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川柳的逍遥 人の世の一家言
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真水を知らないままで育つ蓮の花  靏田寿子



                安宅の関所付近で遊ぶ子らを呼ぶ弁慶
 
 
「院宣は時代時代の旗の色」

変幻自在で狡猾な後白河
<この際、兄弟喧嘩をさせ相討ちで源氏を滅ぼそう>
という策略にはまり、「頼朝追討」の院宣を受けてしまったことに、
義経の零落が始まった。
頼朝は怒り心頭に達し、ただちに全国に義経殺害を発令。
「兄ちゃん俺にそんな心算はない」のに…言い訳も聞いてもらえず、
もとより兄と戦争などする気のなかった義経は、弁慶や家臣・静御前
らととともに逃亡生活に入った。


バーコード軽いジョークに乗せられる  美馬りゅうこ
 

 
薄墨の笛を吹く笛の名手義経 (葛飾北斎画)
 

「鎌倉殿の13人」 義経伝説
 
 
「義経ー10」 弁慶と勧進帳


逃避行の吉野山中で、女嫌いの弁慶は主の義経に、
「これから先の道中を考えると女の脚ではむりがあります。
 この辺りで、静さまと別れましょう」
切り出した。本音は、足手まといだと言うのである。
しばらく義経は躊躇ったが、
「弁慶の言うことがもっともで、危険も伴う」
と思い、それを静御前に告げると、
その美しい瞳から、止まることもない涙を零した。


つまらない顔をしないできれいだよ  市井美春


吉野で別れた静御前は、山を下る途中、義経から貰った財宝を、
家来たちに持ち逃げされ、途方に暮れているところを執行僧に捕えられ、
鎌倉の頼朝の前に送られた。
頼朝は、義経の居場所を厳しく尋問したが、答えようもなく、
元白拍子の彼女は、自ら舞いを願い出て、鎌倉・鶴岡八幡宮は頼朝の前
で、工藤祐経の鼓、畠山重忠の銅拍子に合わせ、
<吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき >
と、吉野山で別れた義経を恋い慕う歌を、堂々と歌い舞った。
吉野の白雪を踏み分けて山深くお入りになってしまった義経様が恋しい
~と、歌ったのである。


踊りますあなたとならば喜んで  前中一晃



 
鶴岡八幡宮ー頼朝の前で舞う静御前
 

静御前の舞いに、頼朝は不機嫌になった。
「関東の万歳を祝すべき祭典に当たって反逆の義経を慕い、
 その上別れの曲を謡うとは、 反抗的で奇怪千万なり!
 手討ちにいたす!」
と、激怒し、刀の柄に手をかけた。
頼朝の焼きもちに、火を焚きつけるようなことになってしまった。
 
源氏の繁栄を寿ぐ舞台は、一転、不穏な空気が漂った。
そこへ頼朝の隣に坐していた妻の政子
「女心が分からない、野暮な佐殿(すけどの)」
と、頼朝をなじり、憮然としてその場に腰をおろした。
そして続けて、
「私お気持ちは今の静御前と同じです。
 もし彼女が義経の長年の愛を忘れたように舞うならば、
 それは女の道に背く行いでしょう」
と、言って頼朝を諭した。


春はあけぼの光と遊ぶ花一輪  藤本鈴菜


政子の取りなしで、その場の騒然はおさまり、
頼朝も静の心情を解し静の舞いを賞でた。
 『吾妻鏡』には、静御前の舞いの場面について、
「誠にこれ社壇の壮観、梁塵もほとほと動きつべし」
(~梁の塵を動かすほどの見事な舞であった)
と絶賛している。
その後、静御前は、京で尼になったとも、奥州に逃れた義経を追い、
途中の武蔵の栗橋で病死したとも伝わる。


ピンからキリこの手の届くこの辺り  津田照子



見栄を切る弁慶と七つ道具 (葛飾北斎画)


「武蔵坊弁慶」 安宅の関


静御前に鎌倉でそんなことがあったころ。
陸奥国奥州平泉を目指す義経一行は、北陸路をたどり、
加賀国安宅関に近くまで来た。
離れたところから見ても、関所の厳しい警備に隙がない。
門前には、切り落とされた山伏の首が晒されている。
それには一行は驚愕した。
その近くで遊ぶ松葉かきの子どもたちのところへ来て、山伏姿の弁慶が
「この関は、山伏を通してくれるだろうか?」
と訊ねた。
「通してくれるよ」との子どもの答えに、
笑顔をみせ弁慶は、褒美に扇を与え、関所へと向かった。


撃たれないように進もうジグザグに  新家完司


一行が関所に入ると、鹿爪らしく坐す関所奉行の富樫泰家が、
一行の先導をする武蔵坊弁慶に、
「どこから来たのか?」
厳しい口調で訊いてくる。弁慶はすかさず
「加賀です」と、答えた。
「我々は、頼朝殿の命令で検問を強化している。
 少しでも怪し気ば者は、通してはならぬと厳命されておる」
と、脅すように言う。
「で…、その方らそこへ何をしに行くか」
「自分たちは東大寺再建のために、諸国を巡り勧進をしております」
と、弁慶が応えると、富樫は義経を睨んで、
「本物の山伏というなら、勧進帳を持っていよう。
 そこの若いの読んでみよ」
「勧進帳」は所持しているものの、中身は白紙で義経は読めない。
頭の中が真っ白になりオロオロしていると、機転を利かせた弁慶が
「お前が字を読めないから疑われる」
と言うと、巻物を広げると、白紙の勧進帳を朗々と読み上げた。


初蝶は何色と問う無人駅  前中知栄



     弁慶、主人義経を打つ (三代歌川豊国)


あまりに堂々と読み上げたので、富樫は納得して通行を許可した。
だが、一難去ってまた一難。
富樫は弁慶の迫力におされて通行を許したが、強力に変装した義経
真近に見て、違和感を抱いた関の従者が、奉行の富樫に進言してきた。
「一行は、もはやここまでか」
と、覚悟を決め、戦闘態勢に入ろうとしたとき
弁慶は、寸瞬、機転を利かして
「礼を失する態度をとったは、また、お前か!」
と叱って、義経を杖で打ちはじめた。
それを見た富樫は、流石に
「主人に手をあげるような家来はいるまい」
と弁慶たちに詫び、通行を許した。


わたくしの鬼門へたっぷりの万両  山本昌乃



      蒙古兵を迎えうつ北条宗時


「伝説」 チンギス・ハーン


「義経は奥州藤原氏に討たれたのではなくて、
 秋田や青森を通って、北海道まで行ったそうですね」
「いやそれどころか、大陸に渡って、ジンギスカンになったというじゃ
 ありませんか」
人の生死は、その場にいた人でなければ、確認できない。
もしかしたら、彼は生き延びたかもしれず、
秋田や青森さらに北海道に渡ったかもしれない。
渡らなかったという証拠がない以上、完全に否定することはできない。
これが「伝説」というものである。


