忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100] [101] [102] [103]
墓石を叩く応えてくれるまで  くんじろう

  (画像は拡大してご覧ください)
「関が原合戦」に描かれている沼田城の様子

左側の室内にいるのが、信之の妻の小松殿。

真田丸の脚本を担当する三谷幸喜は、どんなドラマや映画にも、

その脚本の中に、それとなく「遊び」をいれ、
観客を楽しませ、

本人もまた、観客の反応を楽しむという、遊び心を忘れない人である。


たとえば、「真田丸」の第22話・「裁定」の中では、

沼田領割譲を秀吉から強制された後、

北条が約束を破って乗っ取った名胡桃城の奪回も禁じられた昌幸は、

出浦昌相と現実的ではないと分かりつつ、ヤケ酒を飲みながら、

秀吉の住む 聚楽第の攻め落とし方を語り合うシーンがある。

まさしくここが三谷の遊び心のフルハウスである。

キャスティングにしても、そうだ。

真田信之大泉羊、その妻・小松姫を演じるのが吉田羊である。

この「羊」つながりは、単に偶然なんだろうか、

どことなく、三谷の企みとほくそ笑みが見えてくる。


毛穴から出ていったのが夢である  河村啓子

「小松殿ー遺品」


小松殿ゆかりの九条袈裟 (高雲寺所蔵)

元は家康が保呂(鎧の背にかける布)として使用していたもの。
それを輿入れの際、小松殿が譲り受けたとされる。
赤色の絹地で、打出の小槌、宝珠など宝尽くしの模様が織りにより
表現されている。 
九条袈裟とは、伝法衣で二長一短で作られ仏教において仏法を説くため、
また供養を行うための僧侶・信徒の大きな集まりなどの折に用いたもの。

片意地も気力のひとつ九条葱  新川弘子


小松殿の枕屏風「鴻門の会図」〔伝狩野永徳〕(大英寺所蔵〕

中国、秦から漢への戦乱期に覇権を争った項羽劉邦が、
鴻門で会見した
『史記』に基づく屏風絵で、小松殿
寝室においていたという。

戦の絵を枕元に置くというのも、いかにも男勝りの小松殿らしい。

盧遮那仏 0番線で待たせてる  森田律子


伝小松殿所用「蛇呪(へびまじない)の短刀」 (真田宝物館所蔵)

寝ている時に夢に蛇がでてきて悩んでいた小松殿。
この刀を置くと出てこなくなったという謂れがある。

尾骶骨から裏返す眠れぬ夜  山本早苗


吉光御腰物箪笥 (真田宝物館所蔵)

黒漆塗りで、縦54センチ、横32センチ、高さ17センチ。
大・中・小三つの引き出しが収まっている。
大引き出しには、文琳御茶入と多くの書状など、中引き出しには、
二代藩主・真田信政家康から拝領した短刀など収められていた。
中でも大引き出しにあった書状は、もし人目に触れれば問題になるかも
知れないものもあり。これが代々の松代藩主に受け継がれ、
真田家の歴史を伝える貴重な史料が収められていた箪笥である。

それぞれを丸く納める卵とじ  古田祐子


 摩尼宝珠 (大英寺所蔵)

小松殿がお守りにしていた。
 サンクリット語では、魔尼宝珠「シンタ・マニ」と呼び「マニ」は珠、
「シンタ」は思考する、熟考するという意味を指す。
仏教の経典では、「宝珠」は心の中で思い描いたものをすべて与え、
あらゆる願いを叶えるとされている。
如意宝、如意珠、または単に宝珠とも呼ばれ、「如意」という言葉には、
「意」の「如く」すなわち、「意のまま」という意味がある。
(観音様の如意輪観音の手にも摩尼宝珠がある)

