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川柳的逍遥 人の世の一家言
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微生物だらけ砂漠は生きていた  小林満寿夫

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白河上皇が眠る成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)

     (71) 後三条天皇―(72) 白河天皇 ― (73) 堀河天皇― (74) 鳥羽天皇―

  (75) 崇徳天皇―(76) 近衛天皇―(77) 後白河天皇―(78) 二条天皇  

  ※ ≪中大兄皇子=38代・天智天皇 天智天皇7年(668-672)≫
     
「院政のしくみ」

「院政」とは、

天皇の実父(上皇)・父方の祖父(法皇)が実権を掌握し、

国を統治する政治形態をいう。

普通は8歳の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位した、

白河上皇が、
院庁を開設した応徳3年(1086)を、

院政のはじまりと考えられている。

ただし、院政への足がかりをつくったのは、

白河上皇の父・後三条天皇である。 

透析は中大兄皇子から  井上一筒

 

後三条天皇は、

中宮(妻)が藤原摂関家の出身ではなかったので、

藤原氏に遠慮する必要はなかった。

加えて、彼は即位したとき、すでに35歳と壮年だったため、

みずから実権をとって、政治改革を行えたのである。

その後、後三条天皇は在位4年で、息子の白河天皇へと譲位。

上皇として自由な立場で政治を行なう、

つまり、「院政を始めるつもり」 だったようだ、

が、翌年病没してしまう。 

決別のほうへいざなう鎌の月  たむらあきこ

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  白河天皇

 

その遺言には、

次期後継者だけでなく、その次の後継者まで定めてあった。

56代・清和天皇以来、

約200年も続いた藤原摂関家の政治支配から、

実権を取り戻すことが、

後三条上皇の悲願だったのである。 

止まるとき少しあばれる脱水機  高島啓子

 

白河上皇は、堀河・鳥羽・崇徳の3天皇の間、

43年にわたり、「治天の君」 と呼ばれ政界に君臨した。

※ 「治天の君」=天下を統治する君主をいう。

例えば、上皇は、以前のルールを無視して、

勝手に人事を行なったり、

寺の落成式が雨で3度中止になったのに腹を立て、

雨水を器に入れ獄につないだりと、

かなりの横暴ぶりを見せている。 

「思い通りにならぬのは、賀茂川の水、双六のサイ、僧兵だけ」

 

と豪語した「天下三不如意」は有名である。 

言わないでおこうと思うでもしかし  山口美千代

 

蛇足=僧兵とは、

寺院が自衛のため組織した武装僧侶のことで、

そのほとんどは腕自慢の農民が頭を丸めただけの人間で、

僧侶の国家試験に合格した人物は少なく、

お経を読めるものも稀だった。

ひらがながくねり鍵穴すり抜ける  谷垣郁郎

強力な「親衛隊」を持っていた白河院政の中枢機関は、

「院庁」である。

院庁は院(上皇の御所)に設置された私的機関だが、

ここから出される命令(院宣)には、絶大な効力があり、

朝廷はこれに逆らえなかった。 

待って従ってと波のペースに追いすがる  山田ゆみ葉

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上皇の力がこのように強大になったのは、

直属の武力を有していたことが大きく関係する。

それは、「北面の武士」と称する、

武芸の達人を集めてつくった親衛隊である。 

※ 北面の武士=院の北側に置いて警備などを行なったことから。

 

当時の武士の活躍は、貴族にとって驚くべきことだった。 

かごめかごめ破壊光線発射せよ  蟹口和枝

 

当時、貴族は例外なく仏教信者であった。

だから、無理な要求をかかげて入洛してくる僧兵には、

仏罰を恐れて手出しができなかった。

ところが武士たちは、平然と僧兵を討ち殺したのである。

非情に勇ましく、頼りがいのある輩だった。

つまり、上皇に子飼の武士がいるということが、

そのまま、院庁の権威を増大させる要因になっていた。 

責任をもってわたしが壊します  竹内ゆみこ

 

院政は、白河・鳥羽・後白河上皇と、

「3代・約100年」にわたって続く。

圧倒的な権力を有する白河上皇が存命中は、

鳥羽天皇も、文句を言うことが出来なかったが、

43年にも及ぶ「白河上皇の院政」が終焉すると、

鳥羽上皇の白河上皇に対する『暗い憎悪の情念』は、

第75代・崇徳天皇に向けられることとなる。 

間近では見えぬ仮面を売りさばく  前中知栄

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鳥羽上皇は、まず崇徳天皇の、

母が中宮・璋子であることから、

白河上皇が厚遇した璋子と崇徳天皇を遠ざけはじめる。

すでに鳥羽上皇の気持ちは、

上皇の寵愛を完全に失っていた璋子よりも

14歳も若い得子(美福門院)へと向いていた。

そして、得子との間に出来た子を崇徳天皇に代えて、

わずか2歳の体仁親王(なりひと)を第76代・近衛天皇として、

即位させたのである。

≪しかし、近衛天皇は17歳で夭折する≫

おなじ痛みで悪を貫くこともある  前田芙巳代

その後、藤原家のごたごたと相まって、

鳥羽上皇の四男・雅仁親王(まさひとしんのう)が、

第77代・後白河天皇として即位する。

後白河天皇は、

やはり鳥羽上皇が嫌っていた璋子の子なので、

あまり後白河天皇を推薦してはいなかったが、

近衛天皇の失敗と、時の流れに押されて、

認証せざるを得なかった。 

酔っ払った骨だから誤差を始める  山口ろっぱ

 

『崇徳上皇と後白河天皇の対立』は、

自分の愛人である璋子を、

鳥羽天皇に嫁がせた「白河上皇の暴挙」にはじまり、

その対立が、藤原摂関家の

『藤原忠通と藤原頼長の対立』につながり、、

保元元年(1156)の「保元の乱」へと結びついていくのである。

三角の波にまつわる正気と狂気  小嶋くまひこ

『白河上皇への怨み』 によって、

崇徳上皇に「酷薄な対応」を取り続けた鳥羽上皇は、 

『私が死ねば乱世になるだろう』

 

と不吉な予言をしたとも言われる。

正にこの予言が的中し、「保元の乱・平治の乱」へ、  

すべては白河上皇の死(76歳)にはじまる乱世を導く。

  

≪ちなみに、78代・二条天皇、80代高倉天皇は後白河天皇の子≫

うっかりと弔辞に拍手してしまう  安井小夜

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「お知らせ」

川柳瓦版では、誌上競詠・「咲くやこの花賞」を行っております。

これは毎年2月20日を〆とし、

翌年1月20日〆分までの12回を競うもので、

結社を越えて、皆様の参加をお待ちしております。

     
 
入選句(43句)は、翌々月の瓦版誌上で発表いたします。

投句方法 ハガキにて二句記載。

          (初回は投句料とともに封書でお願いします
     )(。)

 投句料  1年分2000円 (同人、誌友1000円)切手可 〔掲載誌料を含む〕


「平成24年度 第一回のお題」

    「始まる」  選者 森中惠美子 (2月20日締切)

投句先  572-0844
                 寝屋川市太秦緑ヶ丘11-8  川柳瓦版の会

    

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