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川柳的逍遥 人の世の一家言
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欠点が少しあるのも隠し味  東 定生




「家康 どうする!?」
はてさて困った と表情豊かな家康像



天下取りに恵まれたのは1530年代生まれの世代だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配の手法
を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる運に恵ま
れる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
徳川家康は辛抱の人でもあるが、最後に幸運も呼び込んだ英雄でもあった。
天下取りにノミネートしたのは、1530年代生まれの世代だった。
今川義元  1519-1560
武田信玄  1521-1573
明智光秀  1528ー1582
上杉謙信  1530ー1578
織田信長  1534ー1582
豊臣秀吉  1536ー1598
徳川家康  1542ー1616
義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。


狼煙へ武士の血が騒ぎだす  笠嶋恵美子








「どうする家康」 家康ってどんな人?


「家康誕生」
天文11年(1542)12月26日 、60年に一度しか訪れない壬寅
(寅年の寅の刻)に徳川家康は三河岡崎城主・松平広忠於大(伝通院)
の間に生まれた。幼名・竹千代。通称・次郎三郎、後に蔵人佐。
壬寅生まれは、ゆったり、どっしりとして「強運の人」といわれる。
今川義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配
の手法を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる
運に恵まれる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
家康は辛抱の人でもあるが、「最後に幸運も呼び込んだ英雄」
でもあった。


小吉を大吉にするその笑窪  古崎徳造


「家康の外貌」 
「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち太子(秀忠)のように、
 色黒くなく、肥っていた」又「下腹が膨れており、自ら下帯を締める
 ことができず、侍女に結ばせていた。偉人でありながらも、多面的な
 性格を持つ、人間味あふれる人物だった』
(『ドン・ロドリゴ日本見聞録』) 1609年謁見した家康の印象ゟ
身長159cm (当時の平均身長155㎝) 
血液型はA型。 (手形などから採取)
因みに家康の周りの人の身長はというと。
武田信玄…153cm
上杉謙信…156cm
明智光秀…156cm
徳川家康…159cm
豊臣秀吉…127cm
伊達政宗…160cm
加藤清正…161cm
織田信長…170cm
前田利家…182cm


見えすぎる鏡に笑うしかないね  靏田寿子


「趣味・興味」
家康はどんな鍛錬をした? 
家康の老人と思えぬがっちりした 体躯は日ごろの鍛錬の賜である。
剣術・馬術・水泳・鷹狩りと多岐に渡る。
剣術は奥山流と柳生新陰流の免許皆伝、馬術は大坪流でよく遠乗りに出
かけた。なかでも、水泳と鷹狩りを好み、63歳で隅田川を泳いだ。
 死の直前の75歳で、田中城外へ鷹狩りに出かけたなどの記録がある。
「鷹狩りは手足を達者にし、健康な体をつくるので、朝飯がうまく
よく眠れて夜遊びや女遊びをしなくなる」と、述べ、
生涯に千回以上も鷹狩りをしたという。
なお、囲碁・将棋は趣味を超えた人並み以上の実力だったそうだ。


思い切り右脳で煎餅をかじる  郷田みや




        精力増強剤・保命酒
保命酒を入れた備前焼の器は、現在では骨董店の店先を飾る逸品だ。


「健康オタク」
家康は、健康オタクであったことでも知られている。
医療技術が発達していない戦国時代において、武田信玄をはじめ多くの
武将が病に倒れていったなか、家康は健康に気を使い70歳を過ぎても
溌溂としていた。
健康維持のための鷹狩りや・乗馬、水泳などのほかに、食事は贅沢な物
を避け、煮物や焼き物、麦飯などを好んで食べていたという。
又、自ら漢方薬を調剤し、「万病丹」「銀液丹」と名前を付けて小さな
入れ物で携帯し常服。
のちに江戸幕府3代将軍となる孫の徳川家光が病に罹ったときも、家康
が直々に薬を調合して飲ませたと伝えられ健康に留意したことで、当時
の平均寿命が40歳であった時代に、家康は75歳まで生きたのである。


月食のディナーに菜園のレタス  前中知栄




             吾 妻 鏡




「愛読書・出版事業」
家康は好学の士として知られ『吾妻鏡』を愛読していた。
吾妻鏡以外でも『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』を好
んで読んだといわれる。
家康が尊敬する源頼朝から武士の道理や治世の術を学んでいたのである。
家康が尊敬していた人物はほかに、劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、
太公望、文王、武王、周公らが並ぶ。
面白いことに、施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多
く、家康を苦しめた宿敵武田信玄を尊敬していた様子もある。
施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多い。 
さらに「伏見版」と呼ばれる木版による歴史書や儒書を刊行しているし、
林羅山金地院崇伝伝に命じて銅活字による「大蔵一覧集」を125部
制作一冊ごとに朱印を押して、全国の寺に寄進している。
出版事業にも興味をしめしている。