スケールの大きい人もくしゃみする 松本あや子


「石田三成から信之に宛てた書状」

秀吉晩年のころ、真田信之石田三成に鷹を贈った際の礼状。
「先ニハ御やくそくのたかすへ被下(くだされ)候」と書かれている。


「石田三成から昌幸・信之・信繁宛に書かれた書状」

慶長5年8月5日の日付がある三成からの書状は貴重だ。
昌幸らに伏見での戦果を伝えつつ、
「小室(小諸)ふかせ川中嶋、すわへの仕置(領民支配)」を依頼している。
関が原の戦いが始まる40日前の書状だが、
その段階でも三成は信之が
西軍につくと考えていたととれる。
そう思っても無理はないほど三成と信之との間には友好関係があった。

迷いを捨てたかたちにペンが置いてある 瀬川瑞紀


芳泉寺本堂裏の小松姫の墓

石塔の高さ3m余、塔身と下壇の石に小松殿の経歴が刻まれ、
末尾の文字は「元和七年三月廿四日施主信之」とある。

元和6年(1626)2月、小松殿は病気療養のため、草津温泉へ向かう途中、
鴻巣(こうのす)の宿で逝去。
真田家は曹洞宗であるため、松代藩初代藩主・真田信之が徳川家と同じ
浄土宗の「大英寺」を小松殿の菩提を弔うために建立、御霊屋を造った。
小松殿の戒名は大連院殿英誉皓月大禅定尼で大英寺の名前もこれによる。

養父の家康は、江戸幕府の開設以来、浄土宗を保護する政策を行ったが、
武蔵国鴻巣にある勝願寺の二世住職・円誉不残に帰依した。
小松姫も家康の勧めもあり円誉に帰依したが、
同時に薬師如来像を拝領し、
生涯にわたって信仰を続けたという。

遺品を見ても、小松殿は信仰心の厚い人であったようだ。

遺言書へ女するりと入り込む  上田 仁

拍手[3回]

