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川柳的逍遥 人の世の一家言
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アクセルかブレーキなのか分からない  菱木 誠



             御家人の反乱
比企氏の乱→牧氏の変→畠山重忠(時政)の乱→和田合戦→承久の乱へ


「北条義時という男」

坂東武者の中にあって、北条義時は、茫洋とした平凡な男だった。
武芸に優れているという誉も聞かず、さりとて無能とも言挙げされない。
ただ家子の1人として影のように、主の頼朝に付き従っている男だった。
頼朝が死んだ後もその茫洋は変わらなかった。
 それが一つの疑念をきっかけに突如、変身する。
これまで義時は、数々の内紛に際し、生き残ってきた。
それは、目立たぬからではないし、覇気がないがゆえでもなかった。
唐国の史書でいう「王佐の才」が、この男の危機を払う傘だった。
一見すると野の石のような男の内奥に、熱く煮えたぎる溶岩の如き魂が
覚醒したのであった。


旅支度しなさいという花吹雪    新家完司


「鎌倉殿の13人」 義時動く
 
 

ーーーーーー


  「甘い義時から辛い義時へ」


正治元年(1199)頼朝落馬して54歳で死去、頼家が跡を継ぐ。
頼朝が死んだころから、そろりと義時は、首をもたげはじめる。
すでに37歳。
要領のいい連中なら、その頃までには出世街道を歩みはじめている。
「もう、あいつは見込みないな」
そう思われたころ、やっと彼は動きだすのだが、
それも父・時政にひっぱられて腰をあげた感が強い。
だがその年、父の時政とともに13人の御家人の中に名を連ねること
になった義時だったが、父との関係は、決して良好なものではなかった。


輪の中にいても淋しいときがある  安冨節子


<ーこのままではだめだー>
42歳の義時は、密かに焦りを抱えていた。
元久元年(1204)7月、頼家は、23歳でその生涯を終えた。
その前に3代将軍となっていた実朝は、まだ12歳だったが、
早くも公家との縁組がまとまり、この日、正室となる女人、坊門信清
娘を鎌倉へ迎えるべく、使者の一団が京へ出発していた。
使者の筆頭を務めるのは、義時にとって異母弟である北条政範だった。


流れない川が私の胸にある  野田和美


24年前に兄・宗時が亡くなった後、義時は当然、<自分が後継者>
なると思っていた。
しかし父の考えは違った。
義時には、江間を名乗らせて分家扱いとし、後継者には、親子ほども歳
の違う後妻・牧の方が産んだ政範を据えようとする意向が、
年を追うごとに明かになっている。


開かずの踏切夕焼けがきれい  柴田比呂志
 


    源実朝・建礼門院
 
 
名門貴族坊門信清の姫君が、はるばる東国に下り、しかも将軍に嫁ぐと
いうのは、公私ともにこの上ない大事件であった。
院にあっては、卿の局が大いに力を揮い、自分の家から出立させたほど
であった。
神輿の行列が通る道筋には、群衆が押し寄せ、後鳥羽院も特別の桟敷を
造らせて見送りに出たという。


夕焼けの空気 肩の力抜けました  奥山節子


このたび政範が使者に選ばれたのも、公家や在京の御家人たちに、
<北条の後継は政範>と、示そうという意図があるのでは……
少なくとも義時は、そう考えていた。
姉の政子は義時に心を寄せてくれているが、そもそもこの縁組そのもの
が、当初、政子が進めていた武家の娘との縁を実朝が嫌い拒絶した…
(実朝の妻は建久4年(1193)京都生まれ。姉妹2人づつが後鳥羽
と順徳の後宮に入る家柄で、幕府と後鳥羽院を結ぶ政略結婚ではあった
が、実朝自身が妻には京の姫を求めていた。一つ年上の実朝とは、仲睦
まじく2人してよく寺社詣でや花見などに出かけたという)

<時政がそう仕向けたのではないか>と、政子義時も思っている。
後に成立したもので、いわば主導権は、時政牧の方にあったから今は
成り行きを見守る他、どうしようもなかった。
 しかし、それからほぼ1ヵ月後の11月13日、<京で政範が病没>
したとの知らせが鎌倉にもたらされた。
この政範の死が、義時の運命を変えて行くことになる。


流せない言葉ひとつと冬の空  津田照子



    北条時政


「北条時政 VS 比企能員(ひきよしかず)」

話を少し巻き戻す。頼朝の死後、鎌倉の政情は微妙に動揺している。
時政も将軍の舅として、着々地歩を固めてきたのだが、
先行きが不安になってきた。
代って勢力を得たのは比企能員である。
比企能員の妻・若狭局は、頼家の乳母として幼いときから近侍していた。
(当時の乳母の存在には大きな意味がある)
彼女は嬰児期の若君に乳を与えるだけでなく、生涯、若君にかしずき続
けるのだ。
もしも、その若君が天下を握ろうものなら、もちろん側近第一号として
絶大な権力を握る。
能員は、乳母である妻と二人三脚で、頼家・比企時代の地固めに余念がな
かった。
その上、頼家は、彼らの娘の若狭局を愛し、男の子までもうけていた。


流星が横切る海は凪いでいる  平尾正人


「未来はわがもの…」
と、能員が勇みたてばたつほど、時政は苛立った。
すでに故将軍家の舅殿の存在は、影が薄くなっている。
時政は 「かくてはならじ」と、義時を重要会議のメンバーに押しこむ。
 (ここではまだ義時は、目立つ活躍をした気配がない)
やがて「比企と北条の対立」は激化し、遂に武力衝突が起る。
「比企の乱」といわれているが、実質的な仕掛人は時政である。
(義時も連携プレーによって、比企を滅亡させているのだが、
このときも彼らしい、何のエピソードを残していない)


