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川柳的逍遥 人の世の一家言
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とうりゃんせの体位で息をくっさめる  月波余生





                                      桓武天皇像 (延暦寺蔵)

内裏にある天皇の座る場所、高御座(たかみくら)には必ず椅子が置かれ、
椅子は、天皇の権威を象徴するものであった。




古来より、じかに座る生活をしていた日本では、椅子に座るのは身分の高い人
だけと決められていました。
当時は、椅子とかいて「いし」と読み、中納言以上の人々がこれに座りました。
なかでも、天皇の座る椅子は特別で、その名も「御椅子」
紫宸殿に置かれた御椅子は黒柿製で総朱塗、金メッキの金具と菊唐草模様が施
されていました。
座面には畳と茵(しとね)を敷いてここに腰かけるようになっていました。
また清涼殿の御椅子は紫宸殿で総黒塗でした。
ともに権力と権威を示すべく、贅をこらした装飾が特徴でした。




頂点の椅子へ孤独な風の音  恭子






  夜、二条の屋敷に向かう牛車の中で、若宮と靫負命婦

命婦「お祖母の尼君はどんなに若宮のことを案じておいでだったか。
   これからの若宮のたのみは父上の帝のお心だけ…。
   あの日から若宮は、お変わりになった」



式部ー夢枕 episode最終




「前号までのあらすじ」
一の皇子の立太子が決まり、喜びにわく右大臣家。
同じころ、左大臣の長男である直房と遠駈けに出た二の皇子は、魅力あふれる
年上の女と、生涯にわたる友情を誓います、そんな二の皇子の根強い人気に
危機感をつのらせる右大臣と弘徽殿女御は、一の皇子へ左大臣家の姫、
入内させようと画策します。




払っても払ってもある嫉妬心  柳田かおる




男の子にとって母親は特別な存在です。
けれど若宮には母親の記憶がありません。
その美しさや愛らしさ、人柄のすばらしさを他人から聞くだけで、若宮にとっ
て母親とは、甘えたくても実体のないイメージだけの存在でした。
しかも、父親は、立場上、頼りたくても我慢しなければならないことも多か
ったでしょう。 兄弟のような乳母子はいたものの、若宮は孤独でした。




ただひとり夕日を浴びて深呼吸  下林正夫





          「源氏物語絵巻 鈴虫」 (桜井清花筆 徳川美術館蔵)

出家して尼になった女三ノ宮(左)が念仏を唱えているそばで、尼君が、
閼伽棚(あかだな)に水や花を供えている。




死の時は、まだほんの幼子だった若宮ですが、今回は、祖母の死を理解できる
年頃に育っていました。
悲しみにくれる若宮ですが、当時は、死の穢れは何より忌むべきタブーと考え
られていたので、宮中のような神聖な場所からは即座に退出して、祖母の屋敷
で喪に服さなければなりません。
もまた、北の方の訃報に心を痛めます。
数少ない親族を失っていく若宮が、帝には不憫でなりません。




残されて孤独の夜をかみしめる  靏田寿子




※ 穢れは伝染する
当時、死は出血とともに最大の穢れとされてきました。
死ぬこと自体はもちろん血縁に死者が出た場合も神前をはばかったり、
不幸のあった家で、煮炊きしたものを食べた者、
その家に足を踏み入れた者にさえ、穢れが移ると考えていた。
当然、神にもひとしい帝の住まう内裏では絶対のタブー。
家族が死んだような時は、すみやかに退出しなければならなかったようです。




輪郭が見えないままの そうだよね  斉尾くにこ




若宮の祖母・北の方は悲運の女性です。
夫の大納言に先立たれたうえに、女手ひとつで育てた娘・桐壺更衣も宮中での
心労がたたり年若くして、亡くなってしまいました。
たび重なる不幸に「早く亡き人の側に行きたい」が、口癖のようになった北の
方、でも、さすがに若宮のことは気がかりだったらしく、たったひとりのこの
孫と別れる悲しさを、繰り返し口にしながら、亡くなったのです。




