馬鹿なことやめたらきっと死ぬでしょう 中野六助
七代目・団十郎(五代目・海老蔵)
「詠史川柳」―七代目・市川団十郎と江戸の改革
文化・文政の時代から天保にかけて、7代目団十郎の全盛を詠った川柳がたくさんある。ことに”世の中は団十郎や今朝の春”が有名”。また狂歌には〝江戸見ては外に名所もなかりけり 団十郎の花の三月“というのもある。まことにわが世の春であった。天保11年、(1840)「助六」・「勧進帳」を創演し『歌舞伎十八番』を天下に宣したこのころが、海老蔵こと団十郎の最良の時であった。
だが、それからわずか2年後、団十郎はご法度に背いた罪で江戸を追放、7年間の地方巡りの末、許されて復帰したときは、すでに老境に入っており、しかも頼みに思う長男・八代目の自殺…という芝居にもみられない波乱の体験を持っている。
尻尾のない男が一人まぎれこむ 居谷真理子
七代目が南町奉行・鳥居甲斐守の役所へ、家主付き添いで出頭を命じられたのは、天保13年4月6日のことである。奢侈取り締まりのお触書に背いたということで、「手鎖」を受け、吟味が済むまで、家主お預けを申し渡されたのである。このとき彼は、河原崎で「歌舞伎一八番乃内」とうたって『景清』を演じていたので、“景清は牢を破って手錠喰い”という川柳が生れたが、折から芝居はこの河原崎座一軒だけでもあって、3月7日の初日以来大入りを続けていた矢先の、椿事であった。
なぜ興行していたのが河原崎座だけだったかというと、江戸三座のうち中村座・市村座の両座は、前年の10月7日に火事で焼けたまま、再建の許可がおりず、大晦日になって強制移転を命ぜられ、てんやわんやの騒ぎだったのである。
吹雪襲来わたしがなにをしたという 夏井せいじ
やがて河原崎座も同じく移転命令をうけるのだが、この三座の移転あるいは強制隔離と、芝居界の頭領七代目団十郎の追放とは、「天保の改革」という法令の、芝居に及ぼしたなかで、もっとも顕著なものであった。しかし、この厳しい弾圧は突然降って湧いたわけではなく、有名無実になりつつあった「寛政の改革」以来の取り締まりの強化だった。
寛政元年に始まる歌舞伎界への政策を振り返ってみると。舞台日常など「万端質素」にすること。終演は夕7ツ時(午後4時)限りとし、暗くなっても灯火は防災上一切禁ずる。役者の給金を5百両以内とする。役者がみだりに宴席その他で一般人との交際を禁ずる。芝居者はすべて遠くから通わず劇場近辺に住むこと、など。ただしこの寛政の改革も享和から化政にかけて弛みはじめたため、文政の末頃から、ふたたび弾圧は強化されたのである。
石垣の石はスクラム組まされる 籠島恵子
文政10年(1827)10月、町奉行・筒井伊賀守の許に役者関係者代表が召喚された。このとき七代目は「歌舞伎役者惣代」として出頭している。寛政取り締まり条項の再通達である。趣意書には、「役者給金千両余に相成候由」「役者共著に長じ法度の衣装をも相用候様成行」という文言がある。このとき七代目の給金はいくらだったか、明確ではないが、千五百両は下らなかったと思われる。10年前までは千両役者といっても、実際は、七百両くらい相当に暮らしていたのに、「今は高給取りに借金が多いのは、生活が贅沢になり過ぎたからだ」というのである。その頭目が七代目だったのはいうまでもない。
彼は愛妾とたくさんの子を抱えながら、質素倹約どころか豪邸を金銀朱塗りの建具調度で飾り立て、庭には高価な灯篭や石を数多据えるなどという贅沢ぶり。借金がかさむのは当然だった。が、「役者惣代」としてたびたび召し出されても改める様子もなく、江戸・上方の劇場から巨額の前借りを続けていたのである。
オクラほどの粘りが性に合っている 下谷憲子
水野忠邦が意気込む改革の再引き締めも、歌舞伎界では、惣代の七代目がこんな具合だから成果があがるはずもない。奉行所が対策に苦慮していると、幕府にとっては幸いにも、天保12年10月に中村・市村両座が家事に見舞われ焼失した。忠邦はこの機をとらえて一挙に粛清すべく、遠山金四郎をブレーンにして慎重に検討を重ね、三座の強制移転に踏み切ることにした。もっとも忠邦は芝居のとりつぶしを考えたが、そこが金さん民心の安定・治安維持のため芝居の必要性を説き、廃滅は免れる。そして当時としては辺鄙な浅草聖天町に転地がきまり、新しい地域は猿若町と名付けられ、天保14年5月開場し、歌舞伎の新たな出発となる。
