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川柳的逍遥 人の世の一家言
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自分史に便利な消せるボールペン  掛川徹明



        徳川吉宗の葬儀が行われた上野東叡山


徳川吉宗大岡越前守との関係は<切っても切れぬ…>ものであった。
越前守が千九百二十石の旗本から一万石の大名格となったのは、吉宗の
引き立てによるもので、越前は、吉宗のその抜擢にこたえ、片腕ともな
って職務に精励したのである。また、越前は吉宗政治を支えると同時に、

町火消の創設、小石川養生所の設立、サツマイモの栽培普及など、江戸
庶民の生活に深く関わる政を行い、白洲のお裁きの中では、遠島や追放
刑を制限、囚人の待遇改善に取り組み、咎人への残酷な拷問を取りやめ、
時効の制度を設け、連座制を廃止したりと、画期的な改革を推進した。



  江戸の町奉行・大岡忠相


 晩年には、大岡越前は、町奉行から奏者番へ転じ、寺社奉行を兼務した。
 奏者番という役職は、専ら、武家に関する典儀を司るのだが、大岡越前
の場合は、大御所の吉宗と将軍・家重との間に立ち、種々の重要な案件
や意見の疎通を図り、老中・若年寄への進言を行ったというから、名実
ともに幕府の重臣となっていたのである。吉宗の越前守への信頼は、絶
大なものであった。
 
 
エンドロールの先に流れている銀河  赤松ますみ


「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑩



           江戸の絵巻①



「大御所、本所に御放鷹(ごほうよう)あり、西尾隠岐守忠尚陪遊して
 鴨を得たり」
寛延4年(1747)の春、徳山五兵衛が、小田原で尾張九衛門を捕え、
現地において取り調べを行っているころ、大御所・徳川吉宗は久しぶり
で、本所へ狩りに赴いている。一時は、健康を損ねていた吉宗が、元気
を取り戻したことになる。しかし、死は着実に吉宗へ迫っていた。
まもなく吉宗の病気が再発し、五兵衛が江戸へ戻って間もなく、<大御
所の御病気は、非常に重い>との声が、五兵衛の耳へも入ってくるよう
になった。そして、ついに6月19日に至って、吉宗は危篤に落ち入り、
翌20日の朝、68歳の生涯を閉じた。


もうすぐの真冬がそっと置いてある  中野六助


大御所・吉宗の葬送は、閏6月10日(7月10日)に行われた。
江戸城から、上野東叡山の幽宮へ向う葬送の列に、名奉行と謳われた
岡越前守忠相も加わっている。このとき大岡越前守は、町奉行から寺社
奉行に転じていたが、ことさら吉宗の恩顧を受けていた越前守は、自ら
の病患が重く、顔面蒼白となりながらも威儀を正し、粛然として、最後
のお役目をつとめた。75歳の大岡越前守は、このとき、結核症状が全
身におよび、腹部からの出血もひどかったらしい。越前守は10月に至
って寺社奉行を辞し、12月19日に病没している。


でかしたと節くれだった指が言う  藤村タダシ



             江戸の絵巻②


吉宗葬送の当日、徳山五兵衛は盗賊改方の与力・同心をひきい、葬列が
すすむ前後を、密かに警備することを命じられている。吉宗の葬送が終
わってのち、本所の屋敷へ戻って来た五兵衛は、小沼治作に、
「これにて、われらの世は終わったようなものじゃ」
しみじみと、そう言った。
<わしが…このわしが、この手で、あの大御所様の御頭を、打ち叩いた
ことがあろうとは、世の人の夢にも思うまい>
小沼治作にも、このことだけは洩らしていない。
吉宗にしても、あのとき、五兵衛の姿を見てはいるが、布で隠した面体
は見られていない。一時、<もしや、御存知では…>と、思うことがな
いではなかった。
<初めて、本所見廻り方>を務めていたころのことだ。
しかし、
<今にして思うと、やはりお気づきではなかったようじゃ>
あれやこれ、将軍吉宗を偲ぶ五兵衛であった。


8のつく日今日はハライソ詰め放題  吉川幸子


翌年の正月になって、五兵衛は、老中の堀田相模守から呼び出された。
<ようやくに、お役目から解き放たれるらしい> と思った。
何といっても63歳になってしまい、昨年の小田原や奥州・川俣への出
張が躰にこたえている。
「小沼、これにてようやく肩の荷が下りそうじゃ」
「ようござりました」
小沼治作も、主人の解任を疑わぬようだ。
五兵衛の活躍で、このところ江戸市中も平穏であった。
58歳になった奥の勢以も、
「これよりは、ゆるりとお過ごしなされますよう」
と言ったほどである。


自由にはなった不自由にもなった  谷口 義



             江戸の絵巻③


ところが、堀田老中の許へ出頭してみると、「盗賊改方解任」のことで
はなかった。老中・堀田相模守が徳山五兵衛
「つつしんで、拝領いたすように」
と言って、手渡されたものは、一振の脇差であった。大御所吉宗が
「われ亡き後に、内々にて徳山秀栄へ…」
形見として下げ渡されたのである。
<大御所様は、わしのことを、お忘れではなかった…>
年齢をとった所為もあってか、五兵衛は帰邸してから、感涙に咽んだ。
「内々に…」
という一言が、特別の親密さが籠められているように思われてならない。


すくっても掬ってもおぼろ月夜  市井美春


五兵衛は帰邸した折に
「やはり、御解任にて…?」
問いかける小沼治作や、柴田勝四郎へ、
「何の、そのようなことがあろうか」
きっぱりと答えて、奥へ入っていったものだから
「はて…?」
小沼と柴田用人は、不審気に顔を見合わせた。
大御所の吉宗が、一人の幕臣へ形見分けをしたのだから、これが公式の
場であれば、<非常なこと>である。
だが、吉宗は、<内々のこと>として配慮されたのである。
「五兵衛よ。余とそのほうとの間には、余人には申せぬ秘密の出来事が、
いろいろあったのう」
吉宗の声が、冥府から聞こえてくるような、そんな気がした。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花



             江戸の絵巻④

五兵衛は、吉宗の形見の脇差について、家族や家来たちにも洩らさなか
ったが、長男の次郎右衛門頼屋へのみ、打ち明けている。
「大御所様が、わざわざ、かように父のことを御心にかけらるるは、父
もそれだけの働きをしているからじゃ…」
五兵衛は、醒めやらぬ興奮をおさえながら、誇らしげに倅に語った。
五兵衛が言いたかったことは、将軍・吉宗から受けた徳山家にとっての
名誉を代々の後継へ伝え、<名を汚さぬよう、お役に務めよ>というこ
とであった。


結び目をほどくとそうか そうなんだ  山本昌乃


吉宗の葬送が終わると、五兵衛は、ふたたび火付盗賊改方の役職に精励
しはじめた。
「殿様は、近ごろ若やいでまいられたような」
76歳の用人、柴田勝四郎が倅の平太郎へ洩らしたように、その後も、
五兵衛は、数件の盗賊一味を捕縛するという活躍をみせている。
その柴田勝四郎は、依然矍鑠(かくしゃく)として用人を務めていたが、
ついに、この年、宝暦2年(1752)の11月5日に心の臓の発作に
よって急死をとげた。
柴田勝四郎の葬儀も済み、間もなく、宝暦2年の年も暮れた。大御所・
吉宗もこの前年に死去した。これまでの、五兵衛に関わっていたという
よりも、五兵衛の人生を<つくりあげてくれた、とも言うべき人びとが
つぎつぎに消え去り、いまは、勢以小沼治作のみになってしまった。


年ごとの変化やっぱり老化だね  安土理恵
  
 

             江戸の絵巻⑤

 
かくて、また、新しい年が明けた。宝暦3年である。
徳山五兵衛64歳。妻の勢以は59歳。小沼治作は74歳になった。
小沼は、以前と少しもかわるところがない。柴田勝四郎が死んだときも、
その亡骸に向って、
「御用人、いずれ近きうちに、そちらへまいりまするぞ」
などと語りかけたときの、小沼の老眼には、むしろ明るい微笑が漂って
いたほどなのだ。邸内の道場へ出て、徳山家の家来や盗賊改め方の与力
同心たちと共に、剣術の稽古に励む日常も変わらない。
<元気じゃのう> 五兵衛が呆れ顔になるのも、当然で、今でも短時間
の稽古なら、70を超えた小沼へ、打ち込める者はいないのである。


素粒子のことは知らぬが支障なし  新家完司



             江戸の絵巻⑥


<小沼は独身ゆえに、あのように健やかなのであろうか…>
<ああ、わしは、小沼よりも先に死ぬるにちがいない>
ある日、小沼治作が、居室に籠り、若い頃より間があれば、描き続けて
きた念願の絵巻に、没頭する五兵衛
「たまさかには、道場へお越しくださりませ」
躰を動かさないことに不満気に言ってきた。
「愚かなことを申せ」
「何が、愚かでござります」
「余命幾ばくもないというに、小太刀を揮って、汗をかいたところで、
 どうなるのじゃ」
「殿も、随分とお変わりなされましたな」
「何とでも申せ」
「あれほど、剣の道に御執心であられましたのに…」
「今は、絵筆に執心しているのじゃ」
「御勝手になされませ」
小沼も75歳となり、五兵衛に対してすっかり遠慮がなくなって、喜怒
哀楽の表情を露骨にする。