取り急ぎウサギの耳に化けておく  くんじろう


だが、この伝説は全くの作り話だ。
たまたま生存時代が重なることと、源義経「ゲンギケイ」とよめば、
ジンギスカンに似てくることから、冗談好きの学者のこじつけである。
が、この珍説が面白いから、一時、話題を呼んだ。
この珍説をうんだ背景を考えてみると、
ちょうど日本が、大陸侵攻を試みる少し前に起こった。
鎌倉幕府8代執権・北条宗時の時代である。
いわゆる「蒙古襲来」である。
文永11年10月(1274)と弘安5年の5月(1281)の2度
来ている。


手の内をすこしあかして立ち向かう  佐藤正昭


義経が生きているとすれば、114歳になっている。
すなわち義経のジンギスカーン伝説はありえないこととなる。
が、強いてこじつけて考える学者がいるかも知れない。
ハーンが義経の息子か孫と考えると、ハーンの戦好きと執拗さを思うと、
「義経爺ちゃんの恨み、果たさでおかりょうか」
なのである。
神風に押し返されても、また攻めてきた執念をみても、そう思えてしまう。


夕日がきれいあなた戻ってこないけど  佐藤 瞳
 

 



 「義経ー合縁奇縁」 金売吉次
 
 
首途八幡神社、金売吉次(かねうりきちじ)の京都邸宅跡にある。
首途は、「かどで」と読む。
元服前の牛若丸と呼ばれていた義経が、
吉次とともに奥州へ旅立った場所である。

吉次は、鞍馬寺へ参詣のおりに牛若丸と出会った。
その時、黄金に繁栄する奥州平泉の話がでた。
義経が、平泉に興味を抱いたことは間違いないが
義経から、奥州へ行ってみたいと吉次が頼まれたのか。『平治物語』
吉次から、義経へ話を持ちかけたのか。『義経記』
やがて、2人は奥州へ旅立つことになった。
今は石畳になっているが、義経はこの道を本堂へ歩いたのだろう。
2人は旅の途中、下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会して、
平泉につくと吉次は、藤原秀衡を紹介し、義経は初対面を果した。


失った時を求めて旅に出る  菱木 誠


金売吉次とは、義経がまだ元服をしていない牛若丸時代、平泉の藤原秀
に引き合わせた人物であり、義経が奥州藤原氏を頼って平泉に下るの
を手助けした人物である。
そして、「奥州平泉藤原氏三代の栄華を担った」人物である。
吉次は「橘次」とも表記され、
『平治物語』では「奥州の金商人吉次」であり、
『平家物語』では、「三条の橘次と云し金商人」である。
『源平盛衰記』では、「五条の橘次末春と云金商人」となり、
『義経記』では、「三条の大福長者・吉次信高」として登場してくる。
いわゆる、実在の人物なのだ。


天秤に愛とお金をぶら下げる  山田恭正


 
      金売吉次を説明する金売神社


吉次は、自邸のあった「首途八幡神社」を起点として、
奥州から金やその他の貴重な物産を運び、逆に京都の物資を奥州に運ん
でいたー商人である。
当時、奥州藤原氏は、金や奥州の特産物・絹やアザラシの皮や馬などを
京に運び、逆に、仏像や教典、常滑焼きなどを、奥州に輸入することを
頻繁に行っていた。
そのためにも京都には、彼らが滞在する屋敷や厩、倉庫などが絶対に不
可欠であった。


B面に思いがけない人の味  五十嵐定幸


吉次の邸は、平安宮の背後に位置しており、外交的な面で地勢的にも、
まさに絶好の地であった。
藤原氏の京都拠点である平泉第(大使館)である。
そこへ人物を配置し、連日、京都の情報を探り、ある時には、朝廷や力
のある公家には、それ相応の進物などをしながら、奥州の平和維持の為
に、努力していたに違いない。
そうなると、深読みをして、吉次は、単なる金商人という人物ではなく、
平泉の外務省高官のような、役割を負っていた可能性も考えられるので
ある。


朧夜や吉次を泊めし椀の音  成美義家



  鬼の前で笛を吹く義経


「伝説」 無敵の巻物


義経が平泉で修行しているときのことである。
義経は「大日の法」という「巻物」の話を、藤原秀衡から聞いた。
「日本の国は思いのまま」になるという巻物である。
それは「千島」の喜見城の都にあるという。
島には、牛頭・馬頭・阿防羅刹・夜叉鬼などの鬼が住んでいるが、
義経は、巻物を手に入れるために島へ渡ることにした。
島へ渡り、笛の名手の義経が「名笛・薄墨」を吹き始めると、
鬼の大王が、大層に気に入り、意外にも義経は歓待された。
宴席を持ち、友好的な会話ができた。
そこで義経は「大日の法」の伝授を願った。
しかし大王は、「それについては ダメダメ」と、頑なになる。


信号がすべて赤だったとしても  蟹口和枝
 
 
大王には、あさひという美しい愛娘がいて、
義経はその娘のために「想夫恋」という曲を奏でてやった。
甘い笛の音に酔った姫は、「巻物を持ち出して欲しい」と、
義経に頼まれ、それをそっと持ち出し、渡すのだった。
そして義経は、三日三晩かけて「巻物」を書き写した。
移し終えると、巻物の文字は、消えてなくなってしまった。
娘は「これは不吉なことが…」と恐れ、
「このまま逃げてください」と、言った。
義経は、逃げた。
それを知った大王は、真っ赤になって怒り、義経を追撃するが、
巻物の力で、逃げ切ることが出来た。
しかし、娘は殺されてしまった。


キャベツ畑で育つ次の十年   山口ろっぱ


あとで知るところによれば、娘は江ノ島弁財天の化身で、正当な日本を
築く武者のために、大王に近づき、義経のような人が千島に渡ってくる
のを待っていたのだった。
ある夜、天女は義経の枕元に現れ、自分の死を告げた。
天女の死を知った義経は、丁重に菩提を弔った。
その後、義経は「大日の法」を自在に操り、平家を滅ぼし、
源氏の御代としたのだ、という。 


補助線を引いても謎は謎のまま  合田瑠美子



      義経の悲劇ー北国落ち絵巻


「司馬遼太郎 義経を〆めくくる」


義経の困った点は、というより「日本人の判官びいき」の困った問題は、
われわれ日本人が、頼朝の鎌倉政権が確立したおかげで、ちょっと
人間らしい生活を持つことができた、という点をみないことでず。

