰めたところで相手の仮面を剥ぎ取ると、
信長の妹・お市の方(北川景子)顔があった。
信長は相撲が趣味だったから良いとして、お市に武道の心得を証明する
記録はない。

こんなところで息継ぎを間違える  藤本鈴菜








男勝りな少女だったお市との15年ぶりの再会だった。
お市 「お久しゅうございます。竹殿」
信長 「覚えておるか。いつも俺の後をくっついていた妹・市じゃ」
元康 「お市さま…」
元康が織田家の人質だったころの、いつもそばにいたお市の姿を元康は
思い出す。
お市は、元康に清州を案内するといい、2人は馬に乗り、高台に立ち、
栄える清須の町を見下ろしていた。
(清須城は、濃尾平野のほぼ中央部に位置し、周囲の地形は真っ平で、
また、信長時代の清須城はそれほど大きなものではなく、ドラマに出て
きたような、まるで中国の「紫禁城」を思わせるほどの規模とは、まっ
たく別物。視聴者はどうみたのだろうか)


月光はすべて私のために降る  吉川幸子





     清州城             紫禁城




翌日、元康は正装して信長の待つ清州城に赴いた。
門前では柴田勝家藤吉郎が待っており、元康が見た清州城は荘厳その
ものだった。そこで元康は織田と盟約を結ぶことになる。
勝家「織田は、何をおいても松平を助け、松平はなにをおいても織田
   を助ける。以上が、この度の盟約です。異論ございませんな」
強引にも元康は、勝家からそういわれて、元康はサインさせられた。
「乱世とは真に愉快な世であることよ。力さえあれば、何でも手に入る。
 力さえあれば、どんなに大きな夢も描ける。愉快この上ない」
すだれが開くと信長がいて元康に持論をまくしたてた。
(元康が今川家と断交し、信長と結んだのは、1561年(永禄4)で、
この時、お市は14歳。翌年元康は家康へ改名している)

頸動脈切るなら堺の包丁  井上一筒









「清洲同盟 嘘・真」


『徳川実紀』によると、家康は清洲城に足を運び、信長を訪問。会見後
に同盟を結んだとされてきた。いわゆる「清洲同盟」である。
『徳川実紀』だけではなく、『武徳編年集成』をはじめとする江戸幕府
の編纂した歴史書でも、1562年(永禄5)1月、家康は清洲城を訪
れたとしている。
だが、今川氏と交戦していた家康が、城を空けて信長を訪問することは、
不可能である。また、家康が清洲城を訪れたという記載は『三河物語』
『松平記』という戦国期に近い史料には見られない。
信長側の動向を書いた『信長公記』でも、触れられていない。




記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗



そしてさらに両家の結びつきを強めるため、信長お市を娶れと命じた。
元康「わたくしには、妻と子がおります」
信長「駿府に捨ててきたのであろう。あれは、その辺の男よりも頼り
   になるぞ。駿府の姫よりも遥かにお主の役に立つ」
元康「お市さまがどう考えられましょうか」
信長「もう2、3日おって、形だけでも祝言をあげておけ」
何事につけ信長は、一方的である。
(お市の元康との結婚についてはすでに述べた通り)


ああ しなやかに蔦のからまる薬指  山口ろっぱ

その頃、駿府の瀬名(有村架純)は厳しい状況にたたされていた。
今川氏真(溝端淳平)の側女にさせられようとしていたのである。
それを知った元康が、破談を申し出ようとすると、お市
「やはり嫌です。兄の言いつけとはいえ、元康殿のようなか弱き男の妻
 となるのは、やはり嫌じゃ。この話、お断り申し上げたい」
元康に背を向けた市の目には涙。 振り返り、元康に近寄ると
「竹殿、申したはずです。この世は力だと。欲しい物は、力で奪い取る
 のです」と背中を押した。
(1562年2月、氏真は家康に戦い(牛久保城の戦い)を挑んだが
 見事に叩きのめされている)

いきなりの本論 いきなりの挫折  中村幸彦

信長「どんな気分じゃ。初めて男にそっぽを向かれた気持ちは。
しかも恋い焦がれた男に」
幼少期、川に飛び込み、溺れたお市を救ったのが元康(竹千代)だった。
「(元康を)大切になさいませ。兄上が心から信を置けるお方は、あの
  方お一人かもしれませぬから――」 と、市は兄信長に呟いた。
(今川義元の死後、嫡男の氏真が家督を継いだが、戦さ経験はほとんど
 ゼロで、「当主見習い期間」のようなもの、家康も参陣した桶狭間の
 敗戦から8年後の1568年、今川氏は事実上の滅亡を迎えた)
根気よく胸板ぐるり巻く昆布  山本早苗