伝えたいことがたくさんある無口  高橋レナ


「新しい物好き」
晩年の家康は、何故か時計が好きだった。
南蛮時計、日時計、砂時計などを蒐集しており、又、けひきばし(コン
パス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が遺品として現存する。


オードリーヘップバーンの指サック置いてまっせ 
                    酒井かがり


「艶福家」
信長、秀吉、家康のうち、一般に一番の女好きは秀吉、逆に信長は女に
ほとんど興味がないとか、女嫌いと評される。
では家康は、ごく平凡な女性関係だったかのかと思うととんでもない。
そもそも家康の生まれた松平家は、精力旺盛な家系だったといわれ、
3代信光はなんと48人もの子を設けている。
家康もその血筋を引いていたようで、記録に残るだけでも、正室2人、
側室15人との間に、19人の子をつくっている。
これは家斉・家慶についで歴代将軍第3位の数である。


ブランコのゆれにまかせている余生  青木敏子





         築山御前



「家康の女性の好み」
家康が好きな女性のタイプは、秀吉「血統書」つきブランド女を求め
たのに対し、もっぱら後家を好んだ。
それも身体の丈夫な、子を生むのに適した女を選んだという。
家康自身、子作りにはかなりの執着をみせたらしく、自前の薬草園で精
力増強のための薬草を育てさせたとか…。
家康は「英雄色を好む」の格言を実践した一人であった。


雑学が音符に変わる雨の午後  高野末次


「倹約家」
徳川家康は贅沢を嫌い、質素倹約を心掛けた生活をしていたという逸話
が多数残されている。
倹約家であったことを示す有名な逸話は、以下のようなものがある。
① 着物はほとんど新調せず、ぼろぼろになるまで着ていた。
 洗濯の回数を減らすため、汚れが目立たない「浅黄色」のふんどし
  を好んで着けていた。
 女中の食費が嵩むのが気になり、お代わりをさせないように漬物の
  味をものすごく塩辛くした。
 手洗いのための懐紙が風で飛ばされた際、新しい懐紙を出さず、飛
  ばされた懐紙を取りに行き家臣に笑われるが、これに対し徳川家康
  は、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言った。


つつましく生きる人込み避けている  杉本克子


「ケチ」
 家臣が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った。
② 代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、
  残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた。
 三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。
家康が倹約家でケチあった理由の一つに、幼い頃の人質生活の経験から
培われたものという。人質は決して贅沢はできない。
私生活だけでなく政治においても倹約家ぶりを発揮した家康は、最終的
に直轄領だけで400万石を手に入れながらも、譜代の筆頭家臣に与え
たのは、その1割にも満たない30万石のみ。
しかし、この徹底的な家康のケチ・倹約の精神が江戸幕府存続の礎にな
ったことは間違いない、と家康は自負をしている。
「おまけ」
こんなケチな家康を、蒲生氏郷は、秀吉の後に天下を取れる人物として
前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので、
「人心を得られず、天下人にはなれないだろう」と評している。


煎餅割って小さい方を孫にやる  新家完司

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葛飾北斎画 うさぎ




                     
                  
                      
                      令和五年元旦




『江戸小咄』 


≪ 笑い締め     弁天さま ≫
年の暮れになって金に詰まった男が、上野の弁天さまへ7日7晩おこも
りをし「どうぞお金を恵んでください」と、一心に拝んだ。
そして、7晩目の明け方、弁天さまが内陣の御簾をあけ、
白い紙を一枚もって出てこられた。
男はいよいよ大願成就と、胸をおどらせ
「もし弁天さま、わたしはここにおります」
と裾を引けば、弁天さまは眉をひそめて、
「まあ、いやらしい、あたし、はばかりへ行くのよ!」



≪  笑い初め  書初め ≫
不器用な息子が書初めに≪松竹≫と書き、
それを大いに自慢して、方々に見せてまわったが、誰も褒めない。
そこで餅屋は餅屋だと思って、年始に来た出入りの植木屋に見せると、
<松>の字をひどくほめた。 それを聞いた父親は、
「だが、竹のほうがよくできていると思うのだが」 
と言えば、植木屋は、
「いや、そうじゃない。松もこのくらいひねっこびて、ゆがんでくると、
 百両がものはありますからね」


 
      
       




【北斎画】一重、二重、三重と三つの『和(輪)が重なるように描いた、
縁起のよいうさぎ。
皆様にとって令和五年も良い年でありますように。

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有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり




                     歌川国貞「仮名手本忠臣蔵十一段目」

赤穂浪士討入事件は、直後から浄瑠璃・歌舞伎の格好の題材となり、
「仮名手本忠臣蔵」というタイトルで大ヒットした。
胸のすく勧善懲悪劇ー自己犠牲の美学が庶民の心を打ち、その人気は現
在も継続。赤穂浪士のドラマは時代劇の中の時代劇として愛されている。



おやあなた尻尾に蝶がとまっている  くんじろう


「江戸の出来事」 「赤穂浪士討入事件」



『時は元禄15年、極月(12月)14日、所は江戸・本所松坂町』

これは吉良邸討入りの講談の枕コトバである。
しかし、旧暦の12月14日はー新暦では(1703年)1月30日ーで、
ーー現在の暦とは37日ズレる。
明治6年1月1日に和暦から西洋暦への改暦の正式な発表は、天保暦の
明治5年11月9日にあった。
「天保暦の12月3日を太陽暦の明治6年の1月1日とする」
というものである。
「何てことをするんだ!」
準備期間も短く、12月は、わずか2日しかなくなってしまった。
12月3日から大晦日までの誕生日が消えてしまったばかりか、
浅野内匠頭の刃傷があった元禄14年3月14日も4月21日となる。
12月といえば「四十七士討入り」で親しまれてきた物語りもある。
大石以下46士は、主君の命日14日に仇討ちを決行するから、
気概も奮起するのであって、筋書きも少し萎んでしまう…ではないか。



この国を嫌いにさせるなと叫ぶ  山田こいし




                                  殿中刃傷の様子
殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつける場面。
内匠頭の後ろから慌てた様子で駆け寄るのは、梶川与惣兵衛。



元禄15年(1702)12月に起った「赤穂浪士の仇討」は、江戸の
庶民のみならず、将軍幕閣をも驚愕させる重大事件だった。
事件は、前年の元禄14年に赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が
高家旗本の吉良上野介義央(よしたか)に遺恨を持ち、江戸城松の廊下
で吉良を斬りつけ、切腹・改易に処された、ことを発端とする。
赤穂藩国家老・大石内蔵助ら47人の赤穂浪士は1年9カ月の雌伏の末
本所の吉良邸に侵入し、上野介を討って主君の無念を見事はらした。





   吉良上野介は屋敷裏の炭小屋に隠れていた
真っ白な夜に真っ黒な所へ逃げ  江戸川柳



浅野でも忠義は深き国家老  江戸川柳



「お家断絶から討入りまで家臣団は一丸ではなかった」
とりわけ弟・大学による浅野家再興を第一に考える大石内蔵助らと江戸
在住で仇討決行を急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。
ここで重要な役割を果たしたのが吉田忠左衛門だ。
吉田は堀部らに自重を求めるため大石の意を受け、一足先の元禄15年
3月には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に身を寄せた。
ここには前年11月に大石が最初に江戸入りした時も投宿している。
吉田は7月に新麹町6丁目に転居し、ここが次々と江戸入りする
同志の取り敢えずの落ち着き先となる。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志





    大石の目くらまし (一力茶屋)
大石の中に軽石一つあり  江戸川柳


「彼らの江戸での主な潜伏先を見てみよう」
吉良邸に一番近い本所相生町には、前原伊助(変名/小豆屋五兵衛)と
神崎与五郎、本所林町には、堀部安兵衛(長江長左衛門)の道場、
本所徳右衛門町には杉野十平次ら、両国橋を渡った西側の米沢町
堀部弥兵衛、新麹町6丁目には吉田忠左衛門(篠崎太郎兵衛ー田口一
ら新麹町5丁目には富森助右衛門(山本長左衛門)一家、
新麹町4丁目には中村勘助(山彦嘉兵衛)ら、南八丁堀湊町には片岡
源五右衛門ら。
そして日本橋石町に大石内蔵助(垣見五郎兵衛)らが変名を使って
隠れ住んでいた。
こうして商人に化けたり、公事(訴訟)での長期滞在を装いながらの
潜伏は、本当にうまくいったのか。
8月に同志を離れた酒寄作右衛門の大名宛の手紙によると、
吉田忠左衛門のいた柴松本町には、上杉家の忍びもいたという。


ぶりかれん知らぬ家中気がつかず  江戸川柳
(ぶりかれん=行商人 家中=吉良の家人)


「仇討決行前へ話を転じる」
大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央
在宅情報である。
やがてお茶会が催される日には、本所の屋敷に戻ってくることがわかる。
お茶会の宗匠は山田宗徧で吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は老中・小笠原長重に仕えていて、この小笠原家と吉良家も礼法を
司る家同士で交流があった。
宗徧には中島五郎作という町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎
荷田春満)という国学者が住んでおり、羽倉は和歌の添削で吉良家に
出入りしていた。
こうした吉良人脈に大石三平大高源五という浅野人脈が繋がってくる。
大石三平は大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流
があった。また大高源五は、宗徧の弟子になっていた。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志




