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川柳的逍遥 人の世の一家言
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針金で縫いたいほどの心傷 伊藤良一




光秀に諫められ信長激怒

 

「詠史川柳」 明智光秀の連句と本能寺の変


 

戦国時代革新的にのし上がってきた織田信長のイメージは、
映画や歴史小説に描かれるように大胆不敵な異端児である。
だが実像は、違う。
自分より強いと思う相手には極端にへりくだった態度を見せている。
武田氏との例にとれば、信長は武田信玄に対して、贈り物をしたりして
ご機嫌をとったり、時に自分が信玄の臣下であるような手紙を送ったり
信玄の子・勝頼と自分の養女の縁組を進めたり、信玄の娘・松姫と長男
信忠の縁談を提案したりしている。
むろん彼が本心から相手を恐れていたわけではない。
相手の優越感を刺激して戦意を喪失させるための戦術であり、
自らが力をつけるまでの時間をそうして稼いでいたのである。

菜の花菜の花黄色の絵の具足りません 浅井ゆず

その一方で信長は身内に対しては、超合理的な組織を築いた。
出自にかかわらず実力を重んじ、有能な者をどんどん抜擢した。
農民出身の豊臣秀吉、浪人の明智光秀、忍者出身といわれる滝川一益に、
大きな領地と仕事を任された。
反面で信長は、使えない家臣には容赦がなかった。
石山本願寺との戦いが終結すると、すさまじいリストラを断行。
林通勝や佐久間信盛ら老臣を次々と追放していく。
その行き過ぎた信長の合理主義が、神経の細い明智光秀をして
「自分も追放されるのでは」と疑心をもたせるにつながっていく。

晩春の出口はみどり色螺旋  山本早苗


そして、天正10年6月2日、明智光秀による「本能寺の変」が起こる。
これより先、信長は丹波亀山の光秀に対し、毛利攻めの最中の秀吉への
応援を命じた。光秀は命に服し、亀山で軍勢を整え、山陽道に向かうと
みせて俄かに京に討ち入った。その数日前(5月27日)光秀は子息の
十兵衛光慶と家臣の東六郎衛行澄を従え、京都の愛宕山へ参詣に出た。
帰途、その愛宕山の山上で、連の会(明智光秀張行百韻)を催している。
それには、光秀ほか当代隋一の連歌師・里村紹巴(じょうは)一門・昌叱
(しょうしつ)兼如、心前、行祐(ぎょうゆう)宥源らが参加した。

欲が出て神のしっぽを踏んじゃった 岡田 淳


 

連歌のについて説明すると、平安末期、京の宮廷とその周辺で生れ発達。
一人が和歌の「上の句」(かみのく)を詠むと他の一人が下の句を詠み、
最後の「挙句」まで繋げて楽しむ遊びである。
順序として、先ず、「発句」で始まる。
発句は、挨拶の句とされ、通常はその会の主賓が詠む。 
連歌の宗匠・紹巴(じょうは)が発句についてルールを述べている。
「連歌の発句は、「切字」というものが入っておりませんと、発句とは
言えません。もし、切字が入っておりませんと、それは「平句」という
ことになり、まずいのであります。
また発句には、必ず「季語」が入っていなければならず、「無季」
発句と
いうものはありません。「俳諧」発句も、まったく同じです。
切字と季語を、必須の条件とします」 
即ち、発句はすべての起こりとして、
ここから変転、果てしない「連歌の世界」が始まるのである。

 

あざやかな切り口文体が透ける  荻野浩子




二番手は「脇」といい、発句に添えて詠み、座を用意する亭主が詠む。
「当季、体言止め」とする。
体言止めとは、句の最後を体言(名詞)で終えること。
そうすることで、余情・余韻が残るということ。
また「挙句の果て」「挙句」は、この連歌から生まれた言葉である。
三番手は「第三句」といい、相伴客又は、宗匠の次席にあたる者が詠む。
発句・脇句の次にくる17字の付句で、発句と同じ季語を入れること。
脇句からの場面を一転させ、多く「て」で止める。
「第三も脇の句程わなくとも、是も発句に遠からぬ時節をするべし。
発句、真名字留の時は、第三まな字留は、かしましき也」(長短抄)
第三句は転回をしなければならないルールがあり、前句には付けるが、
そのもうひとつ前の句からは離れる。
次の四番手の第四句は「軽み」「あしらい」を要求される。
これもルールである。では、どのようにあしらうか。
あしらうのにもかなりの芸能がいる。


 

虹になる真っ最中のアメフラシ 河村啓子



 

では、明智光秀が主催した「張行百韻」の歌をルールに合わせみる。
時は今  雨が下しる  五月哉  光秀
水上まさる  庭の夏山  行佑
花落る 池の流れを せきとめて  紹巴
発句に光秀は「時は今雨が下しる五月哉」と詠みあげ、
続いて脇が、「水上まさる庭の夏山」 と詠み。
そして第三句は花落る池の流れをせきとめて」と続いた。


光秀が美濃の土岐源氏であることは、席につく誰もが知っている。
光秀の華麗な「暗喩」に富む句は、土岐の世が来るということを「時」
ほのめかし、その時こそ「五月の雨」の季節であり、「雨は天」と掛け、
「しるは統べる」に重ねた。


