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待つ人も待たせる人も夕日ににじむ 森田律子
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井伊家を取り巻く人々
井伊 直平は初代の共保から数えて20代目の当主である。
21代目の直宗と22代目の直盛は、直平が亡くなるよりも早くに
討死してしまう。直宗の弟(直満・直義)ふたりは、謀反の疑いを
受け誅殺されてしまったため、井伊家は家督を継ぐことの出来る
男子が極端に減ってしまったのだ。
「おんな城主-直虎」の予習―②
井伊家の出自はさまざまな説があるが、一般的には藤原房前を祖とする
藤原北家の後裔とされている。
寛弘7年(1010)元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主が、お手洗の井戸の
傍らにいた赤子を保護した。
ともすけ ともやす
この子が後に藤原共資の養子となり、藤原共保と名乗った。
そして井伊谷に移り住み、「井伊」と称した。
以後、井伊氏は、井伊谷を領する武家として基盤を固めていく。
鎌倉時代には地方行政次官にあたる介の役職を付け、
井伊介を名乗るほど有力な地方領主となる。
鎌倉幕府の御弓始の儀式において、
三番目の射手に選出される栄誉に預かっている。
噴火するニュースコロッケ揚げながら 山本昌乃
南北朝時代になると、当時井伊家の当主だった井伊道政は、
後醍醐天皇の息子である宗良親王を領内に迎え入れ、南朝方として参戦。
しかし北朝方が勝利した結果、井伊氏は遠江国守護に任じられた今川氏の
支配下に置かれることになってしまう。
しばし
室町時代、遠江国の守護は斯波氏に代わる。
だが、戦国乱世となると今川氏が遠江に侵攻。
これを奪い取ってしまう。
斯波氏に味方していた井伊氏は、これにより勢力が減退。
今川の当主が今川義元に代替わりした時、当時の井伊家当主だった直平は娘
を人質に差し出し今川に臣従、再び井伊氏の勢力を盛り返すことに成功した。
数字の8に目鼻つけたら雪だるま 大内朝子
井伊家列記
龍潭寺弟世法忍禅師が記した井伊家歴代の当主の筆跡を纏めた記録。
直虎が女性領主になったいきさつが記されている。
後に井伊家を救うことになる女性・「井伊直虎」が生まれたのは、この頃、
義元が今川を継承する天文5年 (1536)頃ではないか と考えられている。
井伊家中興の祖とも呼ばれる井伊直平の孫に当たる、井伊直盛の娘として
誕生したのである。
戦国時代の女性に関する史料は少なく、直虎となる姫も幼名は判然としない。
だが、直盛には男子がいなかったため、姫は早くから従兄弟にあたる
井伊直親を婿養子に迎えることは決まっていたのである。
しかし今川氏に臣従してからの井伊家に連続して、不幸が舞い込んできた。
天文11年、今川氏に従って出陣した田原城の戦いにおいて、
直平の嫡男である直宗が討死してしまう。
さらにその2年後、直宗の弟である直満と直義が、
今川義元から謀反の疑いをかけられ、誅殺されてしまったのである。
もぬけのからへ溜まりつづけるヤマイダレ 森 茂俊
これは井伊家家臣であった小野道高が直親と直虎の婚約に反発。
今川義元に讒言したことが、原因とさてれる。
だが処罰はふたりだけで収まらなかった。
当時9歳の直満の嫡男・亀之丞(後の直親)にも命の危険が迫っていたのである。
そこで家臣の今村藤七郎は、米や炭を入れる藁の袋であるかますに
亀之丞を隠し入れ、自らが背負って井伊谷を脱出する。
そして黒田の山を経て渋川の東光院へと逃れた。
のうちゅう
しかしここにも追っ手が迫ってきたため、東光院の能仲和尚の案内で
信濃国市田郷にある松源寺へと落ち延びた。
縄跳びの輪の中にいるテロリスト ふじのひろし
そこで亀之丞は、この地を治める松岡貞利の庇護を受けたのである。
亀之丞の行方は極秘とされていたため、許婚であった姫(直虎)にも知らされ
ていなかった。
姫は姿を消した許婚をひたすら待ち続けるしかなかった。
しかし、何年待ち続けても帰ってくる気配はなかったのであった。
姫は亀之丞の帰参を待つことにしたが、なんら知らせも届かない。
我が身の不幸に悲嘆した姫は、若い身でありながら出家を決意する。
出家してしまえば、結婚することはできなくなる。
周囲は反対したが、姫の決意は揺るがなかった。
りゅうたんじ
龍潭寺の南渓和尚のもと、出家することを決めた。
尼僧となった姫に、南渓和尚は深い思いを込め「次郎法師」と名付けた。
龍潭寺が所蔵する「井伊家列記」には「次郎法師は女にこそあれ」とある。
その意味は「次郎法師は女ではあるが、井伊家を継ぐ家に生まれたので、
後継ぎの名と僧侶の名をかね、次郎法師という」というものだ。
人情の絆も痩せて孤立する 森 廣子
井伊直親の木像
天文23年(1554)、讒言により亀之丞の父である井伊直満を死に追いやっ
た小野道高が病死。
翌弘治元年(1554)になり、亀之丞はようやく井伊谷へ帰還することができた。
実に10年余りの月日が費やされていたのである。
青年武将となっていた亀之丞は、以前からの取り決めに従い井伊直盛の
養子となり、名も「直親」に改められた。
しかし直盛の娘、つまり次郎法師との婚約は、破棄されてしまう。
すでに仏門に入ってしまった女性は、人の妻になることはできない。
そこで直親は、井伊一族の奥山朝利の娘を正室に迎えたのである。
こうして次郎法師と直親は、許婚から兄弟の関係に代わったのであった。
曲がりなりにも直角の腰になる 井上一筒[4回]
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