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川柳的逍遥 人の世の一家言
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耳奥をポンポン船が通る夜  井上一筒

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『国の為め 君の為めに 命を捨てることは 武士の真の道』

これは武市半平太(瑞山)が、切腹の直前に、親類に出した手紙の一文である。

切腹というのは、短刀の切っ先を腹にあてた瞬間に、

首を切り落とすのが従来の作法であった・・・が、

武市の場合は、腹を十文字に捌いてから、首を落とさせた。

これが、武市の純粋性の貫徹であった。

武市は、仇名で「顎」と言われ、「窮屈」と言われた。

突き出た顎と、何事にも堅苦しい理論で、話してくる半平太を、

幼友達の龍馬が、つけたあだ名だ。

この仇名が示すように、

後半生の彼の不幸な生涯は、この頑なさが、起因していたともいえる。

せせらぎに預けておこう花の首  山口ろっぱ

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   獄中の自画像ー1

「武士の忠義とは?」

武士には、忠義の精神が必要とされた。

忠義がもっとも重みを帯びるのは、”武士の名誉”において、である。

たとえ落ちぶれた藩主であっても、

お仕えして、苦難を共にするのが忠義の骨子である。

ところが、である。

主君の気まぐれとか、酔狂、思い上がりによる部下の犠牲に対しては、

武士の評価は、極めて厳しかった。

”馬鹿殿”には、お仕えするわけには、いかなかった”のである。

真白になって明日を追ってみる  谷垣郁郎

それでも、奴隷のように仕えようとする者は、

無節操なへつらいをもって、主君の”ご機嫌を伺う者”であり、

おのれの良心を曲げ、筋を通せない者として、

軽蔑され、武士の不名誉とされたのである。

したがって武士は、

「忠義という徳目を、果たすべき主君かどうか」 

を考え、その是非を自分の心に、問うて見るしかなかった。

言い訳の知恵を絞っている歩幅   藤井正雄           

忠義は日本に特殊な、直線的な徳目である。

主君に誠を尽くし、命運を同じくするのだから、

部下たる武士には、命がかかっている。

それを考えると、馬鹿殿のために、

「死ねるか?」 

と問えば、

「左様なことは出来かねる」 となったのだ。

梅田たそがれ人の流れも様変わり  廣岡志女

幕末になると、封建体制も緩んできたから、

藩の枠に縛られるよりも、

脱藩することにより、自分の筋を通していく若き浪人も増えたのである。

龍馬などは、

「朝から酔って候」 の土佐藩主・山内容堂に、サッサと見切りをつけ、

長州の久坂玄瑞には、

「藩など潰れてしもうてもかまわんではないか」

と諭されたこともあり、土佐を脱藩したのだった。

≪優柔不断で腰抜けの、最後の将軍・徳川慶喜も、

 幕末の混乱に部下たちの人心を集められず、徳川幕府を崩壊させる、

 一因になっている≫

しかし、半平太の忠義に対する考え方は、少し違った。

風向きがどう変わろうと受けた恩  吉村久仁雄

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    獄中自画像ー2

武市半平太の”土佐勤皇党の主張”の一つに、

「藩の階級制の廃止と、能力に応じた人材の登用」 

というのがある。

容堂は、徳川家には恩があり、

”タテの規律”を大事にと、考えていた人物である。

いわゆる武市が考える、

「すこし、ヨコにしませんか」という、考え方とはちがっている。

結社をつくり、規律を壊そうとする勤皇党の主張は、

容堂にとって、絶対許せないものであったのだ。

≪容堂は、酔っ払いではあるが、馬鹿殿ではない。

 むしろ飲むほどに、頭が研ぎすまされ、鋭く切り替えの早い、藩主であった≫

政治家が擦り減らしてる削除キイ  八木 勲

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   獄中自画像ー3   

本当は、「タテ社会を、ヨコ社会にする」 と考えていたのは、

脱藩をした龍馬であり、幕府側で言えば、勝海舟である。

その意味で言えば、藩を飛び出さなかった半平太は、

「藩のこと、藩士のこと」

を真摯に考えていた、今で言う愛社精神いっぱいの優秀な武士であった。

容堂は、半平太のそんな真意を汲むことができず、

半平太も、純粋なまでの一途さが、藩との誤解を生じさせてしまった。

水平思考の利かない半平太の弱点である。

ドラマ・「龍馬伝」で半平太が叫んだ言葉が、耳奥に残る。

『土佐勤王等は、ただ土佐藩の為、藩主豊範様のため、

そして大殿・山内容堂様をお支えするために、働いてきたがでございます』

水ばかり飲んで蛍を待っている  山本早苗

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獄中自画像ー4

最後にやっと容堂と面会できた、半平太は、

「大殿さまは、天下一の名君でございます」 

という。

≪頭脳明晰といわれた半平太は、一直線の馬鹿正直な人間だった・・・!≫

そしてそこで、「切腹しいや」 と容堂に言われたとき、

半平太は、その言葉に感激するのである。

「切腹が許された」・・・と。

武市が、獄中で自画像とともに、書いた言葉がある。

”花は清い香りによって愛され、人は仁義によって栄える”

武市は、最後の最後まで、自分を信じた。

即ち、大殿・容堂を信じたのだ。

武市は、真の忠義の侍だったのである。

十文字の切腹の仕方が、

半平太の”武士としての一途さ” を物語っている。

あまりにも、悲しい最期です! ( iдi )