頼朝のやったことは、「日本市場革命」かもしれません。
頼朝こそ、律令社会の矛盾から当時の日本を救ってくれた革命の恩人
なんです。
このことを見ずに、その邪魔者であった義経にだけ同情の涙をそそぐ。
あれだけの武功をたてた義経が没落していく…。
これがどうにも悲しい…。
ここに日本人のメロディーが始まるわけで、
それではやはり困るんじゃないかと思うのです。


オニバスの上で思案中のカエル  荻野浩子

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不器用な男が不器用に消える  くんじろう



 「加賀国安宅新関武蔵坊弁慶勧進帳読吟欺冨樫趣陸奥之図」 歌川芳虎


「義経の失敗はこういうこと」

 義経は企業でいえば、海外における大きなプロジェクトを、
まかされた現地の総責任者なのだ。
現地に行ってみれば、思いがけないハプニングが起こる。
その場で処理しなければならない場合もあるだろう。
が、大事なことは、本社と相談、その指示を仰ぐべきである。
まして、そのプラントに対する支払いが行われた場合、
現地で山分けす
るなどはもってのほか…。
が、義経は、それに近いことをやってしまった。
反省も進歩もない。人を使うどころか、反逆者にもなる無知である。
頼朝にしてみれば、「こいつはダメだ」なのである。


「鎌倉殿の13人」 「義経破滅への逃避行」
 


      木曽街道69次上松 歌川国芳

何を見ているのか、義経家来・江田源三が「松の木に上って」
遠景をのぞんでいる。



「義経ー9」 義経終焉


「義経暗殺」

「平氏打倒」の悲願を胸に立ち上がった義経は、
天才的な戦術で数々の戦に勝利し、一躍、その名を天下に轟かせた。
しかし、ある日から、義経の運命は一変、兄・頼朝は義経の功績を認め
なかったばかりか、反逆者として追放され、逃亡者の身となっていく。

文治元年10月、京の都に戻った義経は、突如、襲撃を受けた。
頼朝が、「義経暗殺」のために差し向けた軍勢の仕業である。
「兄・頼朝のため、命も顧みず平氏と戦った自分が、なぜ、
 このような仕打ちを受けるのか」
度重なる屈辱に加え、命までも狙われるに至って、
義経はついに、兄・頼朝に反旗を翻す決意をかためた。


ぼうふらのくねくね容赦ない殺意  前中知栄
 

そこで義経は、朝廷に働きかけ「頼朝追討」の宣旨を入手した。
頼朝追討の大義名分を得た義経は、ともに平氏と戦った西国の
武将たちに決起を呼びかけた。
しかし、義経に応える者はなかった。
この時、頼朝は義経に従うなという命令を西国に発していた。
頼朝の力は、すでに朝廷の権威をも凌ぐほどになっていたのである。
さらに頼朝は、朝廷にも圧力をかけている。
すると朝廷は、今度は逆に、義経の官位を剥奪し、追討を命じる宣旨を
下したのである。


突然に角封筒という出会い  山本早苗


朝敵となり、追われる身となった義経は、わずかな家臣たちとともに
京を脱出し、山伏姿に身を変え、山中に身を潜めながら、
流浪する日々が始まったのである
そこにはかつての英雄の面影はなかった。
一行は、吉野山や比叡山に身を潜めたあと、北陸へと逃れたが、
頼朝の追及の手は全国に及び、義経たちを追い詰めていった。
<最早、逃げられる場所はただ一つ、藤原秀衡のいる奥州平泉…>
義経一行は一縷の望みを胸に、平泉をめざした。
しかし、義経が平泉に向ったことが、さらなる波乱を巻き起こした。
平氏を倒した頼朝の次なる狙いは、奥州藤原氏だった。
義経が奥州に入ったことは、頼朝の奥州攻略に格好の口実を与えること
になったのである。


下り坂雲見る余裕更になし  柴本ばっは


文治2年4月、藤原秀衡のもとに、頼朝から一通の手紙が届いた。
<奥州から朝廷に献納する金や馬などの貢ぎ物を、鎌倉を経由して届け
 るよう> 命じる書状である。
藤原氏にとって、貢ぎ物は朝廷との関係を保ち、奥州の自治を黙認させ
る命綱だった。
頼朝はそれを断つことで、朝廷と奥州藤原氏の結びつきを、弱めようと
したのである。さらに頼朝は、秀衡の領土である奥州にまで、実質的な
支配の手をのばしはじめていた。


無理数を並べて今日を引きずって  森田律子


同じ年の暮れ、義経一行は奥州に辿りついた。
しかし義経は、平泉の手前で足を止めた。
<もし今、秀衡殿が自分を受け入れれば、頼朝がだまってはいまい。
 となれば、奥州、そして恩ある秀衡殿を戦に巻き込む> 
ことになる。
義経はこのまま立ち去ることも覚悟で、秀衡に使者を送った。
義経到着の知らせに、秀衡も悩んだ。
頼朝の手は、確実に奥州に迫りつつあった。
しかし、奥州の繁栄をむざむざ頼朝に奪われることは、
藤原氏にとって耐えがたい屈辱である。
そもそも奥州藤原氏の配下には「奥17万騎」という強大な兵力がある。


十指みる私のこころ問いただす  津田照子
 


     義経奥州藤原平泉館にて、秀衡親子と対面して
一段上に秀衡、その隣が義経。下段に国衡・泰衡がいる。


思い悩んだ末、藤原秀衡は罪人となった義経を、あえて平泉に受け入れ、
鎌倉軍に対抗することにした。
<優れた軍馬と刀剣で武装する17万もの奥州軍>
<そこに平氏を滅ぼした猛将、義経の戦術が加われば、強大な鎌倉軍と
 いえども、恐れることはない>
秀衡はそう確信した。
秀衡は、義経を自分の館に迎え入れ、心づくしの酒宴を開いた。
義経は、1年以上にも及ぶ流浪の旅からようやく解放された。
<昨日まで偽山伏の姿に身をやつしていた私が、ようやく還俗し、
 一人前の武士に戻ることができた>

と、義経の伝記・『義経記』に記されている。


神様の決めたフロアで踊り切る  鶴見美佐子


「義経自刃の1年7ヶ月前」

頼朝との戦いの準備を進めていた秀衡の身に、思いがけない不幸が、
ふりかかった。
秀衡が突然、病の床に伏してしまったのである。
容態は日に日に悪化していった。
死を覚悟した秀衡は、
義経と2人の息子・泰衡・国衡を枕元に呼び寄せ、遺言を伝えた。
「3人一味して、頼朝を襲うべきの籌策をを廻らすべし」
<お前たち3人で頼朝を倒す計略を考えろ>
というのだ。
3人は死を目前にした秀衡の目の前で、起請文を書き、火にくべた。
そしてその灰を飲み干し、力を合わせて、頼朝と戦う強い意志をしめし
たのである。


