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川柳的逍遥 人の世の一家言
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好きなまま去って行きたい好きな場所 真飛 聖

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また一人宝塚のトップが、引退宣言しました。

これは、来年4月の引退に向け、10月21日、真飛聖が語った言葉である。

そして、

いつも笑っている人生がいい  聖

とも。

龍馬は、「誰もが笑って住める国を造りたい」

という理念を持っていたし、

未練たらしく徳川の舞台を去った、慶喜に聞かせてやりたい言葉だね。

待ちなさい今は引き算してるだけ  立蔵信子

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    二条城・古写真

「『大政奉還』ーウラのドラマ」

土佐藩・後藤象二郎と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の間で、

慶応3年6月22日、”薩土盟約”を締結したが、

これは慶喜に大政奉還を迫り、

「もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こす」

というものであった。

後藤はすぐに帰国して、土佐藩兵を引率してくる予定であったが、

武力の発動を拒否する山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい、頓挫。

薩摩側は長州・芸州(広島藩)との間で、武力倒幕路線も進めており、

9月7日には、薩土盟約は解消される

結局、土佐藩は、単独で10月3日に、

”大政奉還の建白書”山内豊範を通じ、将軍・徳川慶喜に提出した。

靴紐をしめて気持ちを切り替える  新川弘子

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これを受け、

10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、

        「大政奉還」を諮問。

10月14日、「大政奉還上表」を天皇(明治)に提出すると共に、上表の受理を求めた。

        ≪朝廷の上層部は、これを受け入れるつもりはなかったが・・・≫

10月15日、慶喜を加えて開催された朝議で、「勅許」が決定した。

呑み込んでみる喉もとの机上論  山口ろっぱ

では、大政奉還したあと、慶喜自身、

「自分はどのような位置を占めようと、考えていたのだろうか・・・?」

慶喜生前の談話集・『昔夢会筆記』によると、

慶喜側近の老中・板倉勝静(かつきよ)らは、

「慶喜を朝廷の摂政という形にして、そのまま実権をとり続けさせたい」

と思っていたようである。

また、幕臣の西周(にしあまね)が、慶喜に示した「議題草案」によると、

将軍は、「大君」と名前を変え、諸侯議会の議長となり、

国家の行政権と立法権、さらに、軍隊の統帥権まで握るとしている。

≪この「議題草案」は、王政復古の一ヵ月前に出されていた≫

晩夏のうなじから飛び立つ不死鳥  浜田さつき

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 薄暮の二条城

「討幕の密勅」

慶応3年10月14日、慶喜は、政権返上を上奏したが、

この時期、”武力討幕派”の動きも急であった。

「大政奉還をされては、武力で幕府を討つ機会が、なくなる」

というわけで、岩倉具視を中心とする討幕派急進派の公家は、

幼い明治天皇を動かし、

まさに、大政奉還の行なわれる前夜、10月13日、

”討幕の密勅”を、うけているのである。

仏壇の鉦を合図にクーデター  井上一筒

それは、

「・・・・朕今民の父母として、この賊にして討たざれば、

 何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎に報いんや・・・」

というもので、

もちろんこのような文章を、幼い天皇が書けるはずはない。

岩倉具視の起草であることは、間違いないが、

果たして、天皇の裁可をうけたかどうかも疑問である。

≪最近の研究では、この密勅は、偽物だったとする意見が強い≫

それにしても”討幕の密勅”は、効力を持つわけで、

慶喜としては間一髪のところで、第一の関門はすりぬけたことになる。

窓のない家の窓から出入りする  井上恵津子

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   岩倉具視

≪余談だが、岩倉具視は加山雄三の曽祖父にあたる≫
 
おもしろくないのは岩倉具視らで、

岩倉は薩摩の西郷隆盛らに連絡をとった。

すでに、クーデターを計画していたのであろう。

というのは、慶喜を中心とする新しい”国家構想の動き”が、見えはじめたからである。

西郷が率いる薩摩軍が、四艘の軍艦で、鹿児島を出港したのが、

その年の11月13日。

23日には、京都に入った。

薩摩軍は、およそ3000であった。

同じころ、長州軍も京都に集結しはじめた。

前進を競う左右の足である  岩田多佳子

そして、12月9日、薩摩軍を主力とするクーデター軍が御所を包囲する。

御所を守っていたのは、京都守護職・会津軍、京都所司代の桑名軍。

ふつうならそこで、激しい戦闘になるところなのだが、

どういうわけか幕府軍は、おとなしく兵を引いてしまった。

なぜ幕府軍は、抗戦しなかったのだろうか?

考えられる一番有力な説として、

「王政復古の聖断が下ったから、警備を交替せよ」

といわれ、撤退したという見方がある。

≪要するに御所は、クーデター軍に乗っ取られてしまったことになる≫

どちらが勝ちだろうと素うどんは続く  壷内半酔

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 小御所会議

とにかく、クーデターは成功した。

クーデター軍に守られながら、最初の小御所会議が開かれた。

そこには慶喜は、出席していない。

「新政府に慶喜の姿がないのはおかしい」

と主張する山内容堂らの意見もあったが、

クーデター軍に、銃口をつきつけられているような状況では、

慶喜サイドの大名も多くをいえず、

結局、ここに、”慶喜の官職辞任と領地返還”が、迫られることになった。

≪年表などに、「明治天皇、王政復古を宣言」と一行書かれているが、

 これだけのドラマがあった≫

主流派というそれだけの大通り  森 廣子

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