     大高源五と宝井其角
「年の瀬や水の流れと人の身は」 其角
      明日またるる宝船」 源吾




最初のお茶会の情報は12月5日だったが、これは将軍の柳沢邸御成り
に重なって直前に中止される。
しかし次の情報はすぐ来た。
14日の昼、大石三平が羽倉の手紙に
「彼の方の儀は十四日の様にちらと承り候」
とあったことを伝える。
また大高源五も吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの情報をもたらす。
大石内蔵助は2つの情報から判断して、14日夜の討入りを決断した。
と思われる。

あくる日は夜討ちと知らず煤を取り  江戸川柳
(江戸時代の煤払いは12月14日におこなった)




       討入り絵馬
事件の13年後の正徳5年(1715) 、但馬の織物屋たちが天橋立にある
知恩寺に奉納した絵馬。討入りの様子が生々しく描かれている。

「討入りは成功した」
吉良邸を出た46人(寺坂吉右衛門は除く)無縁寺(回向院)に入る
ことも船に乗ることも断られ、武装したまま、しばらく両国橋東詰に
屯する。
このとき最も警戒したのは上杉家による反撃だった。
ところが上杉軍は来なかった。
後にお預けになった細川家から出した大石の書状(細井広沢宛)がある。
そこで大石は、半弓など大勢の相手をする武器を用意したのに、無益に
なったのはおかしい、と書いた後、
「覚悟したほどには濡れぬ時雨かな」という句を詠んでいる。
切腹の2日前であった。
生死を賭けた大仕事を時雨に喩える…大石の器の大きさである。



目印は殿が額につけておき  江戸川柳
余は上野介でない。人違いでござる、と言い張ったけれど…)




          「泉岳寺引き揚げ」



その途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の2名が別行動をとって、
大目付仙石伯耆守久尚に自訴し、幕府の処分を待つこととなった。
幕府は評議の結果、大石内蔵助以下17名を、熊本藩・細川綱利へ、
大石主税以下10名を伊予松山藩松平定直へ、
岡島八十右衛門以下10名を長府藩毛利綱元へ、
間十次郎以下9名を岡崎藩水野忠之へ、当分の間預けることとした。
なお、細川家には、大石内蔵助が含まれており、藩主・綱利自ら引き
取りに行くつもりでいたが、家老の三宅藤兵衛が家来とともに、
大石以下17名を迎えにいった。
一行が柴白金の細川藩邸に帰ると、綱利は早速、一同に対面した。
(毛利藩では駕籠に網をかぶせで護送した後、窓を閉めて長屋に押し込
 むなど、まるで罪人扱いだった。が毛利藩は細川藩での待遇を聞いて
 処遇を改めたという)


首筋が四捨五入の四の位置  ふじのひろし


「浪士の処遇について」

幕府の評定所から、「お預けのままで置き、後年に裁決すべき」
との意見でまとまりかけていたが、翌年、幕府から公儀を恐れざる行為
として、切腹の沙汰が下された。荻生徂徠
「ちやほやされると、間違いを起こす者が現れる」
と切腹を支持している。
吉良邸討入りから約1ヶ月半後の元禄16年2月4日、赤穂浪士に切腹の
裁定が下された。
斬首などではなく切腹に処したのは、武士としての名誉を保つ措置であっ
た。この日、浪士たちはそれぞれお預けの大名家で切腹して果てた。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子





     泉岳寺にて本懐の報告をする浪士



「幕府はなぜ、赤穂浪士を切腹させた?」

将軍のお膝元である江戸市中を騒がせ、松の廊下事件についての幕府の
裁定に異を唱えた、などと理解されている。
しかし、このとき幕府が問題視したのは、47名もの浪人が武器を携え
て集まり、大石内蔵助の指揮で組織的に行動した点にある。
江戸の治安機構で、大名や高家の監督役は大目付であった。
討入り後、赤穂浪士は、内匠頭の墓がある高輪・泉岳寺へ向かう途中
2名が隊を離れて大目付の仙石伯耆守久尚の元へ報告に向かっている。
仕組みと手続きを十分承知していた大石の差配である。
仇討ちは儒教道徳にかない賛美できる一挙だったが、
先に「浅野切腹、吉良お咎めなし」という処分を下した手前、
死刑か助命か幕府は頭を悩ませた。
結局仇討は認めなかったが、浪士に配慮した切腹に落ち着いたのである。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子