【余談】

そもそも「歴史研究」は、どのようにして行われるのか?
歴史研究の根本は史料にあり、大別して「一次史料と二次史料」がある。
一次史料とは、同時代の古文書(書状など)や日記を意味する。
例えば、豊臣秀吉の書状、公家や僧侶の書いた日記など。同時代に成立
したものなので、信頼度が高い。
ただ、一次史料がすべて正しいとは限らないので、史料批判を行って子
細に検討する必要がある。
端的に言えば、史実は一次史料によって確定される。
次に、二次史料とは、後世に作成された史料で、系図、家譜、軍記物語、
奉公書、覚書など。一般的に、二次史料は、時間が経過してから作成
されるので、史料的な性質が劣るとされている。
二次史料の作成に際しては、残った一次史料はもとより、口伝、関係
者の聞き取りなど多種多様である。
口伝や聞き取りの場合は、記憶違いなどによる誤りも少なくない。

充電をしなさい水が枯れぬうち  平尾正人

新説の問題
天正10年6月の本能寺の変で、明智光秀は本能寺を攻撃せず、鳥羽に控え
ていたとの新説が発表された。
 根拠は『乙夜之書物』(いつやのかきもの)という二次史料である。
『乙夜之書物』は、加賀藩の兵学者・関屋政春が執筆したもので、その成立
は、寛文9年(1669)~同11年(1671)といわれている。
内容は、著者の政春が500前後の逸話を聞き取ったものとされている。
『乙夜之書物』は、注目すべき史料なのかもしれないが、その記述の多くが
ほかの史料で裏付けられないことに難がある。あくまで逸話にすぎない。
2ミリほど伸ばした爪がテープ切る  宮井元伸

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それはもう言いようのない馬鹿笑い  木戸利枝




水戸藩主徳川斉昭・平戸藩第藩主松浦静山・信州松代藩主真田幸貫




家康ー戦国武将を表現した狂句





            甲 子 夜 話

松浦静山の随筆『甲子夜話』(かっしやわ)の中に有名な三人の戦国武
将の性格をを表現した次のような文章がある。

『夜話のとき或る人の言ひけるは、人の仮託に出づるものならんが、
 その人の情実によく適へりとなん。
 郭公を贈り参らせし人あり。されども鳴かざりければ、
「鳴かぬなら殺してしまへ時鳥  織田右府」 信長
「鳴かずとも鳴かして見せう杜鵑  豊太閤」 秀吉
「鳴かぬなら鳴くまで待つよ郭公  大権現様」 家康
 このあとに二首を添ふ。
 これ憚るところあるが上、もとより仮託のことなれば、作家を記せず。
「鳴かぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす」
「鳴かぬなら貰つて置けよほとゝぎす」
(「時鳥」「杜鵑」「郭公」は、全部ほととぎす)



翌日の指に残っている火照り  きゅういち









明治天皇
の曾祖父である松浦静山は、47歳となった文化3年(1806年)
に三男・(ひろむ)に家督を譲って隠居し、以後82歳で死ぬまでの
35年ほどを武芸と文筆活動など、好きなことに没頭した。
文筆活動においては、自ら活字を作り、印刷を試み、随筆「甲子夜話」
「日光道之記」「百人一首解」「江東歌集」を著している。
上記の「甲子夜話」は、幕府の儒官、大学頭家の林述斎から
「個人の善業、嘉言はこれを記し後世に伝えるべきである」
と進められたもので、文政4年(1821)11月「甲子の夜に執筆を開始」
したことから名付けられたという。
他には詩歌・書画を残した他、当時の文人墨客とも深く関わり、化政文
化をリードした。
故に「ほととぎすの句」は静山の作ではないかとも…思われていた。



両の手の器ぐらいが丁度いい  津田照子



ところが「ほととぎす」の三首は、静山よりも23年早く生まれた江戸
時代中期の旗本で勘定奉行・南町奉行を務めた根岸鎮衛(やすもり)が、
佐渡奉行在任中の天明5年 (1785) ~文化11年 (1814) 迄の30年間に
亘って書き溜めた世間話の随筆集『耳嚢』(みみぶくろ)に,紹介されて
いるのである。ということは、三人の性格を表現したものとして、よく
知られる「ホトトギス三首」は、いつ、誰が、詠んだ歌なのか……?
不明のままなのである。
(耳嚢又は耳袋=同僚や来訪者、古老から聞き取った武士から町人層ま
で身分を問わず、様々な人々についての事柄の珍談・奇談・怪談が記録
したもの)



テトラポットの角に降りつもる誤解  酒井かがり





         耳 嚢




根岸鎮衛『耳嚢』には、次のように紹介されている。
『古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、
 恐れながら神君ご参会の時、卯月のころ「いまだ郭公を聞かず」との
 物語いでけるに、信長、
「鳴かずんば殺してしまえ時鳥」  
 とありしに秀吉、
「なかずともなかせて聞こう時鳥」  
 とありしに
「なかぬならなく時聞こう時鳥」  
 と、遊ばれしは神君の由。
 自然とその温順なる、又残忍、広量なる所、
 その自然をあらわしたるが、紹巴(じょうは)もその席にありて
「なかぬなら鳴かぬのもよし郭公」 
 と、吟じけるとや。
これで三首の発祥が連歌の会の座興とまでは分る。
(里村紹巴とは、本能寺の変で、明智光秀が亀山城を出陣する
数日前に張行した連歌の会(愛宕百韻)の参加者の一人)