脇を付けた愛宕西之坊威徳院住職の行佑「水上まさる庭の夏山」は、
光秀の真意を察し、鮮やかに毒を抜いた句になっている。
次の第三句では、脇から句境を一転せしめ「て留め」にする決まりがある。
そこで紹巴「花落る池の流れをせきとめて」と、光秀の世間に知られると
危険な句を、さらに無毒にする「て止め」にして句を詠んだのである。
この句会は光秀が「本能寺」へ決意を固めたあとの主催であった。


 

その話ふくらみすぎてカットせよ  畑 照代


 

4句目から挙句までを平句と呼ぶ。季語にはこだわらない。
次のように、続いた。
かせは霞を吹をくるくれ  宿源
松も猶かねのひひきや消ぬらん  昌叱
かたしく袖は有明の霜  心前
うら枯に成ぬる草の枕して  兼如
きヽなれにたる野辺の松虫   行燈

そして光秀は、百韻のうち15句を詠んでいる。
秋の色を花の春までうつしきて
尾上のあさけ夕くれの空
月は秋あきは寂中の夜半の空
おもいになかき夜はあけしかた
葛の葉の乱るヽ露や玉かつら
みたれふしたるあやめ菅原 
これらの句から、光秀の「信長打倒の執念」が、ひしひし伝わってくる。


 

ひと言が多くていつも蹴躓く 津田照子


 

ただこの連歌の会の催しは、光永の大失敗だったのではないか。
秀吉が「中国大返し」と称される尋常でない速度で備中高松城から上洛し、
同年6月13日の「山崎の戦い」で明智光秀を討った。
所要日数10日。距離200㌔。重装備の大軍団。この悪条件の中、
光秀のいる現場へ戻るのには、どのように計算をしても、無理がある。
秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能である。
 すなわち、この会の模様が何らかの形で外に漏れたのではないか、
連歌の会の日から考えてみれば、6日の追加準備ができるのである。
「秀吉は事前に(本能寺の変)は知っていた」という真しやかな噂が、
真実味を帯びてくる。


尻尾からぞろぞろ喋りだしそうだ 谷口 義



 

「詠史川柳」




   本能寺の変



 

≪明智光秀≫


 

三日咲く桔梗を散らす猿の知恵


 

光秀はせっかく信長を討ったものの、備中高松から急いで帰ってきた
羽柴秀吉軍に山崎の戦いで敗れ、近江坂本へ帰ろうとした途中の小栗栖
(おぐりす)で藪に隠れていた土民の槍に突かれ、結局、自刃する。
本能寺の変から10日余り「三日天下」と呼ばれる短いあいだだった。
桔梗は光秀の家紋。
猿(秀吉)の知恵が、たった三日だけ咲いた桔梗(光秀)を散らした。


 

小栗栖を通る時分に丹波色


 

丹波色は青い色。
敗走をして小栗栖を通る頃には、真っ青な顔色だっただろうという。
光秀の領国「丹波」をかけている。


 

藪からは棒よりひどい槍が出る
四日目は早い因果の巡りよう


 

主殺しの罪は重い。いづれ因果は巡って自分の身に降りかかろうが、
それにしても四日目とは、早いのではないか。


 

愚かさを自分探しの旅で知る  ふじのひろし


 

≪織田信長≫


本能寺寝耳に土岐の声がする
駒組みをせぬに王手は本能寺

 

「駒組み」は、将棋で駒の陣形を整えること。
普通の合戦なら陣形を整えて対戦になるが、わずかな手勢で本能寺に
いたところを襲われた信長は、まだ腕組みも出来ないうちに王手にされた
ようなものだと言うのである。


 

本能寺窮鼠かえってとんだ事

 

「本能寺の変」の諸説にはさまざまあるが、信長に冷遇された怨みが爆発
したとの説もある。その説に従って「窮鼠かえって猫を噛む」という状況に
なったため飛んだことをしたというのである。
光秀は「子年」であったという説も踏まえている。


 

十兵衛でよいにお目がね違いなり


 

光秀は信長の直臣として5万石を与えられて近江坂本に居城を持ち、
日向守の官職を得「惟任日向守光秀」(これとうひゅうがのかみ)とした。
信長も光秀をただの明智十兵衛としておけばよかったのに、
惟任日向守などに取り立てたものだから、力をつけて反逆に及んだのだ、
とんだ眼鏡違いになってしまったという。



 

馬の背の透けて遥かな旅終る  笠嶋恵美子

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チクチクはいけず小言は木綿針 美馬りゅうこ
 
   楊 貴 妃 桜
川柳には俗に「謎句」と呼んで、それが何を詠んだものか読者の知識と
推理力を試すクイズ仕立ての句がたくさんあります。
それが詠史句の面白いところであり、また当時の庶民の教養のレベルを
伺い知ることのできるものです。今回ここに提出する句を一緒に、推理
してみませんか。


「詠史川柳」 歴史は深くて面白い



 
 小 野 小 町
 
三めぐりの雨は小町を十四引き
「ことわりや日の本ならば照りもせめさりとてはまたあめがしたとは」
これは雨乞いの歌として、よく知られている小野小町の和歌。
俳句では其角「夕立や田をみめぐりの神ならば」がよく知られている。
ということで、其角の句は、小町の和歌より十四字少ないという意味。