優柔不断をずばっと斬ってやろう  福尾圭司


「殿…」
「何じゃ」
「殿が剣をお捨てなされては、小沼寂しゅうございます」
「のう小沼、その方もわしも剣術は三度の飯より好きであった」
「なればこそ、私は…」
「まあ聞くがよい。よいか、小沼。今のわしには絵を描く楽しみがある。
 65にもなった老人の余生は、もはや残り僅かじゃ。
 わしは到底、その方の歳までは生きられまい」
「何を仰せられますする」
「さよう…」
言って、五兵衛は、両目を閉じ右手の指を一つ二つと折りながら
「さよう、あと4、5年の寿命ではあるまいか」
「殿、お躰に、何ぞ変わったことでも…」
「おもうてもみよ、65歳の老人に剣術が相応しいか、
 または絵筆がふさわしいか。その答えを改めて申すまでもあるまい」
五兵衛に優しく言われて、小沼治作は、
「恐れ入りましてございます」
そこへ、ひれ伏してしまった。


平凡という風呂敷の心地好さ  藤本鈴菜



           江戸の絵巻⑦


徳山五兵衛が江戸へ出奔していた期間は別にして、片時も離れずに付き
添って来ただけに、小沼治作は、心安だてに家来の身分を忘れることが、そ
れをまた五兵衛は、一度も咎めたことがなかった。
そのことに小沼は、いま思い及んだのだった。
「まことにもって、不躾なることを申し上げました。
 わが身分をわきまえず、まことに私めは…」
小沼の声は、震えていた。
「まあ、よいわ。わしはその方を…」
五兵衛は小さく苦笑を浮かべて、
「家来とは、思わぬ」
と言った。思わぬ言葉に小沼は、
「何と、仰せられまする」
「そのほうと呼ぶのも、今日から止めにいたそう」
「………?」


鏡の中に他人のような私  ふじのひろし


「小沼、今のわしは、おぬしを、わが友と思うている」
「と、殿…」
「おぬしが道場で一同に稽古をつけているときの、元気な気合声は、
 この居間にいてもわしの耳にはいっておるのじゃ」
「お、恐れ入り…」
「おぬしの気合声を耳にしながら…まだ、小沼治作が健やかにしていて
 くれる。わしの死に水を取ってもらえると思えば、何とも言えぬ安ら
 かな気持ちにもなってまいるのじゃ」
たまりかねて、小沼は男泣きに泣き出した。
この日から後、小沼治作は、五兵衛の耳へ剣術のことを、一言も入れぬ
ようになった。いつの間にか、夏が去り、秋風が立つと病気ではないが、
五兵衛は、日中も書見の間で、うつらうつらと一日を過ごすことが多く
なった。絵筆をとる気分にならないときもある。


リバーシブル今日のあなたに合わせます  津田照子



            江戸の絵巻⑧


宝暦6年の年も、あと半月ほどで終わろうというある日の午後、暖かい
日和ゆえ、居間の縁側へ毛氈を敷きのべ、五兵衛は、半切に軽く墨竹を
描いていた。60を超え、お役御免の身となった自分に、絵を描く楽し
みが残されていたことを、五兵衛は<ありがたい>ことだと思っている。
さて、手本もなしに、墨竹を描き終えた五兵衛が、縁側へ立ち上がり、
奥庭の木の間から落ちかかる日の輝きに、眼を細めたとき、突然、眩暈
をおぼえた。
ぐらりとよろめいたことは覚えているが、後は、おぼえていない。
気がつくと、五兵衛は庭へ落ちていた。さいわい誰にも見られなかった
らしい。<醜態じゃ>と思いながら<もはやわしもいかぬか> と呼吸
を整えつつ、寂寥感を感じた。
1年ほど前から、自分の躰が急に衰え始めたことを自覚している。
それでいて、医師に診せようとは思わなかった。


散り際を模索している影法師  細見さちこ
 
 

そして宝暦6年の年が明けた。徳山五兵衛67歳である。
絵巻はほぼ完成した。<これでよし、これでよし。いつ、死ぬる日が来
てもかまわぬ。さあ、いつにても来い>の思いを、五兵衛は胸に畳んだ。
この年の夏の暑さも相当なものであったが、五兵衛は無事に乗り切った。
ところが、秋風がたち染めて、間もなくの或朝、目覚めて半身を起こし
た途端、またしても激しい眩暈が五兵衛を襲った。
<あっ…>おもわず、低く叫び、五兵衛は、突っ伏してしまった。


ヘソの尾か竜巻なのか暴れだす  田口和代


目覚めると横に医師の遊佐良元が脈をとっている。妻の勢以もいる。
長男の次郎右衛門がいる。小沼治作も家来たちも、五兵衛の床へ集まっ
てきていた。
それから1ヵ月ほどして、五兵衛は、床をはらった。
いったんは衰えた食欲も出てきたし、血色も見違えるほどよくなった。
医師の遊佐良元も
「もはや、大丈夫…」
と受け合ってくれた。
床上げの日の午後に、小沼治作が居間へやって来て、
「御本懐、おめでとうござりまする」
神妙な顔で祝を述べたとき、五兵衛はくすりと笑い
「小沼、心にもないことを申すな。おぬしには、よう分かっているはず
 ではないか。なれど、たしかに気分はようなったわ。良元殿の手当て
が効いたのであろう」
小沼は黙って頷いている。


神さまの目配せスルーしてしまう  美馬りゅうこ



            江戸の絵巻⑨
 
 
「のう、小沼、蝋燭の灯が尽きようとする直前には、最後の炎をあげ、
 一瞬、ぱっと燃えさかるとか…いまのわしがそれじゃ…。
 これより、残り少なくなった明け暮れを、神や仏が楽ませてくれるの
 であろうか…」
時代は、9代将軍・家重の世になって、大きく移り変わろうとしている。
五兵衛次郎右衛門に、こう言った。
「これからは大変な世の中になろう。おぬしが気の毒じゃ。何事につけ、
せせこましく、息苦しく生きていかねばならない。こころしておけ
もはや、今の五兵衛秀栄には、時勢の変転に、心をくばっている時間も
ない。そして五兵衛は、ぷっつりと絵筆を捨てた。
そして毎日、居間に座り込み、奥庭を眺めては瞑想にふけり、夜に入る
と書見の間に引きこもり、かの絵巻をながめることが日課となった。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花
 
 
この年が暮れ、また新しい年が明けた。宝暦7年である。
新年を迎えた五兵衛の体調は良好であった。
春がすぎ、梅雨の季節となったので、医師の遊佐良元は3日に1度、
かならず来邸して診察をおこなった。
梅雨の季節も元気に迎え、良元も<これならば大丈夫>と太鼓判をおす。
夏が来た。依然、五兵衛は食欲もあるし、血色もよかった。
体調が、少しおかしくなったのは、秋も入口にある8月10日(今の9
月22日)である。
目覚めのときに眩暈を感じ、三日感覚ほどで、その症状が続いた。
そして8月18日となった。
午後になって、勢以が持ってきた土産のカステーラを二片ほど食べたが、
間もなく気分が悪くなり、吐いた。


ダリのヒゲああ永遠は無いと知る   齊藤由紀子


おどろく勢以
「なに大丈夫じゃ。少し眠ろう」
五兵衛は寝所に入り、身を横たえ、半刻(1時間)ほど眠ったようだが、
突然、激しい頭痛に目覚めた。躰中の力という力が、すべて消え去った
ようで、頭痛は依然として激しい。
次郎右衛門夫妻をはじめ、家来たちが次の間へ入って来ようとしたが、
五兵衛は、勢以に、「居間には誰も入らぬように」と命じ、
書見の間にある、鍵をかけた手文庫を持ってこさせ、
「わしが、息絶えるまでに焼き捨てよ」
と申しつけた。
手文庫には、合間合間に五兵衛が、描きためた秘密の絵巻が入っている。
それを残して<死ぬるわけにはいかない>のだ。


目にしみる涙は遠き日のために  奥山節子
 

 
   歌沢節 横ぐしお富

女江戸中期には多くの侍・市民は習い事をした。
男たちが女師匠に歌沢節
の稽古を受けているのもその一巻である。
歌沢節とは、江戸時代後期に端唄から派生した歌曲。
五兵衛が、趣味とした絵画も、遊蕩時代に習い覚えたものだったようだ。