転んだらデコに移動の力こぶ  ふじのひろし


文治3年10月、秀衡はこの世を去った。
<いかに親の嘆きや子の思いといっても、秀衡殿との別れに勝るものは
 ございません>
こう言うと義経は、人目をはばからず、号泣したと伝えられている。
義経は、反逆者として追われる自分を、只一人受け入れてくれた秀衡の
恩に報いるためにも、頼朝と戦う決意を新たにした。
この決意を伝え聞いた頼朝の家臣は、頼朝の、
「一挙に踏みつぶしてくれん」
と逸る気持ちを押しとどめている。
「戦上手の義経の指揮に従って、平泉の兵が戦えば、奥州を手に入れる
 ことは百年経っても、二百年経っても、不可能でしょう」
義経率いる奥17万騎に、義経を支援する西国の武将たちが加われば
鎌倉が危うくなるという事態に、頼朝は方針を変え、奥州藤原氏の内部
分裂を謀る作戦に出た。


天辺と底辺少し違うだけ  新家完司


頼朝は朝廷に、「奥州藤原氏の当主・泰衡が義経を匿う罪は重い」とし、
「泰衡追討」の宣旨を願い出たのである。
これには泰衡も、衝撃を受けた。
<朝廷に反逆者とみなされれば、奥州自治の根拠をうしなうばかりか、
 全国の武装たちを敵に回すことになる>
家臣の間からも、
「義経を引き渡すべきだ」
という意見が上がり始めた。
<義経を差し出すべきか、あくまで父・秀衡の遺言を守り、
 義経とともに戦うべきか>
泰衡の心は揺れ動いたが、朝敵になることを恐れた泰衡は、
朝廷に書状を送った。
「義経を尋ね進ず」 と。
<義経の居場所を探し出し、身柄を引き渡します> という意味である。


私の根っこにも少しあるマグマ  古田祐子


これは時間を稼ぐための苦肉の策だった。
しかしこれを知った頼朝は、さらに朝廷に圧力をかけた。
「泰衡が請文、いささかも御許容の限りにあらず。
 速やかに、追討の宣旨を下さるべし」
(泰衡の手紙を信じてはいけません。どうか速やかに、
 泰衡追討の宣旨を、お下しください)と、言い
さらに頼朝は、奥州出兵の期日を朝廷につきつけた。
泰衡は、追い詰められた。
<義経殿を大将にして、頼朝と戦うことは、亡き父の悲願である。
 しかし、このまま義経殿を匿えば、我が藤原氏は朝敵とされる>
泰衡は、最後の決断を迫られた。
このころ義経が何を考え、どう動いたのかという記述はない。
頼朝の朝廷工作によって、
「奥州藤原氏が追い詰められ、自らの身にも危険が迫っている」
ことを知りつつも、義経は平泉を離れようとはしなかった。


雲海がそっと言い訳包み込む  靏田寿子



        奥州17万騎もむなしく


文治5年(1189)閏4月30日、
義経の館を泰衡の軍勢数百騎が取り囲み、矢を射かけた。
すべてを知った義経は、残った家臣に館に火をかけるように命じ、
一人、そのなかに籠った。
父とも慕った秀衡の恩に報いるべく、兄・頼朝との対決を決意した義経
 だったが、その志は、恩人秀衡の息子・泰衡によって絶たれたのである。
燃えさかる炎のなか、義経は自刃した。31歳だった。


牛の眼が濡れていたならそれは海   竹村紀の治


【終焉】

義経の死から一ヵ月後。
頼朝は、泰衡が送った「義経の首」を鎌倉に入れることを拒絶している。
そして、大軍を率いて奥州へ出陣した。
それは義経が討たれた今、
「奥州追討はすべきでない」
という朝廷の制止を押し切っての出兵だった。
激しい抵抗もむなしく、義経なき奥州軍は敗北し、
泰衡は敗走の途中に家臣に討たれた。
文治5年9月3日、平泉は陥落した。
ここに百年にわたり、繁栄を誇った奥州藤原氏は滅んだ。


カーテンコールなしで天寿は閉じました  美馬りゅうこ

拍手[4回]

耳垢は一括寄進しておいた  井上一筒



    天狗を打ちまかして天狗になった牛若丸


「永井路子さんをところどころ織り交ぜて」

鎌倉時代のナンバー2として、北条義時を挙げ、
源義経を挙げなかったことに、不審を抱く方あるかもしれない。
「義経こそは輝かしいナンバー2ではないか」
「彼が挫折したのは、頼朝に妬まれたためだ。頼朝が悪いのだ。
  そんな兄貴を持った義経が不運なのだ」
義経は単に不運だったのではない。
彼にはもともと、ナンバー2たる性格が欠如していたのである。


謎解きを始める排水溝の泡  小林満寿夫


「鎌倉殿の13人」 義経の欠点 


ーーーーーー
      義 経             義時    義経


「義経ー8」 義経の何でそうなるの


源平合戦も終わりの見えた時、義経頼朝に無断で、
朝廷から左衛門尉・検非違使丞(けびいしじょう)という官職を貰い、
後を追いかけて、従五位下に叙せられ、太夫尉と呼ばれるようになった。
大臣や納言という高級官僚ではないが、武士にとっては憧れの的ー、
頼朝を激怒させたのは、まさにこのことであった。
頼朝は、東国武士の行状は眼代(目代)に逐一報告させている。
後に公平に恩賞を与えるためだ。
 だから、頼朝は出陣に当たって
「恩賞は後でまとめて朝廷に申請する。抜け駆けで貰わないように」
と、いい含めていた。 また朝廷にも同じように、
「個別に恩賞を与えないでくれ」
と申し入れている。
これは、頼朝の心が狭いからではない。
統一して恩賞を配分しないと、苦情や仲間割れが出るからだ。
そのことを義経は理解していなかった。


約束などしてましたっけカプチーノ  山本昌乃


頼朝を怒らせてしまったことがもう一つある。
今でいうところの無頓着の義経が、ついふらふらとその気になってしま
って、朝廷から任官をご褒美としてもらっているのを見ていた東国武士
たちも、「われわれも」と官位を望みはじめ、事実、十数人が任官して
しまった。
とかく人間は、オオカミの下さる肩書には弱い、頼朝との間に取り交わ
された約束は、フイになりそうな状態が現出したのである。


