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川柳的逍遥 人の世の一家言
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スーダラ節テーマソングにして暮らす  大池温子

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晩年の武市とみ子(半平太の妻)

「龍馬と中岡慎太郎」

龍馬のかっての上司であった武市半平太(瑞山)の夫人・富子が、

龍馬と中岡慎太郎とを比較して語るところによれば。

こうだ。

「中岡慎太郎さんを思い出してみると、大変行儀のよい人でありました。

 武市の部屋に通されましても、表情とか姿勢を崩されることもなく、

  立派なご様子でございました。

 お茶請けに柿などをむいて、おすすめしたこともありましたが、

『かたじけのうござる』と申されるだけで、手を出そうとはされませんでした。

 それに比べて・・・」

沈まない夕日はきっと淋しがり  野田和美

龍馬については、こう語る。

「坂本龍馬さんは、大そう無遠慮な方でございました。

 柿をお出しして、私が皮をむいて差し上げる間もなく勝手に手づかみされ、

 皮もむかずに、そのままお食べになられる方でございました」

理知的になれぬなべ焼きうどんの具  山口ろっぱ

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龍馬が、「海援隊」 を結成した、

「ならば自分は陸援隊だ」 と結成した中岡慎太郎である。

慶応3年、維新が成る前年、旅籠・近江屋で二人が密談しているとき、

新撰組とも、京都見廻組とも、いわれる刺客集団に襲われて、

どちらも命を落とす羽目になる。

そういう同じ境遇を辿った二人だが、

写真を見比べてみると、対照的な表情をしている。

回り道自分らしさに辿り着く  斉藤朋子

中岡はキリリとした表情で、正座しているのが印象的だが、

龍馬の場合には胡坐をかいたり、モノに寄りかかったりで、どうにも行儀がよくない。

性格の違いだろうが、

武市が龍馬を

「浅黒い六尺もある大柄な男で、性格は茫洋として雄大」

という。

中岡については特に語っていない。

ベッド兼財布カンガルーのお腹  井上一筒

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中岡が珍しく笑っている写真

女性(遊女)と一緒に写っているのだが、何故か黒塗りで消している。       

「ついでに・・・」

武市が、思想的に影響を受けた人物といえば、

自分より11歳も年下の、長州藩・久坂玄瑞であった。

その久坂によれば、武市の様子を、

「身長六尺、鼻高く、顎もしっかりしている。

 眼には異彩があり、顔は白く、喜怒を人前で現さない」

と外見を述べるだけで、

武市の考え方とか、思想についての評価がない。

≪志士の世界でも、相手を評価するときには外見か中身か、

その判断基準は、分かれたようである≫

友だちの背中はいつもたたきよい  森中惠美子

拍手[3回]

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ふるさとへときどき声を置きに行く  森中惠美子

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龍馬生前一ヶ月前、何処かの庭で撮った写真(場所不明)

