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川柳的逍遥 人の世の一家言
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逃げ道をそっと残して責めてやる  奥野健一郎

 勝海舟と西郷会見
第一次長州征伐の前に西郷は、当時幕府海軍創設のために活動していた
勝海舟と面会した。この時西郷は海舟を高く買い、こうしたことが後の
江戸開城へと繋がっていった。
また【長州への処罰を穏当なものにするよう」西郷に持ちかけたのも勝
海舟であるともいわれている。
「西郷どん」 薩長同盟前夜
禁門の変の後に実施された「第一次長州征伐」では、戦になる前に西郷

が長州藩との折衝により停戦への協定を妥結した。
大久保一蔵との協議により、長州に反幕府勢力としての決定的なダメージ

を与えるよりも、温情的な態度を示し、和解へのシグナルを送っておいた

ほうが、得策と判断したからである。
そのため第一次長州征伐を中途半端に状態で終幕へ導いた。
一橋慶喜は、長州藩を屈服させ、幕府の威信を回復させる好機だったにも

拘わらず、参謀の西郷が第一次長州征伐を終幕させたことに対して憤慨し、
このように語ったという。
「総督のやる気がまったく感じられないのは、芋焼酎の方が、酒より

酔いやすいからという説がある。芋焼酎の銘柄は大島と言うらしい」
(西郷は錦江湾入水自殺したと幕府に届けていた為、大島と名乗っていた)
善人でいる息継ぎが続かない  美馬りゅうこ
慶喜の芋焼酎発言の裏には、次のような思惑も働いていた。
当時の薩摩は琉球との密貿易や、薩英戦争後のイギリスとの繋がりにより

財政が潤っていた。

これは疲弊していた幕府からすると、脅威そのものである。
そこで慶喜は長州征伐という名目で薩摩に長州を攻めさせ、力を削ごう

と考えたのである。薩摩からすれば、長州と戦争をすれば多くの犠牲や

軍費が生じて、国力が衰えるのは目に見えている。ゆえに薩摩は無駄な

戦争には参加したくない。そして討幕運動の表に立つ気はないが西郷は、

あまり幕府側に肩入れしても、将来はないことを見越していた。
西郷は海舟との面会で、

「公武合体策の限界と幕府の内情」を聞かされてもいたのである。
選ばれたつもりが実は排除され  伊藤良一.


  幕末の江戸城

かつて西郷は幕政改革の旗手として慶喜に期待感を抱いた時期もあった。
だが混迷を続ける政局の中で、両者が対立関係にあったことは、慶喜の

「芋焼酎発言」から知ることができる。

西郷は三条実美をはじめ八・一八政変によって長州藩領へ亡命した5人の

公卿たちを太宰府へ移転する案を示し、実行へと導いた。
この五卿移転は反幕府派の三条らにとって温情的処置であり、土佐脱藩の

中岡慎太郎は西郷が反幕府への接近を模索しているのではないかと感じた。
そこで中岡は、盟友の坂本龍馬と共に薩摩藩と長州藩の首脳部と接触した。
黒百合の香に誘われる禁猟句  笠嶋恵美子
長州はともかく武器が欲しい。

しかも藩の方針は、「攘夷から討幕へ」と変わってきた。
実は両者の思惑は一致していたのである。
だが長州からすれば薩摩は恨み骨髄の相手。この度の長州征伐にしても、

幕府軍の中核に薩摩がいたことも分かっている。戦わず停戦になっても、

恨みこそ残るものの恩など微塵も感じられない。

このように激しく対立する薩長両藩を龍馬と中岡は、現状の政治体制を

壊し、将来の国造りのために、どうしても協力体制にあるべきと説いた。

結果、西郷は鹿児島から汽船を利用して上洛する途中、下関において、

長州藩の桂小五郎と会談することを約束した。
人を憎めば河原の石もなま臭い  森中惠美子 
【付録】 薩長同盟 はどうなった
慶応元年(1865)閏5月、歴史的会談が下関で行われるはずだった。
だが、西郷は「長州藩領の下関で会談が行われれば、長州藩主導で同盟
交渉が進行する」と判断した。そのため、同盟締結の意志がありながらも、
会談を土壇場でキャンセルしたのである。
松茸はまだかと花屋に聞いている くんじろう