 
あたたかい雨だと思う茄子のヘタ 前中知栄
さりとては又という時かきくもり
絶世の美女といわれた小野小町は六歌仙の一人という和歌の名手。
伝説によると、日照りで困っているとき、京都の神泉苑で「雨乞い」
和歌を詠んだところ、たちまち雨が降り出したという。
その時の歌が上記の「ことわりや日の本ならば照りもせめ…」というの
だが、実はこの句は慶長の頃の狂歌で、本当に、小野小町が詠んだのは、
「千早振神もみまさば立ちさわぎ 天のとがはのひぐもあけ給え」だった。
童謡で歌う程度の雨でよい ふじのひろし


  楊 貴 妃

やまと言葉はおくびにも貴妃ださず
あちらからは玉藻こちらからは貴妃
小野小町に対して中国の美女と言えば、楊貴妃
江戸時代には楊貴妃は尾張の熱田神宮の化身、鳥羽院に仕えた玉藻御前
は、中国から来た「九尾の狐の化身」であるという俗説がある。
この説に基づいて熱田神宮には、楊貴妃の墓とされるものが存在した。
和漢の美女の名を付けたさくら花
やっぱり美人は得。「小町桜、楊貴妃桜」として名を残している。
楊貴妃は不機嫌である五色針 板垣孝志
かもめだといふと名所にならぬとこ
楊貴妃や小野小町が絶世の美女なら、絶世の美男子といえば在原業平
彼は京に住んでいたが、ふと思いつき東国へ下る途中の、隅田川にて
「白き鳥の嘴と脚と赤き鴨の大きさなる、水の上に遊びつつ魚をくふ」
(伊勢物語)という鳥を目にした。渡し守にその鳥の名前を聞くと
「都鳥だ」という。そこで業平は、
「名にし負はば いざこととはむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしや」
と詠んだ。この鳥は現在でも目にする「ゆりかもめ」のことだが、
そのまま「かもめ」詠んでは歌にもならず、名所にもならなかった、
というのである。
私も地球も水でできている  井丸昌紀
盗人を大根からい目に合わせ
『徒然草』に大根にまつわる奇談が出ている。
筑紫の人が毎朝大根を二本焼き、薬として食べていた。
ある時、館に敵が襲来したとき、見知らぬ兵が二人現れ、命を惜しまず
奮戦して敵を追い返したので「どなたですか」と尋ねると,
「年来あなたが食べてくださる大根です」といって姿を消したという。
当時、徒然草は庶民対象に講じられていたから、これは謎句というもの
にならなかったかもしれませんね。
大根の髭は他人を騙さない  桑原伸吉




    紫 式 部


石山で出来た書物のやわらかさ
この書物を書いたのは誰なのだろう。謡曲『源氏供養』に我石山に籠り
「源氏六十帖をかき記し」「紫式部、頼みもかけて石山寺に籠り居て、
此物語を筆に任す」とある。

石山で二十里外の月を書き
月の名所の石山にいて二十里(約80㌔)離れた明石の月を書き
一割は雲隠れし物語
「源氏物語六十帖」雲隠れは、源氏物語五十四帖の巻名のひ一つであり、
幻と匂宮の間にあるとされるが巻名だけが伝えられ、本文は伝存しない。
因みに「紫式部」は日本でいちばん最初のペンネーム。
隠し損ねた尻尾の先にある本音 みぎわはな




   清 少 納 言
雪の謎解けて御簾を巻き上げる
平安中期、女流文学の花が絢爛と咲き誇った。
時の権力者たちは、愛娘を后にする為、また自身の地位を高めるため、
文学に秀でた女官を集めサロンを形成、娘の教育のカルチャースクール
を開講した。教師には、清少納言、紫式部、和泉式部、赤染衛門らが。
その中で清少納言の書いた『枕草子』「香炉峰の雪」の逸話がある。
雪が降ってきたので皇后の定子「香炉峰の雪は?」と謎めいたことを
言うと、清少納言は、白楽天の詩の「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」
を知っていて、「黙って簾を巻き上げただろう」というのである。
清女は早起き紫女は宵っ張り
この句の意味はそれぞれで紐解いてください。
香炉峰といわれて出したかきかき氷 松下和三郎
 
 
そば切りが二十うどんが二十七
「そば切」は現在のモリ蕎麦。合計四十七と麺類が謎句のヒント。
吉良邸討入前、そば屋に集結した赤穂浪士47名が注文したのは、
「こんなところだろうか」と推測したのである。
熨斗つけてお返ししたい人がいる  新川弘子 

    
七人は藪蚊を追うにかかってゐ
七人はいわゆる「竹林の七賢」である。
晋代、阮籍(げんせき)ら七人は、世を逃れ竹林で清談を楽しんだ。
「それでは、藪の中から蚊を追うのに忙しかっただろう」
と川柳子は視点を蚊に向ける。
新しい生き方探る梅の花 井上登美
コロはてなリンははあシャンここだわえ
「コロリンシャン」は琴の音。
謡曲「小督」源仲国が、高倉院の寵姫・小督局を探せと命じられ、
嵯峨野で「想夫恋」の小督の引く琴の音を聞き、居所をたずねあてる。


マンドリンは琵琶の連れ子という噂 上田 仁

 

 藤原時平と菅原道真

晴天になりそこに時ここに平
藤原時平の讒(ざん)にあって太宰府へ流された菅原道真は、死後、
天神となり、清涼殿の落雷による死傷は道真怨霊の祟りと恐れられた。
落雷のあと探索してみると、時平の体がばらばらになっていたという。
(これは史実を湾曲しており、実際の時平の死とは違う)
青空を破いてグイと鼻をかむ 菊池 京
五条ではぶたれ安宅でぶちのめし
五条大橋で弁慶牛若丸(のちの義経)に打たれ、安宅の関では、
弁慶が義経を金剛杖で強く打ちすえ、富樫の疑念を晴らそうとする。
これは「弁慶の五条大橋で打たれたことへの 報復ではないか」と
弁慶の仕返し説をもって、川柳子は笑い穿つのである。