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

半平太の一途さをあらわす、龍馬伝でのセリフを回顧する。

愛する妻・冨に言った言葉。

『もし来世ゆうもんがあるがやったら、

 わしはまたおまんと出会うて、夫婦になりたいがじゃき。

 そのときはずっと・・・おまんと一緒におるがじゃき』

くたびれた翼よ終電は行った  壷内半酔

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「龍馬伝で武市半平太役・大森南朋の、”半平太最期”の感想」

”今週は、いよいよ半平太が切腹という、最期を迎えます。

 これまでドラマでは、半平太の迷いや劣等感といった、

 人間としての弱い部分が、重点的に描かれてきました。

 でも僕は最期は、

 『この人はやっぱり侍だった』 と、示して終わりたかったんです。

 切腹を前に、半平太が牢番に告げた言葉が、実際記録に残っています。

 彼は牢番に対して、敬意を表したそうなんですが・・・、

 それを知ったとき僕はすごく感動して、

 半平太は、死を前にしながらも、

 自分の姿勢を崩さず、真に侍であり続けたのだと・・・。

土壇場の涙が情に絡みつく  浜田嘉穂          

 演出の方に「ぜひやらせてください」と、お願いして、

 牢番への言葉をセリフとして、追加してもらいました。

 罪状を後藤象二郎に読み上げられた後にも、二言くらい加えてもらって。

 凛とした様をより具体的に示すことで、

 「半平太は、最期まで侍としての意地をみせたんだ」 

 ということを、視聴者の皆さんに感じてほしいと、思ったんです。

ロスタイム如何に飾るか思案中  前田紀雄

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「山内容堂役・近藤正臣的おすすめ」

大殿様である容堂が、

わざわざ牢屋にいる武市半平太(大森南朋)のところへ出向くシーンがあります。

そこで半平太に、「腹を切りや」 と言う。

これは、すごいプレゼントなんだよね。

武士に、腹を切る名誉を与えるということは。

そのとき僕は、脚本には書いてないし、

監督からも言われていないこと、

つまりアドリブであることをやるんです。

とにかく2部の最終回、二人のヒントを楽しみにして、ともに泣きましょう。

雑談でアイデア一つ持ち帰り   哀川加枝子

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『龍馬伝』・第28話-「武市の夢」 あらすじ

龍馬(福山雅治)が土佐に現れ、

「自分が東洋殺しの下手人だ」

と認めたことを聞いた山内容堂(近藤正臣)は、

武市半平太(大森南朋)の牢を訪れる。

容堂は、尊王運動と土佐藩との板挟みになりながらも、

土佐藩に、忠義を尽くそうとした武市と、

「徳川家のやり方に納得せずとも、徳川家に忠義を尽くさなくてはならない」

容堂自身が似ていると半平太に話す。

容堂の予期せぬ優しい言葉に、武市は感激するのだった。

いいニュースを拡大できる耳である  立蔵信子

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『これは奇跡じゃ、これはおまんが起こしてくれた奇跡ぜよ』

その夜、龍馬と弥太郎(香川照之)は半平太の牢に忍び込む。

龍馬は自分が罪をかぶり、武市を助けようとしたことを話す。

しかし、武市は自ら罪を認め、切腹する決意を語り、

龍馬には日本を変え、異国から日本を守ってほしいと話す。

以蔵(佐藤健)はざん首、武市は切腹と刑が決まる。

人の世を底なし沼と言うらしい  浜田さつき

拍手[5回]

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足は長く顔は小さく写してね  武内美佐子

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「わしの大好きな町の景色を、しっかり見とうせ」

と、言わんばかりに腕組みをして、”身長3メートル”の龍馬像が、

”長崎港”の絶景を見下ろしながら、”風頭山”の展望台に立つ。

すぐ近くにあるもう一つの展望台には、

司馬遼太郎
「竜馬が行く」の文学碑があり、

「長崎は、わしのきぼうじゃー」 

と小説にある龍馬の言葉が、刻まれている。

流されて流れて僕の現住所  岸本宏章

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   風頭公園の龍馬像

≪亀山社中跡の丘陵と連なる風頭山は、長崎の絶景を見下ろす好展望台。

 龍馬像が、その展望台から、「わしの街をみておおせ」と、

 長崎の夜の町を見据えている≫

実際は、

「わしの大好きな”お元”がいる長崎の町を、しっかり見とおせ」

と言っているのかも知れないが、

その長崎で、幕末に多くの志士たちと関わってきた、

一人の写真家がいる。

その当時、"東の下岡蓮杖"、"西の上野彦馬" と並び称された、

名写真家の一人、上野彦馬である。

スケールの違いは耳朶の広さ  上野多恵子

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上野彦馬は、営業写真家の草分けで、

文久2年(1862)、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業。

「一等写真師」の看板をたてて、客を待ったのだが、

閑古鳥が鳴く有様で、開店休業状態が続いた。

写真があまりにも写実的で、自分の生き写しと考えられて、

「写真を撮ると命まで取られる」

との迷信が流布していたからだ。

身中の虫がどっぷり胡坐かく  森 茜

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龍馬と同じスタジオで写真に収まる後藤象二郎

長崎には、開明の青年が全国から集まっていた。

「迷信などに引きずられてなるものか」

と、度胸を据えた若者がついに、写真館の門をたたいたのである。

「わしの写真を撮ってはくれまいか」

と、言って彦馬の客になったのが、

坂本龍馬や高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、桂小五郎らであった。

一汁一菜仏が少し分りかけ  たむらあきこ

しかし写真は、彼らにあって「遺影のつもり」であった、と伝えられている。

有名になった折には、

「後世に自分の姿を残しておきたい」 との功名心も働いた。

混乱の幕末は、志士を目指す者にとって、

いつ命を落とすか分らない、ご時世であり、

彼らには、それなりの覚悟があって、写真に収まったのである。

効いてるか試しにクスリやめてみる  中 博司

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風頭からのぞむ長崎港(古写真)         現在の同じ位置からの情景