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擂鉢の底で粘っている思案  荻野浩子

「蛤御門の変(蛤御門の変)」の画像検索結果

    蛤御門合戦図 六尺六曲一隻屏風 (会津若松市所蔵)

禁門の変では薩摩藩兵を指揮した西郷。的確な指揮により長州藩を
撃退するとともに、御所に発砲した罪により、長州藩を朝敵として
征伐する大義名分を獲得した。

「西郷どん」  禁門の変

歴史を少し遡れば、そこにから徳川幕府と長州藩の確執が見えてくる。

激動の幕末に多くの志士を輩出し、威信の原動力の中核を成していた長州藩。

治めていたのは外様大名・毛利家で藩祖の毛利輝元は、一代で中国地方の

大半を勢力下に治めた「三本の矢」でも有名な毛利元就の孫である。

慶長5年(1600)の関が原の戦いで、輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられる。

西軍が大敗したため、毛利家は危うく改易されるところであったが、

一族の吉川広家の働きにより大幅な減封を受け入れ、何とか家名は存続した。

以来、徳川幕府に対しては、恨みを抱き続けてきたのである。

透明になるまで自転しています  合田瑠美子

 関が原の戦いから253年、幕府の屋台骨を揺るがす大事件が起こった。

黒船の来航である。

見たこともない巨船と強力な武装の前になす術もない幕府は、

朝廷の許しも得ずに日米和親条約を締結する。

朝廷を蔑ろにした行為と、外国の砲艦外交に不甲斐ない姿を晒した幕府

に対して多くの志士たちが憤慨した。

徳川に対する憎しみの気持ちを持ち続けてきた長州藩の中でも、

尊王の志が強かった若い連中は、当然のように幕府に対する風当たりを

強くする。その中心的な存在だったのが、

吉田松陰が開校した松下村塾の塾生たちであった。

そこでは彼らは、日本全体を大きく改革する必要性を学んできた。

緞帳が降りる迄夢追い続け  石田ひろ子

だが、井伊直弼が断行した安政の大獄で松陰は処刑される。

このとき藩の直目付である長井雅楽は、幕府に対して長いものに巻かれ

るごとく開国と公武合体を推進する「航海遠略策」を藩主に建白した。

これが長州藩の方針とされる。

こうした一連の動きが、藩内の尊皇攘夷派の怒りを買うことになった。

幕府内で公武合体を進めていた老中の安藤信正が、江戸城坂下門外で

水戸浪士に襲われた事件をきっかけに失脚すると、長州藩の議論も

一気に「尊王攘夷」へと転換する。

地下茎を太らせながら風を待つ 前岡由美子

文久3年(1863)3月、14代将軍・家茂とその後見役の一橋慶喜は、

朝廷や長州藩などの執拗な要求に押され、5月10日をもって攘夷を

決行することを約束する。

しかし,攘夷を実際に行動で示したのは、バカ正直に幕府を信じた長州

ただ一藩だけであった。

この日、馬関(下関)海峡を通過しようとしていたアメリカ船に向かい、

長州砲台が火を噴いた。

さらに続いてフランス、オランダの船にも砲撃を加えたのだ。

しかしアメリカ・フランスから報復攻撃を受け、長州は軍艦や砲台を破壊

され、外国の圧倒的な軍事力を身をもって知らされることになった。

一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一

徳川に再び苦渋を飲まされた、その後の長州藩は、苦難続きであった。

文久3年8月18日の京都における公武合体派によるクーデター。

そこで長州藩は御所の警備の任を解かれてしまう。

しかも三条実美ら7人の攘夷公卿とともに、京都を追われてしまう。

しかし長州藩の攘夷派や三条実美らは、そうした逆境にも屈せず、

再び、京へ復帰することを画策していた。

この糸先に新撰組急襲による「池田屋事件」が起こり「禁門の変」となる。

手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊

「蛤御門の変(蛤御門の変)」の画像検索結果

 蛤御門の激戦の様子を描いたかわら版

6月下旬、長州藩は京都南郊に軍勢を集結させ、洛中への進撃の態勢を

示した。対する慶喜は、長州藩を平和りに撤退させようとしたものの、

交渉は不調に終る。

そして7月19日未明、長州藩兵は、御所に対して攻撃を開始し、

薩摩藩兵と会藩兵を主力とする御所守備部隊と激戦を繰り広げた。

特に、御所の西側中央に位置する蛤御門周辺で激しい攻防戦が繰り広げられた。