良心の呵責はとうに捨てました 前中知栄
先刻はなどと蘭丸次いでいい
信長は、小姓の森蘭丸に命じ明智光秀を鉄扇で打たせた。
主命で心ならずも打った蘭丸は、あとで「先刻は御無礼を」と光秀に
詫びに行っただろうと川柳子は、想像を膨らます。
怒ってはいない金平糖の角  山田こいし  




  蛍の光で学ぶ車胤

註をよむ時に蛍はゆさぶられ
晋の車胤・孫康「蛍雪の功」の故事から。
車胤は蛍の光で、孫康は窓の雪明りで読書したといわれる。
註は細字なので、車胤はそこを読むとき、籠をゆさぶり、蛍の発光を
強くさせただろうと川柳子の実感である。
はにかんだホタルは出番模索する 

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鯛焼きのあんこをパスカルが詰める くんじろう



               
  源 義家(頼朝の父)                           平 忠盛(清盛の父)


「詠史川柳」 名前


平安初期、天皇家の財政が困窮し、多くの皇子を養ってゆけなくなった。
そういうことから「源」(みなもと)という姓が創設された。
弘仁5年(814))嵯峨天皇のときで、皇子皇女に「源」姓を持たせて
臣籍にくだした。
ついで、源の成立から11年後の825年、桓武天皇葛原親王の子を
臣籍にくだし、はじめて「平」(たいら)という姓をおこさせた。
今風にいえば、就活によいだろうと天皇の配慮である。
その後、「源・平」はふんだんに創られた。

控室から砂漠への経路 清水すみれ


 
源氏の場合、嵯峨源氏を含め、淳和、仁明、文徳、村上、陽成、宇多、
醍醐、清和、花山とつづく10人の天皇の支脈が大量に源氏になった。
その多くは降下後、数代で零細な存在になり、とくに「清和源氏」が、
地方に土着して武家家し、ついには後代、関東を制するに至ったことは
よく知られている。
平氏は桓武を含め、仁明、文徳、光孝の4人の天皇の別れが賜姓された。
関東で土着するのは「桓武平氏」で、平安末期には「坂東八平氏」など
と呼ばれた。それぞれが地名を名字に置いて、千葉、上総、三浦、大庭、
梶原、秩父、長尾、土肥の八氏を言い、彼らは坂東の開発人として武力
を誇った。

先生と同じ字の名で親近感 足達悠紀子

平安中期頃になると公地公民の律令制が崩れ、農民の暮らしが成りたたく
なり、多くが逃散して浮浪人となり、坂東をめざした。
彼らは実力ある非合法農場主の支配に入り、家来になって土地を耕し乍ら、
合戦には雑兵として主の供をした。
そういう無名の主たちが、あらそって源・平もしくは、藤原氏を自称した。
「氏素性はいかに」と問われれば「平氏に候」などと平然と言ったりする。
妻の遠縁の者が、たまたま平氏であったというだけの理由で平氏を称する
者もあり、平安末期頃には坂東だけでなく、奥州のはしから九州にいたる
まで源・平(これに藤・橘が入る)のいずれかでない者はいなくなった。

密林に寄生しながら生き延びる 藤本鈴菜

家康のルーツにも、こうしたものがあるのかも知れない。
門外不出の大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』によると、
「徳川将軍家の祖は、新田義重である」義重は清和源氏の嫡流であった。
が、一族の新田義貞の威勢に押されて、新田の内の徳河(得川)郷に住み、
「徳河殿」と称した。そして新田義貞が足利尊氏に敗れると、徳河を去り、
その子孫10代ほど放浪したのち、表に出るのが松平清康である。
家康の祖父である。
彼には「世良田次郎三郎清康」という署名があり、「世良田は新田庄内の
徳川郷のある土地の名なので、新田の子孫である」と称した。
こうした背景から家康も若い頃から「松蔵源元康」と署名をしている。
自分は源氏であると称していたわけで、永禄9年に、家康は正親町天皇
の勅許を得て「松平を徳川に変え、かつ先祖「徳川」氏がそうであった
として〈源から藤原〉に改姓し、従五位下三河守に叙任された」とある。

美しいわたしに髭が生えてくる  柴田園江

【豆辞典】 源・平・藤・橘
源氏、平氏は皇族が臣籍降下(皇族が一般人になる)ときに与えられた氏、
橘氏も皇族の一族、藤原氏は中臣鎌足に下賜され、その子不比等の時代か
ら権勢を誇った一族。この「源・平・藤・橘」の4つの氏族の共通点は、
政治の中枢についていたということである。
その事から、憧れの家系図ともされる。

少しだけ空気を抜いて転げます 森田律子



 
  阿武松縁之助

「力士の珍名」

由井正雪の謀反事件の後、江戸幕府によって一時期、四股名の使用が禁じ
られた。叛意を持った浪人が、来歴を偽って相撲取りの巡業のなかに潜伏
するようなことを、取り締まるためだった。
やがて幕政が安定するとこれも解禁され、谷風梶之助、小野川喜三郎らの
活躍する寛政期になると、現在に通ずるような勇ましさだけでなく優雅さ
を強調、山・川・花・海・といった文字を折り込む四股名が使われ始めた。