理性一番喜怒哀楽を削除して  矢沢和女



 【おまけ】


野球の野村監督が有名にした名言は静山のコトバがある。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」である。
 意味は=心形刀流免許皆伝・松浦静山の『常静子剣談』この一文にある。
剣道では試合後の反省によく用いられる教えで、負けた時には必ず理に適わ
ない原因がある、というのである。
「イカサマ」の語源。
イカの墨で字を書くと1年くらいで文字が消えてしまうことから、
と、甲子夜話のネタで静山が発信したコトバ。



おい不死身 右が二重になってるで  酒井かがり
 








「ここから信長・秀吉・家康の性格のエピソード」



「なめかたで織田ほど勝った者はなし」

「なめかた」とは銭を投げて、裏が出るか表が出るかの博打。
信長は出陣に際し、熱田神宮で銭の裏に賭け、裏と出たので勝てると踏
み、大敵に挑んだ。つまり信長は、かなり験を担いだ人だったようだ。
 政略のため ”マムシ” と恐れられていた隣国美濃の斎藤道三の娘、濃姫
を妻に娶った。道三にしてみれば可愛い娘の婿だが、そこは戦国時代。
やがて道三が倅の義龍に殺され、その義龍が病死すると、信長は棚ぼた
で美濃を手中にした。



サイの目は起死回生のピンである  松浦英夫



とはいえ信長はまだまだ弱小の国主。
駿河の今川義元は5万の大軍を仕立てて、信長を軽く蹴散らかそうと軍
を差し向けてくる。
信長は自領の尾張に入ってきた今川軍が、織田の支城を次々に落してい
くのを「わざとされるまま」にして、今川軍が桶狭間の谷間に進み隊列
が帯のように長く伸び切ったところを見計らい、豪雨をついて、僅かの
兵を率い稜頂より一気に駆け下り、混戦のなか義元の首級を挙げた。
信長にとって、桶狭間は一世一代のイチかバチかのデビュウー戦だった。



それはもう目の前にある三途川  黒田忠昭



「すべて計算 秀吉の人たらし」


織田家につかえ、美濃を攻略するときのこと。
秀吉は、敵の武将を味方につけることに成功した。
しかし信長は、その武将を殺してしまえと命じる。
ふつうの人間なら、武将を殺してしまうだろう。
しかし、秀吉はそうはしなかった。
武将に「すぐに逃げられよ」といい、刀を捨てて、万が一の時は自分を
人質にするよう申し出たのだ。
これは、単に秀吉の人の良さをしめすエピソードではない。
秀吉は「武将は感激してわしの評判を美濃で広めるだろう」と、考えて、
逃がしたのだ。
秀吉の人の良さは、「深い計算」にもとづいていた。



点滴のチューブの先の花結び  美馬りゅうこ



「タヌキ親爺の本領発揮」


本能寺の変以降、織田家の後継者を決める「清須会議」からも排除され
てしまうなどの、豊臣秀吉にずっと先を越されっぱなしの徳川家康
すべてが秀吉の思惑通りに動いていくのを、家康は穏やかではなかった
はず。
秀吉が信長の長男・信忠の子である三法師を推し、柴田勝家が3男の
推す中、家康は、2男の信雄が家督を継ぐのが筋だと考えていた。
勝家側から味方につくように働きがけがあったとき「反秀吉」という点
で一致しながら、結局勝家に乗らなかったのは、一つにこの後継問題が
あったのである。
また秀吉と勝家が争って、互いに消耗することは、自分にとってプラス
だという計算があったのだろう。
家康は自らの力を温存しつつ「賤ケ岳の合戦」に対しては静観を決め込
んだ。



ハニワ顔そんじょそこらの目ではない  森 茂俊



家康は、戦況や秀吉の動きを細かく把握していたのだ。
そして秀吉勝利の報がもたらされると、その祝いの品として天下の名品
「初花肩衝(はつばなかたつき)」を贈った。
茶の湯好きの秀吉は大喜びし、家康が、秀吉と勝家両方に距離を置いて
いたことはこれによってチャラになる。
表面上はこうして秀吉と友好的なふりを装いながら、一方で北条氏直
娘の督姫を嫁がせ、関東を統べる北条氏との同盟を結ぶなど、家康の
「タヌキ親爺」ぶりはさすがである。



聞き上手話し上手にしてあげる  ふじのひろし










「最後に女性の好みから三人の性格を診断」


信長女性にそれほど関心はない。
秀吉容貌と身分の高い女性が好きな女たらし。
家康容貌は二の次で健康的な側室を選ぶ。



思い出し笑いあなたが一位です  市井美春

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凡人なりに好きな色を足してゆく  山本昌乃




      信 長              家 康




「エピソード」


武田信玄徳川家康が三方ヶ原で戦う前のこと。
「あなたが信玄にかなうはずはないから、遠江を捨て三河に戻れ」
という内容の手紙を信長は家康宛てに送っていた。
その一方で、あの信長が信玄へ次のような書状を出している。
「家康が、信玄公に対して無礼を働いたら、忠告をいたします」
というものである。
何という低姿勢か「美濃のモンスター」ともいわれた信長が、このよう
な外交戦略をとらざるをえないほど、信玄は恐れられていた。