いわゆる、ポピュラーに言われるところの、「蛤御門の変」である。

また蛤御門など九つの門は、禁門と言われることから、

禁門の変」とも称される。

頑な私にまぶす塩麹  松本柾子

禁門の変において、薩摩藩は直接の当事者ではなかったが、

ともあれ軍の責任者として西郷は、最前線で指揮をとり、敵弾をうけて

軽傷を負いながらも、長州藩兵を敗走へと導いた。

この激戦を制したことにより、その名を天下に高めることになったが

西郷は、次のように語ったという。

「2度とこのような経験はしたくない。戦いとは本当に骨が折れることだ」

結局、御所を舞台にした禁門の変に敗れた長州藩は朝敵の汚名を着せられ、

さらに幕府軍による征討軍の的にならなければならなくなった。

もしも幕府の力が磐石であったら、長州藩はこの前後で消えていただろう。

しかし禁門の変を主導した三人の家老を切腹させたことで、

ひとまず征討軍は矛を収めた。

崖上の水仙 崖の下のぼく  井上一筒

【付録】 戦後処理

禁門の変の戦後処理に関し西郷は、長州を徹底的に叩くのはよくないと
考えていた。大久保への手紙でも「長人(長州人)を以って長人を処置
させる」
という方策を通し、幕府と長州を何度も行き来し
「降伏の条件」を次のようにまとめた。

①禁門の変を指揮した3人の家老と4人の参謀の切腹。

②藩主父子の蟄居謹慎と謝罪文の提出。

③都落ちした7人の公卿のうち長州に残る5人の公卿の大宰府移転。

④山口の城の破却。

処罰は他に「転封」などの意見も出たが西郷の反対で立ち消えとなった。
第一次長州征伐はこのような形で終わったが、この時の西郷の奔走は、
長州に「西郷は信頼に足りる人物かも知れない」という印象を与えた。

体重計で人の器は計れまい  笹倉良一

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粒選りの愛を一粒持っている  みぎわはな


「西郷どん」 薩摩藩家老・小松帯刀

薩摩藩の家老・小松帯刀は、天保60年(1835)10月14日に生まれた。

坂本龍馬、土方歳三、松平容保、松平容保、篤姫らと同じ生まれ齢である。

小松は藩主・島津斉彬の小姓、当番頭になったのち、斉彬の急死後は、

藩主・忠義の父・島津久光のお側用人となって公武合体活動に参加。

歴史的に小松帯刀の名は、西郷隆盛大久保利通の陰に隠れがちだが、

その実、薩摩藩の在京重役のトップで久光不在のときは、藩の最高決定

権をもつ。

久光の側詰兼側役、さらに江戸家老、国家老に昇進したとき、

まだ弱冠28歳だったというから、いかに優秀な人材だったかがわかる。

 鑑真和上のクローンではないか  井上一筒

西郷・大久保の手綱を握っていたのも小松だった。

小松は島津久光と義理ながら、甥にあたる。

久光との強固な縁も、小松の政治的な地位や実力を裏付けていた。

 英国の外交員・アーネスト・サトウは、小松を次のように書いている。

「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物で、家老の家柄だが、

そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人に優れ、

それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。

顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌を損なっていた」

外人の目にも小松の大きさが、分かるほどのものだった。

人間が描けない色で花が咲く  寺川弘一

小松は朝廷や公卿の間でとても人気があり、頼りにされていた。

西郷・大久保よりも家柄がよく、人柄がよかったからだろう。

例えば、小松が帰国しようとしたら、近衛忠煕(ただひろ)忠房父子は書状で、

「父子ともに痛心している昨今、小松が滞京していないと大きい差し支え

があり、当惑すること限りない」

と懸命に帰国を引き留めようとしている。

 また小松は、一橋慶喜からも信任されていた。

上の近衛父子の書状の追記に「一橋も帯刀を厚く頼りにしており、

あれこれ相談にのってもらいたいと言っている」 と書いている。

 第三章を水として生きてゆく  日下部敦世

元治元年(1864)、禁門の変前後まで、薩摩藩は慶喜と良好な関係にあった。

同年11月、幕閣が慶喜を更迭して江戸に召還しようとしたとき、小松は

「薩は橋公に組(与)して天下両立」

も辞さないと、慶喜を擁護の姿勢を示している.