何なのだ発光キノコのあの笑みは 徳山泰子

「笑ってはいけません。相撲は真面目に取りました」


一二三山 四五六(ひふみやま よごろく)
三ッ△ 鶴吉(みつうろこ つるきち)
相引 森右衛門(あいびき もりえもん)
兎角 是非内(とかく ぜひない)
螺貝 鳴平(ほらがい なるへい)
白旗 源治(しろはた げんじ)
宝年 万作(ほうねん まんさく)
電氣燈 光之介(でんきとう こうのすけ)
自働車 早太郎(じどうしゃ はやたろう)
自轉車 早吉(じてんしゃ はやきち)
文明 開化(ぶんめい かいか)
不了簡 綾丸(ふりょうけん あやまる)
貫キ 透(つらぬき とおる)
突撃 進(とつげき すすむ)
野狐三二郎(のぎつね さんじろう)
片福面 大五郎(かたおかめ だいごろう)
軽気球 友吉(けいききゅう ゆうきち)
〆切り 玉太郎(しめきり たまたろう)
豆鉄砲 芳太郎(まめでっぽう よしたろう)
馬鹿の 勇介(ばかの ゆうすけ)

太ももが捩じれましたのカーニバル  山口ろっぱ


   
「とても読めない力士の名前」


鯨波 源太夫(ときのこえ げんだゆう):最高位は前頭筆頭。
友鵆 寿作(ともちどり じゅさく):最高位は前頭4枚目。
輦 文治郎(てぐるま ぶんじろう)最高位は前頭6枚目。
梁 富五郎(うつばり とみごろう)最高位は小結。
階 玉右衛門(きざはし たまえもん)最高位は前頭3枚目。
桟シ 初五郎(かけはし はつごろう)最高位は前頭筆頭。
勢見山 兵右エ門(せいみざん ひょうえもん):最高位は小結。
鑛 石松(あらがね いしまつ):最高位は前頭7枚目。
籬野 雲右エ門(まがきの くもえもん)最高位は前頭2枚目。
殿り 源吉(しんがり げんきち)最高位は大関。明治初期の幕内。
京 石松(かなどめ いしまつ):最高位は前頭10枚目。

毎日をオヤ・アラ・マアと生きている 美馬りゅうこ

「親方の遊び心にある名前」


可愛嶽 実男(えのだけ さねお)出羽海部屋所属。
笠洋 正好(りゅうよう まさよし)北の湖部屋所属。
天降川 彰彦(あもりがわ あきひこ)井筒部屋所属。
寒水山 雅直(そうずやま まさなお)井筒部屋所属。
常陸號 達也(ひたちごう たつや)武蔵川部屋所属。
望櫻 将太(みざくら しょうた)宮城野部屋所属。
高麗の国 譲二(こまのくに じょうじ)芝田山部屋所属。
土佐颯 一光(とさはやと かずみつ)錣山部屋所属。
若樫固 光(わかけんご ひかる)松ヶ根部屋所属。
大小林 央弥(だいしょうりん ひろや)荒汐部屋所属。
荒馬強 強(あらうまごう つよし)伊勢ノ海部屋所属。
光源治 晴(ひかるげんじ はる)峰崎部屋所属
天空海 翔馬(あくあ しょうま)立浪部屋所属
海波 海波(みなみ みなみ)立浪部屋所属
刃力 誠将(ばりきしげのぶ)錣山部屋
大越前王 力(だいえちぜんおうりき)千賀ノ浦部屋
猫又虎右衛門(ねこまた とらえもん)伊勢ノ海部屋
鳩弾力 豆太郎(はとだんりき まめたろう)出羽海部屋

会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ


 

「詠史川柳」



   平将門の首


≪平将門≫


裾を踏んで将棋倒しの相馬公家


平将門は下総を本拠とする平安中期の武将。
「坂東八か国」の独立を宣言し、勢力拡大を続けて、ついに下総国猿島郡に
御所を造営し、新皇を自称するに至る。御所だから公家がいるわけなのだが、
何しろ田舎者だから「相馬公家」と嘲られ、裾を踏んだりして、将棋倒しに
なっただろうとからかわれる。

よこしまの道にくわしき相馬公家


股引の大宮人は相馬公家


この将門の討伐に向かったのが藤原秀郷だった。
しかし将門には七人の影武者がいて、なかなか手強い相手なのである。


恐ろしさ七つに見えるつなぎ馬


「繋馬(つなぎうま)は将門の家紋。
秀郷は将門の弱点が「こめかみ」であることを知り一矢で射貫いて倒した。


米噛み以来評判の俵なり


米噛みを射て将門を討ち取って以来、秀郷(俵藤太)の評判があがった。

窓辺に雑巾まだ独り名の君 桑原すゞ代

拍手[3回]

寝て起きてごはん食べたらまた寝てる  雨森茂樹


 拡大してご覧ください
江戸の人気力士勢ぞろい

 

江戸時代の庶民の娯楽といえば、歌舞伎や寄席また相撲も娯楽の一つ。
「相撲」の興行が定期的に行われるようになると、庶民の間で爆発的
な人気を誇るようになる。

 