「討入当日、南北の松前嘉広・保田宗郷の両奉行は何をしていたのか?」

実は傍観するだけだった。
事件は一見、徒党を組んだ浪人たちの押込み殺人であり、浪人は取り締ま
り対象のはずだ。
だが大石らが標榜したのは「仇討ち」であり、天一坊事件の丸橋忠弥のよ
うな謀反ではないうえ、忠弥と赤穂藩元家老では、格が違っていた。
さらに事件が起ったのは、町奉行の治外法権区域である旗本吉良家の屋敷、
しかも朝廷との諸礼を司るVIPの高家であり、町奉行がおいそれと手を
出せる事件ではなかった。

もう一度引っくり返す砂時計  井本健治





大石の遺書


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さりげなく話しておこうあれやこれ  津田照子



 

         江戸で生まれたかわら版屋




100万都市江戸で交通事故も深刻は、社会問題だった。
当時のクルマは大八車や牛車で、車引きの不注意や牛の暴走による惨事
もあった。8代将軍・吉宗の治世下享保13年(1728)新宿で少年
が大八車に轢き殺されるという事件が起った。
 幕府は何度か、車間距離の設定・積載量の制限・狭い路地での駐車禁止
などの現代そのものの交通ルールを定めた。しかし、大八車の交通事故は
減ることは無く、ついに第8代将軍吉宗は新に「公事方御定書」を定めた。
当時、大八車は2人で乱暴に引かれており、採決は、事故を起こした側の
1人は死罪、もう一人は遠島という厳しい断を下した。
 江戸の町が混雑していたとはいえ現代の車のように猛スピードで走って
いるわけではないのに、なぜ轢かれてしまう人がいたのか?
実は、大八車による事故は坂道で起こることが多かった。
江戸という町は、非常に坂が多かったため、加速のついた大八車を歩いて
いる人がよけ切れず、轢かれて死ぬというケースが多発した、ことらしい。
こういう事故また事件を庶民の知る権利としてかわら版が報道した。


むかしなら煽り過疎への島流し  通利一遍




「江戸のあれこれ」 かわら版





       かわら版・第一号

この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大坂城内、中断に東西両軍
の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川
頼宣)らの東軍の陣容を刻した。

かわら版の第1号は、慶長20年(1615)大坂落城時の「大坂安部
之合戦之図」「大坂卯年図」とされているが、実際にかわら版が江戸の
町で明確に刷られ盛んに出回りだしたのは、天和(1681)の頃から
らしい。
「赤穂事件」『八百屋お七放火事件』が話題になった頃。
新聞もテレビもない時代、かわら版は読んで売るから「読売・かわら版」
と呼ばれた。羽織を着、編み笠で顔を隠し、指揮棒のようなもので紙面を
叩きながら、講釈の上手い兄ちゃんが、買い気をそそるように囃すものだ
から、江戸の野次馬に大人気を博したものである。



深呼吸しながらそっと風を聞く  上坊幹子




       かわら版売りを囲む庶民




ところが、庶民がかわら版で世の動きを知ることをよしとしない幕府の
官僚は、幕府批判を助長するものとして、貞享元年(1684)事件を
速報する「印刷物の発行を禁止する」お触れを出したのである。
そのため当時のかわら版屋は、映画などで見るものとは違い、編み笠を
口だけ見える程度に深くかぶり、必ず2人以上で売り歩いた。
1人は講釈の上手い売り手、1人は警備役として…。

継続は力手のまめ足のまめ  山口文生




         かわら版が報じた大地震




徳川家康が拵えた江戸の260年。
その間には仇討事件から謀反や放火事件や天災までさまざまな大事件が
勃発している。 

「どんなものがあったのだろうか?」
① 由比正雪の乱 1651年
②  明暦の大火  1657年
   江戸の大半が焼失した大火災。世界三大大火・江戸三大大火の一つ。
   死者10万人を超える大災害であった。
③ 明暦の大火における石出帯刀の美談 1657年
④ 振袖お七放火事件 1683年
⑤ 元禄赤穂浪士討入 1702年
⑥ 天一坊事件 1728年
  8代将軍・吉宗のご落胤と称する若者が将軍に謁見しようとした。
  しかし、大岡越前が嘘を見破り天一坊を捕らえた。

生き様を皺の深さに漂わす  小原敏照



⑦ 明和の大火 1772年
  江戸三大大火の一つ。「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。
⑧ シーボルト事件  1828年
  シーボルトが帰国する時に持ち出し禁止であった日本地図を持ち出そ
  うとして、シーボルト以下多くの関係者が処罰された出来事。
⑨ 天保の大飢饉  1833~1839年
⑩ 大塩平八郎の乱  1837年
⑪ 国貞忠治捕縛・処刑 1850年
⑫ 品川沖黒船来 1853年
  アメリカ東インド艦隊のペリー提督(黒船)が開港を迫り浦賀に来航、
⑬ 桜田門・井伊直弼事件 1860年