閂を外せば秋がなだれ込む  嶋沢喜八郎


ーーーーーー


頼朝は鎌倉で真っ赤になって、そのとき任官した人々へ投げつけた言葉
がふるっている。
「眼ハ鼠、眼ニテ、只、候フトコロ任官稀有ナリ」
(鼠のようなきょろきょろ眼が任官などとは珍しい)
「音様シワガレテ、紅鬢(こうびん)少々で刑部ガラナシ」
(しわがれ声で、紅鬢も格好悪いあいつ、刑部烝って柄かい)
日頃物静かな頼朝、すっかり取り乱している。
そして、
「お前ら、勝手に朝廷に仕えるがいい。もう東国へ戻るな。
 本領は召上げだ。帰ってきたら断罪だぞ」
と、凄んでいる。
※ 紅鬢=後頭部の部分の髪
  刑部烝(ぎょうぶのじょう)=律令制下の省の一つ


銀河系なのか排水口なのか  くんじろう


頼朝は、折角築き上げてきたものが、根底から覆されることに危機感を
抱いたのだ。
それにしても、この雪崩現象の発端は、義経の任官にある。
このことである。
「あいつさえ任官しなかったなら…」
頼朝は煮えくり返る思いだった。
このとき怒鳴りつけられた面々は、平身低頭で謝罪し、やっと許して
もらった。

ところが義経は、自分の重大な過失に気がつかない。
というよりも過失とは思ってもいない。
「太夫尉になるのは、我が家の名誉だと思ったから頂いたんです。
 わたしのどこが悪いの?」
こういう考え方だから、鎌倉へ帰って来ても、頼朝から対面を拒否され
たのである。


言い訳をすればするほど爪が反る  笠嶋恵美子


この任官などの知らせに、鎌倉にいた頼朝が激怒したことが、
『吾妻鏡』に、次のように記されている。
「秀衡が郎党、衛府を拝任せしむること、往昔よりいまだあらず」
(秀衡の郎党の者が、高い官位を賜るなど前代未聞である)
頼朝は義経が自分に無断で、しかも敵・藤原秀衡の家臣・忠信とともに
官位を受けたことを、源氏への「裏切りである」としたのである。
兄・頼朝の怒りを知らない義経は、平氏打倒の喜びをともに祝おうと
凱旋の途についたが、義経は頼朝に鎌倉入りを拒絶された。
義経にしてみれば「兄ちゃん 何で?」なのだ。
 

 膝に埋めておこう寒い風景  山口ろっぱ
 
 
衝撃を受けた義経は、兄の怒りを解こうと一通の手紙を認めた。
「腰越状」といわれるものである。
「私は平氏を滅ぼすため、ある時は岩石に駿馬を鞭打ち、
 大海に風波を乗り越え、命を顧みず戦ってきました。
 しかし、今は、兄上に長い間にお会いすることもできず、
 悲しみと涙で血がにじむ思いです」 
しかし、義経の思いは、兄・頼朝に届かなかった。
一度も面会を果たせないまま、義経は失意のうちに京へと向かった。
義経が自刃する4年前のことである。


1ミリの隙間埋めれぬまま別れ  上田 仁


 
       前9年合戦 後3年合戦


頼朝義経との仲違いの原因というのが、頼朝に断りなしに義経が朝廷
から褒美をもらったことが、「甚だけしからん」ということで、頼朝が
怒ったと思われがちだが、
それとは別に、頼朝にとって、奥州藤原氏という存在が、ものすごく気
がかりだった。
奥州は、源氏にとってゆかりの地というか、怨念の地というべき所で、
先祖の鎮守府将軍・源頼義、あるいは八幡太郎義家の時「前九年合戦」
「後三年合戦」
という戦争があって、本当は源氏は、その時に奥州を手
にいれたかった。
しかし、結局それは叶わず、かわりに平泉藤原氏が奥州を掌握したから、
頼朝としては、何としても先祖以来の宿願を果たして、奥州を手に入れ
たいという気持ちがあった。
 

膝に埋めておこう寒い風景  山口ろっぱ
 
 
話を少し戻す。
頼朝義経の富士川での初対面に、義経が佐藤兄弟を同行してきたこと
について…。
佐藤氏というのは実は、平泉藤原氏の先祖伝来の代々の家来である。
佐藤氏があるから、藤原氏があるというぐらい。
藤原秀衡の最初の奥さんは、佐藤氏出身の女性だった。
義経が初めに平泉で貰った奥さんも、佐藤氏ではないかという説もある。
秀衡の名代として義経が「頼朝の動きをずっと牽制している意図がある」
ということで、頼朝にとっては、非常に気味の悪い事だった。


瘡蓋の下は炎が立っている  和田洋子


「義経が兄に嫌われた原因、又、失敗を総ざらいすると」
1, 失敗の第一は、現状認識の欠如である。
 このときの頼朝の目指した戦は、単に平家への仇討ではなく、
 歴史的転換点にたった戦だった。
 そのことがよく呑み込めなかった義経は、平家を倒して、平家の様に
 出世することしか考えていなかったのだ。
大体、彼の行動は華やかすぎた。
 ナンバー2にスタンドプレーは禁物である。
 少なくとも、彼の名声のお蔭でナンバー1が、
 霞んでしまうようなことがあってはならない。
 たとえナンバー1がロボット的存在でも、それを表面に押し出して、
 自分は黒子に徹するべきなのである。


内臓にドンキホーテがもうひとり  通 一遍


2, 
組織の中の自分の位置づけができていなかった。
 義経は有能だがあくまでも組織の一員である。
 チームワークを無視して一人突出してはいけないのだ。
 ワンマンの独断は許されえないのに、
 才能にまかせてやりすぎてしまったのことである。


片意地の納めどころを見失う  津田照子


 
                            静御前


3,個人生活にも難点があった。
 1つは、都きっての名白拍子、静御前を恋人としたこと。
 白拍子というのは、男装の舞姫で、今ならさしずめ宝塚の男役スター
 といったところである。
 兄貴の頼朝が、田舎女の北条政子を妻にしているのに、天下のスター
 と浮名をながしては、反感を買うのに決まっている。


人間の心は足して二で割れぬ  但見石花菜


文治11年(1186)4月4日のこと。
 鶴岡八幡宮に召され、若宮回廊で頼朝を前に、静御前が舞を舞い歌っ
 たときの歌が残る。
”しずやしず 賤(しづ)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな”
静よ静よと繰り返し、私の名を呼んでくださったあの昔のように
   懐かしい判官様の時めく世に、今一度したいものよ」
「この場で、赤面もなく、何という意味の歌を歌うのだ!」
頼朝の肚は煮えくり返ったに違いない。