イカルス号事件(慶応3年7月7日)も、あらかた落ち着きをみせたところで、

龍馬は、9月20日下関に入り、三吉慎蔵おりょうを預け、

2日間滞在ののち、土佐藩に銃を売却する目的で、

戸田雅楽(うた)ー(のちに尾崎三良)と土佐に入る(同・24日)。

25日、土佐藩全藩主・山内容堂に面会している。

29日頃には、脱藩以来の帰郷で、実家坂本家に帰り、姉・乙女らの歓待を受け、

連夜の宴会を開いたという。

そして、10月5日、龍馬は土佐藩船・「空蝉」で土佐出港する。

≪脱藩以来初めての帰郷は、最後の里帰りとなった≫

心境を聞かれスキップして見せる  星井ごろう

この日、龍馬をもてなしたであろう「土佐の豪快な伝統食」を、

紙上で味わってみることにする。

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久谷や伊万里の皿に盛りつけられる皿鉢

『龍馬の時代の食膳』

高知では、宴席のことを、『おきゃく』というそうである。

おきゃくとくれば、皿鉢料理。

「それも食べきれないほど、出さないといかんが。

 土佐の暴れ食いという言葉があるくらい、ごじゃんと食べて、飲むんですよ」

と、土佐伝統食研究家の松崎淳子さん。

≪皿鉢とは、大皿浅鉢のこと。

 直径一尺三寸(約40cm)もの大皿や大鉢に、刺身、すし、煮物、焼き物などを、

 はみださんばかりに盛りつけた、豪気な料理のことをいうそうだ≫

命の限りおかず作って片付けて  大橋啓子

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「生」と呼ばれる刺身の皿鉢

「龍馬の時代、庶民には手が届きませんでしたが、

武家の宴は、本膳と皿鉢料理でした」

皿鉢の基本形は、「生」と呼ばれる刺身の大皿。

鯖ずし、煮物、焼き物、和え物、甘い物などを、大鉢に盛りこんだ「組み物」の2枚。

客の人数によって、そうめん、すし盛り合わせ、たたき、ぜんざい、

祝宴には、鯛の活け造りや、蒸し鯛などが加わって、皿の数が増えていく。

「3人で皿鉢1枚が目安ですが、5、6人は充分食べられます」

ご馳走山盛りの大皿鉢が、いっぺんに勢揃いするというのだから圧巻。

霜降りは旨いがようするに脂  松橋帆波

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煮込み(鯖・ネギ、堅豆腐が入る)

皿の料理が減ったら、2枚合わせて盛り直せばいい。

人数が増えてもあわてることはない。

土佐人らしい、豪快で融通無碍の宴である。

「亭主は、一番先に刺身を手塩皿にとって、主賓にすすめます」

刺身は鮮度がいのち。

龍馬の時代、生魚はめったに食べられない、ご馳走だった。

「龍馬は鯖の刺身に、ダイダイの酢をかけて食べていたそうです」

と言うのは、写真の皿鉢料理の作者、名護山さん。

ご先祖は幕末のころ、龍馬の生家の目と鼻の先で、魚屋を営んでいたという。

「もしかして、坂本家はここで、日々の魚を買っていた?

とすれば、龍馬も食べていた?」

そんなことを思いつつ、豪気な料理と龍馬を肴に、酌む酒のうまいこと!絶品ぜよ!!

キムチ鍋今年我が家の大ヒット  森 廣子

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ちちこの炒りつけ(ちちことは、鰹の心臓)  ぐる煮(いろんな具が、ぐるになった煮物)

「龍馬が愛したふるさとの味わい」

聞くところによると、龍馬は酒豪だったそうだ。

「何を肴に呑んだのか?

 ごはんのおかずに、何を食べていたのか?」

興味深いところだが、記録がなく、ほとんどわかっていない。

そこで、龍馬の時代も食べられていたと思われる、昔ながらの土佐のおかずを、

生粋の土佐人の方々に、伺ってみると・・・。

「あの乙女姉さんのことだから、

龍馬に骨を丈夫にする、じゃこを食べさせたにちがいない」

「高知では、鰹の骨も捨てんがやき、アラの味噌汁も食べちゅうやろ」

鯖ずしは、みんなの好物。

「ぎっちりごはんの詰まった鯖の頭を、おきゃくの翌日に焼いて、これでまた呑むが」

「これがまた、うまい!」

と食べ物談義は、大いに盛り上がる。

コレ酒よお前も愚痴があるだろう  井上一筒

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土佐伝統の肴とおかず(中央が鯖寿司)

『奔馬のかげに生きた女たち』(土佐出身作家・宮尾登美子著)の小文に、

坂本家の食事についての話が出てくる。〈『土佐の婦人たち』(関みな子著)

『坂本家の毎日のおかずは、尾頭つきの鯛が普通であって、

 それを裏表とも食べるのは、武士の子にあるまじき下品なふるまい』

・・・(中略)・・・

『幕末の貧乏公家などからみたらのけぞるほどの贅沢さ・・・』

とある。

毎日が鯛の尾頭付き、それも片側だけとは・・・。

平成の土佐人一同も、都会のグルメ通もびっくりである。

輪郭に嵌ってネコも太りだす  山本早苗

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  どろめ        ウルメイワシ(丸干しとオキニロギ)      潮タタキ