明日という浮き輪を投げる夜の海  ふじのひろし





松の廊下で吉良刃傷に及んだ内匠頭を羽交い絞めする梶川与惣兵衛


「松の廊下 刃傷事件」  詳報
元禄14年(1701)3月14日は、5代将軍綱吉が勅使、院使に対
し勅答する日であった。午前10時頃から午前11時過ぎに、勅使接伴
役の赤穂浅野藩5万石城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義
を殿中松の廊下でいきなり小サ刀で背後から切りつけ重傷を負わせる
事件が発生した。
この日は幕府にとって大切な日であったこと、江戸城内での刃傷であっ
たことから五代将軍・綱吉が激怒した。



御気は短いに袴は長い也  江戸川柳



「斬りつけの様子ー梶川与惣兵衛筆記によれば」
「誰やらん吉良殿の後より、『此間の遺恨覚えたるか』と声を掛け切付
 け
申候。その太刀音は強く聞こえ候えども、後にて承わり候えば、
 存じ
のほか切れ申さず浅手にてこれあり候。われらも驚き見候へば、
 ごち
そう人の浅野内匠頭殿なり。
 上野介殿、これはとて後の方へ振り向き申され候ところを、また切付
 られ候ゆえ、われらの方へ向きて、逃げんとせられしところをまた二
 太刀ほど切られ申候」



浅からぬ恨み額に傷をつけ  江戸川柳


「 傷の程度は?」
「此間の遺恨覚えたるか」と、叫んでいきなり背中から切りつけた。
驚いた上野介が振り向いたところを更に額に一太刀きりつける。
烏帽子の金具で止まった額の傷は3寸5分から6分(約11センチ)背中
の傷は三針縫う程度。
討ち入りの時には、額の傷痕は残っておらず、背中の傷が本人確認の決
め手となる。 栗崎道有のカルテ(外科医で幕府典医)によれば、
『ヒタイ スジカイ マミヤイノ上ノ 骨切レル 疵ノ長サ三寸五分 
 六針縫フ。背疵浅シ 然トモ 三針縫フ』とある。

目印は殿が額につけておき  江戸川柳



「五万石の大名の扱いではなかった!」
式服の大紋を脱いだ浅野内匠頭は、ノシ目小袖のままの姿で出された一
汁五菜の食事は、茶漬け二杯を食べただけ。酒、煙草も許されず、遺言
を書くことも許されなかった。
「浅野内匠頭の言葉」
内匠頭『自分は元来不肖の生まれなる上、持病のせん気があり、
心を鎮めることもならずして場所柄もわきまえず不調法仕った』
と述懐したとある。



今さらを五言絶句でものをいい  江戸川柳





風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせむ





「将軍綱吉の判断」
午後1時頃に側用人の柳沢出羽守保明が綱吉に事件を伝えると、激怒し
た将軍は、始祖・徳川家康以来の喧嘩両成敗の不文律を破って浅野内匠
には、田村右京太夫にお預けの上「即日の切腹」吉良上野介には
「お構いなし」を即断した。
不公平な裁きが、武士の面目をかけた「赤穂浪士討ち入り事件」を惹起
する発端となった。
機敏、迅速であり過ぎたこと、喧嘩両成敗でなかったこと、即日の切腹
と、お家断絶は幕府裁定の三つの異常とされる。
額に斬りつけた処を、大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照が羽交い締めに
して取り押さえる。
当時55歳で7百石取り。功により5百石の加増を受ける。
「抱きとめた片手が二百五十石」
と、世間は武士の情けを知らぬ仕打ちと非難した。



5万石捨てては5百石拾い  江戸川柳








NHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」が終わって令和5年1月8日
から徳川家康主人公の「どうする家康」へと、バトンチェンジされます。
「鎌倉殿の13人」の脚本担当の三谷幸喜さんは、僕が描きたかったこ
との随筆で「このドラマは結局は家族の話なんだと」と述べています。
その見方で行くと大変な家族であったように思いますが…。
さて次の家康の物語は、「どうなります」ことやら…。
さてこのブログも、その辺に興味を持ちながら鎌倉から江戸へ、家康が
拵えた江戸の260年のあれこれを追いかけていこうと考えております。
よろしくお願いいたします。

アフターコロナへ骨の手入れする  井上恵津子

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 懐かしいノイズが混じる蓄音機  くんじろう



「鎌倉殿の13人」 鎌倉のよもやま



西園寺公経(さいおんじきんつね)
小倉百人一首では入道前太政大臣
花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけ

