忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1215] [1214] [1213] [1212] [1211] [1210]
人生リセット素顔を光らせる   野邉富優葉





          「浴 恩 園  千秋館」 国立国会図書館所蔵


「浴恩園 千秋館」は、江戸時代後期に「寛政の改革」を主導した松平定信
が、隠居後に築いた庭園「浴恩園」の中に建てた館です。
庭園は「天下の名園」と称され、定信は隠居後「楽翁」と号してこの千秋館
に住みながら、庭園の作庭に没頭しました



「文化人・松平定信」
松平定信は、万葉調の歌人としてして知られた父・田安宗武の感化を受け、
若いころから芸術文化に慣れ親しんだ。側近の水野為長からは和歌、木挽
町狩野家第六代目の狩野栄川院からは絵画を学ぶなど、文化の素養は豊か
だった。
その定信が三十歳で老中首座に抜擢されて幕政のトップに立つと、社会の
模範となるべき武士の「綱紀粛正」を図って、質素倹約や学問武芸を奨励
する。そのため、武士が小説を執筆したり、狂歌を詠むなどの文化活動に
走ることに嫌悪感を隠そうとしなかった。文化活動への厳しいスタンスは
町人についても同様だった。
風俗取締りを名目に、遊郭を舞台にした洒落本の著者・山東京伝、その出
版の仕掛け人だった版元・蔦屋重三郎をも処罰した。
このように文化を敵視したイメージが強い定信だが、老中退任後の三十年
余にわたる一連の文化活動についてはほとんど知られていない。
実のところは、文化に大変理解のある人物でもあった。




羊だって活断層を秘めている  森井克子





             「千 秋 館」





蔦谷重三郎幕政を退いた後の定信




定信は、36歳で老中を退任して、政治の第一線から退くと、豹変する。
絵師や学者、作家といった文化人を動員し、多彩な文化事業を展開し始めた。
定信による文化事業の象徴と言えば、全国規模での「文化財調査図録」である
『集古十種』の編纂である。その命を受けた白川藩お抱えの絵師たちは、全国
各地を回り、古書画や古器物の模写に励んだ。
生来、好古趣味が濃厚な定信は、文化財の保護にたいへん熱心だったが、実は
「模写」の重要性を痛感する出来事が老中在職中にあった。
老中首座就任から約半年後にあたる天明8 (1788) 年正月晦日に、京都御所が
焼失した。幕府は、偽書の再建に取り掛かることになり、定信はその造営総督
に任命されたが、ここで苦難が生じる。




ポケットの中にポケットもうひとつ  津田照子




朝廷の要望を踏まえ、御所の建物のうち紫宸殿と清涼殿は、平安時代の様式に
戻すことになった。ところが、平安時代の御所の様子を伝える絵画資料に不足
したため、その再建にたいへん苦労する。
絵画資料は、既に焼失あるいは散逸していたのだろうが、模写だけでもあれば
と思わずにはいられなかったことだろう。
定信は、そうした苦い経験を踏まえ、絵師を総動員して、古物の模写に取り組
むことを決意していた。もともと古物への関心は高かったが、寛政5 (1793) 
年7月に退任すると、白川藩の文化事業として模写の作業に本格的に着手する。
その事業の役を任されたのが、田安家家臣の家に生まれ、寛政4年に定信の近
習に抜擢されていた定信の5歳年下の谷文晁である。
文晁は、仙台・松島・平泉で什物を調査し、西へは京都・大阪から高野山・熊
野奈良などを廻り、そして中国や四国地方に足を延ばし資料を集めた。




百年生きたら私をみてほしい  市井美春





                                           『石 山 寺 縁 起 絵 巻』




巻6,7巻は、詞書は飛鳥井雅章。絵は、谷文晁が二年がかりで完成させた。
定信は文晁に、「一草一木たりとも文晁が私意を禁ぜられ」たといい、新図は
定信自ら指導し、図様に関しては、古い絵巻などから抜き出して使用している。
定信は、『集古十種』の編纂と並行し、絵巻や古画の模写集である『古画類集』
の編纂に着手した。『源頼朝像』などの古画、そして『伴大納言絵詞』などの
部分図が収録された『古画類集』でも、その模写にあたったのは文晁たち白河
藩お抱えの絵師たちだった。
定信は、絵巻自体の模写にもたいへん熱心であった。
『北野天神縁起絵巻』『春日権現験記絵』などを模写させたが『石山寺縁起
絵巻に至っては、欠損していた巻を補作までしている。残された詞書から絵を
推定して復元したが、その作業を任せられたのが文晁だった。
文晁は『春日権現験記絵』などを参考に文化元 (1804) に年から二年にかけて
補作を完成させる。彼らは、絵師に代表される文化人たちの能力を活かすこと
で貴重な文化財の数々を模写といいう形で後世に遺したのである。




世の中は何でだろうのネタだらけ  北出北朗






                                    『江 戸 一 目 図 屏 風』

「江戸一目図屏風」は江戸時代初期の江戸の市街地や近郊の様子を描いている。
下の図はセンター部分を拡大したもの。




「危険視していた戯作者を起用する」
定信は文化財保護に力をいれる一方、新たな作品を世に出すことにも熱心であ
り、他藩お抱えの絵師にも発注して画才を発揮させた。
江戸を鳥瞰して描いた屏風絵として知られる『江戸一目図屏風』の作者・鍬形
蕙斎(くわがたけいさい=北尾政美)は、その一人だが、老中在職時に因縁の
あった意外な作家たちも製作陣に加わっていた。
文化3 (1806) 定信の依頼を受けた蕙斎は『近世職人尽絵絵詞』を制作。
大工、屋根葺職人、畳職など数十種に及ぶ職人の風俗のほか、庶民生活の様子
も描いた作品である。
上中下の三巻から構成される『近世職人尽絵絵詞』の絵を担当したのは蕙斎だ
『詞』の担当は別の人物だった