土佐には豊かな海があり、年に二度、米がとれる肥沃な平野があり、

阿波・讃岐・伊予との国境一帯には、緑したたる山々が連なり。

黒潮の魚、米や野菜、山菜や清流の魚の干し物など、

自然の恵みが、殿様のいる城下に集まってくる。

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日曜市の様子

高知市内に曜日ごとに立つ”街路市”は、

元禄時代から300年余も続く、市民の台所。

なかでも高知城の追手門からのびる、追手筋に立つ”日曜市”には、

四季折々の”とれたて”が並び、

大きな街路樹の下は、縁日のように賑わう。

狙われていますあなたのお人好し  井本健治

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日曜市の看板娘といわれているおばあちゃん

野菜の傍らに、自慢の漬物や庭先の花たちも、並んでいる。

「ここのはおいしいぞね」

と、買い物にきたお客さんがすすめてくれたり。

店のおばちゃんが、食べ方、使い方を教えてくれたり。

気安く開けっぴろげな、おしゃべりがはずむ。

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四方竹の筍、里芋の茎ズイキ     手作りこんにゃく

市でにぎわう路地を、龍馬も楽しんだだろうか。

元禄時代に始まる土佐の街路市から、

龍馬の生きた時代の空気が、

そこはかとなく、伝わってくる。

コマーシャル見なきゃ買わずにすんだのに  高尾くみ子

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辛味大根      田舎ずしと鮪ずし

「それからの龍馬」

10月 9日 龍馬 京都・酢屋に戻る。

10月- 日 庭先(特定出来ない)で写真に写る。
 ≪10月14日-慶喜大政奉還≫
10月24日 龍馬 由利公正(三岡八郎)に会う目的で福井へ。

10月28日 龍馬 福井にて村田巳三郎と面会。

11月 1日 龍馬 松平春嶽に拝謁し上京を要請。

11月 5日 龍馬 酢屋に入り、「新政府綱領八策」を草案。

11月ー 日 龍馬 西郷吉之助に新政府綱領八策と新官制擬定書を提出。

11月10日 いろは丸事件、紀州藩と最終決着。

11月15日 龍馬・中岡慎太郎 近江屋で刺客の襲われる。(龍馬33歳、中岡30歳)

≪12月9日王政復古の大号令が出される≫

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龍馬が愛した軍鶏鍋(龍馬最後の日、食する予定だった)