京に西園寺公経という貴族がいた。彼は頼朝の姪を妻に持つ縁故から
鎌倉幕府との親密な関係を結んでいた。
公経は承久の乱前夜、朝廷による倒幕の情報をいち早く京都守護へ告げ、
そのために幽閉を余儀なくされたが、乱後は幕府方の功労者として一挙
に太政大臣となる。
その後は、幕府と朝廷のパイプ役として権勢をふるった人物であった。
そんな公経は、洛西衣笠山に豪壮な北山別荘を営んでいる。
そして後年、この別荘が、足利将軍義満の北山殿に改築され
やがて「金閣寺」へと発展していく。
時流を察知し政治家として一時代を築いた彼も、後年自分の建てた別荘
が日本で最も建築物になろうとは思いもよらなかったであろう。



我武者羅でありたい空が美しい  上坊幹子




         「曲者/法印尊重」




承久の乱が終了し、次々と朝廷側の首謀者が幕府に捕まっていった中で、
尊重という法印は、巧みにその網をくぐりぬけていた。
(尊重とは僧侶・山伏・祈祷師などのこと)
後鳥羽上皇の側近であった彼は、武士に反感を持つ寺社勢力の代表でも
あり、倒幕を強硬に推進してきたので、当然幕府の追補リストに載って
いるはずであった。
この尊重なる人物は、猛牛に車を引かせる牛車のレースに熱中し事故を
起こして大ケガをしたり、承久の乱の最中に親幕府派の公家西園寺公経
を憂さ晴らしに殺そうとしたりと、まさに荒れ狂う坊主であった。
しかし、幕府軍が京を占領すると、彼はさっさと逃げ出してしまう。



用意万端避難袋は枕元  前中一晃




逃げ延びた尊重は吉野の奥に隠れ、還俗して地元の娘の婿になりすまし、
熊野から九州と動き回って反乱の機会を狙っていた。
そして突如京に姿を現すと、幕府に討たれた和田義盛の子息と通じて、
事を起こそうとするが、いに捕まる。
処刑の前、尊重は六波羅探題方丈・時氏に向かって
「死んでやるから、義時が飲んだ毒薬をくれ」と叫ぶ。
時氏の祖父・義時は3年前に急死しており、毒殺の噂が流れていたのだ。
尊重の嫌がらせの一言が噂を裏付ける形になってしまった。
彼は最後っ屁のように効果的な一発をかまして死んだのである。



言い勝ってむなしい心尻っぽ出す  石田すがこ




                                        「一遍上人絵伝」
京都四条付近の様子。活気あふれる庶民のしたたかさが見える。

「勝手に公道をたがやすべからず」

京の朱雀大路は、側溝などを含めて92mの幅があった。
面白いことに「延喜式」では、側溝でネギやセリや蓮などを栽培する
ことを認めている。
ところが都が荒廃するにしたがい、ドサクサに紛れて朱雀大路に畑を作
ったり、勝手に占拠して家を建てたり、する輩が増えてきた。
まるで戦後の闇市のような光景であったのかもしれない。
このようにもと公道だった畑や宅地の場所を「巷所」というが、
貞応元年(1222)には巷所の帰属をめぐって、山城国司と京都守護
が争っている。闇市の縄張りをめぐる抗争のようだが、
建久2年(1191)の新制では、巷所そのものが禁止されている。



あるがまま我が人生の如き庭  山谷町子





「ぼろぼろ」
男ー縞模様の紙衣を着たぼろぼろが女性を襲っている様子。

鎌倉時代の後期には、何らかの理由で所領を失った武士たちが、信仰を
求めて諸国を放浪する様がよく見られたという。
彼らは独特の模様の紙衣をまとい、托鉢のようなことをしながら家々を
回っていたようだ。 
人々は彼らのことを「ぼろぼろ」と呼んでいた。  『徒然草』
「ぼろぼろというもの昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・
 漢字などいいける者」とある。
吉田兼好は彼らについて、世を捨てた割には我執に強く、仏道を願う割
には、争いばかりしていると、やや批判的である。
しかし「沙石集」では
「知恵も賢く器量つよく、発心もたかく、修行もはげし」
と、賞賛もされている。
「ぼろぼろ」は、仏法における解説の境地達するために、運を天にまか
せて漂泊の旅をひたすら続けたのであろうか。
絵は武士の屋敷の門前で今にも殴られそうになっている旅の男。



生き延びる運命線のババつかみ  中村牛延




「法然上人絵伝」
延暦寺の人々に墓を暴かれる前に法然の遺骸を移そうとする念仏宗徒

当時は洛中にも殺人・放火・強盗などが続出した時代。
延暦寺は、それらの犯人の多くは念仏宗徒であると非難し、彼らに暴力
を振るったりした。それはやがて、法然の墓を暴くという計画を立てる
までにエスカレートする。
念仏宗徒は事前に情報をつかんで事なきを得たが、その後も執拗な延暦
寺の弾圧により、洛中の念仏宗は一時衰えをみせた。
一方的とも見える延暦寺の弾圧だが、その原因は念仏宗徒側にもあった。
彼らは「憎悪無碍」(ぞうおむげ)を主張し、その真意を誤解した者が
わざと悪事を働くことがあったのだ。
これでは、犯人に疑われても仕方がないというものだろう。