次郎衛門柴田用人も、小沼治作さえも遠ざけた五兵衛は、家来2人を
呼び入れ、奥庭に面した寝所の障子をあけさせ、庭の土を掘り、そこへ
薪を組み、手文庫を放り込み、「急ぎ、燃やせ」と命じた。
夕闇が淡く漂う奥庭の一隅の穴から、紅蓮の火炎が燃え上がるさまを遠
くから見ていた家来や侍女たちは、<いったい何事が?>と息を呑んだ。
手文庫が完全に灰となるのを見届けてから五兵衛は、ぐったりと臥床に
横たわり、
「皆みなを呼ぶがよい。別れを告げたい」
と言った。


墓石の蜥蜴そろそろ旅支度  くんじろう
 
 
  <こうなる前に、わしの手であの絵巻と櫛の始末をいたしたかったが……
ついに、いまこの時まで、未練を残してしもうた。なれどこれでよい>
土気色にかわった五兵衛の顔には、安堵と放心の色が浮かびあがった。
遊佐良元が駈けつけてきたのはこのときである。
次郎右衛門夫妻や孫たち、分家から小左衛門貞明。小沼治作や用人・
柴田平太郎も五兵衛の枕頭へ集まって来た。
「勢以…これへ…。長年、苦労であったのう」
「いま一度…いま一度、四十余年前に戻って、初めより、やり直しとう
ございました」
五兵衛の耳元へ、涙声で、ささやいた。


こわれかけのレコードのよう子守歌  森光カナエ



          武士の葬儀


次郎右衛門小左衛門が顔を寄せると、
「次郎衛門、小左衛門。正道を踏み外したはならぬぞ」
と父親らしい一言をあたえ、小沼治作が、
「私めも、間もなく…」
ささやくと、両眼を閉じた五兵衛が、
「待っているぞよ」
頷いたが、すぐに昏睡状態となり、夜に入り息絶えた。
ときに、徳山五兵衛秀栄、68歳であった。

小沼治作は、翌年の2月10日に死んだ。五兵衛を追ったとも…)
食を絶ったともいわれ、または、前日まで変わりなく暮らしていたのが、
翌朝となって眠ったまま、息絶えているのを発見されたともいう。
いずれにせよ、五兵衛亡きあと張り合いをなくした小沼は、魂の抜けた
亡骸同様だったという。

 
かぎろひの旅の終わりは彼岸花  内田真理子

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あと一段見落としていた僕の足  武市柳章
 


            小伝馬町牢屋敷


小伝馬町牢屋敷の広さは、敷地2618坪(うち奉行の役宅480坪)
周囲には濠が巡らされ、表門は南を向いている。表門から入って「宣告
場」「張番所」があり、「獄舎」は御目見え以上の罪人を入れる揚屋敷
6、5坪、士分・僧侶を入れる揚屋が9坪、百姓町人以下の大牢15坪、
同婦人の女牢が12坪と四ヶ所に分かれており、他に、「拷問場」「処
刑場」「検死場」、病囚のための「薬煎所」「役人長屋」となっている。
日本左衛門は、延享4年(1747)1月7日に京都町奉行・永井丹波
守尚方に自首し、裁かれたのち、江戸に送られ、北町奉行・能勢頼一
って、小伝馬町の牢に繋がれた。
(日本座衛門の自首は、大坂町奉行・牧野信貞の説もある)
 
 

        牢内の図 (徳川幕府刑事図譜)
 
 
エンマ様のお裁きを待つあばら骨  大野たけお


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー⑨


日本左衛門が、延享4年(1747)1月、自首してきた。
京都町奉行は、永井丹波守尚方であったが、その役宅へ日本左衛門は町
駕籠を乗りつけたらしい。黒紋付に麻の裃をつけ立派な大小を腰に帯し、
堂々たる風采であったが、すっかり痩せ衰え、杖をつきながら、右の足
を引き摺っていたいたようだ。
奉行所には、日本左衛門の人相書きも廻っていたし、京都市中の探索も
疎かにしてはいなかったが、それだけに意表をつかれ与力・同心たちは
あたふたと落ち着かない様子だったようで、日本左衛門は、
「わざわざと名乗り出たるからには、逃げ隠れをいたすわけもござらぬ。
 お心静かになされ」
と、さも愉快気に言い放った。


兵法にあるのだろうか泣き落とし  ふじのひろし


なにはともなく縄を打ち、日本左衛門を白洲へ引き出すと、
「何ぞ、腰にかける物を下さらぬか。それがし、遠州の見附宿にて、
 お役人の頭と見ゆるお人に、右の太股を斬り払われ、その傷が、
すっかり拗(こじ)れてしまい、歩むことも坐ることもかないませぬ」
と言い出た。
調べてみると、なるほど右の太股が化膿し、そのあたりが、まるで毬の
ように腫れあがっている。見附宿の捕物陣を単身で切り抜け、諸方を逃
げ隠れしていた日本左衛門は、全国手配の犯罪者として、医者の手にか
かるわけにもいかず、自分の手で膿を除いたり、薬を塗ったりして何と
か逃げ延びていたという。


時効などさせない神さまの手錠  荻野浩子
 


       江戸のお裁き

 
京都町奉行・永井丹波守は、
「腰をかけさせるがよい」
許可を与えてから吟味を開始をした。
「いずこに潜みおったのか?」
日本左右衛門は、
「まず伊勢の古市に…、それから、長門の国の下関まで落ちのびました」
と、言った。
果たして本当だろうか。
この間に伊勢の古市に住んでいた中村左膳という者が捕らえられた事件
がある。中村左膳は、古市の遊女を斬り殺したらしい。
尾張の浪人で、日本左右衛門一味ではない。
中村左膳と日本左右衛門は、ずっと以前からの知り合いであったので、
「古市の中村宅へ潜みおりましてござる。ところが、慣れぬ他国の下関
にいても落ち着きませず、ふたたび伊勢の古市に戻ってまいりましたが、
中村左膳が、お縄にかかってしまい、匿ってくれる者もなく…」
と、おおまかな経緯を語った。


影だけがどんどん伸びる逃亡者  赤松ますみ


ともかく日本座衛門は、曖昧で詳しいことは何も語らない。
長門の下関の何処にいたのかと訊かれても
「さて、忘れてしもうてござる」
悪びれもせず答える。
伊勢の古市にも居られず、それから京都へのぼり、この日まで何処かに、
潜伏したいたのだが、
「その場所は?」
との訊問に対して、
「橋の下、寺の境内、あるいは諸方の木立をえらび、潜みおりました」
「いずこの橋の下じゃ?」
「さて、京の町は不案内にて、ようわかりませぬ」
「野宿していた者が、どうして、真新しい黒紋付や麻裃を身につけるこ
 とができよう」
行く先々で、日本左右衛門を匿った者がいるにちがいないのだが、
しかし彼らは、おそらく一味の盗賊ではなかった者だろう。


信楽のタヌキの頃を引きずって  中野六助


自首してきたとき、日本座衛門は、懐中に十両の金を残していたという
から、<日本左右衛門のこれまでの逃亡を助けたのは、金の力と言って
よいのではないか>、その金も尽きかけ、このままでは傷が悪化し、
ついには命取りになることを悟り、
「どうせ死ぬなら」
こちらから名乗り出て、<日本左右衛門らしい悪の最後を遂げよう>
そう決意を固めたもの、と、奉行・長井丹波守は推し量り、
「こやつ、いかに締め付けようとも、この上の事は白状いたすまい」
と結論づけた。


もうろくという字を思い出している  黒田忠昭


最後に、日本左右衛門は、しみじみとした口調で
「それがしは天下未曾有の大盗とあって諸国へくまなくお手配にて
かくなってはもはや大綱と申すものと存じました。
わが腹を搔っ切ろうかとも考えましたなれど、
醜い死体を他人に見せるよりは、
自ら大綱にかかり恢恢疎にして漏らさぬとの金言を真のものといたしたく
かくは出頭つかまつってござる」
「…」

「それに…それにまた見附にて斬りはらわれたる太股の傷が、
かほどに悪くなろうとは思いませなんだ、盗賊と申すものは
お役人より何より、己の手傷・病に弱いものでござります」
 
 
団栗がコロンと落ちただけのこと  合田瑠美子



          打 ち 首


その後、日本左衛門は江戸の北町奉行所へ護送され、さらに吟味をうけ
たが、京都町奉行での吟味と同様の結果となった。
そこで、<いたしかたなし>ということになり、延享4年3月11日に、
獄門を申しわたされた。
当日、江戸市中を引き回しの上で、処刑されるのだが、何故か、火炙り
にも磔にもならず、引き回しののち、ふたたび、伝馬町の牢内へ戻され、
其処で首を打たれることになった。


自分史の最期は「ん」で締め括る  梶原邦夫
 

 
                             市中引き回し


処刑の当日、市中引き回しの馬へ乗せられたとき、上体を厳しく縛られ
日本左衛門が付き添っていた役人に、
「見附宿にて捕物の采配をお振りなされたお方の御名を、冥途の土産に
 聞かせていただきとうござる」
「火盗改方、徳山五兵衛殿じゃ」
「とくの、やま、ごへい、どの…」
すると、日本左衛門こと浜島庄兵衛は、
「はて…?」
何やら、しきりに首を傾げているので、役人が
「何とした?」
「いや…その御名を、ずっと以前に耳にいたしたような…」
「何を申す。そのほうどもの関わり知らぬお方じゃ」
「はい……はい……」
処刑の日の日本左衛門は、いかにも神妙であった。