帰るまで船を案じている港  秋貞敏子

『龍馬伝』・第45回ー龍馬の休日 あらすじ

≪ローマの休日とは・・・NHKが泣かせるダジャレです≫

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容堂(近藤正臣)に、大政奉還の建白書を書かせるために、

弥太郎(香川照之)が仕入れた1000丁の銃を携え、

長崎から土佐に向かった龍馬(福山雅治)は、

途中、お龍(真木よう子)のいる下関に立ち寄る。

土佐の坂本家では、龍馬から、

「土佐に戻ることと、お龍と結婚した」

という報告の手紙が届き、大騒ぎになる。

大空と大地と貴方には負ける  西村久江

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一方、弥太郎は、イカルス号事件の責任を取らされて、

土佐商会の主任の座を追われ、自らの力で、

商売をしていくことを決心。

「薩長と幕府との戦争が始まり、銃の値段が暴騰する」

と考え、銃を大量に仕入れる。

馬鹿正直を褒めて下さいエンマ様  松田 篤

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龍馬は下関に着き、木戸(谷原章介)に会うと、

薩摩の大久保利通(及川光博)が来ていた。

二人は

「大政奉還で徳川家を残さず根絶やしにするべきだ

と主張。

龍馬は己の道の厳しさを感じる。

お龍は、龍馬との久しぶりの再会に喜ぶが、

三吉慎蔵(筧利夫)や奇兵隊たちと、飲みに出かけた龍馬は、朝帰りしてしまい、

お龍は激怒する。

昼間から酒のみ犬に吠えられる  山下蟹郎

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まるい会話にふぐの身がすき透る  森中惠美子

「龍馬と大久保利通」

龍馬が薩摩を訪れ、大久保利通「薩長同盟」の舞台設定に、

理解を示そうとしたときのこと。

情報の収集能力は、超一流と言われていた大久保と龍馬が出会った。

大久保は、龍馬の情報分析の能力を観察する。

そして会話に”隠語暗号”を交えて、一工夫を凝らした。

昨日から留守なんですよ記憶力  山口ろっぱ

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「坂本どん、ひとつ質問したいが、どげんなもんじゃろう」

「よかろう」

「そうか、よかごわすか。

 西郷は、円十郎の親分だが、あいつが東方で”世間知らずの盗賊” と、

 いわれよるのが気にかかる。

 江の本は、備前屋に藩の趨勢を託しておるが、

 しかるに百度公は、

 西方の一藩になろうかというほどに、落ちぶれもした。

 次なる戦は、江の本に勝たせ、日ノ本に夜明けを迎えさせるべきだろう」

ひと雨で消せる主張を聞かされる  墨作二郎

龍馬も情報集団でもある海援隊を、結成した隊長である。

「のうし、そげんこつワシにわからんとでも言うちょるのか。

 おくびっちゃあ、いかんぜよ」

大久保の人を食ったような質問が、少々気に食わなかった。

しかし、そこはぐっとこらえた。

態度には見せぬが腹は煮えている  高鼻陽子         

大久保の言う、「備前屋」 とは何を意味するのか。

幕末の頃には、仲間内で隠語のような、逆説的でもある暗号などを使い、

それを訳し、置きかえることによって、必要な情報を伝達しようとしていた。

大久保の言葉は、まさに龍馬の情報能力を試すためであった。

そして江の本」とは、長州を意味していた。

これがキーワードである。

龍馬にこれくらいの隠語は、頭からピンとはじけでる。

すると後の言葉も、意味が解けてくるのであった。

つまり、”長州(江の本)に幕府軍を勝たせたい”

