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川柳的逍遥 人の世の一家言
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困ること何もないのも困ります  雨森茂樹

「どこかが変」
これは日本民営鉄道協会が目に余る「迷惑行為」を描いたポスターです。
飛鳥時代の人、平安時代の美女、戦国の肖像画、浮世絵、千手観音など、
どこか変、ポスターの文字を読む前にオカシナところを探してください。
それとなく工夫がこらしてあります。
各画像は拡大してご覧ください。

 


「ゴミを放置しないで 車内の平安物語」

空き缶やごみは車内に放置せず、ゴミ箱等にお捨ていただきますよう、
お願いいたします。
平安時代の美人画はみな同じ顔。でも、ゴミは分別いたします。



「声を控えて シャラップ画」 東洲斎写楽)「2代目・大谷鬼次の江戸兵衛」

車内での会話は、周りのお客様の迷惑にならないように、
ご配慮をお願いいたします。
また携帯電話はマナーモードにしていただき、通話はご遠慮ください。

知らなかったですむとは知らなかった  前川和朗



「楽人楽座 座席をゆずり合って」狩野永徳の弟・狩野宗秀

カバンなどは座席の上に置かず、譲り合ってお座りください。
また優先座席を設けています。
お年寄りや目の不自由な方、妊婦の方にお譲りくださいますよう、
ご協力をお願いいたします。

あの織田信長でさえカバンは膝の上において行儀よく。



「千手観音 手にあまる。目にあまる」



千手観音も手に余るゴミの数に困っておられます。
車内やホームでの読み捨て、ポイ捨ては困りもの。
備え付けのゴミ箱までお願いいたします。

もう少し生きて騒いで嫌われる  新家完司



「お静か三美人 音漏れに気をつけて」喜多川歌麿

車内でヘッドホンステレオを聞かれる時、
ゲームを楽しまれる時は音量にご注意ください。
携帯電話はマナーモードに設定していただき、通話はご遠慮ください。
ヘッドホン・イヤホンをしている美人に気がつきましたか?

「見返る美人 ぶつからないように」菱川師宣「見返り美人図」



キャリーバッグや歩きスマホによる
衝突トラブルが多くなっています。
キャリーバッグを引かれる際は周りのお客様の安全に十分ご注意ください。
歩きスマホは大変危険ですからおやめください。
こちらはキャリーバッグを持って後ろを確認しています。


「お気遣い群像 車内で荷物が邪魔にならないよう」



リュックサック等は手にお持ちいただき、周りのお客様の通行等の
ご迷惑にならないようにご協力をお願いいたします。
リュックサック等は胸に持ち、周りを気遣う飛鳥美人。

六本も指があったら邪魔だろう  吉田わたる

「仁王である ちょっと待ったァ 忘れ物じゃ!」



ひとりひとりの心がけが、行楽地や駅などの公共施設を美しく保ちます。
自分で出したゴミや空き缶は、持ち帰りましょう。


「降人先人図   どうぞどうぞと譲り合う風神雷神」俵屋宗達風塵雷神図




扉付近は大変混雑いたします。
お降りのお客様を先にお通しいただきますよう。お願いいたします。
また、ご乗車のお客様はご順に中の方へお進みください。

春の風ですか序列を乱すのは  長島敏子


「地獄のモク時刻」



吸って天国、まわりは地獄。喫煙は時とところを考えてどうぞ。

「みんなが困るアカンを探せ!」



俯瞰して考えよう」

車内で大音量の音楽を聴く人、駆け込み乗車をする人ら、
様々な場面が描かれています。

禁煙とあるタクシーの排気ガス  ふじのひろし

「電車内迷惑図絵」 


駆け込み乗車するべからず。


車内での会話・音量は控えるべし。


歩きスマホするべからず。


座席はきちんと詰めて座るべし。


時に荷物は、まわりのお荷物になると心得よ。 

「迷惑行為」アンケート
1位は、「騒々しい会話・はしゃぎまわり」
2位は、「歩きながらの携帯電話・スマートフォンの操作」
3位は、「座席の座り方」 
4位は、 「扉の前に立ちはだかる人」

ごろ寝すると障子の穴に叱られた  山本昌乃

拍手[4回]

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わたし達途方にくれる接続詞  桑原すヾ代


      画像をクリックすれば拡大してごらんになれます。
「西郷隆盛の顔」


西郷隆盛は、なぜ写真を一枚も残さなかったのか?