PR
グミは赤 胸を叩きに来たようだ  山口ろっぱ


       後陽成天皇行幸図

天正16年(1588)4月、秀吉は京都の聚楽第に後陽成天皇を迎えた。

「頑なな北条氏」

真田昌幸、徳川家康、そして上杉景勝豊臣秀吉に臣従したことにより、

信濃から甲斐、上野での争いの種は、ほぼなくなったが、

この地方にはもう一家、秀吉に従わない大大名が残っていた。

関東の大部分を支配していた後北条氏である。

このころの北条氏は、徳川との同盟が成立していたことで、

その全軍を関東方面へ集中できた。

もともと関東制圧が北条氏の悲願であったため、

下野(栃木)、常陸(茨城)、さらに上野(群馬)へしきりに進出。

奥州の伊達政宗とも同盟を結び、

下野の宇都宮国綱や佐野房綱
常陸の佐竹義重らを、圧迫していた。

ぶらんこ漕いでる 地球蹴っている  徳山泰子


 沼田城石垣と土塁

それに加え、家康から分割を約束されていた沼田領を奪取すべく、

北条軍は、
真田方が籠る沼田城に度々攻撃を仕掛けていた。

この時、秀吉は北条氏政、氏直親子に対し、

どちらかが上洛のうえ臣従を誓えば、

それまでの行為は「一切不問にする」、
そしてその交換条件として、

「真田が領していた沼田領のうちの利根川以東を
割譲する」

という仲裁案を提示した。


この上洛を促す条件は以前、家康島津義久・義弘らにも行なっている。

上洛以後は過去の敵対行為に関しては、一切不問にされているのだ。

走り梅雨ちょっと本気を試される  美馬りゅうこ

しかし、初代・早雲から当代の氏直まで、5代100年続く北条氏は、

秀吉のことを「成り上がり者」と蔑んでいた。

特に隠居していた先代の氏政などは、最初から秀吉などは鼻にもかけず、

正確な状況判断ができなくなっていた。

一方、領地を割譲される側の真田に関しては、

秀吉の使者として、富田知信
津田信勝が上田城を訪ね、

昌幸から了承を取り付けている。


徳川家との争いが終結した後、

真田昌幸は沼田領の経営を嫡男の信之に委ねていた。

だが、信之は秀吉の決定に従い城を退いている。

主語述語あなたのことがわからない  下谷憲子


   北条氏政

駿河と相模の国境にある寺で家康は、同盟仲間である氏政と密かに会った。

氏政に上洛を勧めるためだ。

天下統一に王手をかけた秀吉は、氏政の予想よりはるかに力を蓄えている。

長年、敵味方の関係を繰り返してきた戦仲間として、

家康は本心から、
北条を心配し、北条のために勧告した。

しかし氏政は「いずれ北条は秀吉を倒す」と慢心ともとれる態度で応じた。
いたべおかこうせつさい
小田原城に戻った氏政は、氏直と重臣・板部岡江雪斎を呼び、

「秀吉と駆け引きをする」と告げ、

秀吉宛に沼田領における条件を一筆認めさせた。

上洛をほのめかして、秀吉の出方を探るというのである。

気休めに賞味期限を舐めてみる  山本昌乃


  豊臣秀吉

秀吉からの返事は、「昌幸と話せ」というものであった。

「わしが京へ上るのは、あくまで沼田を取り戻してから、順序が逆よ」

氏政はあくまでも、沼田固辞の姿勢を崩さない。

このままでは戦になると危惧する江雪斎は、

氏政嫡男の氏直に上洛の話を持ちかけるも、


氏直も、また、父・氏政との対立を避け尻込みをする。

ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい  井上一筒

困り果てた江雪斎は、

「ならば私が名代として京へ上りましょう。


     真田と渡り合い、沼田を取り戻してご覧にいれます」

駿府城では氏政の頑固さに、家康はほとほと嫌気がさしていた。

江雪斎は天正17年7月に上京し、

「真田家の上州沼田城を北条氏にくださるならば、

    翌年北条氏政を上洛させる」


という約束を取り付け、秀吉はこれを了承した。

寒いなあ 放物線の端だなあ  河村啓子

拍手[4回]