との気持ちが、大久保に見えてくるのだ。

病状は触れず笑顔を置いてくる  正信寺尚邦

「日ノ本」すなわち、日本に夜明けをもたらせるのは、「江の本」(長州)である。

「百度公」と呼ばれていた幕府は、いまや江戸「西方」の一藩に、なり下がっている。

「円十郎」の薩摩が、京都「東方」で禁門の変に追われた長州に、

恨みを買うのはわかっているが、

「円十郎は、江の本と結託するのが、わが国を救う唯一の道だとわかった」

と言っているのである。

金魚パクパク言いたいことがあるらしい 杉山ひさゆき

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対して、龍馬も暗号を交えた会話で切り返す。

松野他三郎が大老の手にかかってからというもの、江の本は火の玉になっちょる。

 東洋一狂は、怒り騎兵の小隊をおこしたぜよ」

松野他三郎とは、吉田松陰、東洋一狂とは、高杉晋作を指している。

龍馬たち幕末の志士たちの会話とは、こんなものであった。

また、これらの”隠語暗号”が何を意味しているのか、

それを解釈できなければ、志士として失格であった。

大久保も、龍馬の言う偽名が誰かを、ピンと理解できたことだろう。

マツタケがスウェーデン語でご挨拶  井上一筒       

動乱の幕末で、志士たちは自らの命を守るため、

またその行動を察せられないために、隠語とか偽名を頻繁に使った。

坂本龍馬 → 「大谷梅太郎」

≪大谷は土佐の地名。梅は桜と違ってしぶとく咲き誇ることから志士たちに人気があった≫

吉田松陰 → 「松野他三郎」「瓜中万二」「山陰老樵」

≪松陰は、偽名を雅号のように使った≫

高杉晋作 → 「谷梅乃進」「谷梅乃助」「谷梅太郎」-

  商人名・「赤間関隠人」「備前屋助次郎」 西行を真似僧侶「東行」とも名乗っている。 

≪息子の名に、梅の字をつけるほど、高杉に、梅の字が多いのは、

  梅が大好きで、生家には樹齢200年の梅の古木があった≫

伊藤俊輔 → 「春山花輔」

井上聞多 → 「春山春輔」

≪隠語として使われた、日本60余州から抜粋≫

クロネコやユニクロクロが元気です  大海幸生

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台風の目の中にいて思うこと  森中惠美子

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     横 笛 丸

慶応3年(1867)6月9日、龍馬は、

長崎から大坂へ向かう夕顔丸の船内で、土佐藩の後藤象二郎に、

「船中は八策」を授ける。

これにより、土佐藩は大政奉還運動の主役となり、10月に大政奉還が実現する。

そんな期待と緊張の交錯するなか、龍馬が頭を悩ませていたのは、

「イカルス号事件」である。

それは、対応を誤れば、

土佐藩とイギリスの戦争にもなりかねない厄介な問題だった。

≪この事件により、大政奉還が2ヶ月遅れたとも言われる≫

切り取り線の凹のあたりで立ちつくす  森田律子

事件は、慶応3年(1867)7月6日夜、

イギリス軍艦イカルス号・水夫2名・(ロバート・フィード・ジョン・ホッチングス)が、

長崎の花街・丸山で何者かに、惨殺された。

長崎では、当時、外人殺傷事件が相次いで発生して、

在留外人を恐怖に陥れ、しかも、

何れの事件も、加害者の逮捕にいたらず、

長崎奉行所への批判が厳しくなっていた。
  
英国公使・ハリーパークスは、此の事件を重要視し追及を始める。

如意棒でひょいと日本を混ぜにくる  山本早苗

その下手人として、海援隊士や土佐藩士らが疑われた。

嫌疑をかけられた理由は、

殺害事件のあった翌朝早く、海援隊の”横笛丸”が長崎港を出港したこと。

それも、長崎港の船奉行の制止を無視してのことだった。

加えて、犯人像に白筒袖(つつそで)の男が浮かび上がっていたことも、

嫌疑がかけられた理由となった。

海援隊の制服が白筒袖であり、さらに、殺害の夜、

丸山に海援隊士の菅野覚兵衛(千屋寅之助)、佐々木栄の、2名がいたことが判明。

佐々木はその後、鹿児島に向かい、長崎から姿を消したことで、

さらに疑いが強まった。

坂の下判決文が待っている  坂崎よし子

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ハリー・パークス
  
こうした疑惑の状況からパークスは、海援隊士・犯人説を強く抱き、

長崎奉行へ調査を要求する。

「事件のあった翌朝に、”横笛”が犯人を乗せて港外に出、

 続いて出港した”若紫”に海上で移乗させ、

 本国土佐に向けて航海し、逃亡させたものだ」

というのが、パークスの主張で、

パークスは、海援隊士あるいは、土佐藩に犯人がいると決めつけ、

すぐにでも、逮捕するよう求めた。
  
長崎奉行所側は、当初はパークスの主張は、

「根拠が薄弱だ」

として調査を拒否した。

判決に裁判長は揺るぎない  山田こいし

パークスはこれに激怒し、

「幕府に申告して、直接土佐藩と交渉する」

と息巻き、老中・板倉勝静に話しを持ちかけた。

幕府も捨てておけず、担当者数人を土佐へ出向させ、、

土佐京都藩からも重役が同行し、周旋をする事態にまで話が発展した。

強力な英国艦の接近に、土佐藩内は騒然となった。

対応を誤れば、一戦もありうる。

事態を重く見た幕府は、将軍の新書を土佐に送り、

京都にいた龍馬も、薩摩の三邦丸で須崎沖に向かった。

土佐藩側は、後藤象二郎が交渉に当たる。

交渉は、大きな混乱を避けるため、

須崎沖に停泊した土佐の”夕顔丸”で行なわれた。

込み入った話になると色鉛筆  小林満寿夫

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      夕 顔 丸

パークスは、潔白を主張する後藤の姿勢に納得、

土佐を去り、長崎での事件解決を図ろうとする。

後藤、龍馬、幕府の首脳らも、長崎に向かった。

舞台は、事件の発生した現地である長崎に移され、9月3日に談判が再開。

長崎では、嫌疑のかかっていた海援隊士・佐々木栄が、

長崎奉行の前にあらわれ、無罪を主張。

これで、長崎奉行の心証がよくなったのか、真犯人は不明のまま、

9月10日、海援隊は無罪となる。

濡れ衣をカラスに着せて始末する  藤本ゆたか

「真犯人は、明治時代になって判明」

福岡藩士・金子才吉が、

丸山で酔っぱらい、寝そべっていたイギリス水兵2名の酔態に怒り、

凶行に及んだのだ。

その後、金子は藩に迷惑のかかることを恐れ、藩に真実を告げたあと切腹。

福岡藩がイギリスと事を構えるのを恐れ、

だんまりを決め込んだため、真相判明が遅れたのである。

小さめの卒業証書くれはった  井上一筒         

「後日談」

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 アーネスト・サトー

イギリス側・通訳として談判に立会ったアーネスト・サトーは、

慶応3年9月3日、長崎奉行所における龍馬の表情を、

「・・・才谷氏(龍馬)も叱りつけてやった。

 彼は明らかに、我々の言い分を馬鹿にして、

 我々の質問に声を立てて、笑ったからである。

 しかし、わたしに叱りつけられてから、

 彼らは悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」

と記している

感情のずれからしばし無言劇  住田英比古

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二人の水兵殺害現場・絵模様

「長崎新聞より」

慶応3(1867)年7月に起きた、

イギリス軍艦イカルス号事件の捜査報告が、外務省外交史料館にある。

”彩色図で詳細に描かれた水兵殺害現場”