胃袋をつかむ「サシスセソ」の塩加減  靍田寿子






             仏 を 彫 る 職 人
            カマボコ屋・豆腐屋
 
文化3年、定信は『近世職人尽絵詞』を製作。大工、屋根葺職人、畳職人など、
職人の風俗のほか、庶民の生活が描かれていて、「江戸の職人」の実像を知る
貴重な資料となっている。上中下の三巻で構成され、文章はそれぞれ四方赤良
(大田南畝)朋誠堂喜三二、山東京伝が担当した




四方赤良は、寛政改革に一環として言論弾圧が強まるなか、身の危機を感じて
狂歌を詠むことを止めた。
朋誠堂喜三二こと秋田藩江戸留守居役の平沢常富は、改革政治を風刺した黄表
紙を執筆したことが幕府の忌諱に触れるとして、藩から執筆活動を止められた。
山東京伝は、寛政改革の一環として発令された出版取締令違反の廉で手鎖50
日の処分、出版した洒落本は絶版となった。
以後、京伝は幕府の目を恐れて勧善懲悪を説く作品を書くようになった。




意地という文字がこの頃出てこない  船木しげ子




定信が進めた言論弾圧の方針を受けて、文芸活動の修正・断念を余儀なくされ
た3人だが、この頃、定信は無役の大名だった。
幕政トップの立場からすると、3人の執筆活動は危険視せざるを得ないが、幕
政に関与していない無役の身としては別に要注意人物ではない。
むしろ、彼らの文才を自分の文化事業に活用したいと考え『近世職人尽絵図』
の詞書を担当させた。それだけ定信は3人の才能を評価していた。
吉原の遊女の1日を、12の時に分けて描いた『吉原十二時絵詞』は、蕙斎だが
「詞」山東京伝の担当であった。
吉原をテーマとした本であることから、吉原に詳しい京伝に白羽の矢を立てたの
だ。華やかな吉原の世界が絵と詞で、またひとつ後世に伝えられることになる。




湯戻しをして柔らかくする昨日  平井美智子
 




    
           『 花 月 草 紙 』
『花月草紙』は、松平定信による江戸時代後期の随筆集。




「定信の文化サロン」
文化9 (1812) 55歳になった定信は、藩主の座を嫡男・定永に譲り、築地の白
川藩下屋敷で隠居生活に入った。
隠居したその日から日記を書き始めるいっぽうで『花月草紙』に代表される随筆
も執筆した。『花月草紙』は、格調高い文体である上に、識見の高さと教養の深
さ滲み出ている作品であり、江戸時代の代表的な随筆と評価される。
築地下屋敷には、浴恩園と名付けられた庭園が設けられたが、定信が隠居生活を
送ったのは園内に立つ建坪二百坪ほどの「千秋館」である。
千秋館で執筆活動に勤しむかたわら、園内を歩いて景観を眺めるのが、何よりの
楽しみだった。




余生には無用な過去を破り捨て  松浦英夫





「大 名 か たぎ」
定信は、部屋住み時代(17歳の頃)にハマった江戸の戯作「金々先生栄華夢」
が刊行された安永4年黄表紙風の『大名かたぎ』を執筆している。




浴恩園で余生を過ごす定信のもとには、同じく教養豊かな大名が頻繁に訪れた。
大名だけでなく、大学頭の林述斎、儒学者の成島司直、国学者の屋代弘賢、歌人
北村季文なども常連だった。文晁たち絵師も同様である。
浴恩園は定信主宰の文化サロンとして、身分の差を超えて文化人が集う場となっ
ていた。浴恩園に集まったメンバーを中心に、詩歌会も催された。
「詠源氏物語和歌」というタイトルの歌集は文化11 (1815) 年歌会で詠まれた
歌を集めたものだが、この歌会には定信はもちろん、好学の大名だった近江堅田
藩主の堀田正敦、備前平戸藩主の松浦静山に加え、国学者の塙保己一たち56名
が参加した。




意地と意地化学反応して消える  竹内いそこ





        定信はミュージシャンー心の草紙





翌12年には、浴恩園の51箇所の景勝を詠んだ「浴恩園和歌」が編まれた。
各名勝ごとに儒学者の頼春水(頼山陽の父)や狂歌師の四方赤良こと太田南畝
ちの詩を添え、正敦が跋文を担当した。南畝も浴恩園に集まったメンバーだった
ことがわかる。定信は浴恩園を拠点として、江戸の文化を満喫しながら余生を送
った。寛政改革後の定信は、一連の文化事業を通して、絵師や作家にその能力を
発揮させた。文化人たちのパトロンのような役回りを演じていたのである。
その後半生に焦点をあてることで、江戸の文化を愛した知られざる素顔が浮かび
上がってくる。定信はこの12年に72歳で死去する。




百年をお眠りなさいサボテンの強さかな  井上恵津子

拍手[0回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開