ひび割れてひび割れてイエローと叫ぶ  河村啓子


 聚楽第とその周辺

「聚楽第」

秀吉が京都御所近くに聚楽第を完成させたのは、天正15年9月だった。

本丸のほか、西の丸、南二の丸を設け、広い塀を巡らせた広大な平城で、

「聚楽城」とも呼ばれる。

金箔瓦を使った豪華な建物で、その後、北の丸も増築されている。

周辺には豊臣秀長、豊臣秀次、前田利家、細川忠興、黒田孝高(官兵衛)邸と

隣り合って千利休邸などの広壮な邸宅が並び、

一帯は天下人の居城にふさわしい街並みとなっていたといわれる。

虹までの高さに足場組んでいる  清水すみれ


 御陽成天皇行幸図

「聚楽第」は天正13年に秀吉が関白となったのを機に、

政庁兼邸宅として造営された。

ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスがその著書・「日本史」の中に、

「聚楽」の名は、「彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」

と記している。


聚楽第には、天正16年と20年の2度、御陽成天皇が行幸しているが、

同じ場所に続けて、2度も行幸が行なわれたことは、

秀吉にとって最高の名誉と栄光だった。

暖簾の向こうは後陽成トカゲなり  井上一筒

天正19年に、秀吉は後継者であった息子・鶴松を病で亡くした。

そのため、甥の秀次を後継者として関白につけ、聚楽第をその邸宅とした。

自身はその近くに伏見城を築いて移り住んだ。

新たに聚楽第に住んだ秀次は、何度か碁会・将棋会を開いている。

秀次は相当強かったようで多くの大名を将棋の相手に呼んでいる。

将棋に関して、如水も呼ばれ、次のような話を残している。

如水も将棋は強かったが、秀次には負けることも多かった。

如水が負けると秀次は、「お前わざと負けただろう。もうひと勝負しろ」

と言うのである。

一方、秀吉は将棋は下手だったが、

対局者は天下人が相手なので、
わざと負けることがあった。

秀吉は、もちろんそれをお見通しの上で、大袈裟に「勝った勝った」と喜ぶ。

この将棋に如水は、2人の器量の違いをみて、

「秀次は後継者の器ではない」 と悟ったという。

たらればはあんぽんたんの足跡ね  森田律子


  豊臣秀次
秀吉の姉・日秀の子で秀吉の養子となった。

この如水の判断が正しかったのか。

文禄2年(1593)に秀吉の次男の秀頼が誕生すると、

2年後の7月、秀次は、叔父・秀吉に謀反の疑いをかけられ、

高野山に追放のうえ、切腹させられたのである。

文禄4年2月7日の、いわゆる「秀次事件」である。

それに伴い、同年、聚楽第も破却された。

だが、建物の一部は被害を免れ、例えば大徳寺の唐門として移築され、

西本願寺の飛雲閣も聚楽第の遺構と伝えられている。

赤マムシに匙投げられてずっと冬  上田 仁


京都府聚楽第跡出土金箔瓦 (国宝・重要文化財)

聚楽第を破却した秀吉は、洛内での拠点として、京都新城を築いた。

慶長3年(1598)8月に秀吉が死去すると、翌4年9月から北の政所が、

大坂城から新城に移り、関ヶ原の戦いまで暮らした。

また、聚楽第の跡地では,勧進能が行われ,芸能興行の場となる。

やがて人家が立ち並び,「聚楽組」と呼ばれる上京の町組に編成される。

秀吉の後に続け言うのです  畑 照代

【豆辞典】ー(囲碁・将棋)

囲碁は古代中国、将棋は古代インドで発明され、

6~7世紀には、日本に伝わっていたと考えられている。

さまざまな国を経由する中で、各国に独自のルールや道具が発達した。

当初、日本では囲碁や将棋は主に公家や僧侶の趣味として広まった。

時代が下るにつれ、武士や庶民にも普及していった。

ドラマでも、昌幸信繁などが囲碁や将棋をするシーンが登場する。

なかでも戦国武将にとっての囲碁は、

戦いの疑似体験の場であると同時に


静かな空間で精神を研ぎ澄ます修行の場ともなった。

戦略の重要性、大局的なものの見方、的確な判断力、精神の集中など、

厳しい時代を生きる力を養うものと考えられたのである。

とりわけ秀吉は、「太閤碁」と呼ばれる打ち方を考えたり、

家臣に囲碁の戦略性を学ばせるため、

当代一の棋士・本因坊算砂に講義させたりしたという。

サプリメント三度の飯に欠かせない  菱木 誠

拍手[3回]