「詠史川柳」 江戸の相撲


江戸の三男という言葉がある。与力、力士、火消しの頭が江戸の花形、
というものだ。このなかで、力士は「一年を二十日ですごす良い男」
川柳に詠われた。
力士がなぜ、年間二十日間の実働で一年間暮らせる好漢とうらやまれた
かというと、彼らが活躍する「勧進相撲」が春と冬の年二回、晴天十日
間の開催とされ、好きな相撲をするだけで、一年を楽に暮らせるほどの
給金を得ていたからである。


手付かずの図星を抱いて今日も暮れ 高野末次
 
 


この勧進相撲とは、寺社が修復費用などを集めるために、幕府の許可を
得て興行する相撲のことで、許可の証しとして番付には、「蒙御免」と
大書された。これはいまも番付表などに名残をとどめている。
寺社の企画だから、神事の一種という事になり、女性の見物はご法度。
本所の回向院が主な会場で、見物客は未明から回向院を目指した。
「堺町ずかずか通る相撲好き」
と、川柳子が睨むように江戸の相撲フリークたちは、日本橋から両国
橋を渡って、墨田川の東岸の回向院に、相撲を見る前から興奮して、
日本橋堺町にあった芝居小屋には目もくれず、鼻息荒く、ずかずかと
歩いていた。そんな連中だから、すさまじい混雑のなか、贔屓の力士
をめぐって興奮の頂点に達し、あちこちでつかみ合いの喧嘩をはじめ
るほどだった。

 

雑踏の中の一人になり凍え 藤本秋声

 
「江戸の人気力士」




 

明石志賀之助。江戸勧進相撲の創始者とも言われている。
このことからか日本相撲協会は、彼を初代の横綱として認定している。
体格は,彼を祀る蒲生神社の等身大という銅像によると身長221.2cm、
体重は約225kgとなっている。
これはより大きく、逸ノ城の重たさである。

次は、仙台藩おかかえの二代目横綱・谷風梶之助
体格は、全盛時代で身長189cm、体重169kgのアンコ型で、大きさは
大関・栃ノ心に相当する。
江戸本場所での谷風の通算成績は、49場所で258勝14敗16分16預5無
112休、949の勝率を誇る強さ。



 
 谷風と小野川喜三郎

谷風と何度か対戦をした小野川喜三郎は、久留米藩お抱えの力士で、
5代横綱まで登りつめたが、体躯・筋力に優れる谷風梶之助に対し、
慎重な取り口と技巧で対抗したが一度も勝っていない。
ともかく姑息な立合いが多く、江戸庶民の人気は薄かった。

利き足に小春日和を巻いておく みつ木もも花



 
雷電為右衛門

そんな中で一番の人気は、松江藩お抱えの雷電為右衛門である。
江戸時代だけでなく現代まで含めて、史上最強だと押す人もいるほどで、
その生涯成績は254勝10敗2分(預り14、休み41)。通算勝率:.962。
まさしく「土俵の鬼、また土俵の神」と呼ばれた。
又、その強さのあまり雷電は「張り手、鉄砲、閂」を禁じ手とされたり、
その強さを伝える逸話にはいとまがない。彼の人気は、数多く浮世絵も
残されていることからも伺いしれる。
体格は江戸相撲で初土俵を踏んだ時の宣伝の錦絵には、6尺5寸、45貫目
(197cm、169kg)と書かれており、これが定説となっている。

これは平成最強の横綱・白鳳(192㎝ 158㎏)とほぼ同じである。
因みに、白鳳の2019年3月場所10日目(19年3月20日現在)、
幕内戦歴1022勝184敗 勝率850。すごい数字です。



頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子



野見宿禰・當麻蹶速

 

「相撲の歴史」

相撲の起源として「野見宿禰」(のみのすくね) VS「當麻蹶速」たい
まのけはや)の天覧相撲が日本書紀に書かれている。
蹶速は、手で牛の角をへし折るほどの怪力の持ち主で、
「この世で自分と互角に力比べができるものはいないのか、
もしいればその人物と対戦したいものだ」と豪語していた。
11第天皇垂仁(すいにん)がその話を聞き、家臣に
「蹶速と互角に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、
家来の一人が
「出雲の国に野見宿禰なる人物がいます。この人物を
呼び寄これをせ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」と進言した。
天皇は喜び天覧試合の運びとなった。
蹴りもある喧嘩のような相撲もどきの試合は、長い戦いの末、
宿禰が勝ち蹶速は命を落としてしまう。


引導を渡される迄あきらめぬ 吉岡 民


相撲は古代から「豊作を願う儀式」として行なわれていたが、奈良時代
から平安時代には、朝廷行事となる。
宮廷行事の余興の一つとして、「相撲節会」と呼ばれる相撲大会が毎年
7月頃に行われるようになったのである。
この時はまだ土俵は無く、相手を倒すか地面に体の一部を着かせた方が
勝ちだった。
一方、鎌倉時代から始まる武士の時代には、心身を鍛錬する武芸として
盛んに行なわれるようになった。
戦国時代になると、諸大名が「お抱え力士」を持つことが流行し、娯楽
としても親しまれるようになる。
戦国武将で最も相撲に熱心だったのは、織田信長だといわれている。
『信長公記』によると、元亀天正の間(1570~約10年)9回もの
「上覧相撲」を催され、勝ち抜いた者は家臣として召抱えられたという。