死ぬことを忘れたように死んでゆく  和田洋子






網代車はもっとも広い用途で使われた車だった。
牛車の後ろに置かれた黒い台が榻(しじ)。ここから牛車に乗りこむ。

       牛車の席次
車内に椅子は座席はなく、あぐらにに似た座りかたをしたと思われる。
4人乗りの場合は、向かい合わせに2人づつ乗り、席の序列は前方右、
同左、後方左、同右の順。ひとりで乗車する時は前方左側に右を向いて
座りました。





※ 乗客どうし顔つきあわせ、車中は意外に窮屈
牛車に乗り込む際は、榻(しじ)という踏み台を使って、車の後ろから乗車し
ます。通常は4人乗りのセダンが中心ですが、なかには2人乗りや、RVなみ
の6人のりもありました。
内部には座席などはなく、進行方向に対して横向きに座りますが「仁王乗り」
といって正面向きにのることもあったようです。




両手は上げたままでお願いいたします  竹内ゆみこ




桐壺更衣が亡くなってまもなくのころ、帝が靫負命婦(ゆげいのみょうふ)を
更衣の里、二条の屋敷に遣わす、様子をうかがわせたことがありました。
それまでは、娘に恥をかかせまいと、屋敷の手入れも念入りに行っていた北の
方でしたが、まるで糸の切れた凧のように放心したままで、庭は荒れ放題。
それは、まるで北の方の心の風景さながらでした。
「野分に庭も屋敷も荒れて…いいえちがう、最愛の娘を失い心の支えも崩れて
 荒れはてた二条の屋敷。その上、一の皇子の立坊で尼君は、生きる張りまで、
 無くされたのではないだろうか」
そのころから、北の方のわずかな生きる張り合いは、若宮のことだけでした。




叶うなら猫のとなりで雨やどり  前中知栄




※ 北の方が命婦に托した恨み言
悲しみに沈む北の方を見舞った靫負命婦
北の方は、命婦に胸の内を切々と述べますが、そのなかには「あれほどに帝が
御寵愛下さらなければ、こんなことにもならなかったかと------」と、
つい恨み言も…。これはある意味で批判、北の方が帝に直接申し上げられる
はずもないコトバです。
お遣いとしての命婦の第一の役割は、帝の真意を北の方へ、北の方の返事を帝
に正確に伝えるメッセンジャーなのですが、このような、面と向かっては言え
ないことをうまく伝える役割も果たしたのです。




神さまはずっと熟睡中である  新家完司





 
     高麗からの相人(ひだり)を迎える父帝と若宮





高麗から来た人相見は、きわめて重要な予言をします。
その報告を聞いた帝は考えました。
------若宮を親王にしたところで、自分がいなくなれば、腹の悪い者どもが足を
引っ張り、人相見の見立て通り政治も乱れるだろう。
臣籍に下せば、親王よりかなり身分は低くなるが、この才能の器量を逆に世間
が放っておくはずがない。
臣下となり、「自ら道を切り拓いていくほうがこの子には、向いているのでは
ないか------」と。




装飾は同系色と決めている  杉浦多津子





          「源氏物語画帖 更衣」 (土佐光吉筆 京都国立博物館蔵)

高麗の相人と対面。左に座る相人が若宮の将来予言をする。




※ 高麗の相人の大予言
若宮の人相を見て、おおいに驚いた高麗の相人が、
「このような優れた相の御子に対面できたのは大変喜ばしいこと」と、感激し
ますが、人相を見る人相学、観相学はもともと古代インドにはじまり、中国も
観相学の先進国でした。
この高麗の相人は、おそらく渤海人だったと考えられますが、朝鮮半島の北部
にあった渤海は、中国との関係も深く、日本人の人相見とは、またひと味違う
鑑定ができたに違いありません。
だからこそ、帝も若宮の将来を占わせたのでしょう。




誰にでも合う占いを聴いている  松田千鶴




は、若宮をいずれ政治の中枢に置きたいのです。
けれど無理を通せば不吉なことを呼び起こすのは、桐壺更衣の一件で、身に染
みてわかっています。臣下にするのは惜しいのですが、優れた人相見も宿曜道
の名人も、若宮が親王になるのは危険だ、と見立てているのだし、ここはリス
クを避ける判断をしました。その代わり、若宮には、いずれ朝廷の補佐をさせ
たいと考え、必要な学問をみっちり習わせることにします。