悔いのないきれいな灰になるつもり  津田照子


五兵衛から受けた太股の傷も、医薬の手当てによって、どうにか軽快と
なり、顔色もよく、いくらかは躰も肥えたようである。
「あれが、日本左衛門だ」
「ざまを見ろ」
「あんな悪党は、滅多にいないということだ」
「押込み先で、女を手篭めにするなぞは、まったくもって、犬畜生にも
 劣る奴だ。石を投げてやれ」
「投げろ、投げろ!!」
群衆が引き廻される日本左衛門に石を投げつける。
この大盗の罪状を書き記した紙幟と捨札を先頭にかかげ、槍・捕物道具
を手にした40人ほどの警護がついているけれども、石を投げる群衆に
は知らぬ振りをしている。縄つきのまま馬上にいる日本左衛門の顔は、
血だらけになったという。


かくしてシラタキは白髪ネギに負けたんだ 山口ろっぱ
 
 
徳山五兵衛秀栄の名は、日本左衛門の処刑と同時に江戸市中へ広まった。
見附宿の捕物の鮮やかな手際もさることながら、みずから強力の日本左
衛門とわたりあい、
「生け捕りにしようというので、何とわざわざ、日本左衛門の太股を斬
 ったというのだから大したものだ」
「その場では逃げられたものの、結局、徳山殿より傷のために自首をし
 て出たと申すのだから、生け捕りにいたしたも同然じゃ」
「いずれにせよ、見事な働きではないか」
「年少の頃には、かの堀内源左衛門より薫陶を受け、赤穂浪士の堀部安
 兵衛とも同門であったそうな」
「ほう……さようでござるか。なるほど、なるほど」
などと幕臣の間でも、えらく評判になった。


喝采を遠くで聞いたとろろそば  柴辻疎星
 

 
                                  盗 賊 追 捕 の 図


大御所・吉宗からは、別に何の沙汰もなかったが、老中、掘った相模守
を通じて、<遠路を苦労であった>との言葉が、五兵衛の耳へもたらさ
れた。吉宗はこの年、64歳になっていたし、やや健康を害しているら
しい。
徳山五兵衛の火付盗賊改方就任は、日本左衛門逮捕のためであったが、
あまりにも評判が高くなったためか、幕府は五兵衛を解任しなかった。
五兵衛は、
「まだ、このお役目を務めねばならぬのか…」
幾分、うんざりしたものだったが、江戸市中での盗賊追捕をやりはじめ
てみると、次第に気が乗ってきて、立てつづけにそれと知られた盗賊の
首領を2人も捕えた。


雑巾になるまで使い切る命  笠嶋恵美子


となると、解任の望みはいよいよ遠くなる。
「60の声を聞こうというのに、このような忙しい思いをせねばならぬ
とは…」
五兵衛は毎日のように、小沼治作へ零した。
それならば、何も一生懸命にお役目を務めなくても、怠けていればよさ
そうなものだが、兇悪な賊どもが1人でも消え、絶えるならば、それだ
け江戸市民の難儀が減ることなのだから、遣り甲斐がなくもない、とい
う考えに落ち着いてしまう。


真っ直ぐに生きて付録の中にいる  吉川幸子


火付盗賊改方の長官として、徳山五兵衛秀栄な名は、江戸府内において
<だれ知らぬものはない>、ことになった。盗賊どもも恐れをなしたか、
一時は、江戸府内に盗賊の跳梁が絶えた。
そういうこともあり、寛延2年(1749)の秋になって、
五兵衛は盗賊改方を解任になった。後任は別になかった。
「やれやれ」
五兵衛は60歳になった。小沼治作は70歳である。
しかし小沼は、いよいよ元気で、
「このようなことを申し上げては、如何かと存じますが、近ごろ私は、
 このまま、もう死ぬことはないのではないかと、そのような気がいた
すこともござります」
などと言い出したりして、五兵衛を呆れさせた。


一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


ところが、
2年後の寛延4年の正月、ふたたび「火付盗賊改方」を仰せつけられる。
幕府がまたも徳山五兵衛を必要としたのは、諸方盗賊どもの跳梁がはじ
まり、ことに相州から甲州にかけて、<尾張九右衛門>と名乗る盗賊が
現れたことによる。


走ることはない私の道だから  佐藤正昭

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奈落から聞こえる泳げたいやき君  森 茂俊



           享 元 絵 巻
尾張の徳川宗春の政策によって栄えていた名古屋の町。



 8代将軍・徳川吉宗

 かつては暴れん坊将軍と言われ、テレビでも大活躍した将軍・吉宗
寄る年波には勝てず、延享3年(1746)に、命にかかわる大病を患
っている。当時は中風と診断された、脳卒中である。右半身麻痺と言語
障害の後遺症が残った。
中風発症から4か月後、症状が落ち着き、床も上げた後のこと。吉宗は、
しきりに、何かをしゃべるのだが、側近は理解できない。しばらくして、
大御所は大好きな「鷹狩り」のことでは、と訊ねると「そのことじゃ」
と答えたという。<このことから、吉宗は自分の意思を言葉にすること
はできないが、側近の問いかけを理解して、反応することができるので、
典型的な運動性失語であったと診断>された。
 この病は、リハビリで改善されると聞いた吉宗は、リハビリに清心した。
御側御用取次であった小笠原政登によると、朝鮮通信使が来日した時に
は、小笠原の進言で江戸城に『だらだらばし』というスロープ・横木付
きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽
しんだという。その後も、小笠原と共に吉宗は、リハビリに励み、江戸
城の西の丸から本丸まで歩ける程まで回復したという。
そのころ徳山五兵衛は、日本左衛門一味捕縛に、東海道を上っていた。


老いぼれて肋骨歌を歌いだす  通利一辺


「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男-⑧
 


            見 附
見附の本来の意味は「見張り所」「警備」で江戸時代、東海道では、
形式的な入り口を設けた。


日本左衛門捕縛に同行する小沼治作が、戦況の報告のために、五兵衛の
一間に入ってきたときのことである。
「殿…」
小沼が生唾を飲みこみ、何かを言い躊躇っている。
「いかがした?」
「は…」
「何ぞ、異変でも起こったのか?」
「いえ、実は…ただいまこの本陣裏にて、召し捕りましたる賊どもの人
 体を、つぶさに見てまいりましたが…万右衛門宅にて捕えましたたる
 老婆のことのことにござりますが」
「その老婆が、何といたした?」
「向こうは、私めに気づかぬ様子でしたが、まさに…」
「まさに…?」
「誰とおもわれまするか?」
「わからぬな」
「お玉でござります」
「お玉……まことか?」
「紛れもございませぬ」


結末に咲いてる花はきっと赤  清水すみれ


正徳5年(1715)徳山五兵衛が初めて、本所見廻り方を拝命した年
の初夏のこと。26歳の五兵衛が網笠に表をか隠し、小沼治作を連れて
市中の見回りに出た折、両国橋の西詰で、佐和口忠蔵と共に歩んでいる
お玉を見かけたことがある。すぐに五兵衛は、小沼に二人の尾行を命じ
たのだが、その時の驚きを、今も忘れていない。
佐和口忠蔵と何やら親し気に語り合いつつ、村松町の方へ行くお玉の、
見違えるばかりに成熟した後姿を、五兵衛は脳裡に思い起こした。
お玉は、たしか五兵衛より二つ三つ年下であるから、今は、54,5に
なっているはずだ。


浮雲に繋がる時のコンセント  みつ木もも花


「お玉ですが、いかがなされます。これへ連れてまいりましょうや」
「……」
数舜、五兵衛は沈思したのち、
「まぁ待て。その前に、そのほうに申すことがある」
五兵衛が、小沼の耳元へ、日本左衛門の顔貌について語ると、
小沼は、<えっ!>と驚きも隠さず、白髪が興奮にふるえはじめた。
「これは、何としたことで」
「驚いたか?」
「驚かずにはおれません」
「いかに思う」
「これは、殿のお考え通り、まぎれもなく佐和口忠蔵の子でござ りましょう」
「…それで、今度はお玉のことじゃ」
「は…」
「日本左衛門は、佐和口とお玉との間に生まれたのではあるまいか」
「……」
「いまふと、そう思うたが…」
「ま、まさに…」


直撃を顎にくらった黒あざみ  河村啓子


それから徳山五兵衛は、かなり長い間を沈思していたが、
「やはり、わしは会うまい、会わぬほうがよい」
「心得ました」
「それで、な、」
「はい」
「お玉のみは、別に押し込めておくように、取り調べも致すなと、磯野
 源右衛門へ申しおいてくれい、なれどこのことは口外いたすなよ」
「畏まりました」
と、言い慌ただしく、小沼治作は、五兵衛の部屋を出て行った。