喜怒哀楽を奏でる人生の楽譜   鴨田昭紀


さて比企一族が滅亡すると、頼家は簡単に引退させられてしまう。
暗殺されるのは少し後のことだが、それより前に頼家の弟・実朝が将軍
の座につく。
たった12歳の少年ではあるし、おまけに乳母は政子の妹、つまり時政
の娘だった。将軍を丸抱えにした「北条政権」という時政の構想は、
見事に実現したわけである。
(義時は、実朝の元服の儀では大江広元の嫡男・親広とともに雑具持参
の役を受けもっている)


月に別荘火星に愛人  蟹口和枝


これ以後、66歳で時政「執権」と呼ばれるようになる。
事実上の鎌倉幕府ナンバー1である。
(従って義時は、順送りにナンバー2になった)
はじめのうちは、多分、誰も義時の動きには、注目もしなかった。
41歳、すでに年も不惑を越えているものの――これといった切れ味も
見せない彼に期待するのが無理――といった感じだった。
ようやく平穏な日々を取り戻したのも束の間、実朝の後見人として名実
ともに鎌倉御家人の第一人者となった時政が、その権力を背景に専横的
な行動をとり始める。
(この時点で義時は、従五位相模守に叙せられてもいたが、父のポスト
を継承したにすぎない)


「王様は裸」と言えなかった悔い  平井美智子



       畠山重忠 葛飾北斎画


「畠山親子へ仕組まれた陰謀」

「一所懸命」という言葉に表されるように、御家人たちにとって、領地
の安泰と拡大は最優先事項であり、新しい所領の獲得はなによりも勢力
の拡大を意味していた。
比企氏を滅ぼした時政は、その所領であった武蔵国に目を向ける。
その頃、武蔵国では、国衙の重職にあった畠山重忠と武蔵守である平賀
朝雅が対立関係にあったが、その中間に位置していた武蔵比企郡の領主
比企一族が滅びると、お互いの勢力圏が、直接隣接することになり、
いよいよ両者の争いが表面化してきた。
2人はともに、時政にとって娘婿にあたるが、時政は後妻の牧の方の娘
を妻にしている朝雅に肩入れし、「重忠を討つ計画」を進めていった。


静脈にすこうし流す悪企み  木村順二


時政は、敵方に味方を潜入させる方法を得意とし、比企氏の時も息子の
時房や中野能成をうまく使って成功している。
今回の重忠討滅計画で時政が選んだのは、重忠の同族・稲毛重成だった。
時政の甘言に乗せられた重成は、手勢とともに鎌倉に入り、
「畠山重忠に謀反の疑いあり」と、噂を流した。
そして元久2年(1205)6月、ついに時政は義時、時房に重忠追滅
を命じたのである。
戦いはあっけなかった。
謀反などまったく身の覚えのない重忠・重保父子は、無実を訴えながら
滅んだーー時政の思惑通り事は進んだのである。
しかし、重忠の首を持って帰った義時は、時政の汚いやり方を非難し、
三浦義村も、旧友重忠の悲運に泣いたという。


咲いて散る花はストレス抱いたまま  藤本鈴菜



 義時が心に決意したものとは 


「いよいよ義時変身」

義時が自分の意志で動いたのはこの後だった。
<父のやり方はまずい。このままではおそらく北条氏への不安や不満、
反発が強くなってしまう>
そう確信した義時は、三浦義村らの協力を得て、稲毛重成とその弟・
榛谷重朝(はんがやしげとも)を誅殺した。
<こたびの件は、重成の讒言によって起きたことであり、畠山父子を
討ったことは誤りであった>
と表明したことになる。
無論、<重成を唆したのが時政>だと、ほとんどの者が察するだろう。
畠山父子の一件によって、生じた御家人たちの不平や不満は、
<これによって、北条氏全体へではなく時政と牧の方に向かうだろう>
それが義時の狙いだった。


あざやかな指摘人生やり直す  三村一子


それは義時43歳にして、突然の変身だった。
唐突に過去の歴史を突き破る瞬間であった。
その光景を、何う表現したらいいか。
<いままで道連れに従って、黙って山路を歩いてきた男が、
峠にさしかかった時、さりげなく内ポケットに手をつっこみ、
黒い光るものを取りだしたかと思うと、ゆっくり連れに狙いをつけた。
無気味に光るのは、小型のピストルだった……>
しかも、彼が狙いをつけた道連れというのが…、
誰あろう、彼自身の父、時政だったのだ ‼


呪い歌カルメンマキの桃太郎  森 茂俊


「な、なんとする」
時政は声を呑んだ。
「この義時が…俺に反抗するなんてことがあっていいものか……!
 役立たずの鈍才め。俺の力がなくては、何一つできない奴めが!」
時政ならずとも、この場面の展開には、驚かされたものである。
ではなぜ、突然、義時が父・時政に反逆したかである。
畠山父子の悲劇は、「義時変身」の発端にすぎなかった。
時政に対する大きな疑念が、義時の胸に高鳴っていたのである。
そして、実朝が将軍になったとき、
「わが世の春が来た!」と喜んだ人物が、時政のほかにもう一人いた…。
のである。  続きは、次回へ。


私も泡です消えるさだめです  中村幸彦

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