嫌疑を受けた海援隊士(菅野覚兵衛と佐々木栄)の調書のほか、

土佐藩代表として、交渉を担った岩崎弥太郎の名が記録されている。

龍馬も、事件の嫌疑を晴らすため、長崎奉行所に出頭した。

≪この交渉の席上、海援隊は無実を主張するものの、

 長崎港で制止を振り切って、出航したことを岩崎弥太郎が、認めてしまった。

 海援隊の財政を担当していた岩崎に龍馬は、

 その弱腰な態度に憤慨し、

 「敗北してしまった」と評している≫

私の狭い心を反省す  林 文子

詳細な捜査の背景には、イギリスの強硬な姿勢がある。

長崎は他の居留地に比べ、防衛体制が強固だったことから、

イギリスは日本との戦闘をひどく恐れた。

そのためイギリス公使パークスは、長崎奉行や幕府に対し、

犯人捜索と居留地の警備強化を強く求めたのである。

龍馬と弥太郎は、対応を誤れば、

戦争に発展しかねない国家的危機に直面していた。

事件から2カ月後、ようやく海援隊士への嫌疑が晴れる。

その夜、高揚した龍馬は長崎奉行への抗議文を書く。

≪その筆跡は、事件現場近くの史跡料亭・「花月」に残されている≫

守りたいものがあるから攻めている  吉田あかね

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『龍馬伝』・第44回-「雨の逃亡者」 あらすじ

薩土盟約を受け後藤象二郎(青木崇高)は、土佐に戻り、

山内容堂(近藤正臣)[大政奉還論]を説くが、容堂は拒否する。

土佐の挙兵のために、必要な銃を仕入れるために、

長崎に戻った龍馬(福山雅治)だったが、

白袴の武士が、イカルス号という船のイギリス人水夫を殺した事件で、

海援隊に犯人の嫌疑がかかってしまう。
 
知らず識らず人は悲劇を追っている  吉松隆太郎

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イギリス公使・パークス(ジェフ・ワスティラー)は、

弥太郎(香川照之)に、

「犯人を引き渡さなければイギリス艦隊が土佐を攻撃する」

と脅す。

奉行に追われる龍馬の代わりに、惣之丞(要潤)が奉行所に連行され、

隊士たちは真犯人を探し始める。

危機感を煽り続ける武器商人  新家完司

一方、事件を目撃したお元(蒼井優)が、それを報告せず、

不審に思った奉行・朝比奈(石橋凌)が、お元の荷物を調べさせると、

ロザリオが見つかる。

キリシタンの弾圧を始める奉行。

逃げるお元を龍馬と弥太郎は見つけ出す。
 
海援隊は真犯人は、福岡藩士で自害したことを探りだし、

龍馬はパークスの元に乗り込んで,

犯人が海援隊ではなく、別にいることを伝える。

パークスは、薩長を結びつけた龍馬のことを知っていて、信じると言う。

龍馬は、「お元をイギリスに連れて行ってくれ」

と頼む。

触ったら血を噴きそうな恋の傷  穴吹尚士

拍手[10回]