安政4年(1857)薩摩藩は、日本初の写真撮影に成功した。

モデルになったのは、西郷が神のように尊敬する島津斉彬である。

写真撮影の翌年、斉彬が急死したことから、純粋で生一本の西郷は、

「魂を抜かれた」と思い込み、主君の命を攫った写真を嫌うようになった。

というような説もあって、明治11年(1878)西南の役で西郷が斃れた翌年、

写真が残されなかった
西郷の肖像画が描かれた。

それを描いたエドアルド・キョッソーネは、大蔵省の「お雇い外国人」として

来日したイタリア人画家であり彫刻家である。

ここでは余談になるが彼は紙幣印刷の技術を日本に教えるために来たのである。
そのお陰があって、日本の紙幣、切手、証券証書など本格的な印刷技術が
日本に根付いたことは言うまでもない)


輪廻用唇は優しく保存  山口ろっぱ


キョッソーネの描いた西郷 各写真は拡大してご覧ください)

キョッソーネは、西郷と面識がなく肖像写真も存在しないため、
つぐみち
西郷の弟の西郷
従道や、従兄弟の大山巌の風貌を参考にして、

モンタージュ写真のように
作成したという。

以後、キョッソーネの肖像画をモチーフにして、上野の西郷の銅像が作成

されたのをはじめ、数多くの西郷の肖像画や錦絵などが創作された。

私たちは創作されたその顔が西郷だと信じているが、モデルになった従道

大山だけでなく、西郷の指揮下にあった兵士など、その風貌を知ってい

る人間
が存在する時代において、「実物と違う」との声もなく流布してい

ることを考えてみるとき
、太い眉毛、大きな目、ふくよかな頬という西郷

の風貌は、動かし
がたい真実だと思う。

面の皮は超極暖ヒートテックです  酒井かがり

「写真嫌いを貫いた西郷のエピソード」

1、「魂を抜かれる」

尊敬する島津斉彬が日本初の写真を写した翌年に急死したことから、

主君は
「魂を抜かれた」と思い込み、以後、写真を嫌うようになったとは、

先に述べたが、昭和の中期ころまで、「三人の真ん中で写ると死ぬ」とか

「魂わ抜か
れる」と真顔で写真撮影を拒否する人がいたくらいだから、

幕末に
そのような迷信の生まれるきっかけになったとしても不思議はない。

三寒四温その冗談は重過ぎる  美馬りゅうこ

2、「暗殺を恐れた」

薩摩藩が米国に6人の留学生を長崎から密航させて、マサチュウセッツ州

モンソンアカデミーに留学させた。その留学生の中にいた仁礼景範が、

現地で親しくなった友人から、「リンカーン暗殺」の話を聞いた。


彼は帰国後、西郷の側近にリンカーン暗殺の決め手となったのが、

新聞に
掲載されたリンカーン写真でだった。その話を耳にした西郷は、

「不穏
な時代だけに自分を憎み恨むものも多いだろう」と顔写真が出回る

ことを避
けた。因みに「西郷暗殺計画」が事実として存在する。

ブラックユーモアの好きな桜です  森田律子       

3、「大久保利通に送った手紙」

明治5年のこと、岩倉遣欧使節団の副使として欧米視察中の大久保利通

西郷に洋服姿で撮影した写真を送った。その写真に対して同年2月25日

東京から送った大久保への手紙で、西郷は次のように書いている。

「尚々貴兄の写真参り候ところ、如何にも醜態を極めた候間、

もう写真取りは
御取り止め下さるべく候。誠に気の毒千万千万に御座候」


「みっともないことはお止めなさい」と西郷は大久保を咎めている。

この6年後、大久保は不平士族に暗殺されている。

自己主張ばかりしている鰤大根  合田瑠美子

4、「孫・西郷吉之助の代弁」

西郷は明治天皇から、強く写真を所望されたが、丁重に断わっている。

それからも明治天皇は、ご大礼服。皇后様は十二単という天皇皇后の

額入り
のご真影を西郷に送り、再度、西郷の写真を欲しがられた。

それも西郷は断わった。

西郷の孫・吉之助は、この時の祖父の気持ちについて

「自分のように醜い姿を写真に撮って天皇に献上する如きは、

もってのほかである」と謹直で堅い考えがあったのではと伝えている。


掴まれた尻尾自分で切りおとす  三村一子

「どの西郷が好きですか」


肥後直熊の描いた西郷

西郷の末弟である小兵衛の未亡人・松子さんの証言。
「肖像画の西郷は右横向きだが、髭の剃り跡、腕の毛脛までもが精緻に描
れている。これまで多くの肖像画があるが、この絵は生前の温容を最も
よく
写したもので、あたかも西郷さんを眼前で見るようだ」と言っている。