幸せはやや小刻みにやってくる  山本昌乃


   小 松 姫

「小松姫」

真田信之が結婚したのは、天正17年(1589)ころとされる。

相手は本多忠勝の長女・小松姫である。

小松姫は、天正元年(1573) 家康の重臣・本多忠勝の娘として生まれ、

家康の養女となって、真田昌幸の長男・信之に嫁ぐ。

小松姫17歳、信之24歳のときであった。

この結婚に昌幸は「家康の家臣などお娘を」と反対したという。

『本多家武功聞書』によれば、家康が昌幸を従わせるため、

嫡男の信之に家康の重臣・忠勝の娘を嫁がせようとしたが、

昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で、

「嫁がせるのではどうか」と提案したところ、

昌幸はようやく承諾したということである。


途中から転調をして鉦を撞く  河村啓子

小松姫は、気概があり、細部にも気がつく賢夫人であったことで知られる。

江戸幕府・創設将軍の家康や2代・将軍の徳川秀忠に対しても、

物怖じせず、直に、はっきりと自分の意見を述べたり、

弟の本多忠政や本多忠朝が戦地から帰還した際には、

高らかに忠節を讃えるなど、「勇気のある女性」・「才色兼備の女性」

だったと伝えられている。

サソリ座  女  サボテンでぎざいます  吉岡とみえ



それを証明するこんなエピソードが残る。

慶長5年(1600)、秀吉の没後に五奉行の石田三成が挙兵すると、

夫の信之は家康の率いる東軍に付き、父・昌幸と弟・信繁は、

三成の率いる西軍に付いた。

袂を分かった昌幸・信繁親子が、居城の上田城に戻る途中、

旅の疲れを癒すため、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄った。

その際、昌幸は息子の嫁である小松に、

「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」

と申し出た。

ところが、小松は戦支度をして、城門に立ちはだかり、

「舅・義弟と雖も敵になったお方を城主の留守に一歩も城内には通せない」

と拒んだという。

だまされぬ舟に紋白蝶が乗る  都倉求芽

だが小松は、これを断ると侍女を遣わして、

昌幸らを城下の旅宿(寺)に案内し、
丁重にもてなし、

孫たちに合わせたという。


また一方で、城中の家臣には、弓や鉄砲を狭間に配置させ、

相手方の襲撃に備えるように命じて、

家臣内の動揺を抑えるとともに城内の結束を図った。

これを見た昌幸は家臣に向かって、

「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。

   弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ。

   我は空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり」

と、その手並みを褒め称えたという。『改正三河後風土記』

ハシー海峡へきたイカの姫君  井上一筒


    真田信之

真田親子が東と西に分かれた理由。

対徳川との第一次上田合戦の勝利は、「強い真田」の世評に繋がった。

しかし、秀吉とそのライバルである家康とが和議を結ぶと、
         よりき
昌幸は家康の寄騎になるように秀吉から命じられた。

昌幸にとっては、大嫌いな家康との協力関係など迷惑であったが、

結果として、24歳の信之を家康に出仕させる。

天正17年2月13日のことである。

グレーゾーンに僕の生死がひっかかる  和田洋子

小田原・北条氏滅亡後に江戸に入った家康は、

関東の徳川最前線ともいえる上州・沼田城に信之を城主として入れた。

早くも家康に信頼されていた証拠でもあろう。

それには信之と小松姫との結婚も大きな理由になっている。

秀吉没後に、世は戦乱に向かう。

実質的には石田三成と家康との抗争に発展し、遂には、

これが関が原の戦となるが、最初は昌幸・信繁も信之とともに

東軍として、会津征伐に向かった。

だがその途次、三成が挙兵し昌幸にも、西軍への勧誘が来た。

なんでなんでとレモン二つを転がせて 太田のりこ
いぬぶし
下野国犬伏で、真田一族は去就を決断するための協議をもった。

昌幸・信繁は「豊臣への義」「三成への友情」を主張、

信之は「徳川の恩」を主張した。

信之と信繁とが、東西に分かれる一因に「妻の実家」という事情もあった。

信繁は、秀吉の口利きで、三成の盟友でもある大谷吉継の娘を娶っている。

三者三様の思いのなかで、協議は平行線を辿る。

そして3人が下した決断が、昌幸・信繁は西軍に、信之は東軍に、

それぞれついて戦うというものであった。

火焔式設定にて転ぶ自己主張  山口ろっぱ

「信之・小松ー夫婦の逸話」

関が原の戦い後に昌幸と信繁が高野山・九度山に配流されると、

小松は物品などを贈っては、

義父たちを慰める優しさと気遣いを見せた。

信之には、二女・三男の子供がいたが、

長男・信吉、長女・まん(光岳院殿)、次女・まさ(見樹院殿)
                      しょしょう
次男・信政、3男・信重は、小松姫の所生(産みの親)といわれている。

なお、長男・信吉については、清音院殿の実子とする説と、

小松姫の実子とする説がある。

ともかく、周りが冷やかすほど、仲睦まじい夫婦であったという。

手に摘みて一期一会を深くする  前中知栄

小松姫が嫁いだ当時、信之はすでに真田信綱の娘(清音院殿)