≪港に停泊する数多くの外国船が、当時の長崎の賑わいを物語る≫

”日本初の写真機”が、出島経由で、長崎に輸入されたのは、

幕末の1843年のこと。

写真撮影に成功するのは、さらにその16年後である。

龍馬が、

『日本を洗濯するために』
長崎を訪れたのは、

1864年~67年にかけてで、ちょうど写真が普及し始める時期と重なる。

龍馬は、彦馬のスタジオで撮影した肖像写真を、

5枚~10枚ほど、焼き増しして持っていたという。

「当時、”カルテドヴィジド”といって、今でいう”写真入の名刺”を作った」 

という。

新しいもの好きで、アイデア豊富な龍馬らしいエピソードである。

もひとりの僕の視線を意識する  嶋澤喜八郎

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   ガラス原板

ガラス原板とともに、この「名刺写真」

”龍馬の実像”
を、後世に遺すことになったのである。

慶応2年(1866)頃に、撮影されたという、

龍馬の写真(立像写真)の、「オリジナル・ガラス板写真」が、

3日間限定にて、

京都博物館の『龍馬伝特別展』で見られるということで、

早速行ってまいりました。

まさに龍馬ブームである。

入り口では、約30分の行列、

目的のガラス板前では、ものの2秒ほど見るのに、

40分以上は並ばされた。

肯定も否定もしない群れにいる  勝山ちゑこ

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龍馬伝の人気 あやかりたい人もいる

暗いケースに入った、「そのもの」は、

2・3秒程の鑑賞で、ほとんど印象にも残らない。

館内もまた、人・人・人の頭が邪魔で、肝心な物はほとんど見えない。

龍馬は、地球一周分歩いたというが、

達成感のないその日の、我々のだらだら歩きは、

龍馬が実感した同じような疲労を、

たった一日で感じさせられた、おもいだけが残る。

許したが一つの棘が抜け残る  吉川哲矢

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    上野彦馬と家族 

≪彦馬の前に、母と妻、横に4人の妹、前列で行儀よい姪と、眠たげな甥≫

古写真とは、

幕末から明治にかけて、撮影された黎明期の写真で、

「初期写真」と呼ばれる。

「古写真の魅力は、そこに本物の歴史があるということ・・・

 絵画は不要なものを省きますが、

 写真は意図しないものまで全部写ってしまう。

 そこに、現実が写っているんです」

と語る古写真研究家の姫野順一さんの、言葉を思いめぐらせながら、

歩いた。

現在の進化したカメラ(デジカメ)の中に、

この数々の幕末の歴史を収めたかったが・・・、館内は撮影禁止 ((( T_T)

横顔で盗む角度で我慢する  辻 葉

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「龍馬の写真(立像写真)は、上野彦馬によって撮影されたという・・・が?」

上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がいた。

ふるさとの馴染みということで、土佐藩出身の人々は、

井上に、無料で写真をとってもらうことが、よくあったようだ。

龍馬の写真も、スタジオは、間違いなく上野彦馬のスタジオだが、

撮影者は、この井上だという説がある。

龍馬の立像写真の原板(湿板)は、

井上家に保存されていた事から考えて、

「撮影者は、井上俊三とするのが妥当なところではないか・・・」

と、古写真研究家。
 
もう時効なんです七味唐辛子  山口ろっぱ

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上野写真館にて、日本に友好的な外人たち(古写真)

