川柳的逍遥 人の世の一家言
三日月や粉おしろいの姉の香よ くんじろう
模範的平安美女
平安時代での美人の条件は、キメの細かい白い肌 ・ふっくらした頬 ・目は細く て切れ長・おちょぼ口、サラサラした艶のある黒髪 ・ふくよかな体型 ・大顔 で 小鼻 。「わたしこの時代に生まれてくればよかった」っていう人いませんか。 小 野 小 町
百人一首しかり、うしろ姿しかあまり見せない小野小町。 その正面の顔は、後半に出てきます。 小野小町が、世界の三大美女のひとりと認定されたのは、時代が大正になって から。黒岩涙香(るいこう)が『小野小町論』を書いたのが、決め手となった。 『源氏物語』が書かれた平安の中期には、何より色の白いことが女性の美しさ
の条件でした。ひたすら白粉を塗りたてる美白メイクがよしとされ、白粉のの りをよくするために眉毛まで抜いたほどでした。 かわりに額の上の方に、眉墨で円形や楕円形のぽってりした眉を描き、歯には
お歯黒、口元にはわずかに紅をさす…。 化粧というより、キャンバスに新しい顔をつくるという感覚です。
一見すると、真っ白の顔に、太い眉だけが目立つ能面のような顔も、廂の部分
が長く、採光の悪い寝殿造りの屋内では、薄暗がりにほんのり浮かびあがって、 殿方の心を惹きつけたのでしょう。 日に焼けていない肌は、文字通り「深窓の姫君」証しであり、採光のチャーム
ポイントでもあったのです。 わけてあげましょうワタイの爪の垢 中村幸彦
唐風の紅粧 そもそも大陸からわが国に「白粉製造」の方法が伝来したのは、持統天皇6年
(692)のこと。渡来僧観成から鉛白粉(=鉛を酢で蒸したもの)の製法を 献上された持統女帝は、おおいに喜び、以後、日本女性の化粧法は急速に発展 します。鉛や水銀を含む当時の白粉は、続けて使うと、肌の炎症や白粉焼けを 起こすものの、米粉や粟粉製の白粉よりもずっとのびがよく、女性たちはこれ を手放せませんでした。 平安のはじめまで、主流だった唐風の紅粧(=顔全体を紅めにっした化粧)や
酔粧(=白粉の上に頬紅を濃いめにさす化粧)から、国風文化の浸透とともに、
より白く、平面的な王朝流の化粧法へ。流行が変わるなかで、ファッションリ ーダーたる後宮の女性、貴族の女性たちは、最新のメイク術を身につけていっ たのです。 話が長いそれって誉め言葉ですか 竹内いそこ
「美女がひとつ、出来上がりました」
式部ー平安女性の女を磨くコスメ いつの世も美人顔に憧れを持つのは同じようです。
輪郭=ふくよかな二重アゴに、殿方は大喜び、無理なダイエットはこの時代に
存在せず、下膨れのふっくらと豊満な顔をめざした。
眉=手入れしない眉はだらしないもの。
白粉ののりをよくするためにもしっかり抜く。
肌=白粉のむらがあるのはとても見苦しいもの。しっかりとのばして塗った。
口=白粉で唇の輪郭を消し、口紅は小さくさす。おちょぼ口の語源。
お歯黒=当時は、年若い者もこれを用いるのが一般的だった。
鉄屑や米屑を3日ー7日ほど水にとくと黄赤な汁になる。 それを刷毛で歯に塗るのだが、口中は相当に不快だったらしく、実際には、 酒や飴を加えて使いやすくした。 ※ (お歯黒は染め始めると歯に沈着し白い歯に戻らない。女性にとっては、
「二夫にまみえず」の貞節をしめすものとなった) イグアナだった頃のお化粧の仕方 井上一筒
平安中期以降、絵巻物に登場する貴族の顔は、多くひきめかぎはな(引目鉤鼻)
という、特徴的な描き方をされています。
これは、下ぶくれの顔に目はあくまで細長く、眉は細い墨線を何度も引き重ね、
鼻は短く「く」の字形に描くという、大和絵の伝統的技法。
あくまで高貴な人を象徴する描き方であり、もちろん当時の美男美女がみんな
こういう顔をしていたわけではありません。 ここにとりあげた「早蕨」の帖に出てくる、美人の誉れ高かった中の君もまた
典型的な「引目鉤鼻」の技法で描かれています。
怪しいものではありませんという鏡 蟹口和枝
紫式部の肖像画 「紫式部が書いた紫式部の容姿」
源氏物語の中で紫式部は、末摘花の姫の容姿だけが、モデルがいたのではない
かと思わせるほど、細部にわたって克明に書いている。 紫式部は、源氏物語には「自分も登場させている」とも言っている。
それは、この末摘花のことではないだろうか、
紫式部は、プライドは高いわりに自己肯定感は低い----- -式部日記では、ことごとく清少納言をこき下ろすくせに、その倍くらいの熱量 で自虐文を綴る------、徹頭徹尾、自分を自虐するのである。 末摘花の章は、この類ではなかったのだろうか。
デッサンという未完成の生き様 森井克子
「源氏物語画帖 蓬生」 (土佐光吉画) 須磨より帰京した光源氏は、花散里邸を訪れる途中で荒れ果てた邸を見つける。 そこには、末摘花が住んでいた。 「末摘花」