正室に迎えていたが、その後の記録において清音院殿は、

「家女」と記され、
側室待遇となっている。

このことから信之と小松姫の婚姻以降に、

城主とその家族の生活の場である「奥」を取り仕切る権利全般が、

小松姫に移されたと見られている。

婚姻届に切り取り線が付いている  杉山ひさゆき


摩尼宝珠
小松姫がお守りとして所持していたという遺品。


小松姫は、才色兼備をもってきこえ、家康が若い大名を列座させて、

婿を選ばせたところ、家康を前にして萎縮する家臣が多かった中に、

最も落ちついて堂々とした動作の信之を見て、小松自身が心を動かされ、

進んで信之を選んだというのが、最初の二人の出会いであった。

それ以後、真田家が乱世を生きるむずかしい時に、信之が進退を誤らず、

廃藩に至るまでの250年間の、強固な真田家の基を築いたのは、

小松の30年に及ぶ「内助の功」があってのものと評される。

しかし元和6年(1620)春、小松姫は病気を患い草津温泉での湯治のため、

江戸から草津へ向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなる。享年48歳。

小松姫の死に際し信之は、「わが家の燈火が消えたり」と嘆いたという。

因みに、信之は92歳まで生きている。

壇蜜の蜜が飛び出す画面から  雨森茂樹

拍手[3回]

勢いのまま沈んでいく夕日  辻内次根


京都妙心寺に残る鶴丸の舟のオモチャ

「淀殿は悪女だったのか」

1588年秋、豊臣秀吉は52歳、茶々は秀吉の子を身篭ると、

家臣と浮気をした淫乱な女という噂が流れた。

父親は、豊臣家の家臣・大野治長石田三成歌舞伎役者か、

という記述が残されている。

この時、秀吉は茶々が好奇の目に晒されず静かに子が生めるように、

京都の淀に城を築かせ、そこに住まわせた。

これをきっかけに茶々は「淀の方」と呼ばれるようになる。

翌年5月、豊臣家待望の男児・鶴松を出産。

が、僅か3歳で夭折、初子を失い悲しみに暮れる秀吉は、

その年の12月、
自らは「太閤」となり、

関白の職を甥の秀次に譲っている。


はいいろにみちる  うつつにてさまよう 大海幸生

文禄3年(1593)8月、淀の方が2人目の男児・秀頼を出産する。

しかし、このときも、淀の方が不倫して出来た子だと噂された。

『萩藩閥閲録』には、

「淀殿と大野治長は乳兄妹であり、
二人の密通が噂されていた」 

という記録が残されている。


そのため、秀頼は秀吉の実子ではなく、

治長と淀の方の子であるとする説が、
当時から囁かれていた。

すべからく仮の器のボクとタコ  田口和代

淀の母・市の方は、当時の女性としては非常に長身であったとされる。

淀の方も比較的大柄で、秀頼も大柄だったことでも知られている。

因に歴史研究科が調べた其々の身長は、淀君168cm、お市の方165cm、

豊臣秀吉150cm、浅井長政182cm、豊臣秀頼197cm、石田三成150cm、

(それから茶々の実父ではないかとされる織田信長は170cmである)

即ち、小柄な秀吉から長身の秀頼が生まれるとは、考えにくいのである。

ルイス・フロイスが聚楽第で秀吉と会見したとき、

「秀吉は150cmほどもないチビであった」と自身の日本史に記している。

ご連絡ください真っ白な裏へ  くんじろう

「絵本太閤記」によると、こんな逸話が記されている。

ある日、貴重な黒百合の花を献上された北政所(寧々)は、

茶会を開き、茶々にそれを見せて自慢しようと考えた。

しかしそれを見た茶々は、驚きもせず花の説明までしてみせたという。

その3日後、今度は茶々が北政所を招くと、

そこには無数の黒百合が活けられていた。

茶々は北政所の目論見を事前に知り、

使いを山に走らせて同じ黒百合を大量に摘んでこさせたという。

ここに淀の方の傲慢さと意地の悪さを垣間見る。

焼いてみて煮てみて枕草子かな  鳴海賢治


 醍醐の花見 (秀吉の左横が淀の方)