床次正精の描いた西郷
                    
西郷と同じ薩摩藩士出身の画家、床次正精とこながまさよし)は西郷と面識が
あり、
彼の描いた西郷は実物によく似ている、と言われている。

ちゃうちゃうちゃうそんなんちゃうと嬉しそう 
                    雨森茂喜



石川静正の描いた西郷

荘内藩士・石川静正は明治3年11月と明治8年4月に鹿児島の西郷を訪
ねている。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。

隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれている。


平野五岳作の描いた西郷

平成15年、大分の日田市で発見された肖像画で幕末・明治期に日田で
活躍した文人画家・平野五岳が、掛け軸に描いた水墨淡彩画で、西郷に
面会を申し込む内容の漢詩も記されている。


服部英龍の描いた西郷

都城島島津家のお抱え絵師・中原南渓 が描いた絵が元になったとされる。
こn絵が、着流しで犬を連れている上野の西郷像のモデルになった。

夏は今山門あたりとメールくる  山本昌乃


今はまだ作者不明の西郷

この西郷の肖像画は、2018年1月に鹿児島県崎市で見つかった
西郷の妻・イトの弟のひ孫にあたる若松宏さんは、昨年末に肖像画の存在
を知
た。西郷に会ったことがあるという曾祖母が生前、「西郷さんは考え
事をする際、キセルの柄を目の上に押し付ける癖があり、「まぶたの上が
盛り上がっていた」
側頭部の髪が薄く、耳が長かったとも話しており、
「伝え聞いた特徴と一致して
いると言っている。


ユスリカの小さな銀河を掻き回す  くんじろう


佐藤均の描いた西郷

黒田清輝の門弟・佐藤均が石川静正の西郷の印象をもとに描いた。
隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれている。
これまで見てきた絵から一致する西郷の特徴は、
首が長いこと。
短髪でちぢれっ毛であること。
側頭部が薄い(少し禿げている)こと。
耳は大きく、福耳で垂れていること。

がっしりした体型であること。
二重瞼でどんぐり眼であること。
眉毛は太く、目力が強いこと。
おちょぼ口であること。
もしかして写真はあったが、処分したのではないでしょうか?
ひとまず、ここでは、佐藤均の描いた西郷に軍配をあげましょう。

幕引きをせよとささやく影法師  上田 仁

拍手[3回]

君や得し黎明愛の花ひらく  川上三太郎



これは司馬遼太郎氏が小学生の教科書用に書き下ろした『21世紀に生きる
たちへ』の一文です。人も芽も新生の4月たちに改めてこれを送ります。

『もし「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、
どんなにいいだろう。/「田中くん、ちょっとうかがいますが、
あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう」