うしなった方からやってくる答え  徳永政二
 

         護 送 篭


捕えた者の取り調べは、江戸へ護送してから行われる。
まず、見附の万右衛門、赤池法印、菅田の平蔵、白輪の伝右衛門の4名
は、江戸へ送られ、残る7名は、駿府へ送りとなり、公儀の裁決によっ
て処刑をされることになる。
万右衛門宅にいた老婆は、奥庭の土蔵へ押し込められたままである。
「そっと、顔をお改めになさいましては?」
と、小沼はすすめたけれど、五兵衛は、
「いや、やめておこう。かくなってみれば、何事も、辻褄が合うように
 おもえる」
「なれど今もって、佐和口忠蔵やお玉の仕業が、尾を引いておりましょ
 うとは…」
「二人が生んだ子は、尾張家の御七里を勤めていたとか申す、浜島友右
 衛門とやらが、密かにもらい受け、我が子として育てたのであろうか… 
 そのように、思われてならぬ」
「さすれば、いまもって尾張家は、天下を騒がす企みを…?」
「いや、それはない。いまの尾張家は、ひたすら将軍家と公儀に、恭順
 いたしておる」


残したくない足跡がついてくる  下谷憲子


「日本左衛門は、実の父親が、佐和口忠蔵であることを知っておりまし
 ょうか」
「知っていよう」
五兵衛の答えに、ためらいはなかった。
「見せたかったぞ、小沼。わしに立ち向かってきたときの日本左衛門を
 、な」
「さほどに」
「強い。やはり、佐和口の血を引いておるのであろう」
5日後、4名の賊を護送する徳山五兵衛一行は、見付の本陣を出発し、
東海道を下って行った。


一日の終わりに思い出す名前  中野六助
 


    日本左衛門手配書

  人相書之事 十右衛門事   浜嶋庄兵衛
 一 せひ五尺八九寸程 小袖鯨さし 三尺九寸程
 一 歳弐拾九歳 見掛三拾壱弐歳ニ相見候
 一 月額濃引疵壱寸五分程
 一 色白歯並常之通    一 鼻筋通り
一 目中細ク    一 皃おも長なる方
 一 ゑり右之方江常かたき籠在候
 一 ひん中ひん 中少しそり元ゆひ十ヲ程まき
一 逃去り候節着用之品
    こはくひんろうしわた入小袖
    但紋所丸之内橘
    下ニ単物萌黄袖紋所同断
    同白郡内ちばん
 

お玉については、見附・袋井の両本陣の主へ
「かの老婆は、盗賊どもとさして関わりないと判明したゆえ、我らがこ
 こを発して、3日後に追い放つがよい」
徳山五兵衛は、そのように言い渡し、
「何やら、哀れにもおもえる、これを渡してやれ」
金包みを、田代八郎左衛門へ委ねた。
こうして日本左衛門一味の捕物は終わった。
取り逃がした日本左衛門については、幕府が全国に人相書きをまわし、
手配を行っている。
「今度、何処かで悪事を働けば。一も二もなく足がつき、捕えられてし
まうだろうよ」
と、五兵衛は小沼に言った。


生きるとは許す訓練かもしれぬ  杉山太郎


徳山五兵衛は、日本座衛門一味の盗賊どもを護送する途次、小田原藩の
牢獄へあずけておいた寅吉爺佐藤浪人を引き取り、これを密かに釈放
してしまった。与力・磯野源右衛門小沼治作が、護送の一行が江戸へ
去るのを見送ったのち、小田原の本陣へ残り、寅吉と佐藤浪人の始末を
行った。小田原藩へは、
「かの両名には罪なきことが判明いたしたので、解き放ち申す」
と、徳山五兵衛秀栄の名をもって申し入れ、2人の身柄を引き取ったの
である。磯野と小沼は、2人を酒匂川の茶店まで連行しここで釈放した。
磯野源右衛門は、
「こたびの事を、よくよく思い極め、これより先は、少しでも世のため
 になるように働けよ」
と、言った。
寅吉は、磯野と小沼が茶店を離れるまで<この場で、首でも打ち落とされ
るのではないか…>と思っていたようだ。


許そうと決める大きな深呼吸  秋田あかり


護送の一行へ追いつくために、足を速めながら、磯野源右衛門小沼に、
「両人とも、狐に化かされたような顔つきであった」
「まったく、そのようでありました」
「のう、小沼殿」
「はい?」
「このことを、何と思われるな?」
「寅吉と浪人を解き放ったことでござあるか?」
「いかにも、あの両人は、日本左衛門一味に関わる者どもに違いない。
 それを解き放つというのは…どうしても分からぬ」
「殿のやることは、時に分からぬことが、しばしばございますからな」
あらかたの事情を知る小沼だが、こうとしか答えようがない。


いつ呼吸しているのやらよくしゃべる  青木敏子


「なれど、殿には殿に、深い御存念があってのことでありましょう。
 これが町奉行所などとはちがい、盗賊改方のお頭としての、
 臨機応変のなされ方なのではござるまいか」
と、小沼が付け足した言葉に、磯野源右衛門
「さ、その臨機応変が、よく分からぬのだが……」
「人の世の事は、分からぬことばかりでありますな」
磯野は、合点のいかない首を振りながらも<お頭のなされたことだ、
よも、間違いはあるまい>と、思い込むことにきめた。


たらればは言わないことに決めました  安達悠紀子



         お 裁 き


日本左衛門一味の取り調べと処刑が、すべて終わったのは、
この年の12月下旬のことであった。
だが、日本左衛門は捕まってはいない。
徳山五兵衛は、老中・堀田相模守へ委細を報告し、
「首魁の日本左衛門を取り逃がしましたること、申し訳のしようもござ
 いませぬ」
と、詫びた。
しかし、病の癒えた大御所・吉宗は、堀田老中から事情を聞き取り、
「ようも、してのけたものよ、さすがに徳山じゃ」
 「大御所は、至極、満足しておられたご様子であった」と堀田老中は
五兵衛に伝えた。
そして、この年も暮れ、延享4年(1747)の年が明けた。
その正月7日。何と、日本左衛門こと浜島庄兵衛が、京都の町奉行所へ
自首してきたのである。


エンマ様のお裁きを待つあばら骨  大野たけお

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ご同輩あなたも工事中ですか     髙瀬霜石



「東海道五十三次 ・藤枝宿問屋場」(安藤広重)

問屋場の建物の中で座し、事務をとる問屋役。狼藉者が登ってこれない
ように、床は人の肩ほどに高くしてある。そして、馬の背から荷をおろ
す者,荷物を重そうに担ぐ者,汗をふく者など,労働人夫の世態を細か
く描写されている。

【問屋場】 慶長6年(1601)、徳川家康は東海道に宿(駅)を置
き、人や荷物を運ぶために馬を配置(伝馬制)し、その事務を取り扱う
場所を、「問屋場」といった。ここには責任者である「問屋」その補佐
をする「年寄」「記録係の帳付」「人足や馬の手配」をする「馬差」
どが詰めた。主に仕事は、荷物の目方を計り,賃銭をきめ,人馬の継立
てや、貨物運送の斡旋をした。また、この貨物を担うために、馬や力の
ある人足を抱え,役人がこれを統率した。継立=次立→53次の語源


よいしょって外人何て言うのやろ  磯島福貴子



7 平塚  8 大磯   9 小田原  10 箱根  11 三島  12 沼津 13 原 14 吉原
15  蒲原  16  由井 17  興津  18   江尻 19   府中  20   鞠子  21 岡部 
22  藤枝  23  嶋田  24  金谷  25  日坂  26  掛川  27  袋井  28  見附 
 

 
「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑦


三ヶ野村の金兵衛は、何を白状におよんだのか…。
それは徳山五兵衛にとっても、思いがけぬことであった。
五兵衛は、見付宿の手前の袋井宿本陣に拠点を定め、日本左衛門一味の
情報を集めた。一味の金兵衛という男を捕らえ尋問し、越後の浪人くず
れの盗賊で今弁慶と呼ばれる大男、坊主くずれの赤池法印養益、菅田の
平蔵、白輪の伝右衛門など一味の盗賊二十名ほどが、万右衛門宅へあつ
まるということを知った。


天上も天下も悪い奴がいる  新家完司


日本左衛門逮捕の一行は、袋井の本陣の裏手から出て行った。
それより少し前に五兵衛は、「人足20名ばかり出してほしい」と問屋
田代八郎左衛門に依頼している。問屋場へ集まったその人足20名を
田代八郎左衛門と与力・岩瀬半兵衛池田、小池の2同心を従えて、別
の道を北へ進む。一旦は、袋井の宿場を北へ離れておいてから、道を西
へ取り、人足一行は太田川のほとりで待機した。
問屋場は、宿場の公設機関であった、大名行列の宿泊や人馬の発給、公
用書状の輸送、助郷人夫の取り扱いなど、宿駅の事務を管理する所だ。
田代八郎左衛門は、問屋場の年寄役を務めている。八郎左衛門によれば、
集めた20名の人足たちは賃金が多いので、大喜びをしているという。
労働の内容は「お上の御用」としか聞いていない。