つながっていますぶら下がっています  新井曉子




「景正作と伝わる陶製の狛犬」
陶器のことを俗に「瀬戸物」というがそれは尾張の瀬戸焼から出ている。

「瀬戸焼」の開祖は、加藤景正と伝承されながらも、その経歴は不明な
点が多い。
一説には安貞元年(1227)道元の入宋に従い、福建省で陶器の製造
法を学んだという。そして帰国後、良質の陶土を求めて諸国を遍歴し、
尾張の瀬戸に到ったと伝えられている。
鎌倉末期には、彼が伝えた製造法が一般化し、全国的にも「陶器」とい
えば「瀬戸物」という具合になった。
景正は通称を藤四郎といい、12代の子孫まで代々陶業に携わり藤四郎
を名乗った。



ゆったりとあなたの福にからまって  柴本ばっは




                                                餓鬼草紙 




「生き地獄となった大飢饉。廃した京の街の様子」



ひとたび飢饉に見舞われれば、都といえども地獄と化した。
このときの被害は全国に及んだ。
寛喜2年(1230)は異常な冷夏であった。
6月には、武蔵と美濃に雪が降った。
旧暦の6月だから今なら7月下旬頃である。
綿入れの衣が必要だったという。
当然農作物の不作はひどく、被害は甚大であった。
翌年2月には、疫病が流行し3月以降は、餓死者が道に溢れるようにな
った。
供物が供えられると人々が奪い合う。
今まで禁忌のために食されなかった牛馬の肉まで食用にされた。
麦もすべて枯れ、種麦まで食べるから種麦が米価の4倍まで高騰した。
鴨の河原には死体が散乱し、死臭が街中に漂い、盗賊が横行し、人々は
家を捨て難民となってさまよい、子を売り、妻を売った。
そんな地獄絵図が、寛喜3年の8月をピークに繰り広げられたのである。
執権北条泰時は、租税や課役を免除する徳政を命じたり、自分の分国で
ある伊豆・駿河で富民に米を放出させ、窮民の救済にあてたりして飢饉
に対応した。 また御家人の贅沢を禁じ、倹約を奨励した。
しかし天災にはなすすべもなく、正常な天候の回復を待つしかなかった
のである。



そのうちに死ねない時代生き地獄  笹百合子




     「平泰時小傳」  



「北条泰時の大岡裁き」


北条泰時には次のようなエピソードが『沙石集』にある。
九州のある地頭が、困窮のあまり所領を売ってしまったのだが、長男が
買い戻して父の知行地とした。
ところが父は、その所領を次男に譲ってしまったため、兄弟で争いにな
ってしまった。
兄は嫡子で幕府に奉公がある。弟は父の譲状を持っている。
どちらに「道理」があるのか?
法律の専門家は、「親子関係による譲渡に幕府は介入できないから弟に
分がある」という。
理屈としてはそうかも知れないのだが、泰時は御家人の兄を不憫に思い、
領主がいなくて生じた土地を与えたのである。
『御成敗式目』を定めた泰時としては「道理」が第一である。
しかし「情」を無視しては、御家人から信頼を得ることができないと
考えたのであろうか、北畠親房『神皇正統記』荒井白石『読史世論』
頼山陽『日本外史』などの歴史書は、北条家に批判的だが、この泰時に
対してだけは、公正で情け深い政治家ということで賞賛している。



手のひらで転がされたり転げたり  岡田良子



「悲しき父 執権・北条泰時」


仁治3年(1242)6月、北条泰時が亡くなった。
過労に赤痢を患ったことが原因であった。
当時の人々は隠岐に流された後鳥羽上皇の怨霊のせいだと噂したという。
泰時は頼朝の政治を踏襲しながら、合議制という政治システムを導入し
て北条政権を盤石なものにした功労者。
政治家としては、意欲に充ちていたであろうが、父親としては悲嘆に暮
れる日々であった。
安貞元年(1227)6月に泰時の次男、時実がわずか16歳の若さで
家人に殺害されている。
そして寛喜2年(1230)6月には、長男・時氏が28歳で病死。
「承久の乱」のときには、宇治川の激戦でともに戦い、いずれ執権職を
継がせようと思っていた愛息であった。
さらに8月、三浦泰村に嫁いでいた娘が出産で母子とも亡くなっている。
まさに悲しき父であった。



逢い別れ諸行無常の風の中  宮原せつ

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