幸せはここらへんだと思います  平井美智子






            最愛の人との別れ





「嫁枕 最終の章」



宮中に戻った命婦は、がまだ、お休みになっていないのをおいたわしく思い
ます。見事な庭先の植え込みをみながら、奥ゆかしい女房ばかり4,5人を、
お側に召し、帝はお話をしています。
このごろは、宇多法皇が絵を描かせ、伊勢を紀貫之が歌を詠んだ『長恨歌』
絵ばかり見ています。
話題も、和歌にしても漢詩にしても、もっぱらこの悲恋物語のことばかりです。
帝は更衣の里の様子をこまごまと尋ねます。
命婦は母君の哀れなさまを伝え、帝は返書を見ます。
そこには、
「まことに畏れ多いお言葉を承るにつけても、心は暗く想いは乱るるばかりです」
とあり、
「若宮を守っていた更衣が亡くなってからは幼い宮の身の上が心配でなりません」
と、歌が添えられていました。
" 荒き風 防ぎしかげの 枯れしより 小萩が上ぞ 静心なき "
(荒い風を防いでいた木が枯れてしまって以来、小萩の上は心静かでありません)
(世間のきびしい風当りを防いでいた桐壺の更衣が亡くなってから、若宮の上が
 心配で、落ち着きません)




健やかに育てと祈る千歳飴  桑原ひさ子




取り乱して無礼なところもある手紙でしたが、はそれをお許しになります。
更衣とはじめて会った時のことなどが心に浮かんできて、こらえようとしても、
また悲しみがこみあげてきます。
ひと時さえ離れることなど考えられなかったのに、ひとり残されてからも月日
はながれていく。 それが帝には、信じられない気持ちです。
「よくぞ更衣を宮仕えに出してくれた。その礼にと、いろいろと心にかけてき
 たが、今となってはどうにも仕方ない」
と、帝は母君を憐れみます。
「されど、若君が成人でもすれば、よきこともあるだろう。ぜひ、長生きして
 もらいたいものだ」
命婦は母君から渡された形見をお見せします。 それを見て帝は
「長恨歌のように、これが亡き人の住処を探しあてた証拠の簪であったならば」
と、ため息をつき、

" たづねゆくまぼろしもがなつてにても 魂のありかをそことしるべく "
「更衣の魂を探してくれる幻術士がいてほしいものよ、人伝にでもその場所が
 わかればうれしいのに」
と、お詠みになりました。




肩に手が背中に腕がきて初冬  清水すみれ





         楊貴妃図   (鈴木晴信)





玄宗皇帝楊貴妃が7月7日に誓い合ったという言葉。
在天願作比翼鳥=天に在りては 願わくば比翼の鳥と作(な)り
在地願爲連理枝=地に在りては 願わくば連理の枝と為らんことを…
(比翼の鳥は、翼がつながった二羽の鳥)
(連理の枝は、枝がつながった二本の木をあらわしている)
唐の詩人、白居易の作品は王朝人の必須教養でした。
そのひとつ『長恨歌』が、桐壺更衣と帝の悲恋物語にしばしば登場します。
更衣の形見の櫛を見て、帝の心に浮かんだのも、長恨歌の一節でした。






    鈴木春信「玄宗皇帝楊貴妃圖」





絵の中の楊貴妃に、いきいきした美しさを求めるのは、無理でしたが、太液地
に咲く蓮、未央宮の前の柳にたとえられた。
唐風に装った楊貴妃は、端麗で美しかったことでしょう。
しかし、更衣の優しく可愛らしかったことを思い浮かべるにつけ、には、
その様子は、花の色にも、鳥の声にも、たとえるものがないほど素敵に思える
のでした。
「比翼の鳥、連理の枝のようにずっといっしょに」、と朝に夕に約束したのに、
その願いが叶えられなかった命の儚さが恨めしい帝でした。
帝は、風の音や虫の音にも悲しさがつのります。
それに対して、もう随分と長い間お召しのない弘徽殿女御は、月が美しいからと、
夜の更けるまで、琴など慣らして遊び、帝の神経を逆なでします。
このごろの帝の様子をよく知る殿上人や女房などは、はらはらしながら、その音
を聞いています。弘徽殿女御という方は、気が強く、角のある人で、亡き更衣に
寄せる帝の気持ちを踏みにじるなど、何でもない人でした。




次はもうないとデビルの声がする  渡邊真由美

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