私は以下省略の中にいる  藤井康信




「家康の壮年時代」ー信玄式戦い方




信玄はどうしてあれほど強かったのか
その秘密は「人を動かす力」と知った家康は、以後、信玄の考案した
軍法、つまり戦場で兵を操る方法をつぶさに研究し「武田信玄条目」
著した信玄に習って『徳川家康軍法』を編み出した。
ー先陣よりも前に、手柄をたてようとしてはならない。
ー命令がないのに、勝手に動いては成らない。
ー喧嘩口論は固く禁ずる。




失った首をさがしにゆく途中  小池正博




信玄のやり方を学んでのち、家康は変わった。
1584(天正12)羽柴秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」で家
康は,秀吉の大軍に取り囲まれた。
しかし、じっと耐えて待ち続け、焦った秀吉軍が動いたところをすか
さず叩いて勝利をものにしたのである。
1600年(慶長5)の「関ヶ原の合戦」もそうであった。
決戦前夜、家康は、城に籠る石田三成の前を素通りして、大坂へ向かう
かのように装って敵をおびき出し、一気に決戦を挑んで勝利したのも、
信玄式戦法である。




記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗




        餅をこねる秀吉




「小牧長久手の戦い」

信玄の死後、家康は武田の旧臣を取り込み、喉から手が出るほど欲しか
った武田の強力な戦闘力を手に入れた。
今川・武田という2つの持っていたものを手に入れ、西の濃尾平野へ押
し出す機会も得られた。
しかし、そこに現れたのが、羽柴秀吉である。
秀吉は家康と信長の子・信雄(のぶかつ)に対する兵を起こし1584
(天正12)「小牧長久手の戦い」が起きた。
信長が本能寺に倒れて2年後のことである。
秀吉は大軍で家康を圧倒できると考えていた。




うしろからひやりと肩を叩かれる  宮井いずみ




大軍で囲まれたときの戦い方は、一つしかない。
まず、大兵力が広域に分散する寸時を待つ。
その寸時、自軍のほぼ全軍を敵の一部にぶつけて襲撃し、さっさと引き
あげる。津波のような作戦である。
その作戦はものの見事に成功し、秀吉方の多くの武将を討ち取った。
臨機応変、自由自在に大軍を動かし、敵を翻弄して自分に有利な
状況をつくりだす戦いぶりーそれはあたかも、あの信玄が、家康に乗り
移ったかのような見事なものであった。




戦場で人間ポンプ微笑せよ  まつりべきん




       小牧長久手の戦い




ここで秀吉は、どんなことがあっても、家康の首を取るまで戦うべきで
あったが、その障害となったのが、近江の長浜から岐阜の辺りで起きた
大きな地震だった。
秀吉の前線基地が崩壊し、家康と戦っている場合でなかった。
これを見た家康は、素早く外交交渉を仕掛け、一回勝った状態で秀吉と手
を打ち、共同歩調をすすめることになった。




ご破算にしようと透明になった  柴田桂子




秀吉家康は、光秀を加えた3人が信長の配下として「姉川の戦い」
殿(しんがり)の名乗りをあげて以来の対面である。
秀吉の生まれは、1536年、家康は1542年生まれ。
6歳違いで、当時、木下藤吉郎を名乗っていた秀吉は15歳で、
今川家・松下之綱に仕官している。
が、その時、家康は9歳で今川の人質の身であった。同じ屋根の下に暮ら
していた2人だが、家康は人質とはいえ、秀吉とは身分の違いで、擦れ違
うことがあっても言葉を交わしている機会はなかった。
つぎに、秀吉は17歳で信長に仕え、23歳で「桶狭間の戦い」に従軍し
ているが、その時、家康は敵方今川氏からの初陣、やはり物見の立場で顔
合わせはない。
運命的にも永劫、タヌキ親爺とコマ鼠の相性は良くなかったようだ。




あめ色の玉ねぎ成田屋のにらみ  藤本鈴菜





  景観も抜群の武田家の菩提寺・恵林寺
境内の一角にある墓に信玄が眠る




「三方ヶ原の戦い」の4ヶ月後、突然、信玄が死んだ時、家康は喜ぶ家
臣たちを諫めて、次のような名言を語っている。
『信玄のような武勇の大将は古今稀である。自分は若い頃から彼を見習
 いたいと思ったことがある。信玄こそ、我らにとって武略の師といっ
 てよい。隣国に強敵があれば特に幸いである。
 なぜならこちらは油断、怠りなく励み、またかりそめの仕置にも心を
 遣うゆえに政治も正しくなり、家も整う、もし隣国に強敵がなかった
 ら、味方は武力の嗜み薄く、上下ともに己を高く思って恥じ恐れる心
 を持たぬため、だんだん弱くなるものである。
 信玄のような敵将の死を、味方が喜ぶ理はない』と。