不幸より感度が鈍い幸福度  ふじのひろし


4,さらに義経は、大納言・平時忠からも娘をあてがわれた。
 時忠は、清盛の妻の弟で大変な策士である。
 家の繁栄を築き上げた功労者で、壇ノ浦で捕えられたものの、
 どこでどうたらしこんだのか、都に戻ると、自分の娘を義経に娶めあ
 わせてしまった。
 蕨姫(わらぶひめ)というこれまた美女であった。
 時忠は平家の大物だから、都へ帰ると、能登に配流されることに決ま
 ったが、ふてぶてしく居直って、なかなか配流先にいかない。
 これは娘婿になった義経が「蔭で工作していたのではないだろうか」
 である。 
これが頼朝憤慨の一因になった。
 

ポンと背を押されて一線を越えた  桑原伸吉
 

「義経の-面を書き連ねたあとは、一寸+な源平エピソード」



                                            義経八艘飛び
 

 
剛の者である平教経(たいらののりつね)は、鬼神の如く戦い坂東武者
を多数討つが、知盛が、

「既に勝敗は、決したから罪作りなことはするな」
と、命じた。
教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経のいる船を
見つけてこれへ乗り移った。

教経は、小長刀を持って組みかからんと挑むが、
義経は、ゆらりと飛び上がると、船から船へと飛び移り、
八艘彼方へ飛び去ってしまった。
義経の「八艘飛び」である。

義経を取り逃がした教経に、大力で知られる安芸太郎が、討ち取って手柄
にしようと同じく、大力の者二人と組みかかった。

教経は、一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。


歯車を脱けてクラゲで生き延びる  原 洋志

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いつか来る別れと割箸は思う  杉浦多津子



                                    源平八島長門国赤間関合戦の図


「梶原景時の讒言癖」

景時頼朝の出会いは、石橋山敗戦直後のことである。
平氏軍に属していた景時は、敗れた頼朝が山中に身を潜めていることを
知りながら、平氏方の目を欺き窮地を救った。
以後、頼朝の側近となり、幕府草創の功労者である「上総広常の暗殺」
という汚れ役も進んで引き受けた。
行政官としても、優れた手腕を持っていた。
一方で景時には「讒言癖」がある。
「頼朝と義経が対立」する原因をつくったのも、景時の讒言である。


七並べから始まったいけずの芽  オカダキキ


「義経と景時の大喧嘩」

屋島の戦いの直前、渡辺津を出航するにあたり義経は、戦奉行の景時
と軍議を開いた。このとき景時は、
「船の進退を自由にする逆櫓(さかろ)を付けましょう」と、
提案した。 それを聞いた義経は、
「戦う前から逃げ支度をするのか」
と、景時を小馬鹿にした苦笑を零し、さらに義経は
「そのようなものを付ければ、兵は退きたがり、不利になる」
と、にべもなくその意見を一蹴した。 景時は、
「進むのみを知って、退くことを知らぬは、猪武者である」
と言い放つと、義経は、
「初めから逃げ支度をして勝てるものか、私は、猪武者で結構である」
と言い返した。
お互いゆずらない丁々発止の喧嘩を始めた。否、「逆櫓論争」である。
この時、景時は義経に深く遺恨を持ち、のち頼朝へ讒言した。


ルート3覚えてからのひがみ癖  雨森茂樹
 


            源平八島合戦図

 
「鎌倉殿の13人」 平家最後の決戦・壇ノ浦


「義経ー6」 義経のやったこと


義経は一ノ谷攻撃のあと、屋島でも騎兵の集団運用を行い、疾風が木の
葉を巻き上げるように平家を海上に追いやった。
平家は、勝利しかない状況で、合戦の場を屋島~壇ノ浦に移した。
平家としては、もともと海の戦いを得意とする。
このため、少しでも有利な海戦に持ち込もうと、彦島を出て、一丁ほど
離れた波の癖を知る壇ノ浦に向かったのである。
 一方、源氏は、勝利を重ねるにつれ水軍も充実し、壇ノ浦開戦時には、
平家の想像を超える水軍力を有するまでになっていた。
だが平家は、元々、西国を拠点としており、海の戦いは慣れたもの。
勢いの源氏か、海を熟知する平氏か…の最終決戦となった。
3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島
を出撃して、午の刻(正午)に、壇ノ浦にて両軍の合戦が始まった。


片耳を残して船は出ていった  笠嶋恵美子


関門海峡は潮の流れの変化が激しく、これを熟知する知盛軍は早い潮の
流れに乗って、フルに矢を射かけて、海戦に慣れない義経軍を圧倒した。
やはり海上戦ということで、知盛軍有利に進み、満珠島・干珠島のあた
りにまで、義経軍を追いやっていく。
そして、勢いに乗った知盛軍は、義経を討ち取るところまで攻め寄せた。
ところが、戦の神はあらぬところを向く。
やがて潮の流れが、源氏有利に向きを変えたのである。
同時に、田口成良率いる水軍3百艘が平氏から源氏に寝返ったのである。


夜の海主語も述語もいりません  柴本ばっは


 
             「長門国赤間の浦にて源平大合戦平家亡びる図」歌川国芳


 
右・敗戦を伝える知盛、泣き崩れる女官


敗戦に敗戦を重ねる平家には、戦いを持続する兵力がない。
さらに対岸の九州地区には、源範頼の勢力範囲でもあり退路もない。
<もはやこれまで>と、知盛は、建礼門院二位尼らの乗る女船に乗り
移ると「見苦しいものを取り清め給え」と、みずから掃除をしてまわる。
口々に形勢を聞く女官達には、
「これから珍しい東男をごろうじられますぞ」と笑った。
これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を
腰にさし、神璽を抱えた安徳天皇が<どこへ連れてゆくの>という表情
で仰ぎ見れば、二位尼は、
「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答えて、
ともに海に身を投じた…。
(『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳
 天皇を抱いて入水したとある。)
かくして元暦2年(1185)3月、長門国赤間の浦にて平家は滅びたの
である。


諦めという悲しみの置きどころ  伊達郁夫


 天才的な戦術を駆使して戦った義経は、ついに幼いころから夢見た平氏
打倒の悲願を達成した。
が、しかし、これは頼朝が望むところではなかった。
頼朝は朝廷から合戦に当たって、
「平家一門に奉じられて都落ちした安徳天皇と三種の神器を無事にとり
もどすこと」
を条件として申し入れられている。
が、結果はどうか。
安徳天皇は入水し、宝剣は行方知れず、取り戻したのは、
鏡と玉璽(ぎょくじ)のみ。
これでは頼朝としては素直に喜べない。