開店休業状態だった「一等写真師」の写真技術も徐々に、

次第に高く、評価されるようになる。

ポーズをとるものも現れて、ちょっとした写真ブームが、長崎に起きた。

そのブームにあやかり、

上野写真館を訪れる人が増えてきたのだが、

心の奥底では、「もしや俺の命が・・・」と恐れる向きもあった。

そこで写真機に向かって、”にらみ”を利かせてから写れば、

自分の精神力が貫通するから、

「死なずにすむ」との、『にらみの心得』が、説かれるようになる。

≪その心得を、最初に言い出したのが、長州藩の重臣、周布政之助であったらしい≫

迷信の通りに腹が痛くなる   村上恵美子            

「さぁ写します。

 こちらを見て、私がイイと言うまでジッとして、動いてはいけない。

 よろしいか。  ヒィ、フゥ、ミィ、ヨォ、イツ ・・・」

上野写真館では、少なくとも約2分ほどは、動かずにジッとして、

ポーズを決めていなければならなかった。

そのための首押さえの道具も用意されていた。

しかし2分間と言えども、ジッとして耐えている時間は長い。

首は凝る、それに、「にらみ」も利かせなくてはならないので、

我慢も限界に達する。

≪彦馬の家族をよく見れば、その様子が写っている≫

カップ麺2分半しか待てなんだ  井上一筒        

遠路やってくる客を、そういう苦痛から逃れさすには、

写真機を改造しなくてはならなかった。

やがて彦馬の手で、5秒程度で写せる画期的な、新機種が出来上がった。

上野彦馬は、化学にも通じており、長崎でこれを学ぶ予定でいたが、

蘭学者の中で、たまたま見つけた”ポトガラヒー”という語の

意味を外国の教官に質問したのが、”写真との出会い”となった。

蘭学者に従って、機械から薬品の開発まで手がける彦馬の徹底ぶりが、

新機種の開発につながった。

もしもからついにまで抱く寒たまご  山本早苗

「わが国最初の公害問題が、彦馬写真館から発生した」

『エピソード2件』

研究心が嵩じて、

彦馬は牛骨から、アンモニアを抽出する方法を開発するのだが、

実験室からアンモニアが流れ出し、

臭気が近所に及んだために、奉行所に突き出される、

ハプニングもあった。

最後にはごみとなるものばかり買い  八木勲

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居留地の中央を流れる大浦川の河口から見たダウンタウン(古写真)

フィルムは、硝酸銀の液体に浸した原板を、乾かないうちに、

現像しなければならなかった。

ただ問題は、このフィルムを撮影に使ったときには、

光量不足になりやすく、

被写体になった志士たちを、寺の大屋根に登らせて、写したこともあった。

一見、室内写真のように見えても、

すべてよく晴れた日当たりの良い野外で、撮ったのである。

小道具を外に持ち出して、

それらしい室内写真に仕上げる、大仕事であったのだ。

≪龍馬も小五郎も、小道具に囲まれた野外スタジオで、

後世に残る一枚を撮影していたのだ≫

蛇口からやっと太平洋につく  板野美子

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   龍馬の紋服

「龍馬伝・特別展での収穫」

龍馬のサイズが、現実的に見れたことが唯一の収穫。

当時龍馬が羽織っていた紋服から、計測したサイズがこれ。

身長=173cm 体重=約80kg

以下、紋服の寸法。

着丈=149cm    肩巾=32cm    袖丈=50cm 
袖巾=33.5cm   裄丈=65cm    前巾=26cm   後巾=30.5cm

どぉうってこと月は東に日は西に  河村啓子

拍手[9回]

もひとりの私に逢えるまで歩く  嶋澤喜八郎

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「龍馬・空白の4ヶ月」

元治元年11月頃から約4ヶ月、龍馬の所在が不明になっている。

「龍馬はその時、何をしていたのか?」 と多くの人が龍馬を探している。

例えば、武田鉄矢氏、「龍馬は外国に行っていた?」 と推測し、

テレビ特番(10CH)では、「グラバー邸に潜み、商いの勉強をしていたのでは?」 

と言う。

またこの頃、中岡慎太郎は、長州におり、役割分担で、

「龍馬は薩摩にいた」 という人もいる。

そして今回、

7月4日放送の第27話・『龍馬伝』では、「故郷土佐に帰っていた」 と解く。

実際に龍馬はどこにいたのだろうか?

どれが正しくて、どれが間違っているのか? 私なりに探してみた。

数式で出せぬ人情匙加減  山本半銭

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「元治元年(1864)」

7月ー「禁門の変」
 
長州が惨敗し、尊皇攘夷派の志士は、各地で窮していく。

特に、京は酷かった。浪士と分れば新撰組などに、片っ端から殺されていく。

8月ー龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となる。

    ≪この頃から、お龍も龍馬のために、京都の情報を集めたりして協力している≫

そんな時期、海舟の使者として龍馬は、西郷と会い、時勢について語っている。

「幕府、長州、薩摩と三者がいがみ合っている場合ではない。 

 このままでは日本は、清国のように外国の食い物にされる」 

熱く西郷を説く。(NHK6月27日放送・”薩摩の怪物”は、この時期のこと)

このとき西郷は、「家老の小松帯刀と相談すればいい」

とアドバイスし、龍馬の薩摩行きが決定した。

≪龍馬の薩摩行きは翌・慶応元年5月のことで、龍馬の薩摩滞在説は消える≫

僕よりも歯の数多いしゃれこうべ  奥 時雄

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10月ー海舟の軍艦奉行が罷免されたため、操練所訓練生がばらばら帰国を始める。

龍馬ら脱藩組は、帰国の危険を避け、

京都や大坂に潜伏し、外国船を借り入れて航海する計画を持っていた。

11月ーしかし、外国船の借り入れがうまくいかず、

海舟の配慮で薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらうことになった。(11日)

≪武田氏の渡航説もまた、ここで消える≫

余談だが、

龍馬を愛してやまない武田鉄矢氏は、龍馬をユニークに分析する。

”龍馬のブーツ”について、

曰く、

『高下駄を履く上士と草履を履く郷士の身分さを嫌って新しい履物を求めた』

という。 (^▽^笑)
 
11月小松帯刀、龍馬について、大久保一蔵(利通)宛に手紙を書く。(26日)
       
内容は、龍馬らを、「航海之手先」に使うというもの。

≪お龍の回顧録によると、元治元年(1864)に龍馬と結婚したとあるが・・・、

 すなわち、この時期龍馬は、大坂、京都、神戸にいたことになる≫

そして、岡田以蔵半平太の取調べが、日増しに厳しさが増していた。

水平線赤くあかくという名残り  東さつき

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「元治2年(1865)」

2月ー京都・薩摩藩邸で龍馬、中岡慎太郎、土方楠左衛門会見。(5日)
  