『21世紀に生きる君たちへ』 司馬遼太郎

私は歴史小説を書いてきた。

もともと歴史が好きなのである。

両親を愛するようにして、歴史を愛している。

歴史とは何でしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。

かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」

と、答えることにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

歴史の中にもいる。

そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、

私の日常を、励ましたり、慰さめたりしてくれているのである。

だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、

生きているようなものだと
思っている。

この楽しさは・・・

もし君たちさえそう望むなら…おすそ分けしてあげたいほどである。

人間の真ん中辺に帯を締め  岸本水府

ただ、さびしく思うことがある。

私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。

「未来」というものである。
 
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。

例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。

君たちは、ちがう。

21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、

その輝かしい担い手でもある。


もし「未来」という町角で、私が君たちを呼び止めることができたら、

どんなにいいだろう。

「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている

   21世紀とは、
どんな世の中でしょう」


そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、

ただ残念にも、
その「未来」という町角には、私はもういない。


灯が点いて日の短さを知り始め  椙元紋太

だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
 
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。

ただ、私に言えることがある。

それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。

そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動物、

さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ

生きているということ
である。

自然こそ不変の価値なのである。

なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、

水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

手と足が生えて鯰になりそこね  前田雀郎



さて、自然という不変のものを基準に置いて、人間のことを考えてみた
い。
 
人間は…繰り返すようだが…自然によって生かされてきた。

古代でも中世でも、自然こそ神々であるとした。

このことは、少しも誤っていないのである。

歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、

自分たちの上にあ
るものとして身をつつしんできた。
 
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
 
・・・人間こそ、いちばんえらい存在だ。

という、思い上がった考えが頭をもたげた。

20世紀という現代は、ある意味では、自然への恐れが薄くなった時代、

いってもいい。

お父さんは覚束なくも生きている  麻生路郎

同時に、人間は決して愚かではない。

思いあがるということとはおよそ逆のことも、合わせ考えた。

つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、という素直な考えである。

このことは、古代の賢者も考えたし、

また19世紀の医学も、そのように考えた。


ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、

科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。

20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、

古代や中世に神を恐れ
たように、再び自然をおそれるようになった。
 
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、

21世紀に近づくにつれて、
終わっていくにちがいない。

<人間は自分で生きているのではなく、

   大きな存在によって生かされている>

 
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、

そのようにへりくだっ
て考えていた。

海のしわ浜へ浜へと砂を寄せ  前田伍健

 
この考えは、近代に入って揺らいだとはいえ、右に述べたように近ごろ、

再び、
人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。

この自然への素直な態度こそ、21世紀への希望であり、

君たちへの期待でもある。

そういう素直さを君たちが持ち、その気分を広めてほしいのである。
 
そうなれば、

21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。


そして、自然の一部である人間どうしについても、

前世紀にもまして尊敬しあう
ようになるのにちがいない。

そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

さて、君たち自身のことである。

君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。

日月は落ちず再起のちからこぶ  村田周魚

拍手[2回]

らしいという尾鰭を付けて飛ぶ噂  新家完司

上野の西郷隆盛銅像 (彫刻 高村光雲 犬 後藤貞行)

「西郷どんの知っているようで知らないこと」

クイズ番組で一枚の写真(西郷隆盛)がでてきて「この人物は誰か」の問いに

解答者は、何舐めてるんじゃねぇと言わんばかりに「西郷隆盛」と答える。

これは番組上では正解。だが実際は間違い。

「西郷隆盛らしき人」と答えなければ
正解とは言えない。

写真嫌いの西郷を証明する実物の写真は一枚も
残っていないのだから。

隆盛の孫・西郷吉之助の証言しています。

「明治天皇は自身の写真を二度も祖父に送り、写真を撮って差し出すように

仰せられたのにもかかわらず、陛下のために命を捨てるつもりでいた祖父が

お答えしていないのだから、写真は存在する訳がない」と。

正解は一つだけだと譲らない  津田照子

西郷隆盛の上野の銅像は、西郷が没して21年後の明治31年12月8日

に除幕式が行われた、これに列席していた西郷の妻・イトは銅像を仰いで

「宿んしは こげんなお人じゃなかったこてぇ」と洩らした。

それが直線的に伝わり、顔が違うとの誤解のまま世間に広まった。

彫刻家・高村光雲はもちろん西郷の顔は知らない。
                              しげみち
光雲が銅像製作のモデルに
使った素材は「弟の従道」

「キョッソーネの描いた肖像画」と言われている。


犬を連れ、短い筒袖の着物姿で立っている。
          へこおび
無造作に結んだ兵児帯に短刀を
一本さし、煙草入れを下げた草履ばき。

この気取りのない格好は、多くの人を驚かせ、西郷の人気をさらに高めた。

しかし、イトは喜ばなかった。

本件のわけ知り顔を陽にさらす  藤井孝作

「うちの人は、たとえ私学校の若い人がきても、袴をつけて会う人だった。

それがあんな無作法な姿では、見て下さるかたに申し訳ない」

と西郷の品格を落としめる姿格好に不満をもらしたのである。

当初のモチーフは、「陸軍大将軍服着用の騎馬像」の計画であったという。

しかしこのプランは、朝敵になった西郷が名誉を回復したとはいえ、

陸軍大将の官位で騎馬像を建立すると西郷人気を復活させてしまうという

理由から製造にかかる直前に沙汰止みになり、
最終的に現在の姿になった。

めんどうになってきたのでみな許す  橋倉久美子

そこには西郷の高い人気に、反政府的気運を醸成しかねない動向を逸らし、

西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害なイメージ

民衆に定着させようとする、政治的な意図が働いていたと見られている。


ところが考えてみれば、西南戦争終結から20年余りが経ったとはいえ、

庶民の西郷への人気は、絶大であったことを逆に証明したのだった。

ノックしてから三十七年待たされる  河村啓子


鹿児島の西郷像  高さ5.2メートル (彫刻 安藤照)