『源氏物語』に、末摘花の姫という女性が登場する。
親王常陸宮が亡くなった後、姫君がひとり残されたと聞いた18歳の光源氏は
興味津津、文を送り垣間見にでかけた。
その日はうまく垣間見できなかった光源氏は、あきらめずに8月、美しい深窓 の令嬢を思い描きながら、また邸を訪れた。そして今度は一夜をともにした。 ただし、夜明け前に帰ったので姫君の顔は見ずじまい。
大切な瞬間 素顔を見落とす 佐藤正昭
冬になり、雪の降る冷え冷えとした夜、源氏は久しぶりに邸を訪れ、また姫君
と逢瀬の一夜を過ごす。 夜があけてきたので光源氏は自ら格子を上げて庭を眺め… <前の前裁の雪をみたまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、
いみじうさびしげなる> 庭には雪が降り積もっていて足跡もない。
むこうの方まで一面、荒れはてていてひどく寂しげ。 雪に覆われてもなお荒れた感じとは、よほどの寂れ方だろう。 「趣きのある朝の空をあなたも 御覧なさいよ」と誘った姫君を横目に見た源氏
はびっくりする。 蛇穴を覗けば闇に睨まれる 木口雅裕
第一に胴長。鼻は象のように長く、先の方が少し垂れていて赤い。
鼻が赤いので、この姫君は「末摘花」と呼ばれる。 末摘花とは紅花(紅鼻)の別名だ。 顔は青白く、額は広すぎて、あごが長い。痛々しく痩せ細り、肩はいかつい。
着ているものもひどい。色褪せた襲(かさね)にすすけて黒い袿(うちぎ)、
その上に、黒テンの皮衣。この皮衣は舶来品で、おそらく常陸宮の遺品だ。
紫式部が、自身の自虐にあてはめたこととは別に、末摘花のモデルと目される
人物がいる。 男性なのだが「宇治拾遺物語」や「今昔物語集」に出てくる源邦正がそれ、 重明親王の息子なので、親王の子というところが、末摘花と同じだ。 蓄膿の象のいびきは聞き分ける 宮井元伸
正倉院宝物の「酔胡王」(ペルシャ系ソグド人の顔) 左は、中国西安で出土した装具に表されたソグド人の首領。 邦正は後頭部が出っ張り、顔色は青色の染料を塗ったように青白。
「青侍従」「青常」とからかわれた。
目のまわりは窪み、鼻は際立って高く、赤い。 その顔つきは西洋人に近く、ペルシャ系のゾグド人との指摘もある。
「紫式部も、国司の父に付いて赴いた越前で、その頃には滅んでいた渤海国の
遺民をみたかもしれない。その中にソグド人がいた可能性はゼロではない」
末摘花がどうだったかは別として、その特異な容貌を具体的に書くため、
ソグド人を記憶の中から、引っ張り出したのではないだろうか。 異邦人の瞳でふるさとへ帰る 吉川幸子
源氏物語の中で紫式部は、末摘花の姫の容姿だけが、モデルがいたのではない
かと思わせるほど、細部にわたって克明に書いている。 紫式部は源氏物語には「自分も登場させている」とも言っている。
実は、この末摘花のことではないだろうか、紫式部は、プライドは高いわりに
自己肯定感は低い------式部日記では、ことごとく清少納言をこき下ろすくせに、
その倍くらいの熱量で、自虐文を綴る。徹頭徹尾、自分を自虐するのである。 末摘花の章はこの類ではなかろうか。
源氏物語画帖』 「若紫」(紫の上) (土佐光起筆)
飼っていた雀の子を逃がしてしまった紫の上と、北山の柴垣から隙見する光源氏
「天然美少女、紫の上」
数多くの魅力的な女性が登場する『源氏物語』だが、化粧に関する記述は意外
なほど少ない。これは当時の恋愛が多く、顔を見ることなく始まるため、また 教養や家柄といった魅力が、ルックス以上に重視されたせいではなかろうか。 なかでは、後に源氏の正妻となる紫の上に関する記述が要注目。 北山ではじめて垣間見られた、まだ10歳の若い若紫は、「眉のわたりうちけ
ぶり」と眉毛も抜かず、幼い素肌を見せていたのが------(「若紫」)。 源氏に引き取られたのちには「眉の毛ざやかになりたる」と、眉を整えて大人
の風情に(「末摘花」)------。 もともと古風な祖母・尼君の方針で、お歯黒をつけていなかったというあたり、 当時は珍しかったナチュラルメイクが、光のハートを射止めたのかもしれない。 ラシクアレそんな呪文をかけられて 柴田桂子
小 野 小 町 の 顔 「若紫」(紫の上)
病を患った源氏は、北山を訪ねる。
そのとき、憧れの女性である藤壺に生き写しの少女を垣間見た。
その後、少女を育てた尼君が死去すると、源氏は彼女を引き取った。
少女は後の「紫の上」である。
ゼロという数字泣いたり笑ったり 下戸松子 PR |
最新記事
(02/02)
(01/26)
(01/19)
(01/12)
(01/05)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|