心臓の突っかい棒を外される  笠嶋恵美子




「この時生まれた家康の名言」 『東照宮御遺訓』


『人の一生は、重荷を負て遠き道をゆくが如し、 いそぐべからず。
 不自由を常とおもへば不足なし。 こころに望みおこらば、困窮したる
 時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ。
 勝事ばかりを知て、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。
 おのれを責て人をせむるな 、及ばざるは、過ぎたるよりまされり』

≪人生とは、重い荷物を背負って長い道を歩いていくようなものだ。
 急ぐ必要はない。不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
 心に欲が生じたときは、苦しかったときを思い出しなさい。
 我慢をすることが無事に長く、安らかでいられる源で、怒りを敵と思
 いなさい。成功のみを知り、失敗を経験したことがない者に、害は降
 りかかるもの。自分の行動を反省し、人の責任を責めてはいけません。
 足りない方が、やりすぎてしまったものよりは、優れている≫




流れ星おわらの風のいまを弾く  前中知栄




    伝家康の手形 (輪王寺蔵)




「名言の真実」


上記の名言ー信長・秀吉の後塵を拝しながら、チャンスが来るのをじっ
と待って最後に天下人の座を得た家康(タヌキ親爺)がいかにも言いそ
うな言葉である。が、
実はこの名言は「この印籠が目に入らぬか」でお馴染み天下の副将軍の
黄門さまこと水戸光圀による訓示なのだ。
ウソつきの張本人は、明治初期の旧幕臣、池田松之助という人物である。
維新後の新政府が、徳川幕府を朝敵扱いすることに反感をもった彼は、
「このままでは権現様の名に傷がつく」と、徳川家の名誉回復に命を捧
げる決意を固めたのであった。
そして、家康公御真筆と銘打った「ありがたい遺訓」をでっちあげ家康
の威光を世に示そうと、私財のすべてを投じ名言・名調の書写に励んだ。




ほんのりと海馬の裏が赤くなる  蟹口和枝




「家康の生年のウソ」


「家康どうする」のドラマのワンシーンで「わしはトラの年、トラの日、
トラの刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ!」と気勢を上げた家康
った。が、一つサバを読んでいた。
「実は、家康は、トラ年ではなく、ウサギ年の生まれ」
と、家康の母・於大の方と父・松平広忠が暴露する場面がある。
これについて歴史家の磯田道史氏は、
「家康が天文11年12月末の生まれだとまずい証拠物がある。
家康は竹千代と命名された。父・広忠が連歌会で
<めぐりは広き園の千代竹>と詠んだのにちなむ。
この時の連歌会の記録の日時は、天文12年2月26日夜。家康は大事
な嫡男、天文11年生まれなら連歌会の日まで2ヵ月も命名されなかっ
たことになる」と、述べている。
『徳川家譜』などは家康の母・於大が
「夢に十二神の内(寅の方位を守る)真達羅(しんだら)大将が袖に入
 るのをみて懐妊した」とまで記しているのだが…。
(これらは家康がウソの本人ではないが、後年家康がつく嘘もあります)




閻魔さま嘘三つ程つきました  石田すがこ

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きゅうりならとうに曲がっているころだ  米山明日歌





        「織田信長公相撲観覧之図」
1578年(天正6)信長が安土城にて相撲を観戦する。



「本当の織田信長とは」
「尾張の大うつけ」といえば、織田信長のこととすぐわかる。
「「尊大・厳格・短気・せっかち・神仏を信じない・造反は許さない・
天辺志向・大胆不敵」のイメージがつきまとう。
だが本当の信長はどうなんだろう。
彼がまだ10代のころのこと。普通よりも長い槍をつくり、新しい戦法
を発明した。これは、信長が天才だからできたのだろうといわれてきた。
しかし、実際は信長は、寝る時間や食べる時間を惜しんで研究し、周囲
からうつけ(からっぽ)といわれても我慢し、この長い槍の戦法を完成
させている。実は、信長はとても真面目で、研究熱心で我慢強い努力家
だったのである。 加えて私的な時間をみれば、
① 睡眠時間は短く、早朝に起床。② 酒は飲まず、食事は控えめ。
③ 極めて綺麗好き。④ ユーモア性も慈悲の心をも持ち、信頼をした
  友や部下には、とことん信を貫くことで応えた…。
それは家康と信長の長い協力関係が証明している。
反面、裏切りや立てつく者に対しては、断固冷酷になれる人物だった。


黒は黒と言い切る男の太い眉  山崎武彦





   三方ヶ原の戦いに向け鎧をつけた家康



「家康の壮年時代」 家康と信長 & 信玄


徳川家康は生涯に3度「もう死にたい」と考えたことがあるというのが、
今回の大河ドラマの主テーマ「どうする? 家康」である。
その一つが「三方ヶ原の戦い」だ。
1560年(永禄3)家康19歳のとき、ついに転機が訪れた。
今川家の総帥・義元桶狭間の合戦で尾張の信長に討ち取られてしまっ
たのである。
今川家の軛(くびき)を離れた家康は、故郷三河に戻り松平の惣領とし
て統治を開始した。
信長とは、同盟を結んで背後を固め、勢力を東のと遠江にまで広げた。
そして1570(元亀元)家康は、ここに移り住み堅固な城を築いた。
漸くにして、一国の主となり、我がものとすることができた城である。