その一方、禁門の変で長州勢が禁裏御所に接近したとき、

慶喜が薩摩藩に出陣を命じても、朝廷の命令がなければ出陣しないと

拒絶して断固たる態度も示している.

薩摩藩は「朝廷第一主義」を藩是とした

左足北北東に置く履歴  河村啓子 

「小松帯刀 京都邸お花畑」の画像検索結果
幕末に薩長同盟が結ばれた地とも言われる京都の薩摩藩家老・小松帯刀邸
御花畑おはなばたけ」の詳しい場所や規模を示す絵図と文書などが、鹿児島、京都で
見つかった。現在の京都市上京区の森之木町など3町にまたがる約5900
平方メートルの広大な敷地だった。

しかし慶喜は、結局、幕府の利害に拘束され、一会桑勢力の中心となって

第二次長州征伐を強行して薩摩藩との対立を深めた。

 薩摩藩は「一藩割拠」へと舵を切る。

そのために軍隊の洋式化と海軍の充実を図る。

小松は海軍掛として責任者となった。

一方で、同じく幕府と対決して「一藩割拠」策をとらざるを得なかった

長州藩と接近する。

長崎にいるとき伊藤俊輔と井上聞多と会見、その依頼を受諾して、

薩摩藩名義で軍艦と小銃を購入するなど援助した。

そうした交流の積み重ねにより、慶応2年(1866)1月「薩長同盟」

締結される。

場所は京都の小松屋敷(御花畑)だったことにも、

小松の重要な役割がわかる。

 止まり木に止まり木なりのお作法で   山口ろっぱ

 ここに小松の人柄と器の大きさを示すエピソードがる。

禁門の変において小松は、西郷とともに薩摩軍を指揮する立場にあった。

作戦会議のため、西郷は自宅へ初めて小松を迎える際、わざと寝転がって、

小松を待った。小松の器量を試すためである。

普通ならその西郷の無礼な態度に、怒って帰ってしまうところである。

ところが小松は違った。

怒るどころか小松は、枕を持ってこさせ、西郷の疲労を気遣うように、

ゆっくり眠らせてやろうとしたのである。

これに西郷は、慌てて飛び起き自分の非礼を詫びたという。

(だが、成長したこの時期の西郷がこんな態度をとることはありません)

 やさしくて忘れるほうを選んでる  三好光明

「小松のエピソード」

①   安政3年(1856)4月23日から二週間、小松は千賀と千賀の父を

も連れて、新婚旅行を霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。

    慶応2年(1866)龍馬が寺田屋事件で負った傷を癒しに、お竜と

  出かけた新婚旅行が最も古い記録とされているが、実際は小松帯刀

  夫婦の方が、それよりも10年早い記録なのである。

②    久光と折り合いの悪かった西郷が、二度目の離島から鹿児島への帰還

と戻ってからの久光との再会に、最も尽力したのが実は小松である。

④    龍馬の新政府の人事構想の中で小松は、西郷や大久保、桂らを抑えて、

筆頭に挙げられていた。

今日こそは静かにしとこ思たけど  一階八斗醁

北斎漫画ー太った人

「付録」 お虎

西郷は太った女性が好きだったようで、様々な逸話が残っている。

お虎という愛人がいたが祇園のお茶屋・奈良富の仲居だった。

 一升の酒を軽く明けてしまうほどの酒豪で、その豪快さを西郷は愛した。

 あだ名は「豚姫」で、大柄な女性だった。

西郷がお虎を使って、敵の情報を探らせたという話も残っている。

 また東征軍を率いて京を発つとき、お虎は別れを惜しんで、

京から大津まで駕籠をうたせて見送ったという。

西郷は非常に喜び、褒美に30両を贈ったのだった。

 会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ

江戸城無血開城のあと、お虎にある任務を与えている。

 それは江戸に行き、赤坂氷川町の勝海舟邸に3万両送り届けるというものだった。

 その頃、旧幕臣は勝のことを「江戸城を明け渡した裏切り者」だと決め付け、

勝海舟を斬ろうという声が持ち上がっていたからである。

西郷はそんな勝のために逃亡資金3万両を手配し、お虎に届けさせたという。

 (ただそんな大金をどうやって運んだのか…などなど疑問の残る)