2月ー中岡慎太郎、土方楠左衛門 大坂に入り龍馬と会見。(12日)

3月ー神戸操練所閉鎖(18日)。 [高杉晋作の長州藩内クーデター]

この年12日に、操練所の閉鎖が決定し、

すでに訓練生200人のうち、ほとんどが帰国していたため、

大坂薩摩藩邸にいた龍馬は、

神戸に戻り、脱藩浪士を集め残務整理にあたっている。

≪2月~3月、龍馬は大坂か神戸に居た≫

落ち目から抜け出る今朝のパンを焼く  太田 昭

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「慶応元年(1865)」  [四月、元治から慶応に改元されている]

4月ー龍馬は、薩摩へ向かう。約20人の仲間と、大坂薩摩藩邸を出発。(25日)

小松帯刀、西郷隆盛らと、薩摩藩船の胡蝶丸に乗り込み、瀬戸内海を経て、

5月鹿児島に着いた。(1日)

鹿児島に10日ほど滞在した後、長崎に向かう。

≪龍馬が、グラバーと密接な関係を持ち出したのは、このときである≫

5月11日ー岡田以蔵・斬首刑 武市半平太・切腹。

泥を吐く順に消えていくしゃぼん玉  小西カツエ

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   長崎丸山・繁華街

このように見てくると、

元治2年末~慶応元年1月末までに2ヶ月の空白がある。

この期間に、大河ドラマ・『龍馬伝』でいう、龍馬はふるさとに居たのか・・・?

「ところが、慶応2年(1866)秋のことである」

龍馬は、土佐の同僚・溝淵広之丞と長崎で再会し、一夜酒を共にした。

その酒の席での会話が、手紙に残っている。

「人間なら父母の国を、誰が忘れるものか、

 忍んで国の人を無視してきたのは、大願を果たすためだった」

と、龍馬の心の奥にある孤独感を、思わず吐露している。
 
≪すなわち龍馬は、古里に迷惑がかかることを避け、

  長らく土佐には帰っていないという証し≫

4ヶ月の空白ー結論は大坂、神戸に居たことになるか。

『龍馬伝』は、新しい伝説を提供をしてくれるから、”ドラマ”なのである。

独りで死んで独りで生まれ変わります  森中惠美子

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「トマス・グラバーとは?」

安政6年(1859)、スコットランドの生まれのグラバーは、

開港後1年の長崎に、グラバー商会を設立。

幕末の激動の中で、米欧の貿易商人たちと競合しながら、

西南雄藩に、艦船・武器・弾薬の類を売り込み。

1860年代半ばには、長崎における、外国商館の最大手に仕上げた。

道順を決めて迷わぬ顔になる  富田美義

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慶応3年(1867)、

岩崎弥太郎が、土佐藩の開成館長崎出張所に赴任してきた。

早速、弥太郎をグラバー邸に招き、商談に取りかかる。

坂本龍馬後藤象二郎も出入りしていた。

グラバーは、貿易にとどまらず、事業にも乗り出した。

慶応4年(1868)、

肥前藩から経営を委託された高島炭坑に、

イギリスの最新の採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始した。

また、ほぼ同時期、グラバー邸から1キロほど南の小菅に、

薩摩藩と共同で、日本初の洋式ドックを建設した。

いわゆる、”そろばんドック”で、設備はすべてイギリスから輸入した。

きっと咲く一つ残っている蕾  森 廣子

そういうグラバーだったが、

皮肉にも、グラバーが肩入れした西南雄藩は、

怒涛の勢い討幕の兵を進め鳥羽伏見の戦いで、一気に勝敗を決してしまう。

グラバーの思惑は、はずれて大規模な内戦はなく、

グラバー商会は見越で仕入れた大量の武器や艦船を抱え込む。

おまけに、時代変革の混乱の中で、雄藩への掛売りの回収は滞り、

明治3年(1870)、

資金繰りに窮して倒産してしまう。

ラムネしゅわしゅわ朝顔の色水と  山口ろっぱ

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『龍馬伝』・第27回-「龍馬の大芝居」 あらすじ

神戸を離れた龍馬(福山雅治)たちは、

長次郎(大泉洋)妻・お徳(酒井若菜)の大坂の実家・大和屋に身を寄せていた。

そこへ1人の男がやってくる。

かつて龍馬の初の江戸行きの際、

ともに旅した溝渕広之丞(ピエール瀧)だった。

彼は、土佐藩邸に届いた弥太郎(香川照之)からの手紙を、

龍馬に届けにきたのだ。

頬骨を掠めたケータイの電波  井上一筒

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そこには、土佐で半平太(大森南朋)以蔵(佐藤健)が、

置かれている惨状が、
怒りとともに書きつづられていた。

居ても立ってもいられず、

龍馬は、広之丞に土佐へ潜り込むための手助けを頼む。

ひそかに土佐に入った龍馬は、坂本家を訪れた。

龍馬の突然の帰宅に、喜びを隠せない乙女(寺島しのぶ)たち。

だがそんな家族に、龍馬は縁を切ってほしと伝える。

半平太らを救うため、龍馬は一芝居打つことを決意。

その影響が家族にまで及ばぬようにという、龍馬の苦渋の決断だった。

残された命いろいろ夢がある  奥田みつ子

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梅干しの咲きたい気持ちなら分かる 壷内半酔

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桂小五郎(通称・桂小)