八起き目の風にゆっくり立ち上がる  宮原せつ


ところが…。そんな家康を脅かす巨大な影が現れようとしていた。
戦国一の智略と武勇をもつと恐れられた武田信玄である。
信玄の所領は、甲斐・信濃・駿河あわせて百万石。
『人は城 人は石垣 人は堀』
その言葉通り、城や石垣に頼らず、ただその人望と統率力によってのみ
幾多の戦いを勝ち抜いてきた名将・武田信玄。
その旗印は「風林火山」である。
  疾(はや)きこと風の如く 
  徐(しず)かなること林の如く
  侵掠(しんらやく)すること火の如く
  動かざること山の如し
百戦錬磨の騎馬武者たちを主力とする武田軍団は、戦国最強の名をほし
いままにしていた。


人間が来るとざわめく山の木々  新家完司





      武 田 信 玄



この年、将軍・足利義昭の要請を受けた信玄は、京の都に上り、当時、
畿内を支配していた信長を打ち砕くべく行動を開始した。
信玄が京へ上ろうとする途上には、信長の同盟者・家康の領土が邪魔
な小石のように立ち塞がっている。
<まずは、この目障りな家康を叩きつぶす>
それが信玄の当面の目標となった。
家康は同盟者の信長に相談をした。
勇猛果敢な信玄の行動を、信長は家康より知っていた。
大井川を渡って堂々と遠江に侵入する信玄に対し、信長は家康に
「危険だから岡崎に退くように」勧めた。
<家康が信玄にかなうはずはないから、浜松を捨て三河に引き籠って時
 期を待て> と、いうのである。


紙を切るだけにしときやそのナイフ  高野末次





        浜 松 城



<やっとの思いで得た遠江国を捨ててなるものか>
そう思った家康は、信長の忠告を無視した。
<浜松を捨てるならば、刀を踏み折って武士を止める>
しかし、信玄は、家康の想像をはるかに上回る恐ろしい敵だった。
家康が従わないとみるや、無理攻めはせずに時間をかけて、家康方の武
将たちの切り崩しにかかったのである。
信玄は、家康の配下にある武将たちに次々と書状を送って、領地を与え
ることを約束し、自分の味方になるよう誘いをかけた。
「我らも信玄に属し、一族郎党の命をまっとうすべし」
と、家康の領土だった奥三河の武将・奥平家の記録に書かれている。
信玄の名声に靡いた武将たちは、若輩の家康を見限って相次ぎ離反した。
1572年(元亀3)を迎えるころには、家康の領土のおよそ二割が、
信玄に奪われ、兵力差は開く一方となった。


晴れと呼び曇りと返す磨りガラス  高橋 蘭


家康はこのころ領内の神社・小国神社に次のような願文をだしていた。
「敵は多勢 我は無勢」
ーかくなるうえは、この社の神力に頼るのみである。
兵力に劣ると知りながら、信玄を迎え撃たなければならない家康。
戦う前から、すでに家康は、信玄に追い詰められていたのである。
1572年(元亀3)10月3日、信玄は麾下の全兵力をあげて甲府を
出発。家康の領土に向け、進軍を開始した。
「ついに来た!」
浜松の城に緊張が漲った。


雨を編む何か信じていなければ  赤石ゆう


このとき信玄はすでに家康の領土の地形を知り尽くしていた。
もはや家康の領土は、信玄にとって勝手知ったる自分の庭のようなもの
であった。
11日、只来城陥落。
12日、天方城・飯田城・各和城陥落。
その矛先は、家康の居城・浜松とは目と鼻の先にある二俣城へと向けら
れた。二俣城が信玄の手に落ちてしまえば、家康の本拠・浜松城は支え
となる城を失って、裸同然になってしまう。
まもなく<二俣城危うし>との報が届くと家康は
「信長の援軍はまだ来ないのか」と、喚き続けた。
だが信長は信長で、おいそれと家康に援軍を送れない事情があった。
古い室町幕府に代わる「新たな政治体制」を築き上げようとする信長に
対し、将軍足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次つぎに
挙兵。四面楚歌となった信長は、合戦に明け暮れ、家康を省みる余裕は
なかったのである。