上野の西郷像から39年後の昭和12年に建立した鹿児島の西郷像は、

陸軍大将の正装を着用している。

すでに完成当時は、軍服姿に
クレームがつく時代ではなくなっていた。

モデルは西郷の孫・隆治と言われ、西郷に最も近似した顔つきであるという。

実際の顔が不明というのに、「最も近似した顔」というのも可笑しな話だが、

西郷の顔を知るものが、よく似ていると言うのだからそうなのだろう。

うんうんうん決して反対はしない  立蔵信子


山形県酒田『南洲神社』の西郷座像

南洲神社は、南洲と呼ばれた西郷隆盛を祀る神社で、鹿児島県下竜尾町、

沖永良部島、宮崎県都城市、山形県酒田市、全国に4箇所存在する。

戊辰戦争において庄内藩は、官軍に激しく抵抗したため重い処分を覚悟

していたが、西郷の公明正大な極めて寛大な処分となった。

この徳に感じいった庄内藩の菅実秀(臥牛)は、明治8年自ら旧庄内藩士と

共に鹿児島を訪れ、西郷に感謝するとともに敬愛の教えを受けた。

鹿児島県武西郷屋敷にある両者が、凛と向き合う座像は、その時の

「徳の交わり」
を表したものである。

後にその教えを受けた人達の手記を集め『南洲翁遺訓』を発刊した。

パッチワークのひとつに亡母を語り継ぐ 田中博造


沖永良部島で犬と散歩する西郷隆盛像

沖永良部島は鹿児島県に属しているが、鹿児島から約450km、沖縄から

約60kmにある離島である。

西郷は薩摩藩の時の権力者・島津久光との確執から、この沖永良部島へと

流され、1年7ヶ月に及ぶ牢獄生活を余儀なくされた。

そのため、実際には犬と散歩など出来る環境にはなかったわけで、牢獄での

生活に体重は半分ほどに落ち、無残に痩せ細り生きる希望も失いかけていた

西郷だが、島民の暖かさに救われた。それを表すように銅像の西郷の表情は、

ふくよかで優し気で、この地の人の暖かさがにじみださている。

そして島に滞在中は、島民たちに世話になったお返しにと、西郷は島の若者に

聖賢の
道について教えたり、飢餓の時のために豊作時に穀物を高倉に保存して

おき、凶作時に皆に支給する「社倉法」なども伝授した、と伝わる。

この時に、西郷のモットーとなる「敬天愛人」の心を体得したと伝わる。

蟻と目が合った蔑んだ目だった  大海幸生

拍手[3回]

補助線はリハビリ中でございます  河村啓子


   国生みの絵

伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二神は淤能碁呂島(おのごろじま)
に続き、大八島国を産み、山の神、海の神など様々な神を産んだ。

しかし、火の神を産んだ時、イザナミは火傷を負い死んでしまうのです。

「女尊男卑」

一般に日本は男尊女卑で、欧米の文化は女性を大切にするというイメージ

あるが、それは誤解でむしろ逆なのである。

伝統的に欧米は徹底した男尊女卑で、
逆に日本では女性の地位が高かった。

戦後、女性と靴下が強くなったといわれるが、今日の状況はもともと伝統

に高い女性の地位が、戦後欧米から入ってきた男女平等やフェミニズム

など
のイデオロギーが加わって一層高くなり、もはや「女尊男卑」とでも

言ってい
いものになっている。

食べ尽した男をゴミに出しました  渡辺富子 

旧約聖書によれば、イヴはアダムのあばら骨から「アダムを慰める」もの

として神が
創ったとされる。

ここには男性の絶対優位と女性の絶対服従が示されている。


その意味では、キリスト教国は基本的に男尊女卑の文化を持っている。

実際、今
でも夫が財布の紐を握っていて、妻は夫から生活費をもらうのが

普通で
妻の職業従事の自由が認められたのは、1965年のこと。

今でも家のインテリアや壁の色は、夫が決めるのが常識という。

このような文化が背景にあったからこそ、女性の自由の獲得をスローガン

にウーマンリブ運動やフェミニズム運動
が起こったのは頷けるだろう。

芥川の鼻読んでから横道へ  小林満寿夫

神が天の沼矛で海原をかき回す絵
                                     いざなぎのみこと
これの対して日本の場合は、「古事記」に出てくる男神・伊邪那岐尊
    いざなみのみこと
女神・
伊邪那美命は平等な存在である。