出直しのチャンス頂く春キャベツ  靏田寿子

豊臣秀吉も相撲が大好きで、慶長元年(1596)頃に成立した聞書集である
『義残後覚』には、四国の大力と聞こえた力士を2千石で召し抱え、
毛利輝元のお抱え力士の評判を聞いて聚楽第で2人を立ち会わせようと
した、というエピソードがある。
豊臣秀次も相撲を好み、同時代の公家・山科言経の日記『言経卿記』
などから、秀次がたびたび上覧相撲を行なったことがうかがえる。
 江戸時代に入ると、先に書いたように寺社奉行の指導のもと、
全国の寺社で「勧進相撲」が行なわれるようになる。
やがて年6回の大相撲も許可され、庶民の娯楽として今日に至る。

秀吉のおまるはただの純金製 木口雅裕

 

「詠史川柳」
 


  頼 光 四 天 王

≪坂田金時≫

源頼光の四天王の一人で実在の人物ともいわれ、いろいろな伝承がある。
ここでは、山姥の子で足柄山にいたのを、頼光に見出されて家来になり、
四天王の一人として大江山の鬼退治で活躍する物語がもとになっている。

どうせお世話がやけましょうと山姥

頼光から、金時を家来にしようとといわれて山姥曰く

まさかりとどてら一つでかかえられ

まさかり担いだどてら姿で召し抱えられたのだが、なにしろ
山姥の子ですから、親戚などおりません。

金時は親類書にこまるなり
金時の系図はたった一くだり

しかし、大江山の鬼退治では、生来の強力で活躍。

金時はくわえ煙管で角をもぎ



煙管(きせる)をくわえたまま、遊び半分で鬼の角をもぎとったという。
油断は事故のもとと、「頼光四天王のうちに、公時(金時)という者は
血気の勇
者にて、危うきことも多かりしを、綱つねにこれを諫むといふ」

金時は妻子を持たず、頼光没後行き方知れずになったという。

カレンダーに印ついてる何だっけ 下谷憲子

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イスラムも釈迦もエホバも二本足  清水すみれ


 拡大してご覧ください
   彦左衛門登城の図

 
「詠史川柳」 大久保彦左衛門
今から360余年前の慶長8年(1603)家康が征夷大将軍になって、
江戸に幕府を置いた時は、いまの千代田城のまわりに、百姓家が数十軒
点在するだけだった。それが二代将軍・秀忠、三代家光と幕府の基礎が
固まるとともに、諸国の人が江戸へ集まって、江戸はわずか3、40年
の間に日本一の大都会になってしまう。
この大都会を横目に徳川三代に仕え、一見取り残された男として愚直に
生きたのが、大久保彦左衛門である。

隙間にはアロエの鉢を置いておく 合田瑠美子


大久保彦左衛門とは、剛直、篤実、朴訥、さらには主家への忠誠心とい
った古三河の倫理風土がそのまま凝ったような人柄ながら、後年、武士
が政治家や役人として出世して行く世になると、時勢にあわず、存在そ
のものが喜劇性を帯びた人物として知られる。
市井の人々はその滑稽感がよほど好きだったのか、江戸中期以降、芝居
や講談のなかでその人柄が典型化され、さまざまな話が創作された。
芝居や講釈が作り上げた彦左衛門は、「天下の御意見番」などというこ
とだった。彦左衛門が月形龍之介、一心太助は中村(萬屋)錦之助が演
じた映画を懐かしく思われる人も多かろう。若い子は知らないだろうが、
将軍様にも、無礼講で、ずけずけ意見を述べにいく痛快な爺様である。
いわゆる「あの老人は大久保彦左衛門なんです」と今社会でも言われた
りして、会社では閑職ながら、先々代からつかえていて、精錬で頑固で
融通がきかないが、お家の大事となると、社長に面を冒して忠諫を加え
たりする傑物である。

はぐれ雲抜き差しならぬ仕儀になる 桑原伸吉



ところが三代家光の泰平の世になって、彦左衛門は無用の人になった。
政道の堕落を嘆き、役人の腐敗を見るとにわかに登城して家光に拝謁
して、侃々と諫めるのである。
そういう場合、彼は自分のことを「彦左」と呼んだ。
しかし、実際の彼には、そういう気分があったにせよ、芝居や講釈や
映画の中のような「ご意見番」などではなく、すでに世の官僚機構は
確立していて、彼のような二千石程度の旗本などが大きな口をきける
時代ではなくなっていたし、それに過去の武功などは、現実の機構の
なかでは、お伽噺にすぎなくもなっていた。


 
たこ梅の菜箸がひとり歩きする  酒井かがり


「大久保彦左衛門」の画像検索結果
 
「彦左」は、正しく名乗れば彦左衛門忠教(ただたか)である。
忠教の先祖は、家康の松平氏の先祖が、まだ三河の山岳に拠っていた小
勢力だった頃に仕えた。その後、家康にいたるまでの七代にわたり、
大久保氏六代が忠勤に励むのである。
忠教は庶腹の子だった。
武家では、原則として弟は兄の家来になる。
彼は正嫡の長兄・忠世(ただよ)の与力として働き、忠世の死後はその
忠隣(ただちか)のもとで働いた。
忠隣は歴世冷や飯を食った大久保氏としては最も優遇された人である。
小田原で6万5千石をもらったが、よく分からない理由で家康に突如忌
まれ、慶長19年城と領地をとりあげられた。

