川柳的逍遥 人の世の一家言
「教養人・平忠盛」
清盛が十五歳の時、
内昇殿とは、 貴族にとって、非常に名誉なことであった。
まして、武士ある忠盛がこれを許されるのは、 このことを本人から聞いたある貴族は、日記に 「未曾有の事なり」 と記したほどであった。 五十年以上もの長きにわたって天下を治めた白河院は、 すでに三年前に崩御しており、 白河院の孫の鳥羽上皇が 「治天の君」として、天下の政治をとり行っていた。 忠盛、清盛父子は白河政権と同じように、 鳥羽院政下においても、
寺院の寄進や治安維持などをおこたりなく務めて、 ※ 治天の君=天皇家の家長。 天皇の父または祖父として院政を主導する存在。 忠盛の内昇殿も、 千体の観音像をおさめた得長寿院(とくちょうじゅいん)の、 造営の功により、許されたものである。 ≪ちなみに後年、 清盛が後白河上皇のために建てた蓮華王院(三十三間堂)は、
この得長寿院にならったものである≫ もっとも忠盛は、武力と財力だけをたのみとして、 この栄誉を勝ち取ったわけではなかった。 宮廷貴族として認められるには、 それにふさわしい教養を備えていなければならない。 忠盛は武家の棟梁としてのみならず、 和歌や音楽の道でも、一流であることをめざした。 ※ 特に和歌は「金葉和歌に入集するほどの名手であった。 ※ 「金葉和歌集」=白河院の命により編纂された五番目の勅撰和歌集。 マクロレンズ花の吐息にふれたくて 美馬りゅうこ 「平家物語」にも備前から帰ってきた忠盛が、
鳥羽院に、「明石浦はどうであった」 と聞かれて、 " 有明の月も明石のうら風に 浪ばかりこそよるとみえしか " 『残月の明るい明石の浦に、風が吹かれて波ばかり寄ると見えました』 と詠んだエピソードが残されている。 明石と明かし、寄ると夜をかけた歌で、 そのできばえに鳥羽院も大いに感心したという。 また、この歌は、 「源氏物語」の「明石巻」を意識したものともいわれる。 明るい月の夜、光源氏や明石の君、明石の入道が、 筝琴や琵琶を弾き暮らした故事を踏まえ、
今は琴の音も絶え、 という意味が含まれているという。 鳥羽院の驚きは、古典文学に対する忠盛の造詣の深さにも、 向けられていたのかもしれない。 管弦では笛をよくした。 小枝(さえだ)という笛を鳥羽院から賜り、 それを子の経盛(清盛の異母弟)に譲り、 さらに孫の敦盛に伝わったことが、 同じく「平家物語」の「敦盛最期」に見える。
舞は元永二年(1119)の「賀茂臨時祭」で舞人を務め、 「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」 と称えられた。 生まれつき器用だったのであろうが、 朝廷における平家の地位を高めるために、 血の滲むような努力も重ねていたに違いない。 負けてたまるか階段駆け上がる 新家完司 平家一門には、清盛の末弟・忠度(ただのり)の和歌や、
経盛の長男・経正の琵琶など、 忠盛が伝えた素質であったのだろう。 ≪一方、清盛が芸術面で、 これといった才能を見せなかった のは興味深い。 やはり忠盛との血の繋がりがなかったからであろうか≫ [川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』のお知らせ] 皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。 内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。 2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子 3月のお題 「食」 選者 井上一筒 4月のお題 「衣」 選者 赤松ますみ 参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)
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