その2人の神が協力して「国を生む」という
話になっている。

そこにはどちらが上でどちらが下かといった上下関係、支配・
服従関係

もない。そればかりではない。

産後の肥立ちが悪くて亡くなった妻を
追いかけて黄泉の国に行き、

「帰ってきてくれ」と懇願する夫の伊邪那岐尊に
伊邪那美命は、

黄泉の国の神と相談してみるけれども、

「その間、私をご覧に
なってはなりません」と述べる。

あまりにも帰りが遅いので伊邪那岐尊はつい
中を覗いてしまう。

死後の醜い姿を見られた伊邪那美命は「恥をかかせた」
と言って

鬼の形相になり追いかけてくる。

夫の不実を鬼の形相でなじる現代の
妻の原型が、ここに示されている。

耳鍛え妻の小言に耐えてます  上田 仁

さて次は、家庭の実態をとらえたサラリーマン川柳を少し覗いてみよう。

「寒いよね ママ目で合図 動くパパ」

「”めし””ふろ”に 下さいついて 妻動く」

「力関係 躾けてないのに 分かる犬」

「ゴミだし日 捨てにいかねば 捨てられる」

「円満は 見ざる言わざる 逆らわず」

「ぼくの嫁 国産なのに 毒がある」

その顔はトイレ掃除をサボったな  ふじのひろし

平安時代中期に飛んでみる。
         おおえなりひら
文章博士である大江匡衡が妻で歌人の赤染衛門との
間で交わした歌がある。

「果かなくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」匡衡

乳は掛詞で知識のこと。

要するに自分の家に乳母を雇ったが、その乳母に乳が
出ない。

インテリの博士の家の乳母をするのに、

「それしきの知識がなくていいのか」
と嘆いてみせた。

これに対して妻の赤染衛門は、次のように返した。


「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳に附けて あらずばかりぞ」

そんなことどうでもいいではありませんか。

大和心すなわち美しいものを美しい
と感じる心、

情緒があれば十分ではありませんか、と
夫の主張を跳ね除けたのである。

これが平安時代の家庭における力
関係の実態である。

あの世ではあなたと出会いませぬよう  楠本晃朗

次は古典落語「芝浜」から。

亭主はだいたいボンクラ、女房はしっかりものというのが相場だ。

呑兵衛の亭主がある夜、大金の入った財布を拾う。

その金をあてにして亭主が
働かなくなることを心配した女房は、

「あれは夢だった」のだと嘘をつく。


亭主は「怠け心からそんな夢を見るようにまでなったのか」と自分を責め、

心を入れ替え
て働くようになった亭主はその結果、店を持つほどになる。

三年後の大晦日の
夜、女房は、「あれは夢ではなく、本当のことだった、

これがその時の財布だよ、
嘘をついて悪かった」と謝る。

「いやお前のお陰でこうして店を持てるようになった」

亭主は女房に感謝するお話。

ここにも妻が主導権を握り、夫をリードする姿が垣間見えるのである。


くしゃみ二つ言った言わない物忘れ  山本昌乃


  明治時代の女性

はたして明治時代はどうだったか。

家制度で女性は家に縛られ、自由がなかったのでは、という指摘がある。

しかしわが国の家制度はヨーロッパの家父長制と違って戸主の権限は

もともと
弱いもので、その分、女性の地位も高かった。

明治期、日本に滞在した英国の写真家・ハーバート・ポンティングは、

日本の家
庭の様子を次のように語っている。

「日本の妻は独裁者だが、大変利口な独裁者である。

妻は実際に支配している
ように見えないところまで支配しているが、

それは極めて巧妙に行っているの
で、夫は自分が手綱を握っていると

思っている。妻が導くままに従っているのを
知らないのだ」

ポンティングさんよく観察していらっしゃる。

ぬるま湯にどっぷりつかるのも処世  丸山不染

『古事記』によれば、大八島は次の順で生まれたそうです。

    淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
    伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
    隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
    筑紫島(つくしのしま):九州
    伊伎島(いきのしま):壱岐島
    津島(つしま):対馬
    佐度島(さどのしま):佐渡島
    大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州

春ですね笑い袋の紐を解く  須磨活恵

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茶助
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