「おれは ぶっ壊すのは大の得意だが、作り上げるのは大の苦手とするところだ。

 作るのは 桂しかなかろう」

そう言い放ったのは、高杉晋作である。

そこで、京都から離れ、団子屋をやっていた桂小五郎を、

亡命先の但馬出石から呼び戻して、この男に、藩政のすべてをまかせた。

”蛤御門の変”で長州がたたかれた後、

長州の残兵を探しに行った戦場の、京都から逃れ、

但馬で骨休めしていた小五郎にとっては、損な役回りである。

しかし、藩命とあればやむを得ない。

高杉の一報で、長州・萩に戻った。

青竹の節の一つになっている  西美和子

「おれは古い家を壊すのはおおいに得意とするところだ。

 しかし、新しい家となれば、大変苦手である。

 それは、大久保が適任と考えている」

そう語るのは西郷隆盛である。

高杉の言葉と、内容はまったく同じだ。

まず走れ結果あとからついてくる  有田晴子

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まさに維新は、役割分担で実現した。

西郷は維新達成後、大久保利通と対立したが、

自分の言葉通り、明治政府に出番はなかった。

高杉晋作は、維新前年に死んでしまったから、維新後にその姿はなかったが、

もし明治政府をぶっ壊す役に、回ってしまえば、

高杉のイメージも変わってしまっただろう。

≪壊し屋と言われた民主党の幹事長・小沢氏は、なぜだか、

 逆を行っている、作り屋・大久保利通を「尊敬している」と言い、

 壊し屋・高杉を「尊敬している」と言うのが作り屋・菅首相というのが可笑しい≫


あすという泥鰌のいない安木節  奥山晴生

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  京都三条・桂小五郎像

幕末維新の英傑たちは、

それぞれが、自らの能力の限界というものを、悟っていたのだろう。

また、どういう舞台で自分を表現できるか、

また、どんなところでは、損な役者になるのかを知っていた。

頑張りどころの見極めが、きちんと出来ていたと言える。

そして、予測どおり、小五郎も大久保も、新政府の建設に参加することになる。

桂小五郎は、長州藩の意向により、名前を木戸貫治と名を変え、

また後に木戸孝允と改名した。

藩の意向とはいえ、

どこか、自由になれない損な役者という、感じがしないでもない。

惰性で書いた正方形は丸くなる  森 廣子

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 京都鴨川沿いの”幾松”