追伸に次つぎ雲を生んでいる  太田のりこ





           三方ヶ原の戦い図 (歌川芳虎)
左・黒馬に家康 中央・栗毛に松平忠次 互いに槍を交わしての決戦図



「三方ヶ原の合戦ー本番」




元亀3年12月22日午後2時。
家康軍1万1千と信玄2万5千遠江三方ヶ原の台地で対峙していた。
もはや蛇に睨まれた蛙も同然の家康だった。
睨みあうこと、およそ2時間。
元亀3年12月22日午後4時。三方ヶ原合戦の幕が開いた。
しかしその勝敗は、戦いがはじまる前に決していたも同然であった。
信玄はーー、
『きびしく陣を整えて、鼓を鳴らし、旗を揚げ、堂々正々として大山の
 圧すがごとく静々と進み来たる』 『武徳大成記』
一方、家康はーー、
『神君歯を切(くいしば)り、沫(あわ)を噴き、衆士を激励して騎を
 廻して反撃たもうこと三,四度、吾衆戦い疲れて支うべからず』
と武徳大成記の見聞にあるように、奮闘むなしく、家康軍は総崩れにな
っていった。
午後6時、戦いは終わった。 結果は家康軍の惨敗である。


空き缶のところどころに負傷兵  峯島 妙


あまりといえば、あまりにも惨めな敗北である。
信長の予想は的中した。
死を覚悟した家康に家臣たちは、主君を死なせるわけにはいかないと、
夏目次郎左衛門が家康の身代わりとなって、無理やり家康の乗った馬
を浜松城に蹴飛ばしたという。
馬は家康を乗せて、無事浜松城に向かったが、身代わりの夏目次郎左
衛門は討ち取られた。


いつだって身代わりになる落ち椿  村山浩吉




      家康のしかめ面
「三方ヶ原で負けた時のこの儂の姿、信玄に対する恐怖に震える体、
 歪んだ顔を、絵に写しとっておけ」




その4か月後の1573年(天正元)突如信玄は、伊那の駒場で倒れた。
信玄53歳である。家康は32歳だった。
しかし家康は、それを喜んではいなかった。
ーーあの、三方ヶ原での屈辱、そして恐怖。
負けた自分の愚かさ、そして甘さ。それをもう一度噛みしめておかない
限り、自分はまた同じ失敗をする……。
「三方ヶ原の合戦」の敗北で家康は多くのことを学んだ。
「勝つことばかり知って 負けることを知らないのは身の破滅である」
この理を肝に命じた家康は絵師を呼んだ。
絵師に家康は「屈辱と恐怖の瞬間を忘れないようにとしかめ面の表情」
の絵を描かせたのである。


言い訳はしない男の意地がある  楠本晃朗


「その後」


信玄の後を継いだ武田勝頼は、家康の遠州高天神城を奪った。
その代わりに家康は、、東三河の長篠城を攻略した。
1575年(天正3)5月、「長篠の戦い」では、織田・徳川の連合軍
が3千挺の鉄砲を用意し武田の騎馬軍団を殲滅した。
その後、遠州や駿河に入った家康は、武田支配の駿河にも侵入し駿府を
無抵抗のまま占領した。
信長の協力がなかったら、おそらく家康は、勝頼との抗争すら不可能だ
ったであろう。
三方ヶ原の戦いから10年後、武田家は滅亡した。
この時、家康は禄を失った武田家の家臣たちをそっくり召し抱えた。
「人は城 人は石垣 人は堀」
その信玄のやりかたを学ぶには、信玄を知る家臣たちを自分のものにし
てしまうのが早い。そう思ったからであった。


お手玉で遊ぶ十指の笑い声  柴辻踈星




        餅 を 搗 く 信 長




こうした強力な軍事同盟があったから、信長の命令で1579(天正7)
8月29日、武田と内通していたといわれる正妻築山殿を遠江の高塚で
殺害し、同年9月15日には、家康がことのほか愛していた息子信康
切腹自害させなければならなかったわけである。
家康38歳の時であった。
それから3年後の1582年(天正10)本能寺にて織田信長が没した。
これをもって23年に亘る家康と信長の友好関係はおわり、
この後の家康の運命も変わった。


明日という強い味方がいてくれる  津田照子

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「目的地周辺」ですって言ったよね  須藤しんのすけ





            天 下 餅


「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して食らうは徳川家康」
天保8年(1837)「道外武者御代の若餅」として
浮世絵師・歌川芳虎が描いた風刺絵。

先人が苦労して築いたものを、家康がやすやすと手に入れた経緯を風刺
したものである。
この絵は、幕府に対してきわめて不遜な意思表示として、芳虎と版元は
手鎖50日の刑罰を受け、さらに版木は焼却処分とされたが、この一枚
の絵「道外武者御代の若餅」は、密かに残された。


おめでたいことなどないがおめでとう  宮井 智


「青春時代の家康」 家康と今川義元




     25歳時の青年家康の像

肥満気味のこれまでの家康像を一新する、きりっと引き締まった家康
は馬上で首をちょっと右に向けて、眼光鋭く見つめるその双眸の先は、
自らが生れた実家がある岡崎城である。
(とても25歳には見えませんが…)
三河は、今川、武田織田に囲まれて相当な緊張状態にあった。
こうした中で、家康の父・松平広忠は一族の安寧を願って、今川の傘下
に入ることを決意した。
となると、真っ先にせねばならぬことがあった。
それは「妻・於大を離縁すること」であった。
妻・於大の実兄が織田方に帰属していたためである。
この時、わずか2歳の竹千代は、最愛の母と生き別れになった。
さらに6歳の時には、「三河松平一族」の将来を堅固にするため、
父の考えで今川の「人質」となった。