守れない約束もある今日の風  靏田寿子



     源義経


一方、義経とすれば、
「勝ちちゃいいんだろう。文句言うな。合戦の現場に立ってみろ。
 そんな器用な真似ができるかってんだ」
現場と首脳部の間にいつも起こりがちなトラブルである。
しかし、この戦の意義が何だったか、全体的な把握ができていれば、
義経はそんなことは言えなかったはずだ。
治承4年(1180)の頼朝による東国の旗揚げは、
これまで西国の支配に喘いできた彼らの独立運動のようなものである。


派手に砕けたのは豆腐かわたくしか  桑原伸吉


「永井路子さんの語る義経」

義経は東国育ちではない。
だから東国武士が肌で伝え、感得してきたこのヒエラルキー(三角形)
の組織への理解が不十分だった。
かれの悲劇はそこにある。
「木曽攻め、平家攻め」はいわば三角形の大移動だ。
このとき東国武士団は、歴史始まって以来ともいうべき大実験をやって
いる。というのは、
トップの頼朝は鎌倉を動かず、この三角形をリモートコントロールする
という方式だ。


糸が揺れて鳥になる魚になる  酒井かがり


はたして頼朝が動かずに、東国武士団という三角形は、崩れずにその姿
を保てるだろうか。
出陣にあたって、だから東国武士団は、これに備えた方式を編み出した。
すなわち、総大将は頼朝の「身代わり」である範頼義経
ただし、これはあくまでも、頼朝の身代わりをつとめる象徴的存在で、
独断専行を許さない。
その行動をチェックするのが「眼代」または「軍監」という存在で、
彼らは総元締めとして人々の行動を統括する。
部署の配置、出陣の順序を申し渡し、すべてを取り仕切り全軍がこれに
従う。
また、その戦闘の経過、功績の有無を記録し、頼朝に報告する。
これが後日の、恩賞の基本台帳になるから、あくまで客観的でなければ
ならない。


自分史を留める画鋲がみつからぬ  百々寿子



     梶原景時


功績は本人の申し出によるが、それには確実な保証(敵の首、味方の証
言など)が必要だ。もちろん失敗、落度も洩れなく報告する。
総大将も、この眼代に相談せずに陣を進めることは許されない。
今ならさしずめコンピューターの役である。
すべての情報を叩きこんで頼朝へ送るから、頼朝は誤りない指示を与え
ることができるのだ。
ミスター・コンピューターともいうべき役が、義経における梶原景時
範頼における土肥実平だったのである。
範頼は、よくコンピューターを使いこなした。
彼の分担した中国筋での戦は、苦しかったが、結局、大過なく務められ
たのは、土肥実平と相談して対処したお蔭である。


天使にも配分がある昼と夜  有田一央


義経はコンピューターと喧嘩してしまった。
思う通りの答えが引き出せないと、義経は
<こいつは役にたたない!><合戦にコンピューターなどいるものか>
と、どんどん戦をすすめてしまった。
また景時コンピューターは、意地が悪いほど正確で、
そうした義経の行状を逐一記録してしまったので、頼朝は
「義経は、俺にも相談なしに勝手なまねばかりしよる」
と怒ったのである。
確かに合戦は理詰めではいかない。勘が必要だ。
が、それは局地戦のことであって、総合戦略を考えるときは、
軍隊内の融和が必要であろう。 景時が、義経を評して、
「所詮この殿は、大将の器ではない」
と言ったのは、このことを指すのである。


右向けと言われ小首かしげとく  三村一子


さらに義経は重大なミスを犯しいている。
この合戦の終わらないうちに、彼は頼朝に無断で、朝廷から左衛門尉
検非違使(けびいし)という官職を貰ってしまったのだ。
後を追いかけて、従五位下に叙せられ、太夫尉と呼ばれるようになる。
大臣や納言という高級官僚ではないが、武士にとっては憧れの的、
頼朝を激怒させたのは、まさにこのことであった。
頼朝は東国武士の行状は、眼代(目代)に逐一報告させている。
後に公平に恩賞を与えるためだ。  だから頼朝は出陣に当たって
「恩賞は後でまとめて朝廷に申請する。抜け駆けで貰わないように」
といい含めている。 また朝廷にも、同じように
「個別に恩賞を与えないでくれ」と、申し入れている。
これは、頼朝の心が狭いからではない。
統一して恩賞を配分しないと、苦情や仲間割れが出るからだ。
そのことを義経は理解していなかった。


がっちゃんは自爆する音生きる音  合田瑠美子

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死に神よなんでおまえがそこに立つ  藤村亜成



        「一之谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図」


「司馬遼太郎氏の義経ー2」

義経は一ノ谷でその卓抜な作戦構想を成功させて、俄かに名声を高めた。
昨日までは、全く無名だった頼朝の弟・義経なる人物が今日の京都では、
上は後白河、下は物売り娘までにももてはやされる。
まさにスター誕生だ。
無名の人間が一朝にして有名になるということは、
義経以前には、日本の社会にはなかった。
ちょっと古い喩えだが、美空ひばりでも、石原裕次郎でも、スターの誰
でもが味わうことを、日本の歴史の中では、義経が最初に経験した。
そのときに、「義経の自己崩壊」がはじまった。
自己崩壊とまで言うと、義経が可哀そうだけれども…、
法皇や関白に可愛がられ、都の人気者になってある程度いい気になる。


さて、三谷幸喜演出のドラマ・「鎌倉殿の13人」の義経は、今回は
メインではないから仕方がないとしても、やたら義経「戦争バカ」
ぶりを表面に出してくる。らしいらしいと言えば、三谷演出らしいが、
さてこの後、どうなりますことやら。
義経はそれを知らず、平家滅亡の後、義経の不幸がはじまる。
 
 
びしょ濡れになっても別の靴がある  新家完司


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐12


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図①

駕籠の中には、源氏襲来から逃げる安徳天皇
左黒馬に熊谷次郎・白馬に平敦盛、中央黒馬には平教経


「義経ー5」 屋島の戦
 
 
義経は福原の西、搦手の一ノ谷から攻撃を仕掛けた。
このとき義経は、背後の崖から少数の騎馬で駆け下り、
平氏軍を混乱に陥れた。
このため義経人気は絶大となり、後白河も軍功に報いて検非違使(けび
いし)と左衛門尉の官職を与え、さらに従五位に叙し、昇殿を許した。
頼朝は配下の武士に、
「私の許可なく、朝廷から位階をもらってはならぬ」
と戒めていた。
義経はそれを無視したのだ。頼朝は怒った。