バズーカ並みのヒジ鉄に襲われる 中川隆充


忠教はこの本家の悲運が、本田正信の讒言から起こったということを信
じていた。正信は若い頃三河一揆方に加担し、その後他国に流浪してい
たがやがて帰参し、家康の唯一の陪臣として終始した男である。
武功はなく、渾身の謀才をもって家康を助け、家康は正信を見ること、
「朋友の如く」だったという。
忠教はこの男を憎んだ。
「そういう奴が出世する世になった」と詮無いことながら主家の冷たさ
を恨んだ。
―忠教はこのことが動機となって『三河物語』を書いた。

お袋胃袋堪忍袋お疲れで  田口和代


忠教は、『三河物語』を子孫への訓戒として書いたが、徳川家について
露骨なことが書かれていることもあって門外不出とした。
内容は主家徳川家の由来、松平時代の歴世の当主のこと、さらには大久
保家代々の武功のことなどで、実に詳細な松平史であり、族党史である。
しかし自分のこととなると、わずか三か所で述べているにすぎず、この
ため自伝とは言いにくい。
(この本の存在が知られたのは、明治13年。当時の大久保家の当主が
忠教の自筆本を勝海舟のもとに持ってゆき、始めて世に出たものである)



百均で買ったお面がよく似合う 雨森茂樹




 一心太助

家康は忠隣を改易に処したとき、忠教を拾い上げて自らの旗本にした。
石高は千石、槍奉行で足軽一隊の隊長という低い職だった。
この前後にもう一つの不幸があった。
沼津で二万石という次兄の忠佐(ただすけ)が77歳で死んだのである。
沼津大久保家ではその直前に嫡子忠兼が急死したため、世嗣なしとして
幕法により家が潰された。忠教が生涯でもっとも見事だったのは、この
沼津大久保家が断絶する直前、それを免れるために、忠佐が弟の忠教に
いそぎ養嗣子になってくれと頼むも、忠教が断ってしまったことである。
忠教が「承諾」とさえいえば、沼津二万石はつぶされずにすむし、
忠教も大名になれる・・・のにである。
「わしは二万石相当の武功をたてたことがない。武功もないのに大名に
なれようか」と言ったという。
このことは武功なくして口利きひとつで大名になった連中へのあてつけ
であり、徳川家への痛烈な批判でもあった。
 


台風の目ができそうな中二階 一階八斗禄
 


自身の著の『三河物語』で彦左衛門は訓戒している。
「子ども、よく聞け。お禄を下さらぬとも御主様に不足を思うな。
世を見るに、主人に弓をひいたような人が、高い禄を得、子孫も栄える
と見えたわい。また卑怯なふるまいで人に嗤われた者も、いまは出世を
したわ。またまた座敷で立ち回っているだけの者も栄達したぞ。
しかしながら大久保の者は、如に冷遇されようとも、奉公は懸命にせよ。
飢えて死ぬともこの心をもて。それが先祖からのしきたりである」
 

悔いのない生きざまだったサンセット  早泉早人

『三河物語』について。忠教の書いた文章は非常に面白い。
誤字・宛字が平然とひしめきあっているのである。
たとえば無造作に「太香」とあるのは、彼の嫌いな太閤秀吉のこと。
「百将」というのは「百姓」のことで、宛字ながら字面がいい。
「不運」のことを「浮雲」と書く。
これらは意識的なものなのか、迂闊なものなのか、どちらにしろ彦左衛門
のもつ天性の文学的センスを感じさせるのである。
 

お醤油をたらしてちょうどいい厚み  井上しのぶ  
 
         


 
「詠史川柳」



   遣 唐 使


≪最澄・空海≫

田村麻呂と同時代の人に「平安の二大聖人」と謳われた伝教大師・最澄
と弘法大師・空海がいる。
二人は804年の第16次遣唐使の学僧として、一緒に唐に渡った仲。
最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧で、
31歳の空海は、全くの無名の若者だった。
乗った船は往復とも異なり、学んだ寺も異なりましたが、もともと昵懇
の間柄で帰国後も親しく付き合っていた。
ところがある日突然、絶交をする。



両大師五言絶句でものを云い

五言絶句は、起承転結の漢詩の一つの体形。
絶句を絶交に利かせて、唐で漢詩を学んだので、それで言い合いした
のではと川柳子は詠む。
仲違いの原因は、空海が持ち帰った『理趣経』という密教の経典だった。
この経典を最澄は持って来なかったため、空海に借りたいと頼んだ。
すると空海は「あなたは理趣経を学ぶ資格のない人間だ」と拒絶。
これにより二人の付き合いはなくなる。「理趣経」は人間の本能や欲、
男女の愛欲に求めた経典であり、この経典が流布した場合、モラルも
何もない性の洪水の世の中になると、空海が危惧したのである。
事実、空海は真言宗の一部の高僧だけに理趣経の存在を知らせ、
門外絶対不出の秘密経として扱っている。
最澄は天台宗、空海は真言宗の開基だが世に空海作の仏像は沢山ありー


仏師屋をやっても弘法食えるなり

空海は嵯峨天皇、橘逸勢とともに「平安の三筆」と謳われた名筆家。
「弘法も筆の誤り」をパロディーにしてー

弘法も一度は筆で恥をかき

余談です、弘法大師には、聖人ゆえのいろいろな伝説がある。
「ひらがな」は弘法大師が考案したものとか、
また大師が旅先の村で芋を所望したとき、村人が「この芋は石のように
固くて食べられない」と嘘をいって断ったところ、
それ以後、その村の芋がすべて石になってしまったとかー。

トナリから攻め寄るたとえばの話 山口ろっぱ

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