海舟は、お虎のことを「どうも言うに言われぬ良いところがあった」と書いている。

お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しんだ

そしてその3年後に亡くなったという。

また西郷が愛した女性に井筒の仲居・お末もいた。

お末も大女だったという。

ちなみに愛加那も大柄だっただったらしい。

3番目の妻・イトは痩せているという例外もあるが…。

次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志

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希望という名の電車が走らない  菱木 誠

1863年頃からの出来事を期した瓦版

「西郷どん」 池田屋事件

薩摩藩の国主・島津久光による赦免を受けて鹿児島へ戻った西郷は、

早速、京における薩摩藩軍の責任者として京都に赴くことになった。

京に着いてからは、市民の薩摩藩に対する敵対に驚き、それを改善する

べく京都での薩摩藩の活動を取り締まっていたが、幕末の情勢はそれだ

けで許すほど甘くはない。

「八月十八日の政変」で京を追われた尊攘急進派は、失地回復をもくろみ

地下活動を行っていた。

それに対して京都守護職、京都所司代、新撰組
は、テロ行為を目論む不逞

浪士たちの取締りを強化した。


そんな中、西郷は険悪になっている長州との和睦を真剣に考えていた。

自ら大坂の長州藩邸に出向き、和睦について話し合おうとしたのである。

ところが西郷は誤った認識をしていた。

セメントをヘクソカズラが割って生え  岡本なぎさ

薩摩が長州と敵対関係になったのは、幕府の策謀のためであり政略では

なく誠を尽くして話し合えば、長州の誤解は解けるはずだと考えていた。

しかし今の状況は、久光大久保が公武合体策を推進した結果であり、

その路線を改めない限り、長州との協調はなかったのである。

離島にいた西郷は、そのことに気付かなかったが、久光は認識していた。

よって西郷のこの行動は認められず、計画だけで終わった。

明日なら飛べると思う水たまり  瀬戸れい子

元治元年(1864)6月5日のそう早朝のことである。ある商人が新撰組に

捕えられたことから
事態は急変する。男の名は古高俊太郎で、

桝屋喜右衛門という変名を使っ
て志士達の武器調達を担当していた。

新撰組副長の土方歳三が屯所・前川邸の土蔵で拷問にかけ、桝屋のあら

ゆる物を隠し得る隅々まで調べたところ、同志からの手紙が多数発見され、

恐ろしい計画が露見したのである。

その内容は、市中に放火し混乱に乗じて公武合体派の中川宮京都守護職

松平容保を襲撃し、孝明天皇を山口城に連れ去るこおと。

その実行日
は6月22日頃とする、というものであった。

隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ

 
 浪士が籠もる部屋へ突入をはかるる新撰組4士

その日の夜、志士達は古高を奪還するかどうか、池田屋で相談していた。

そこに新撰組が突入した。


池田屋の2階には、長州、土佐、肥後など20名以上の諸藩の志士がい

たが、新撰組は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助のたった4人

多勢に無勢であったが、志士たちは、近藤隊が少数であるとは知らず、

寝込みを襲われた感で、逃げ惑うことしかできなかった。。

やがて応戦する志士に近藤らは苦戦を強いられたが、危機一髪、別働隊

の土方歳三
隊24名が池田屋に到着し決着がついた。

志士側は多数の死者を出し、20余命が捕縛された。

鍵穴に潜む地獄と天国と  上田 仁

西郷はこの時、伊地知正治、吉井友美、木場伝内と伊丹にいた。

兵庫に向う途中の宿で池田屋事件の報を聞いた。

深夜2時頃、会津藩の捕縛の情報を得て、急いで京に戻った。

一ヵ月後の7月19日、早朝、長州軍が御所めがけて進軍を開始した。

世にいう『禁門の変』の火蓋が切って落とされたのである。

隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ


   禁門の変

【付録】 「八月十八日の政変」

長州藩の下関での攘夷戦は最終的には失敗に終わったが、依然として三条
実美ら尊攘急進派の公卿が朝廷を牛耳っていた。真木和泉らも国
を挙げて
の攘夷と倒幕計画を画策し、過激な運動を行っていた。