小五郎が、幾松に逢うために通った幾松の料亭。

≪変幻自在で多彩、との印象のある桂小五郎だが、

そういうイメージが先行したためか、『鞍馬天狗』のモデルだともいわれる≫

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石畳を奥へ歩くと幾松の玄関

「桂小五郎の女遍歴・・・あんまりな・・・男でもある」

維新三傑の1人、桂小五郎は、坂本龍馬をはじめ、多くの維新志士と交友したが、

女性関係も派手だった。

美形で、弁舌さわやかな小五郎は、女性受けの良い男だったのだ。

小五郎の最初の結婚は、27歳のときだが、

わずか3ヶ月で離縁している。

この妻との間に、子どもがいたものの早世。

小五郎は、江戸に上って志士活動を開始することになる。

信号は青引き返すのは難しい  森田律子

その後、江戸で斉藤弥九郎道場の塾頭を務めた小五郎は、

隣家の娘・千鳥と知り合う。

小五郎は、彼女に手を出したものの、ほどなく千鳥を放り出して、

志士活動のため上洛。

千鳥は、小五郎の出立後に妊娠が判明し、

乳飲み子を抱えたまま
京都へ向かった際に、

”蛤御門の変”の混乱に巻き込まれ、会津藩兵に斬り殺された。

≪子どもは、後に会津で養育されたと伝えられる≫

よくもまあまめにちょっかい出しなはる  藤井孝作

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一方、そんな事情を知らない小五郎は、

京都で三本木の妓・幾松に惚れ込み、大金を払って彼女を落籍する。

すでに志士として、名を知られていた小五郎は、

常に命を狙われる毎日だったが、
幾松の存在は、

彼の心を和ませた。

次のような有名な話が残っている。

新撰組が、料亭に踏み込んだ時、舞を踊り、つつすばやく小五郎を逃がしたり、

蛤御門の変以降、小五郎がお尋ね者になって窮すと、

加茂川大橋付近で潜伏する小五郎に、食料や水を運んで助けた話。

≪ときに幾松は、派手な着物をきたまま、桂の元を訪ねるなど、

騒動を起こすも、

奔放な彼女の性格を小五郎は、好きだったようだ≫

毒蛇がクレオパトラを呑みました  泉水冴子

小五郎は、幾松と知り合ってからも、多くの女性に手を出しているが、

幾松が、浮気に寛容だったことも、

二人の仲が、うまくいった理由かもしれない。

命をものともせず、小五郎に尽くした幾松の想いは、本物だった。

のちに長州に落ちのびた幾松は、

潜伏中の小五郎に、高杉晋作の”藩政クーデター”の成功を伝えるために、

単身で但馬へ向かうなど、小五郎を最大限に支えている。

冷や奴ことばを飾ることはない  西山春日子

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     松 子

一方で逃亡中の小五郎は、但馬の娘と偽装結婚したり、

城崎の宿屋の娘を妊娠させたりしていたが、幾松は意に介さなかった。

幕末当時の”献身と浮気への寛容”さから、

小五郎は、幾松に頭が上がらなくなった。

維新後に、木戸孝允と改名した彼は、

幾松を正妻に迎え、
松子と名乗らせる。

幾松は買い物と芝居が大好きで、贅沢をしたが、

木戸(小五郎)としては、文句をいえない。

”うめと桜と 一時に咲し さきし花中の その苦労”
  木戸孝允

≪それでも二人の夫婦仲は良く、

幾松は、夫の死後は尼になって、生涯を終えている≫

ショッツルにしばらく漬けてあるあなた  井上一筒      

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運命はひょんな角度で曲がり出す 小林すみえ

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「岡田ジャパンのキーパーソン」

年がいもなく、今日は、”日本VSデンマーク戦”で徹夜をしてしまいました。

サッカーは、広いグランド内での格闘技みたいなものだから、

なんとなく、ドキドキ、長い90分だった。

結果は、本田が決め、遠藤が決め、岡崎が決め、3対1の勝利。

大久保もがんばって、5本のシュートを打ち込んでいたが、全部キーパーの正面。

正面を狙っていたかの感じだったね。

そのうち2本は、パス回しにすれば、点に繋がっていたかもしれないのに・・・。

大久保の反省点だな。

最後、岡崎が決めた1点は、本田のチームプレイが演出したもので、

大久保も、”コレを見ならはなければいけない” と感じた一戦であった。

とにかく、やる男”HONDA”がすばらしかった。

拍手する人人人の交差点  太田 昭

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「モンスターレフティー」、といわれる本田圭佑の左足から蹴り出されるフリーキック。

彼は、ゴール前で落ちる”曲線を描く”シュートと、

”ブレ球”といわれる、

GKのもとでゆれる”無回転”のシュートの、2種類を蹴ることが出来る。

日本では、’07年北京五輪の予選で見せた”ブレ球”から、

その左足に注目が、集まるようになった。

しかし、本田は岡田ジャパン発足時から、日本代表メンバーだったわけではない。

彼がはじめて、日本代表に入ったのは’08年6月22日であり、

定着したのは最近のことだ。

海外で得点をあげる本田が、得点力不足に悩む日本の「救世主」として、

代表に召集されるようになり、

岡田ジャパンの”キーパーソン”となって、今に至っている。

吹けばとぶ男に鍵は渡せない   吉村雅文 

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ヨーロッパのサッカーには、100年もの歴史がある。

日本は、J・リーグが生まれてまだ、20年足らずだ。

日本におけるサッカー文化が成熟するためには、いま少し時間が必要。

「長い目で見てほしい」

と本田は言った。

世界の一流プレーヤーたちと、同じピッチに立ったからこそ、

気づいたことことが本田にはある。

その上で、

「決して追いつけないわけではない」
 と、強い口調で言いきった。

未来図に君の笑顔を描き入れる  田岡 弘

そして、彼の小さい頃から変わっていない夢が、今につながる。

「W杯で優勝すること。

 なんとなく夢として思うのか、本気で狙いにいくかは、自分次第だと思うので、

 僕は本気で、目指したいと思っている」 と、言葉をしめくくった。

頼もしい金髪のサムライに、大いなる期待をしよう。

一本の線描きつづけています  岩田多佳子

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「ここからは龍馬伝へ・・・幕末の二人のキーパーソン」

元治元年(1864)11月、操練所生徒の池田屋事件がもとで、

責任者の勝海舟は、江戸に召還され、軍艦奉行の職を解任、

さらに謹慎を命じられてしまった。

責任者を失った海軍操練所は、翌・慶応元年3月、閉鎖され、

行き場を失った龍馬は、同士たちとともに、

薩摩藩の保護の下に、置かれることとなった。

≪勝が、旧知の西郷に頼んだとも、言われているし、

薩摩の側にも、自藩の海軍力を整備するために、

操練所で教えていた操艦方や、海軍にまつわるさまざまな技術を、

必要としていた、事情があったともいわれる≫

いわゆる西郷が、龍馬らを預かるのにも、様々な腹づもりが動いたようだ。

込み入った事情は知らぬそばの花  関口きよえ

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右手に犬を連れ、

左手で刀の鞘をにぎり、

無私で肝っ玉が太く、

ギョロ目で、堂々としている、

東京上野公園に立つ”西郷隆盛の像”(高村光雲作)には、

なんとなく庶民性が漂う。

が、実はその内側に、虚像の部分も、

持ち合わせていたのではないか・・・?

西郷隆盛の身長は、180cm、体重は、120kg近くあったようだ。

心は繊細、かつ思考は鋭く、孫子とか韓非子に傾倒し、

その”非情の理論”について、深く研究をすすめていた。

それをもとに、戦略を練り、知的謀略は一流で、挑発と攪乱の策に、

恐るべき才能を発揮した。

オーラのある人だったペテン師になった 八田灯子

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そのような西郷は軍人でありながら、一寸学者ふうであり、

それを理由に、

「正体をよくつかめない人物の姿が隠れている」

とも言われ続けてきた。

上野の西郷像のイメージと、

実際の西郷とは、かなり異なっているのだ。

私に触れたら感電いたします  嶋澤喜八郎

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人物評論の好きな勝海舟が、西郷と初対面の龍馬を前に言った。