「家康に振り回される淀の方」

慶長3年(1598)3月、天下の豪遊と言われた「醍醐の花見」が行われ、

淀の方も秀吉と一世一代の花見を楽しんだ。

しかし、その直後に秀吉は病に倒れ、62年の生涯を閉じた。

秀吉没後の政治は五大老と五奉行の手に委ねられていたが、

次第に双方第一の実力者、徳川家康石田三成の対立が表面化する。

それの歯止めになっていた五大老筆頭のひとり前田利家没すると、

双方の対立はますます激化し、一気に「関が原の戦」へと加速する。

そして慶長5年9月15日、徳川東軍対石田西軍の戦いの火蓋が切られた。

しかし、この戦いは徳川の勝利をもって、たった一日で決着する。

モノローグなのよ雪の匂い火の匂い  山口ろっぱ

徳川勝利の後、家康は淀殿の信頼の厚い大野治長を大坂城に送り、

「淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じている」

ことを述べさせ、淀の方は、これに対して感謝の旨を返答している。

毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、

そこで家康を饗応した際に、淀の方は自らの酒盃を家康に下した後に、

その盃を秀頼に与えるよう強く求め、

家康は、「秀頼の父親代わりたるべき」と公に宣言した。

これが淀の方の、未熟であまりにも甘い失政のスタートとなるのである。

ヒロインになりきる全開の蓮華  山本昌乃

慶長8年2月、征夷大将軍となった家康が、

江戸に幕府を開くと、
淀の方は激しく動揺したという。

しかし家康は秀吉との間で、「秀頼の成人後、政権を豊臣家へ戻す」

という約束を取り交わしていたため、

次の将軍は秀頼であると信じていた。


7月には、秀頼のもとに家康の孫・千姫が嫁ぎ、

秀吉の七回忌には、秀頼とともに家康が施主となって、

豊国神社での臨時祭が盛大に開かれた。

しかしその信頼も脆く、慶長10年家康は、息子の秀忠に将軍職を譲る。

このとき家康は、当時13歳の秀頼を二条城に上洛させ、

賀詞を呈するよう促した。

これに対し、淀殿は「強いて求めるなら秀頼を殺して自害する」

と言い放ち、断固拒んだ。

別れ道デンデンムシも考える  新家完司


片桐且元と淀の方

慶長19年7月の「方広寺鐘銘事件」でも、淀の方は家康に逆らった。

豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」とあることに対し、

「家康を『安』の字で分断しており、不吉」 と家康が難癖をつけ、

交渉役の片桐且元は、

「大坂を国替えし、秀頼が大坂城を退去するか、

   人質として秀頼公を江戸に詰めさせるか、

   あるいは淀殿を江戸詰めにするか」

と大変な三つの難題を突き付けた。

 「太閤様の築かれた大坂城を明け渡せとは何事ぞ。
      わらわ
       秀頼や妾を江戸に人質とは何事ぞ」

淀の方は激怒し、これを拒否したのである。

小出しに使って黒くなってる運  畑 照代

方広寺大仏殿の梵鐘事件とは、家康が、秀吉が子の秀頼のために残した

莫大な資金を使わせて、経済的に疲弊させようと企んだことに始まる。

関が原の戦後処理を終えた家康は、

淀の方に京都にある寺社の修復、
再建を促した。

寺社の再建には多額の資金が必要になる。

その並びに家康は、火災で焼失した京都方広寺の大仏の再建を提案。

大仏はかつて秀吉が造立したものであるから、

淀の方は即座に、
その提案を受け慶長13年から再建を開始した。

そして、同19年に大仏開眼供養が行われた。

多額の資金を使い再建した大仏だが、

釣鐘に「国家安康」「君臣豊楽」
文字が刻まれていたことに

家康が噛み付き、難癖をつけたのである。


これが「大坂の陣」の引き金になったのは、言うまでもない。

知ったかぶりようの電池が切れました 美馬りゅうこ

こうした淀の君と家康とのやりとりが、

「権力欲に満ちた高慢な女」として、


今日にも「淀殿は悪女」としてのイメージが強く残っているのである。

しかし、家康に近侍した儒学者・林羅山『大坂冬陣記』には、

「大坂冬の陣の講和交渉で自ら人質となることも受け入れていた」

捨て身の姿勢が記されている。

淀の方の失政に繋がる秀頼への愛情は、

自身が、父・長政、母・との縁の薄さの裏返しとして、

わが子には、絶対に同じ思いをせないという、決意があったのだろう。


終章が割れる守りを見せてから  上田 仁

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開