世の常と思えば風も穏やかに  津田照子


ところが、その今川への移送の途中で竹千代は、父の後妻の父・戸田康
の謀で織田方にさらわれてしまった。
そんな状況の時に、父・広忠は24歳の若さで死去する。(死因は不明)
竹千代が人質交換で「今川に」戻るのはその2年後。今川・織田両家の
抗争で今川に捕まった、信長の兄・信広との交換によってであった。
今川に竹千代は、そのまま8歳から20歳までの12年間、今川の人質
として駿府で過ごしたのだった。
だが人質とはいえ今川義元は、竹千代を大切に扱った。
逼塞生活を強要・強制せず、学問、読書も自由にさせた。
食事も粗末なものではなかった。
竹千代の元服時には、烏帽子親にもなった。
この時、竹千代は義元の「元」の字をもらって「元信」と名乗った。




ひとり身の淋しい分は自由です 油谷克己




         今 川 義 元




「家康と今川義元」


竹千代今川義元の駿府に人質として来たのは8歳の時。
駿府に来た竹千代は、大変病弱であったために祖母が付き添って面倒を
見た。祖母とは、竹千代の母・於大の方の母・源応尼(華陽院)だ。
勉学のため祖母は娘に代わって竹千代の面倒を見た。
竹千代に源応尼は、智源院の智短和尚に手習いを学ばせた。
またある時は、大岩臨済宗の今川家軍師太原雪斎からも、勉学の手ほど
きを受けさせた。


生い立ちの一部を仕舞うペンケース  清水すみれ


竹千代は、母親とは3歳で生き別れ、父親とは8裁で死別。
物心ついてから竹千代の苦難が始まったが、人質としてきた竹千代には、
じめじめとした、暗い人質のイメージはない。
今川家軍師の臨済宗・雪斎和尚からも、勉学指導を受けるなど、通常の
人質とは大きく違った。
一般的に人質という暗い座敷牢の感覚であるが、痩せても枯れても竹千
代は岡崎のプリンスである。
(歴史家は竹千代を人質と言うよりは岡崎から来た『政務見習』として
 駿府に預けられたという見方をしている)
とは言っても、竹千代が人質の身分であったことには、間違いない。


ややこしくする舌がいてややこしい  森井克子


「里帰り」
1555年(弘治元年)今川義元は、「元」の一字を竹千代に与え14
歳で元服させた。「松平次郎三郎元信」の誕生だ。
元服した翌年に元信は、岡崎へ里帰りを許された。
祖先の法要と墓参が目的である。
元信は8歳の時に父・松平広忠を失ったが、このとき初めて亡き父親へ
の墓参を果たした。
岡崎城では、城を守る鳥居忠吉(80歳)から密かに場内を案内された。
元信がやがて岡崎城に帰国したときに困らないように、軍資金や兵糧米
を蓄えていたのを見せられたという。このとき
「食う物も食わずに苦労しながらも、家臣たちは元信に夢を託している」
ことを元信は知った。
これに励まされた元信は、この時に将来の自立を誓ったという。


私からたまった水を抜いてます  柳本恵子





    桶狭間の戦いー今川義元沈没の図 (芳年画)



「結婚と初陣」
1557年(弘治3年)正月15日、元信「蔵人元康」と改名した。
義元の勧めで元康は、16歳で義元の姪である瀬名姫と結婚した。
後の築山殿である。
一人前となった元康は、その直後に西三河攻めを義元に命じられ初陣を
飾った。 それから2年後、
義元は、戦国乱世をまとめるため、京都上洛を目指して大軍を動かした。
そしてまた一年、1560(永禄3)5月19日、信玄の陣営に思いも
かけない知らせが来た。長年にわたって同盟を結んでいた今川義元が
尾張侵攻の途上、「信長の奇襲にあい戦死」したというのである。
「桶狭間の戦い」である。
義元は、雄図(ゆうと)むなしく、信長に敗れ戦国の均衡は崩れた。


信長の花押は文に収まらぬ  新川弘子




       天下餅を搗く信長




替わって織田信長の登場である。
元康は上洛軍の先鋒隊であったが、義元の戦死を境に今川家と決別し
岡崎城に戻った。
今川家を捨て信長と結んだ家康は、軍事同盟と姻戚関係を結んで信長
との絆を強くした。
ところが、敵国の武田と築山殿が内通した事件で、元康は多くの試練
を味わった。元康には、数々の難問が容赦なく降り注いだ。
1564年(永禄7)の2月には、三河の一向一揆が元康を襲い三河
領国を揺さぶった。家康23歳の時である。
家康は三河軍団を組織し、1566年(永禄9)には松平姓を捨てて
「徳川」を名乗った。徳川家康の誕生である。


解凍の途中で山が動き出す  中林典子

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