「西郷には、どうもわからないところがあったよ。

 大きな人間ほど、そんなものでな・・・

 小さなやつなら、どんなにつくろっても、すぐに腹の底が見えてしまうものさ。

 西郷ほどの大きなやつになると、そうではないのうー」

フェロモンのようなオーラに魅せられる  片山かずお

それに応えて、龍馬は、

「先生、なるほど西郷というやつは、わからんやつです。

 少したたけば、少し響き、大きくたたけば、大きく響くところがあります。

 もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口者なのでしょう」

これを聞いて勝は、満足そうに微笑み、龍馬の人物鑑定眼を褒めた。

「さすが、龍馬も鑑識の高いやつだよ」 

≪人物を見る能力に、絶対の自信を持つ二人が、そう評価するのだから、

 ”西郷はやはり、虚像の部分も、かなり備えもっていた” に違いない≫

干物についてネコとカラスの討論会  松原末湖

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海軍操練所が閉鎖されたことにともない、行き場を失った龍馬に、

海舟は、最後の世話を焼いてくれた。

薩摩藩の指導者だった西郷隆盛に、彼を紹介したのである。

「西郷隆盛なら、ヤツを上手に使うだろう」

そう目論んだからである。

龍馬が、薩摩藩亭を訪ねると、すでに龍馬の名前は知られており、

西郷にも、すぐに会えたという。

だが、初対面の二人は、お互いの相手の腹をさぐるように、

たわいのない、会話を交わしただけだった。

知能派の鯛で疑似餌に騙されぬ  有田晴子

龍馬の眼力は、2、3分のこの短い時間で、

上記の海舟との会話にあるように、

西郷が、「釣鐘のような男」 だと判定したのである。

その後も龍馬は、薩摩藩邸へ西郷を訪ねていっているが、

たいした話はせず、短い会話を交わすだけだった。

それでも、互いに、「なかなかの人物」 と認め合っう関係は築いていく。

≪実際、西郷と龍馬の面談は、海舟が予想した通り、

 両者ともに、惹きつけ合うところがあったようだ≫

百均の皿でも鯛は鯛である   山口ろっぱ

「西郷を大きく響かせることのできる男、それは、お前さんだよ」

と、海舟は言いたかったのだろう。

龍馬と西郷という二人の英雄を、出会わせたことは、

幕府にとって脅威になることも、海舟は予測していた。

だが海舟は、幕臣という立場にこだわらず、

日本の未来によかれと思う方を、選んだのだ。

かたや西郷隆盛の方は、龍馬の印象を、次のように述べている。

「天下に有志あり、余 多く之と交わる。

 然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。

 龍馬の度量や 到底測るべからず」 と。

最高気温知ってよけいに暑くなる  山内美代子

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『龍馬伝』・第26回-「薩摩の怪物」 あらすじ

龍馬(福山雅治)たちの、行く末を案じる勝(武田鉄矢)は、

薩摩藩の参謀・西郷吉之助(高橋克実)に会うよう龍馬に勧める。

脱藩浪士たちを、

「軍艦操縦士として、引き取ってほしい」 と西郷に頼んでいたのだ。

薩摩といえば、

先の「蛤御門の変」で、京の都に火をつけたという幕府側の雄藩。

桂小五郎(谷原章介)たち長州勢が、腹の底から憎んでいる相手だ。

勝の勧めといえども、長州の悔しさを知る龍馬は、

おいそれと、薩摩を頼る気にはなれなかった。

くちびるが腫れた土瓶むしの火傷  井上一筒

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結局は師に押され龍馬は、西郷との初対面の日を迎える。

西郷は、薩摩軍を率いる重鎮だ。

薩摩と幕府が、「再び長州に攻め入る」 と耳にしていた龍馬は、

「今、日本人同士で戦を始めたら、日本はどこかの国の属国にされるかもしれない」

と西郷に意見する。

それに対して西郷は、

「薩摩にとって、長州も土佐も徳川であっても、敵だ」 

と、反論。

2人は、真っ向から意見を対立させるのだ。

しかし西郷は、そんな龍馬たちを、

「船乗りとして雇ってもいい・・・

 すべては、坂本さんしだいでごわす」 と告げる。

龍馬は西郷に圧倒され、

柔和な外見とは裏腹に、底知れない力をもっていると直感する。

ラムネ瓶の底の呪文になっている  たむらあきこ 

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そんな中、操練所閉鎖の日がやってきた。

勝は、操練所を去る訓練生たちへ、自らの思いを託す。

「日本を世界と互角に渡り合える国にしてみろ! お前達は、俺の希望だ!」

この勝の言葉を、龍馬は胸に深く刻みつつも、

寂寥感や心細さにさいなまれながら、新たな道を模索する。

だだ、これまでと違うのは、いまや龍馬は、1人ではないということだった。

そしてひとまず、長次郎(大泉洋)妻・お徳(酒井若菜)がいる

大坂へ向かうことになる。

一瞬をためらう風の横殴り  麓 義久

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同じ頃、弥太郎は、武市半平太(大森南朋)から、

「拷問に苦しむ以蔵を救ってほしい」 

と、以蔵(佐藤健)を毒殺するための”毒まんじゅう”を預かっていた。

弥太郎は以蔵の苦しみを間近で見て、毒殺すべきかどうか迷う。

悩んだ末、

弥太郎はとうとう、以蔵に毒まんじゅうを食べさせようとする。

そう悲観なさるな葉にも表うら  吉道航太郎         

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