空白の脳にさせない好奇心  宮原せつ


やがて、五兵衛一行があらわれ、五兵衛から
「今夜、皆に手伝ってもらうのは、見付の万右衛門を捕えることじゃ」
と聞いて、人足たちは、顔を見合わせ、驚きあわてた。
その不安気な人足たちの顔を見て五兵衛は、
「安心をせよ、お前たちが傷ついたりするようなことにはならぬ。
 皆にしてもらわねばならないことは、いざ打ち込みとなったとき、
 万右衛門宅を高張提灯の灯りで照らしてもらうこと、夜の闇の中での
 捕物ゆえ、照明がなくては、どうにもならぬ。一味の無頼どもを一人
 残らずひっ捕らえるためにもな」
さらに
「万右衛門は、見付のみならず、駿河から江戸まで手をのばし、若い娘
 たちを騙したり、勾引(かどわかし)たりして、これを諸方の娼家へ
 売りわたしていることが、判明したので、御公儀もすててはおかれず、
 われらを差し向けたのじゃ」
五兵衛の説明に人足たちは納得した。


ネジ山がすれて減ってもネジはネジ  小谷雪子
 


                     見附宿
 
見附宿の高札場の先の小道を右に入り、4,5丁も行くと人家も絶えて
しまう。万右衛門宅は、小道から右へ切れ込んだ奥にあった。
三井同心の報告で小屋に20名ほどの者が入ったという。
背後は竹藪で道もないので、人が入り込むこともない。
そこで、盗賊どもが出した見張りの男は。表口にいたのである。
そこは母屋の前庭で、左手に物置小屋があり、見張りの男は、その小屋
の戸を開けっ放しにして縁台に腰をかけ、股の間に小さな火鉢を置き、
煙草を吸っている。
<なるほど、此処からなら前庭も母屋もすっかり見わたすことができる
というものだ> 母屋の雨戸は締め切ってあるが、その隙間からわずか
に灯りが洩れていた。母屋からは笑い声も聞こえていたし、見張りの男
もさほどに神経をつかっている様子もない。


障子の穴から催眠術をかける  井上一筒


そのとき、物置小屋の外に人の気配がしたようなので、見張りの男は煙
管を煙草盆へ置き、
「だれだ、粂か?」
腰をあげて訊いた。見張りの交替が来たと思ったらしい。
外の男が低い声で何やら言った。
「何だ…、おい…」
見張りの男が戸口から外へ出た。出た途端に頚筋をしたたかに撃たれ、
前のめりになった男の口を、素早く押えて、物置小屋へ引き擦り込んだ
のは、三井同心であった。


間違いもなくカラスに遊ばれた  山口ろっぱ
 


           裁着袴 (たっつきばかま)

 
密偵の源六は、戸口に屈み込み、母屋の様子を窺っている。
「源六、大丈夫か?」
と、三井。
「へい、だれも気付いていませぬよ」
「よし、お知らせしてこい」
「合点です」
源六は音もなく走り去った。
三井は、気絶した見張りの男の口へ猿轡をかませ、用意の細引き縄で手
足を縛った。闇の中を二人、三人と盗賊改方の一行が前庭へあらわれた。
徳山五兵衛を含めて十一名である。
五兵衛は、自分と共に中へ打ち込む者として、磯野源右衛門、小沼治作、
柴田平太郎、辻駒四郎、山口佐七
の五名を選んだ。
腕に覚えのある男たちばかりである。
残る五名のうち、二名が裏手へまわり、三井同心を含めた三名が前庭に
待ち構えた。


波打ち際に朱いポストが立っている   嶺岸柳舟



              打裂羽織 (ぶっさきはおり)
 
 
「では、そろそろ、はじめようか」
五兵衛は、そういって打裂羽織(ぶっさきはおり)を脱いで密偵の源六
へわたし、袂から出した革紐を襷にかけた。
与力・同心たちは、いずれも裁着袴(たっつけばかま)をつけて足拵え
も厳重に、鉢巻をしめている。
「それ!」手で五兵衛が合図をすると、掛矢をつかんだ二人の密偵が、
足音をしのばせ、母屋へ近寄っていく。
雨戸を掛矢で叩き破って、打ち込もうというのだ。
五兵衛が樫の棍棒をつかみなおし、<よし>と合図すると、密偵たちが
掛矢を揮って、戸を叩き破った。五兵衛は、真っ先に中へ躍り込んだ。
博打はもう終わっていたらしく、屈強の男どもが酒を酌み交わしていた。


眼の前の大きい背なが盾である  赤星陽子


                               掛矢(大型の木槌)


いきなり五兵衛は棍棒を揮い、2人の男を倒した。57歳とは思えぬ身
のこなしで、また一人を打ち据えたかと思うと、
「日本左衛門 神妙にいたせ!」
天井が敗れ落ちるかと思うほどの大声を発した。
67歳の小沼治作は、裏手から逃げようとする盗賊どもの側面から打っ
てかかった。柴田平太郎も負けていない。勇ましい気合声をあげて賊ど
もと斬り合っている。
盗賊改方の奇襲に、賊どもは、度肝を抜かれあたふたするばかりだ。
前庭へ逃げた奴どもは、待ち構えていた与力・同心の峰打ちをくらって
気絶をしたり、膝のあたりを切り割られ、のた打ち回っている。


戦いも避けて通れぬ時がある  広瀬勝博


五兵衛は、乱闘の渦の中を抜けて、奥の間へ踏み込んだ。
日本左衛門と見えた男が、奥の間の闇の中へ逃げ込んだからである。
その闇の中から賊が一人、走り出て、五兵衛へ脇差を叩きつけてきた。
わずかに退った五兵衛が、すくい上げるように賊の右腕を撃った。
痛みを堪え、感心にも組み付いてきた賊の脳天を、五兵衛の棍棒が一撃
した。賊は昏倒してそのまま気絶した。
「日本左衛門、観念せよ」
五兵衛が、奥の間の闇へ声を投げた。
<たしかに、いる>
闇の底に、人が一人、凝っと五兵衛を見つめている。
乱闘は屋内から前庭へ移っていた。裏手へ逃げた者は一人もいない。
裏手の土間には、小沼治作が立ちふさがり、一人も通さなかったからで
ある。小沼は、土間の片隅に蹲っている老婆をみつけ、 
<逃げるなよ> 静かに声をかけた。
老婆は、虚脱したように、頭を両手に抱え、蹲(つくば)ったまま身じ
ろぎもしない。


負けないよ歌を忘れていないから  藤田めぐみ



     龕  灯 (がんとう)


五兵衛の方は、奥の間の曲者が潜む闇を睨みつづけている。
そして密偵に龕灯を持ってこさせ、灯りを奥の間へ照らさせた。
男が一人、立っている。
五兵衛は、<まさに日本左衛門と見た>。
堂々たる体格の、年齢は30前後というところか…。
身につけている衣装が、まるで芝居の舞台にでも現れるようなもので、
琥珀檳榔子(こはくびんろうじ)の小袖に橘の大紋をつけ、大脇差を
引っさげ、些かも臆せずに五兵衛を睨みつけている。
「日本左衛門じゃな」
五兵衛が声をかけた。
「いかにも」
悪びれもせずに、日本左衛門が答えた。
「もはや逃げ道はない。お縄にかかれ」
日本左衛門は声なく笑い、
「みごと、捕えるつもりならば捕えてみよ」
と、言い放った。
色白く、目の中細く、鼻すじ通り、と人相書にある通りの、立派な顔だ
ちである。龕灯の灯りを正面から受けて、怯む様子もない日本左衛門に、
ある男の顔が重なり合い、五兵衛は愕然となった。


誰もいない海でラジオが鳴っている  村山浩吉



   日本左衛門は色男


さすがの五兵衛も、息を呑んだ。
<こ、これは、生き写しとまでは言い切れないが、似ている>
若きころの佐和口忠蔵が、いま、徳山五兵衛の眼前に立っている。
<そうか…日本左衛門は佐和口忠蔵の子であったのか>
日本左衛門は、この一瞬の隙を見逃さなかった。
大脇差を五兵衛の足へ斬りつけてきたのだ。
五兵衛は身を捻り、辛うじて身を躱したが、袴の裾を切り裂かれた。
それから今度は、密偵の顔を切り払った。
絶叫をあげて転倒する密偵の手から、龕灯が落ちた。