そして愈々、この三座移転と並行して,6月22日、幕府は七代目団十郎の江戸追放を実行する。北町奉行・御番所において、遠山左衛門尉から
七代目は罪状・処罰を申し渡される。要するに、「万事質素にせよとの命令に背いて、芝居は人気商売だからと称して、贅沢な暮らしを続けていること、加えて土蔵内に飾った不動像の金箔の彫物、朱塗りの須弥壇、金の天井、唐櫃、木彫り彩色の雛やその付属品いっさい迄細かく、調べ上げた上で」のお裁きである。
嫌悪という不条理ヘビの背はぬらり 加納美津子
再三の警告にも大衆(見物人)のためとということを盾にとって、いっこう改めないのだから、幕府がこんどこそ厳罰に踏み切ったのも無理もない。が、団十郎にしてみれば、大衆観客の支持こそ芝居存立の第一条件なのだから、それを盾に取ることはいわば正当防衛のようなものだった。
手錠にも追放にもめげず、平気な顔で芝居が続けられたのも、こうした大衆の絶対支持の力をつねに背後に感じていたからである。
それから三日後、やむなく七代目・団十郎は江戸を離れ、ひとまず先祖の地・下総(千葉)の成田山新勝寺延命院に謹慎する。
むろん彼ばかりが処刑されたわけではない。この前後には、一般人と交わったかどで歌右衛門ほか4人が、衣装の贅沢と実物に紛らわしい鉄砲を「忠臣蔵」の勘平で用いたかどで菊五郎が、遠くに住みかつ往来で編笠をつけなかったかどで菊五郎・宗十郎そのほかが、また女湯へ入ったかどで菊次郎・しうかが、手鎖や罰金刑を受けている。しかし、なんといっても七代目の追放は最高の厳罰であった。“海老蔵は役者のなかで大きな目”という川柳がある。七代目は大きな目玉を持っている。この親玉を締め出せば、少し芝居も大人しくなるだろうと言うのである。因みに、団十郎は42歳で八代目に譲り、自身は海老蔵を名乗った。
緞帳はゆっくりおろすことにする 竹内ゆみこ
≪久米仙人≫
人が降ったと洗濯をやめて逃げ
昔、吉野にいた久米仙人は、空を飛んでいるときに、洗濯をしている女性の白い脛を見て、神通力を失い墜落をした。空から人が降ってくれば、誰でも驚くのが当たり前。落ち着いたら、気絶している仙人を介抱したり、「気付け薬を持ってきて」と頼んだりと、川柳子の目は優しい。今昔物語集では、「衣を洗うとて、女の脛まで衣を搔き上げたるに、脛の白かりけるを見て、久米心けがれて其の女の前に落ちぬ」とある。
仙人様あと濡れで手で介抱し
洗濯をやめやれ気付けやれ気付け
その後は、間抜けな話を聞いたかいと村中に噂話が広がる。
久米がすこたん聞いたかと仙仲間
「すこたん」はぼんくらな人のこと。次は仙人をあざける究極の句。
脛を見たくらい目まいを起こすくらいなら…
女湯の番をしたなら久米即死
…となるだろうと久米仙人を心配する川柳子である。
思いっきり笑う 馬鹿バカと笑う 田口和代
≪柿本人麻呂≫
末世まで明石の浦で目を覚まし
足引の 山鳥の尾の しだり尾の なが々し夜を ひとりかもねむ
百人一首の三番。ちなみに意味は、〈山鳥の垂れ下がっている尾がいかにも長いように、なんとも長い夜を、私は恋しい人の訪れもなくただ一人さみしく寝なければならないのだろうか〉が有名だが、しかし川柳には
”ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ” (古今集)を題材にした句が多い。句の上句と下句を分けて、朝起きの呪(まじない)としたのである。寝る前に上の句を唱え、朝目が覚め次第、下の句を唱えるというのである。。
明石から起こし人の来る花の朝
花見とか芝居見物とか、早朝に起きねばならない時は、もっぱらこの歌を頼りにした。
人丸に恥をかかせる寝濃いこと
寝濃いとは寝坊のことで、呪いが効かなかったと人麻呂に恥をかかせる狙いがある。明石にある「人丸神社」に盲人が詣ったところ目が明き、不要となって捨てた杖から花が咲いたという「盲杖桜」の伝説がある。
袋とじから安倍清明をお出しする 松下和三郎
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