なにか企んでいる枯葉のしおり 山口ろっぱ
織田信長
『信長の本心をのぞく』
城の象徴といえる「天守閣」は、信長が築いた「安土城」がはじまりだった。
城は、敵の攻撃から身を守るための軍事施設である。
城という文字が、「土」と「成」で構成されていることからもわかるように、
土を掘って濠をめぐらし、残土を盛り固めて土塁を築いた内側を、
ふつう「城」と規定する。
自叙伝のどのページにも酒のシミ 新家完司
城というと、どうしても広大な石垣の縄張りをもち、
壮麗な天守閣がそびえ立つ威容を、思い浮かべてしまうが、
それは戦国・江戸時代に入ってからの、城である。
城郭の起源は、戦争がはじまった弥生時代にまで遡る。
といっても、もちろん城が軍事的拠点として、
もっとも多く築かれ、最高に機能したのは戦国時代である。
見はるかす墨汁たらす虫もいて 壷内半酔
岐阜城・山城
戦国大名は、平地に置かれた政庁で領国の経営を行い、
敵が来襲すると「山城」にこもって戦った。
時代が下るにつれ、その構造も複雑になる。
山全体にいくつもの”削平地(郭ーくるわ)”や”掘割”をもうけて大要塞とし、
周辺に出城や支城を築いて、防御ネットワークを築いていった。
街道や宿場にも、砦やのろし場といった簡素な城をつくって、
監視体制を強化した。
青空に案外のるかそるかです 酒井かがり
清洲城(平城)
しかし、戦国時代後期になると、
鉄砲の出現によって、峻険な場所に要塞を築く意味が薄れ、
大名の政庁そのものを、城郭化するようになってくる。
これがいわゆる「平城」である。
そして、城は、軍事拠点としてだけでなく、政治や経済の中心地となり、
周辺には城下町が形成される。
憎からず思う土塀の三角州 井上一筒
安土城
≪ちなみに近世の城の象徴たる天守閣は、
信長の築いた「安土城」が手本となっている。
本能寺の変のおりに、城は消失しているが、
記録によると、25メートルの石垣の上に、5層の天守閣がそびえていたといい、
地上60メートルにもおよぶ、高層建築だった≫
勝ち誇る後姿が鬼に見え 綿井晴風
信長の城の変遷をみてみると、
那古野城から清洲城へ、清洲城から小牧山城へ、小牧山城から岐阜城へ、
岐阜城から安土城へと、たびたび居城を移していく。
新しい支配の中心となる土地へ、自分の城を移し、
止まることを知らない信長は、
最終目標に、安土城を築いたのではないかと思われる。
億光年の世界を抜けてきた狐 本多洋子
安土城天主の内部
「安土城が最後の城と、信長が考えていたことは間違いない」
”本能寺の変”の1ッヶ月ほど前、朝廷から勅使が安土に下され、
信長に対し、
「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」
といっている。
「三職推任」といわれるものである。
三職推任は、朝廷が信長に要請したものか?、
信長が朝廷に強要したものか? で意見が分かれているが、
いずれにせよ当時の状況から、
その実現が、いかに難しいものであったのかが確認できる。
温泉に錯角があり四季がない 松山和代
「太政大臣」は近衛前久が、就任したばかり、
「関白」は公家の最高職で、武家は就任できない。
そして、いくら実権がないとはいえ、
「征夷大将軍」は足利義昭が、その職にあった。
≪こうした状況から多くの研究家は、
「仮に朝廷が三職推任を要請したとするならば、
それ以外の選択肢がないところまで、追い詰められていたのだろう」
と考えている≫
横波を蹴って独りの立ち泳ぎ 山本早苗
『永亨9年三島暦』(足利文庫所蔵)
実は、信長は、当時の朝廷に残されていた数少ない権限であった、
「暦の管理・管轄、元号の制定」 を意のままに操作し、
朝廷権威を公然と、侵害しようとしていた。
まず、元亀4(1573)年7月18日、義昭を京都から追放して、
室町幕府を事実上滅亡させた信長は、
朝廷に圧力をかけて「元亀」を「天正」へと改元させた。
パン屋も花屋も天になるのを待っている 板野美子
宣明暦
天正10(1582)年には、
朝廷が管轄していた「宣明暦(せんみょうれき)」を、
尾張などの東国で用いられ、
自らが慣れ親しんでいた「三島暦」に変更するよう強要。
改暦を拒んだ朝廷を、信長は認めず、
”本能寺の変”の前日にも、
勅使として本能寺を訪問した勧修寺晴豊(かんじゅうじはれとよ)らに、
同じ要求を突きつけた。
≪晴豊は、「それはとても無理ですと申し入れた」と日記に残しているが、
当時”神の領域”とされていた改元・改暦を、朝廷は信長から強要されていたのだ≫
悪の華神の死角で咲き誇る 上嶋幸雀
また、天正7(1579)に完成した信長の居城・安土城のなかに建てられた
「摠見寺(そうけんじ)」という寺院について、
宣教師のルイスフロイスは、
「信長は、この寺の神体は自分であるとし、
生きたる神仏である自分の誕生日を聖日と定め、崇拝するように命じた」
と母国への報告書に記している。
信長は、「起源は天皇にある」と信じられてきた天皇の存在に、
真っ向から挑戦していたのだ。
こめかみに挑戦状がいつもある 森中惠美子
2000年に発見された安土城天主わきの殿舎跡。
さらに、平成11(1999)年の安土城の発掘調査によって、
城内に「天皇の御所・清涼殿」を模した建物の存在が、確認されており、
信長は、天皇を京都から安土城へと移し、
「住まわせようとしていたのではないか」 とも考えられている。
自らを神体とした寺院を建てた安土城に、
「天子」である天皇を呼び寄せ、
信長は「天主」と名付けた天守閣から、それを見下ろす。
不可侵とされた朝廷の権威に挑む、信長らしい考え方である。
霧のなか岩が条理を問うてくる 森廣子
【豆辞典】-「三職推任」
永禄11(1568)年、
織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭を奉じた上洛を、果たせたのは、
その前年に、正親町(おおぎまち)天皇から受けた、綸旨(りんじ)があったからである。
信長は、”禁裏を修復し、御料所を回復し、誠仁親王の元服費用を調達”
するという、三項目を請け負う代償として、
天皇の命を受けて上洛するという、大義名分を得たのだ。
とりあえず発酵させておきました 立蔵信子
こうした信長と朝廷の蜜月関係は、上洛後も変わることはなかった。
信長は莫大な費用をかけて造営した”壮麗な二条御所”を、親王にプレゼントしたり、
朝廷のために、”年貢を徴収”したりといった、援助を続け、
経済的・軍事的に朝廷を支えていたのだ。
もはや完全に信長に依存していた朝廷は、
天正10(1582)年、
”太政大臣、関白、征夷大将軍”のいずれかの官職に就くよう勅使を送り、
信長に「三職推任」を要請したのであった。
爪丸く切って賛成派にまわる 片岡加代
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