見つめすぎたのか石の眠り  阪本きりり  


すかさず日本左衛門は、逃げにかかった。
前庭では、与力や同心たちがまだ盗賊たちと闘っている。
その斬り合いの渦の中を潜り抜けた日本左衛門が、裏手へ回りかけるの
へ、同心・堀口十次郎が横合いから走りかかって組み付いた。
堀口は、たちまち振り放され、日本左衛門の一太刀を肩口に受けてよろ
めいた。そこへ、五兵衛が追いついた。
日本左衛門は、斜めに飛んで裏手へまわり込み、五兵衛が打ち込む棍棒
を大脇差で切り払った。
五兵衛の棍棒が二つに切断され、日本左衛門は、竹藪の中へ躍り込もう
としている。
棍棒を捨てた五兵衛が走り寄りざま、腰を捻って抜き打った。
<もはや、にげられまい> 抜き打った一刀の手ごたえは、
確かなものであった。


ハライソに行ってもやはり風呂掃除  宮井いずみ


深い竹藪の背後は崖であり、その崖の上には、同心二名が待機している。
太股を切り割られた日本左衛門が、崖をよじ登ることなど出来るはずが
ない。すでに、この家を遠巻きにしている20名の人足たちは、高張提
灯に火を入れ、これを一斉に立ち並べ、蟻一匹も逃がすまいとしている。
これでは竹藪から逃げ出たところで。発見されないはずがない。
ところが、同心たちや密偵が竹藪の中を隈なく探し、さらに、竹藪から
外部への見張りも、ぬかりなく行ったにも拘わらず、怪盗の姿を見出す
ことはできなかった。
ついに、日本左衛門を捕えることは出来なかったのである。


雑音を拾ってしまう四分音符  津田照子


他の盗賊たちは、赤池法印、菅田の平蔵など大半は捕えられた。
見付の宿では、無頼者の万右衛門と件の老婆も盗賊一味として、捕らえ
られたというので、大騒ぎになった。
盗賊改方の方は、同心の堀口十次郎が、日本左衛門の一刀を受けて、
肩口に傷を負ったほか、密偵の源六が、これも日本左衛門に顔を切り割
られて死んだ。死傷者はこれだけであった。
あとはみな軽傷も受けていなかった。
さすがに選び抜かれた者たちだったといえる。が、日本左衛門に五兵衛
が立ち向かわなったら、さらに死傷者が出ていたかもしれない。


爆発のための言い訳考える  清水すみれ  


五兵衛が、本陣の奥の一間で、事後の策を考えているところへ、
小沼治作が、「殿」と、何ともいえぬ顔つきで入ってきた。
「おお小沼、捕えた盗賊どもの見張りに抜かりはあるまいな」
「それは、大丈夫にござります」
「ご苦労であった。つかれたであろう。しばらくは、休め」
と言って、小沼を見た五兵衛が、書きかけの筆を止めて、
「どうした?」
不審気に問いかけた。
それは驚愕のあまりに<言葉も出ぬ>といったような、それも徒の驚きで
はなく、主人の五兵衛と共通に分かち合える、意外な事実を、
どのように説明したらと、思い迷っているかのようであった。


唇が乾いて愛が語れない  阪本こみち

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人間味少し甘くてしょっぱくて  津田照子
 


     中山道・69次木曽街道 (渓斎英泉画)

 
宿場は、街道の拠点となった所。宿駅ともいい、「駅」の語源でもある。
宿場は、家康入府に伴い「宿駅伝馬制度」が定められ、街道が整備され
るとともに発展した。東海道では慶長6年(1601)に品川から大津
まで53駅(東海道五十三次)を順次整備し、寛文元年に(1624)
45番目の宿場である、庄野宿が出来て53駅が出揃った。
因みに、中山道には69次がある。そのため宿場では、公用人馬継ぎ立
てのため、定められた人馬を常備し、不足のときには、助郷(労働課役)
を徴するようになった。


     
       問 屋 場                                               
 
 
  また、公武の宿泊、休憩のため問屋場、本陣、脇本陣などが置かれた。
これらの公用のための労役、業務については、利益を上げるのは難しか
ったが、幕府は地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典
を与えることで、宿場の保護育成に努めた。他に一般旅行者を対象とす
旅籠、木賃宿、茶屋、商店等が建ち並び、その宿泊、通行、荷物輸送
等で利益を上げた。また、高札場も主要な駅に設けられた。


ト書きから転げ落ちたら生まれたわ  河村啓子


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー⑥



        三 島 宿

三島宿は、東海道五十三次11番目の宿場。この三島宿は南へ下田街道
、北へ佐野街道(甲州道)が分かれる交通の分岐であり、また、箱根の
山越に1日かかるため、足休めとして多くの旅人が泊まり、旅館数も多
く賑わった。


三島宿・酒匂川の茶店でお縄にした越後浪人・佐藤忠右衛門の懐中から
出て来た紙片には、「遠州まいかの村、金兵衛」とある。紙片を指し示
しながら徳山五兵衛は、
「日本左衛門一味の連絡(つなぎ)の場所、盗賊仲間でいう盗人宿であ
 ろう。いかが思うな磯野」
与力・磯野源右衛門に質した。
「はい、さように思われまする」
「先ず、これから手をつけねば相なるまい」
「では、私めがこれより、すぐさま出立いたしまして…」
「いや、急くことはない。明朝でよい。遠州みかの村とあるのは、見附
 宿の半里ほど手前にある三カ野村にちがいない。
 そこで金兵衛といえば、だれもが知っていよう。どうだ磯野」
「いかにも」
 といい、この説に磯野源右衛門は頷いた。


気散じな椅子に座っている明日  桑原伸吉


三島から見附迄は、約25里。徳山五兵衛は、二日で進むつもりだ。
「苦労をかけるが磯野、明朝は、馬を仕立てて発足してもらいたい」
「心得まいた」
磯野源右衛門が早朝に三島を発し、馬を替えつつ疾走していけば、明日
の夜には見附へ到着できる。だが、盗賊改方の本拠は、見附より1里半
手前の袋井宿へ置くことになっている。気取られぬためであった。
一方、強行軍の旅に疲れてか、眠りこける柴田用人の倅平太郎をそのま
まに寝かせておいて、夜も明け切っていない刻限、五兵衛と小沼治作は、
江尻をあとに足を速め、府中・丸子・岡部と過ぎ、袋井宿へ向かっていた。


K点を少し手前に置いてある  池田貴佐夫


「今日もよい日和でございますな」
「なによりじゃ」
「なれどこのように早く、手がかりを得ようとはおもいもしませなんだ」
「わしが若いころの放埓も、あながち無駄ではなかったわ」
「なれど、あの頃の殿には、つくづくと手を焼きましてございます」
「わしを諫めんとして、腹へ刀を突き立てたのう」
「そのことは、もはや…」
「いや忘れるものではない。かたじけなく思うている」
「またしても、何を仰せられますことやら…」
「小沼がいてくれなかったら、いまの徳山五兵衛もいなかったであろう」
 徳山五兵衛は、しみじみと言った。小沼治作の声が絶えた。
五兵衛と小沼は途中で馬を使いもしたが、夜更けになってから、袋井宿
の本陣・田代八郎左衛門方へ到着した。


風を切る肩に一片のはなびら  下谷憲子



   旅籠  
(夕餉を食する者、湯につかる者がみえる)

一般旅行者用の食事付き宿泊施設。江戸時代になって,諸国産物の流通,
公用,商用などの交通量の増大に対応したもので,食事や沐浴が可能に
なり,現在の旅館にみる1泊2食付き料金も,元禄時代から始った。


東海道・袋井は、江戸から59里12町。京都へは66里9町のところ
にあり、掛川と見附の大駅の間にはさまれ、小さな宿場である。宿場へ
入る手前に川が流れており、宇天橋という橋がかけられている。この川
を宇刈川といい、宿場の東側から北面をまわって西へ流れている。
すでに到着していた盗賊改方の一行は、分散して袋井宿の旅籠に泊って
いたが、その中で同心・辻駒四郎と4名の密偵たちは、1里半先の見付
宿へはいり込み、岡田屋という旅籠に泊っている。密偵のうちの2人は、
浮浪の徒に変装し、岡田屋へは姿を見せない。辻駒四郎と2人の密偵は、
備前岡山藩士の家来と奉公人という触れ込みで、<江戸より西上する主
人を待っている> 態で岡田屋に滞在している。


点と点気ままに繋ぐ今日と明日  大西將文
 
 

      見 附 宿

日本左衛門一味が、このあたりに蠢動していることは、すでに見込みが
ついているが、これまで、新五郎以下4人の密偵が、宿場の内外を探っ
てみたけれど、手がかりはまったくなかった。見附宿の家数は約850、
本陣も2軒あり、脇本陣もあって、旅籠は42軒、住民も多く種々雑多
な旅人の出入りもはげしいので、監視の目になかなか入りにくいのだ。


