- 2011/09/13
- Category : ポエム&川柳
お江ー戦後処理
勝者の将・家康の兜
≪真意は分からないが、家康は、関ヶ原の合戦を目前にして、
イタリア・ミラノで作られた甲冑を用意していた≫
敗戦の将・三成の兜
「戦後処理」
家康の戦後処理は迅速だった。
西軍の首謀者である三成、安国寺恵瓊などは、
市中引き回しの後、
六条河原で斬首となった。
家康は9月27日に大坂城に入城。
豊臣秀頼や淀殿と会見した後、論功行賞を行った。
なりゆきで真一文字に眉を引く 谷垣郁郎
秀忠隊を欠いた状態で、決戦に臨んだ家康は、
勝利こそ得たが、
その分、論功行賞で自軍に加わった豊臣恩顧諸将に、
大封を与えざるを得なかった。
その予算を捻出するため、
豊臣家は、「今回の反乱には直接関係ない」
と裁定を受けたが、
200万石に及んでいた直轄地は、
65万石にまで下げられてしまった。
そして遅参してしまった秀忠にも、
家康は、なかなか会おうとはしなかった。
よほど迷ったのか、重臣に、
「世継ぎは、誰がよかろうか」
と尋ねているほどだった。
水色の声を放ってバリケード 岩田多佳子
本多正信は、秀忠の兄・結城秀康を推し、
徳川四天王の井伊直政は、弟の松平忠吉を推したという。
≪忠吉は、直政の娘婿に当たり、
関が原では、先鋒の福島正則を出し抜いた形で、
一番槍の巧妙を上げていた・・・≫
だが秀忠の遅参は、まったくのお咎めなしとなった。
実は、家康は秀忠率いる徳川本体は、温存しておきたく、
「わざと遅参させた」
のだと、家康は江に言った。
転がっているだけで意地悪な石 山口ろっぱ
家康・輝元が交わした証文
「戦闘に参加しなければ、毛利の所領は保証する。」
こうして関が原の戦いにより、
大名の配置図はガラリと変わった。
廃絶された西軍所属の諸大名・90人の領地・
660万石は没収、
西軍の総大将だった毛利輝元は、
周防2カ国に削減され、
上杉景勝は4分の1の30万石に減らされた。
実は合戦前、家康は、毛利軍に対して、
「動かないでくれれば、
中国10カ国、120万石の領地をそのままにする」
と約束していた。
毛利軍の主力は、その通り、動かなかったが、
実際には、領地の大半を取り上げてしまったのだ。
一生のお願いですと二度三度 津田照子
取り上げた分は、どこへ行ったのかというと、
東軍の諸大名や、家康の一門、家臣に加増されたのである。
家康は、直轄領を増やし、
さらに井伊、本多ら譜代家臣を大名として独立させると、
関東から京都、大坂を結ぶ諸国に配置した。
こうして、よその大名の土地を踏むことなく、
江戸、京都、大坂を、行き来できるようになった。
「影の功労者」
関が原で家康が、一敗地にまみれていたならば、
秀忠は徳川家の世継ぎの座を追われ、
江も、「御台所」になれなかったかも知れない。
関が原の戦いの勝利が、
秀忠のミスを帳消しにした格好だが、
その裏で、
初の夫・京極高次が、大きな役割を果たしていたことは、
あまり知られていない。
もし、大津城に釘付けされた1万5千人もの大軍が、
関が原に到着していれば、
家康にとって、三成との戦いは、
もっと凄惨なものになったかも知れない。
高次が大津城に籠ったことの戦略的意義は、
実に大きなものがあった。
皮肉なことに、初・高次夫妻が、
妹・江・秀忠夫妻の窮地を救ったことは、
裏返すと、姉・茶々、そして豊臣家の行く末を、
暗転させる結果となったのだが・・・。
ポップコーン生きてることが祭りです たむらあきこ