この状況にあって、中々攘夷を実行しない幕府に業を煮やした孝明天皇は、
公武合体派の会津・薩摩に期待をかけ、宮中内でのクーデターを画策する。
そして8月18日の早朝、会津・薩摩の兵を宮門を固めさせ、公武合体派
の公卿らによる御所会議を開いた。そこで大和行幸
の延期、三条実美らの
参内や外出等の禁止、長州藩の堺町門警備の
解任が決められた。
尊攘急進派の公卿や長州勢は、京都から一
掃されることとなったのである。
世に言う「七卿落ち」である。


沈黙を破り空気を入れ替える  高浜広川

この政変によって公武合体派が完全に御所を掌握し、孝明天皇は今まで
詔勅は、尊攘急進派に強要されてののもので「朕の真意ではない」と告白。

島津久光は、9月12日に1万5千人の軍勢を率いて嬉々と京にのぼった。
この時大久保も行動を共にしている。さらに一橋慶喜や松平春額、宇和島
伊達宗城、土佐の山内容堂も上洛し、雄藩の諸侯が連合して朝廷の実験
を握り幕政に関与しようとした。公卿や幕府は抵抗をしたが、12月末に

慶喜、春額、宗城、容堂、容保らが朝議参与となり、翌元治元年は、久光
加えられ、六候による参与会議の形態が誕生した。ところが発足してす
ぐに
内部対立が生まれ、わずか3ヶ月で空中分解してしまう。みな我が儘
殿様育ちで議論が進まず、牽制し合うだけで妥協点を見出すことが出来
なかった。