夢ばかり走り膝頭が笑う  松本あや子 


ところが昨日の夜半、馬を駆って袋井の本陣へ到着した与力・磯野源右
衛門によって、三ヶ野村の金兵衛なる者が浮かびあがった。
「それで金兵衛は、三ヶ野村に、今も住み暮らしておるのか?」
袋井宿の本陣に旅装を解いた五兵衛の問いに、
「まさに、住み暮らしておりまする」
与力の岩瀬半兵衛がこたえた。
「して金兵衛とは何者じゃ」
「百姓にございますが、女房ともども、まったく田畑へは、出ておらぬ
 ようでございます」
金兵衛は、見付や掛川、ときには府中などを回り歩き、博打を打ったり、
娼家へ女を世話したり、品物の仲買いをしたりしているらしい、と近辺
から聞き込んだものだ。


朗報に思わず声が裏返る  清水久美子


 
                            木 賃 宿


三ヶ野村の金兵衛宅の見張りは、与力・岩瀬半兵衛が指揮し、辻駒四郎
山口佐七の2同心と、密偵の新五郎・由蔵が受けもっていた。
金兵衛宅へ男女の2人が入ったのを、知らせに駆けつけたのは、新五郎
であった。2人とも旅姿ではなく、ぶらりと近辺へ出かけていたような
風体だという。男は40前後の、小太りの体つきだが、みるからに敏捷
な足の運びで、油断ならない奴と見た感じのままを五兵衛へ報告をした。
「いかがなされます?」
「うむ…」
しばらく沈思して五兵衛は、
「よし、夫婦ともひっ捕らえよ。誰にも気づかれぬようにな。引っ立て
たら、こちら本陣の土蔵に放り込んでおけ。主の八郎左衛門殿には、話
を通しておく」
と言った。


さりげなくという形を取っている  谷口 義
 


          袋 井 宿

 
金兵衛夫婦を捕え木箱に入れ、盗賊改方が袋井本陣へ引き上げてくると、
「それでよい。余人に見られてはいまいな?」
徳山五兵衛が、磯野源右衛門へ念を入れた。
「幸い雨も降っておりましたから、誰の目にも留まってはおりませぬ」
「よし。では、金兵衛夫婦を、別にして、押し込めておくがよい」
と、五兵衛は、言い。さらに本陣の主・八郎左衛門に本陣の人々の暫時
の外出を禁じた。そして金兵衛は、土蔵へ、女房おろくは、物置小屋へ
監禁し見張りをつけた。


童謡で唄う程度の雨が良い ふじのひろし
  
 
 
                               茶 店 風 景

  
酒匂川の茶店で捕まえた老爺の寅吉佐藤浪人は、小田原藩の町奉行所
が預かってくれている。この間に、与力の磯野源右衛門岩瀬半兵衛が、
土蔵の金兵衛を取調べ、与力の中島三郎右衛門が女房を訊問しはじめた。
夜に入って雨はいよいよ激しくなってきた。五兵衛は、本陣の戸締りを
厳重にさせ、内部にも見張りを置いた。
五ツ頃(午後8時)先ず、中島与力と辻同心が五兵衛の部屋へあらわれ、
「なかなか強情な女にございます」
「さもあろう」
「緩やかに調べよと仰せゆえ、だましだまし、吐かせようといたしまし
 たが、なかなか…。そこでいささか痛めましたところ…亭主の金兵衛
 は、掛川宿の古手呉服を商う孫市という申す者を訪ねるため、三ヶ野
 村の家を出たということにございます」
「ほう…」
「その他のことは、知らぬ存ぜぬの一点張りで…」
「よし、よし」
「いかがいたしましょうか?」
「山口佐七をこれへ」
そこで五兵衛は、山口佐七ほか2名の同心へ、密偵の源六をつけ、古手
呉服・孫市の見張りを命じた。


背は縮む耳は騒ぐし眼はかすむ  宮井元伸


山口以下4名が、本陣を出ていってから間もなく、金兵衛を取り調べて
いた磯野源右衛門があらわれ、
「まことにもって、しぶとい奴にござります」
「吐かぬか」
「緩やかにせよとのお言葉ではございましたが、少々痛めつけました。
 なれど吐きませぬ」
「では、わしが調べてみようか」
「おんみずから…」
「何か…心張棒のようなものを借りてまいれ」
「はっ」
五兵衛は、側にいた小沼治作
「どうじゃ、来てみぬか?」
「かまいませぬか?」
「よいとも」
五兵衛が小沼と磯野を従え、本陣奥庭の土蔵へ入ると、
大分痛めつけられた形で、金兵衛は土蔵の柱にくくりつけられている。


多面体君の素顔が掴めない  小林すみえ
 


       江戸の拷問


徳山五兵衛磯野源右衛門から心張棒を受け取るのを見て、
金兵衛は、またまた無駄なことを>と、はっきりと嘲笑した。
金兵衛を見つめている五兵衛の眼の色は、冷ややかであった。
「こやつに猿轡をかませよ」
五兵衛が磯野に言った。
 源右衛門が布で金兵衛の口を塞いだ。
そうしておいて、尚も五兵衛は、正面から金兵衛の顔に見入っている。
金兵衛の眼の色が、やや変わってきた。
土蔵の中に、雨の音がこもっている。
磯野と岩瀬半兵衛が顔を見合わせ、小沼治作は、微笑を浮かべている。
それはかなり長い時間であった。
金兵衛の眼から、もはや嘲りの色が消えている。
そのかわり、微かな怯えの色が滲みでてきた。
冷然と五兵衛は、金兵衛を見つめつづけている。
ついに、金兵衛が眼を伏せてしまった。


凄いとはあまり思わせないキリン  橋倉久美子


徳山五兵衛の心張棒が、そろりと動いたのはそのときである。
磯野源右衛門と岩瀬半兵衛は、いよいよ、長官の拷問が始まると思った。
五兵衛が掴んだ心張棒は、唸りを生じて、金兵衛の躰へ撃ち込まれると
おもった。まさに、五兵衛は金兵衛を、痛めつけにかかったのである。
しかし、心張棒が激しく揮われたわけでなく、先端が、わずかに金兵衛
の躰のどこかに触れたような…としか、2人の与力には見えなかった。
また、五兵衛の右手がわずかに動く。
金兵衛の顔が、苦痛に歪んだ。


これは序の口ここからがすごいのよ  竹内ゆみこ


「打つ音も、突く音もせぬのだ。いかにも軽く、ちょいちょいとお突き
 なさる。あれは、よほどに躰の急所をご存じなのであろうか……?。
 ともかくも金兵衛の苦しみ様といったら、大変なものであった」
のちに2人の与力は、同心たちへ、そう語っている。
強く烈しく打ち据えられるときの人間の躰は、むろん、それ相応の苦痛
を受けるが、これが連続して行われると、しまいには、神経が鈍くなり、
痛みを感じなくなる。さらに強烈な打撃を加えると、気を失ってしまう。
五兵衛の棒先は、耐えがたい苦痛を与えても、金兵衛を失神させるよう
なことはない。だが、金兵衛の両眼は哀し気に曇り、精いっぱいの憐れ
みを乞うている。


形容詞はいらぬリンゴ丸かぶり  靏田寿子


それからの金兵衛は、もう、長くはもたなかった。
五兵衛が土蔵に入ってから半刻ばかり、ついに金兵衛は口を割り始めた。
それから五兵衛は、昂奮覚めやらぬ、磯野岩瀬
「本陣の内外の見張りに念を入れよ、見張りのほかの者を、すぐにわし
 の許へ集めよ」
と命を下し、部屋へもどり、近くに控える小沼治作を見て、
「見たか…」
「いや、恐れ入りましたございます。さすがに殿…」
「ほめるな。気味がわるいわえ」
「いや、まことにもって…」
「若いころの修行も、無駄ではなかったようじゃな」
「それはもう、申すまでもございません」
「それにしても、しぶとい奴であった」
「いかにも」
「いまどきの侍どもより、骨が太いわえ」
「なれど、思いのほかに早うございましたな」
「そのことよ そのことよ」
五兵衛は満足気に笑って、
「何と、明日の夜とは、な…」


重力が捻りの技にみとれてる  長坂眞行
 


            掛 川 宿


「こうなれば、掛川宿の古手呉服を営みおる孫市と申す奴、一時も早く
 召し捕ってしまわねばならぬな」
「私が、掛川へまいりましょうか」
「行ってくれるか」
「柴田平太郎殿を連れてまいりたいと存じます。いかが?」
「よいとも、平太郎めも少しは働かせておかねば、父の勝四郎へ土産話
 もできまい」
すでに掛川へは、山口佐七以下4名が、見張りに先発している。
「では、行ってまいります」
小沼治作柴田平太郎は、すぐに本陣を出て行った。
「召し捕った孫市などは、袋井へ連行せず、そのまま掛川の本陣・沢野
弥三左衛門かた土蔵へ<押し込めておけ」
と、五兵衛は小沼に言い含めておいた。
そのうちにも、与力・同心たちが五兵衛の部屋へ集まってきて、
五兵衛は、こう言った。
「みなの者、日本左衛門召し捕りは、明夜になろう」
いよいよ五兵衛は、大詰めの日本左衛門との直接対決にはいる。


今日の夢続きは明日見る予定  下林正夫

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