好きなまま去って行きたい好きな場所 真飛 聖

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また一人宝塚のトップが、引退宣言しました。

これは、来年4月の引退に向け、10月21日、真飛聖が語った言葉である。

そして、

いつも笑っている人生がいい  聖

とも。

龍馬は、「誰もが笑って住める国を造りたい」

という理念を持っていたし、

未練たらしく徳川の舞台を去った、慶喜に聞かせてやりたい言葉だね。

待ちなさい今は引き算してるだけ  立蔵信子

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    二条城・古写真

「『大政奉還』ーウラのドラマ」

土佐藩・後藤象二郎と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の間で、

慶応3年6月22日、”薩土盟約”を締結したが、

これは慶喜に大政奉還を迫り、

「もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こす」

というものであった。

後藤はすぐに帰国して、土佐藩兵を引率してくる予定であったが、

武力の発動を拒否する山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい、頓挫。

薩摩側は長州・芸州(広島藩)との間で、武力倒幕路線も進めており、

9月7日には、薩土盟約は解消される

結局、土佐藩は、単独で10月3日に、

”大政奉還の建白書”山内豊範を通じ、将軍・徳川慶喜に提出した。

靴紐をしめて気持ちを切り替える  新川弘子

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これを受け、

10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、

        「大政奉還」を諮問。

10月14日、「大政奉還上表」を天皇(明治)に提出すると共に、上表の受理を求めた。

        ≪朝廷の上層部は、これを受け入れるつもりはなかったが・・・≫

10月15日、慶喜を加えて開催された朝議で、「勅許」が決定した。

呑み込んでみる喉もとの机上論  山口ろっぱ

では、大政奉還したあと、慶喜自身、

「自分はどのような位置を占めようと、考えていたのだろうか・・・?」

慶喜生前の談話集・『昔夢会筆記』によると、

慶喜側近の老中・板倉勝静(かつきよ)らは、

「慶喜を朝廷の摂政という形にして、そのまま実権をとり続けさせたい」

と思っていたようである。

また、幕臣の西周(にしあまね)が、慶喜に示した「議題草案」によると、

将軍は、「大君」と名前を変え、諸侯議会の議長となり、

国家の行政権と立法権、さらに、軍隊の統帥権まで握るとしている。

≪この「議題草案」は、王政復古の一ヵ月前に出されていた≫

晩夏のうなじから飛び立つ不死鳥  浜田さつき

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 薄暮の二条城

「討幕の密勅」

慶応3年10月14日、慶喜は、政権返上を上奏したが、

この時期、”武力討幕派”の動きも急であった。

「大政奉還をされては、武力で幕府を討つ機会が、なくなる」

というわけで、岩倉具視を中心とする討幕派急進派の公家は、

幼い明治天皇を動かし、

まさに、大政奉還の行なわれる前夜、10月13日、

”討幕の密勅”を、うけているのである。

仏壇の鉦を合図にクーデター  井上一筒

それは、

「・・・・朕今民の父母として、この賊にして討たざれば、

 何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎に報いんや・・・」

というもので、

もちろんこのような文章を、幼い天皇が書けるはずはない。

岩倉具視の起草であることは、間違いないが、

果たして、天皇の裁可をうけたかどうかも疑問である。

≪最近の研究では、この密勅は、偽物だったとする意見が強い≫

それにしても”討幕の密勅”は、効力を持つわけで、

慶喜としては間一髪のところで、第一の関門はすりぬけたことになる。

窓のない家の窓から出入りする  井上恵津子

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   岩倉具視

≪余談だが、岩倉具視は加山雄三の曽祖父にあたる≫
 
おもしろくないのは岩倉具視らで、

岩倉は薩摩の西郷隆盛らに連絡をとった。

すでに、クーデターを計画していたのであろう。

というのは、慶喜を中心とする新しい”国家構想の動き”が、見えはじめたからである。

西郷が率いる薩摩軍が、四艘の軍艦で、鹿児島を出港したのが、

その年の11月13日。

23日には、京都に入った。

薩摩軍は、およそ3000であった。

同じころ、長州軍も京都に集結しはじめた。

前進を競う左右の足である  岩田多佳子

そして、12月9日、薩摩軍を主力とするクーデター軍が御所を包囲する。

御所を守っていたのは、京都守護職・会津軍、京都所司代の桑名軍。

ふつうならそこで、激しい戦闘になるところなのだが、

どういうわけか幕府軍は、おとなしく兵を引いてしまった。

なぜ幕府軍は、抗戦しなかったのだろうか?

考えられる一番有力な説として、

「王政復古の聖断が下ったから、警備を交替せよ」

といわれ、撤退したという見方がある。

≪要するに御所は、クーデター軍に乗っ取られてしまったことになる≫

どちらが勝ちだろうと素うどんは続く  壷内半酔

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 小御所会議

とにかく、クーデターは成功した。

クーデター軍に守られながら、最初の小御所会議が開かれた。

そこには慶喜は、出席していない。

「新政府に慶喜の姿がないのはおかしい」

と主張する山内容堂らの意見もあったが、

クーデター軍に、銃口をつきつけられているような状況では、

慶喜サイドの大名も多くをいえず、

結局、ここに、”慶喜の官職辞任と領地返還”が、迫られることになった。

≪年表などに、「明治天皇、王政復古を宣言」と一行書かれているが、

 これだけのドラマがあった≫

主流派というそれだけの大通り  森 廣子

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