ひとりふたりと抜けてく座布団の寂寥 杉浦多津子

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頬杖のあとが三日もとれません  森田律子


  佐藤一斎

西郷が沖永良部島で同じ流罪にあっていた薩摩藩の学者・川口雪篷
佐藤一斎(言志四録)を教えられ、その後一斎は西郷の心の師となった。

「西郷どん」 西郷復帰

大久保一蔵島津久光が趣味の碁を自身も習得することによって接近し、

その人間性を徹底的に分析した。
                 くすぐり
その結果、主君の自尊心を擽り乍ら
思い通りに操る方法を確立させた。

そして薩摩藩の内政についても、実験を掌握することができた。

そこで大久保は西郷の復権を画策し、久光に西郷の赦免を働きかけた。

しかし久光は西郷赦免に強く抵抗する。

兄・斉彬と比較して、自分に辛らつな評価を下したことを忘れていない。

初対面の場では、自分を「地ゴロ(田舎者)」とまで呼んだ。

西郷は、久光より十歳年下でもあった。

屈辱を味合わされたことで、どうしても感情が先走る。

西郷への複雑な感情は終生消えることはなかった。

うなだれる時間は記録更新中  山口ろっぱ

その頃、薩英戦争の顛末を風の便りで知った西郷は、鹿児島から遠く

離れた絶海の孤島・沖永良部島で地団駄を踏んでいた。

居ても立ってもいられなくなった西郷は、琉球にいる藩士の米良助右衛門

に次の
ような書状を送っている。

「7月、鹿児島湾にイギリスの軍艦が来襲して戦争になったと聞いた。

大変な世上となり、嘆息するしかない。詳報を知らせてほしい」

獄中にいる身が戦況を知っても詮無いこととは思いつつ全藩主・斉彬公の

大恩を受けている身として、薩摩藩が被った災難を傍観してはいられない。

西郷は沖永良部島を脱出して鹿児島に向いたい。

藩の危機に駆けつけるため、禁を犯しても島抜けを計ろうという思いを

胸に秘めていた。

伸びきったゴムでそれでも走るのか  山本早苗


  薩英戦争図-1

一方、西郷アレルギーを持つ久光も藩内の西郷待望論は抑えきれなかった。

大久保も根気強く久光を説得した。

一時は幕府への発言権を得た久光だったが、一橋慶喜の巧みな政略により、

幕府への影響力をもがれ、西郷の必要性を再認識させられていた。

元治元年(1864)2月、ついに久光は西郷赦免に同意した。

28日、西郷は沖永良部島から鹿児島へ戻った。

3月4日には、鹿児島を出立し、京都へ向った。

西郷を京都に迎える大久保たちは、久光との関係を危惧していた。

再び久光の逆鱗に触れる言動に及んでしまうのではないか…と。

綻びを置いてゆくから胸騒ぎ  山本昌乃

だが二度目の配流生活は西郷を大きく変えていた。

佐藤一斎「言志四録」を読み、自省して禅を学び、心を落ち着けること

に努めた結果、慎重な性格も兼ね備えるようになっていた。


3月14日、京都に到着した西郷は、19日に久光に拝謁。

軍部役兼諸藩応接役に任命される。

朝廷、幕府、有力諸藩との交渉役を務めると同時に、

一般有事の際は、薩摩藩兵を指揮する役目が課された。

薩摩藩の京都代表部の地位に就いたのだった。

西郷は、38歳になっていた。

詰め放題です雨上がりの匂い  雨森茂喜

こうして西郷の言動が久光の不興をかうこともなく、大久保たちの

危惧は杞憂に終わる。

その後、西郷は、大久保とともに練り上げた薩摩藩の基本計画に対し、

情勢の変化に応じ、自分なりのアレンジを加えながら混迷を続ける

幕末政局に対処した。

西郷と大久保の関係は、二人三脚というより、大久保が黒子に徹し

西郷は舞台役者として主役を演じていくことになる。

4月18日、久光は後事を家老・小松帯刀や西郷に託して京都を去る。

以後は小松の指示を仰ぎながら、西郷が薩摩藩代表として政治活動を展開。

西郷の動きが薩摩藩・幕末の政局を大きく揺り動かしていくことになる。

朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ


  薩英戦争図-2

【付録】 薩英戦争

薩英戦争にきっかけは、文久2年(1862)8月に起きた生麦事件である。
東海道神奈川宿近くの生麦村で、久光の行列が騎行中のイギリス人を
殺傷してしまうという、突発的な事件だった。
この事件に、イギリスは軍事的威圧のもと謝罪と賠償金10万ポンドの
支払いを幕府に呑ませた。
続いてイギリスは、薩摩藩に犯人の処刑と賠償金の支払いを求めたが、
交渉は難航する。しびれを切らしたイギリスは、薩摩藩の蒸気船三隻を
拿捕に踏み切る。これを見た薩摩藩は文久3年7月2日開戦を決意する。

かげろうのまんなかへんを跳ぶ虚数  小川佳恵

天保山砲台からの砲撃を合図に、イギリス艦隊への砲撃を開始した。
薩摩藩の大砲は旧式砲だったが、命中弾が多く旗艦ユーリアラス号では
艦長まで戦死する。イギリス側も激しく応戦した。
薩摩の大砲とは比較に
ならない射程距離をもつ、アームストロング砲を
駆使することで薩摩の大半の砲台
破壊に成功する。城下も焼失させたが、
7月4日には、鹿児島湾を去ってしまう。

弾薬や燃料が欠乏し、戦闘の継続が難しくなったからである。

納豆にからまれたので帰ります  中川喜代子


 アームストロング砲

その後戦闘が再開されることはなかった。
薩摩藩側は戦死者5名、負傷者
十数名、イギリス側は戦死者13名、負傷者
50名。薩摩藩は来襲したイギ
リス艦隊を退けた格好だが、彼我の軍事力の
差は認めざるを得なかった。
薩摩藩は砲台の壊滅など再戦は無理と判断し、
イギリスと和平交渉に入る。

結果、犯人の捜索と処刑、賠償金2万5千ポンドの支払いに合意した。
犯人については、行方不明ということで処理され、イギリスもそれ以上追及
することはなかった。賠償金は幕府が立替える形でイギリス支払われたが、
薩摩藩が立替分を幕府に返却することはなかった。

責め際が甘かったのか返り討ち  北原照子

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