三度目も直球投げている愚直  津田照子


「司馬遼太郎の義経ー3」

一方、京に留まっていた義経は、後白河法皇に引き立てられ、
従五位下に昇り、昇殿を許され、いい気になっていました。
義経には、政治感覚がまるでない。
このあたりが義経の困ったところ。
兄の頼朝が鎌倉にいる。
頼朝の政権の基盤は、鎌倉の大小の地主たち、つまり関東武士である。
彼らは、その権益を守るために頼朝を擁して、京都の律令体制にチャレ
ンジしている。
しかし義経は、その律令体制の寵児となって兄の立場を理解していない。
知らず〳〵京都と鎌倉との抗争に巻き込まれていることに気がつかない。
頼朝にとっては、弟が体制側のとりこになり、そして大きな人気を得て
いるために、最大の敵となっていく…ことに苛立ち、腹立たしかった。


何事もなかったように窓明かり  荒井加寿


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図②
中央左上松の木の横に源義経が小さく描かれている。


「屋島の戦」

一ノ谷で敗れた平氏は、四国八島に後退するが、相変わらず瀬戸内海を
制していた。
そこで頼朝は、元暦2年(1185)正月、範頼を総大将に軍を九州豊
後へ遣わしたが、手痛い敗北を喫してしまう。
このため、頼朝は義経を頼らざるを得なくなる。
この時、義経は京で戦から離れ、法皇の近習を手伝っていた。
平家軍は、「今度は負けぬ」ということで、源氏と比較して水軍の力が
有効に活用できる周囲が海に囲まれた屋島に内裏を作り、万全の体制で、
源氏を迎え討つ態勢にあった。
平家は、あくまで得意な水軍の力を使い、海から進んでくる源氏軍を討
ち負かす作戦を立てていた。


蓮根の穴に恨みの練り辛子  くんじろう


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図③
女官に囲まれてご満悦の平宗盛


八島の戦いの指揮を任された義経は、悪天候の中も出陣を兵士に求めた。
梶原景時ら周囲の諸将は、「自滅でしかない」と反対をした。
船頭らも、暴風を恐れて出港を拒んでいる。
この時、景時は鎌倉へ手紙を送り
「義経が高慢で、諫言も聞かずに勝手に行動する。だから私の役目を免
じ鎌倉にもどしてほしい」
と、頼んでいる。
「勝機を手繰り寄せるにはこのときしかない。敵の意表を突くのだ」
義経は、ここでも「奇襲作戦」の考えを譲らない。
そして2月18日午前2時、摂津水軍などを味方につけて、暴風雨の中、
義経は、僅か5艘150騎で、屋島に向けて出陣を強行した。
午前6時、義経の船団は、通常3日の航路を4時間ほどで、
阿波国勝浦に到着した。


偶然の中のひとつと生きている  大野風柳



           一ノ谷・屋島合戦図    (狩野吉信)


勝浦に上陸した義経は、まず在地の武士近藤親家を味方につけた。
この時、屋島の平氏は、田口成直が3千騎を率いて、伊予の河野通信
伐へ向かっており、千騎程しか残っておらず、また阿波・讃岐などの港
に配分しており、屋島は手薄であると探索の兵が伝えてきた。
その情報を得て義経は、平氏方の豪族桜庭良遠の舘を襲って打ち破り、
そのまま徹夜で進撃し、2月19日には、屋島の対岸に立った。
孤島である屋島は、干潮時には騎馬で島へ渡れる。
それを知った義経は、強襲を決意した。
寡兵であることを悟られないために、周辺の民家に火をかけて、
大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へ攻め込んだ。
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍の兵は狼狽し、
内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦へと逃げ出す者が出た。
戦が優勢に進んだ中で、義経が唯一悔やんだのは、奥羽平泉からともに
戦って来た郎党の佐藤継信が義経の盾となり、平氏随一の剛勇平教経に
射られて討ち死にしたことであった。


僥倖を連れて来たのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ
 
 
 
   「平家物語」エピソードゟ 源義経弓流し

海へ落とした弓を武士の誇りを掛けて拾い上げる源義経。
平氏は義経の負けん気をはやしたてた。


「遊びの時間」

休戦状態の夕刻、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、「竿の先の扇の
的を射よ」と、義経の負けん気にけしかけるように挑発してきた。
断れば嘲笑を浴びる、外せば源氏の名折れになる。
どちらをとっても源氏側に損だが、義経の性格を刺激してきたのだった。
それに応じた義経は、手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、
重忠は辞退し、代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。
十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。
与一はやむなくこれを引き受けた。


 種無しぶどうの種から来たオファー  中村幸彦


「平家物語」エピソードゟ 『扇の的』那須与一

二月十八日、戦も休戦状態の午後六時頃のことであったが、折から北風が
激しく吹いて、岸を打つ波も高かった。
舟は、揺り上げられ揺り落とされ上下に漂っているので、竿頭(かんとう)
の扇もそれにつれて揺れ動き、しばらくも静止していない。
沖には、平家が、海上一面に舟を並べて見物している。
陸では、源氏が、馬のくつわを連ねてこれを見守っている。
どちらを見ても、まことに晴れがましい情景である。


活断層の裂けた音また耳に  靏田寿子



    「屋島合戦、那須与一扇の的の図」


那須与一は目を閉じて、
 「南無八幡大菩薩、我が故郷の神々の、日光の権現、宇都宮大明神、那須
の湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させたまえ。
これを射損じれば、弓を折り腹をかき切って、再び、人にまみえる心はあり
ませぬ。いま一度、本国へ帰そうとおぼしめされるならば、この矢を外させ
たもうな」
と念じながら、目をかっと見開いて見ると、うれしや風も少し収まり、
的の扇も静まって射やすくなっていた。


入口は三つ出口はありません  米山明日歌


那須与一は、鏑矢(かぶらゆみ)を取ってつがえ、十分に引き絞って、
ひょうと放った。 小兵とはいいながら、矢は十二束三伏で、弓は強い。
鏑矢は、浦一帯に鳴り響くほど長いうなりを立てて、あやまたず扇の要から
一寸ほど離れた所をひいてふっと射切った。
鏑矢は飛んで海へ落ち、扇は空へと舞い上がった。
しばしの間、空に舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと
散り落ちた。
夕日に輝く白い波の上に、金の日輪を描いた真っ赤な扇が漂って、浮きつ沈
みつ揺れているのを、沖では平家が、舟端をたたいて感嘆し、陸では源氏が、
箙(えびら)をたたいてはやし立てた。
※ えびら=矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具。


マメの木を登り切ったら黄泉のくに 丸山威青

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