川柳的逍遥 人の世の一家言
ばあちゃんはじいちゃんなしで生きられる 助川和美
「滝沢馬琴とは」
明和4〈1767〉年6月9日、江戸深川海辺橋東の松平屋敷内長屋で父滝沢興義・
母門の5男として生まれる。幼名春蔵 (後に倉蔵)。長兄が家督をついだが,
翌年故あって浪人になり、2男3男は早世した。10歳で滝沢興邦(おきくに)
(のちに滝沢解)を名乗り、幼君八十五郎に仕えた。
興邦はひとり主家に起臥し,幼主の呵責に耐えるという少年時代を過ごしたが,
14歳のとき ”木がらしに思ひたちけり神の旅 ”の一句を障子に書きつけて
松平屋敷を出奔した。その後、兄の勧めもあって、戸田家の徒士かちになるが
18歳の時、再び出奔し市中を浮浪。24歳で山東京伝宅に転がり込むまで放蕩三
昧を繰り返した。
飾りボタン見栄を張らずに生きてゆく 堀尾順子
「滝沢馬琴の名前」
幼名は倉蔵(くらぞう)滝沢を継承して滝沢興邦(おきくに)。作家としての
筆名は、曲亭馬琴、他に笠翁や篁民(こうかんみん)など多くの号がある。
寛政4(1792) 年)3月、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代(番頭)として
雇われる。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名と身分を捨て、
通称を「瑣吉」に諱を「解」とした。
「馬琴の性格」
非常に几帳面で、毎日のスケジュールはほぼ同じだった。朝6時から8時
の間に起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側で徳川斉昭考
案の体操を一通りし朝食。客間で茶を飲んだあと、書斎に移り、前日の日
記を記したのち、執筆作業に入る。まず、筆耕者から上がってきた前日の
原稿のチェック。一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。
そのほかにも、出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆より
も校正に苦しめられた日々だったという。
あらすじの真ん中辺にだんご虫 北原照子
蔦谷重三郎ー曲亭馬琴
おそらく蔦重にとって扱いにくい作家の筆頭が曲亭馬琴だったのではないか。
喜多川歌麿、十返舎一九、馬琴、など蔦重が食客として面倒を見ながら、
無名から有名へとプロデュースした作家は多く、馬琴もその1人なのだが、
馬琴はその性格ゆえ、また蔦重の成功法則ゆえに、有り体にゆえば合わなか
ったと思われる。
ともかく馬琴は、性格的にかなりの難があり、交友関係は乏しく近寄りがたい
イメージの人物で、仲間であるべき文化たちからは「傲慢で性格最低な野郎だ」
と敬遠され、師匠である山東京伝との関係すらも、かなり複雑で、京伝の弟・
山東京山からは「恩知らず」と罵倒されるなど、嫌われ者作家として孤高の人
だったようだ。
一方で馬琴は馬琴で苦しんでいた寂しい人という見方もある。
薬指紅塗る以外使わない 武良銀茶
馬琴が戯作者を志し、山東京伝の門を叩いたのは、寛政2 (1790) 年、24歳の
事だった。京伝は弟子を取らない考えだったが、まあまあ骨のある奴と見込ん
だのだろう、飯を食わせて(酒はいらないと断った)「弟子としてではなく、
同じ戯作者仲間としてならたまに見せに来てもよい」と伝えたら、「では師匠
と呼ばせていただきます」と言って、毎日、京伝宅に通い始めた。
だが、寛政3年黄表紙『尽用面二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)
でデビューを飾ったあと、何か考えるところがあったのか、「神奈川に行って
占い師になります」といって馬琴は旅に出てしまった。
傾いた船の絵がある心療科 平井美智子
2,3か月して戻ってみると、深川の馬琴の家は洪水で流されていた。
寝起きするところがないので、京伝家を頼ると京伝は、洒落本の咎めで手鎖の
刑になっている。
京伝の方も、弟子が(認めていないが)「家が流された」と言い、戻ってきて
無下に帰れともいえない。加えて自分も手鎖で執筆できない。
仕方がないので馬琴を食客とした。
蔦重はこれ幸いに、「馬琴に『実語教幼稚講釈』を書かせる。
京伝の代作で、挿絵は勝川春朗(葛飾北斎)だ。
蔦重が、そのつもりがあったかは分からないが、馬琴&北斎のバディもここに
誕生した。
上中下前後左右に動く首 通利一遍
馬琴は空気を読めないし、読もうともしない。
ちょうどこの時、京伝と菊園の夫婦はまだ新婚生活の真っ只中。
というわけで、京伝の勧めもあり、蔦重の耕書堂で手代(番頭)として、働く
こととなった。
蔦重としては、武士の戯作者が全滅の人材不足の中、書ける手は欲しかった。
馬琴には「執筆を優先させる働き方」を提案し、馬琴としても「戯作が書ける
のならば」ということで、蔦重の食客となった。
へそ踊りくらいがへその使い道 橋倉久美子
ところが馬琴が書きたいものは、剛健な勧善懲悪ものの読本。
ナンセンスな笑いの黄表紙や男女の色事の洒落本ではなかった。
そして、馬琴は「武士が商人に雇われる」ことを恥と考えていた。
武士の名を捨て「瑣吉」としたのもその理由だ。
こうしたプライドの高さなので、蔦重はどうにも扱い辛かったらしい。
蔦重流吉原研修が効かないのだ。
なにせ「洒落本は教育によろしくない」という堅物で酒も女も興味なし、
吉原で、めきめきと才能を伸ばした喜多川歌麿とは真逆である。
これまで武士作家と交流してきた蔦重だが、朋誠堂喜三二に恋川春町、
太田南畝とみな吉原に通じており、洒落がわかるクリエイターたちだ。
接待すればそれだけヒット作になって返ってくる。
蔦重にとって馬琴は「どうすりゃよいのか」なのである。
要らんものあり上唇と目蓋 井上一通
「とにかくマイペースの馬琴」
寛政5年(1793年)7月、27歳のとき、馬琴は、重三郎や京伝にも勧められて、
元飯田町中坂世継稲荷下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の3つ年上の未亡人
・百の婿となるが、会田姓でなく滝沢清右衛門を名のった。
結婚は、生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、
手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の大家をして生計を立てた。
加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。
寛政7(1795) 年に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むように
なり、履物商はやめた。
打算ありきで結婚した妻の百にしても何かとトラブルがちだった。
(結婚の翌年である寛政6年には、長女・幸、寛政8年(1796年)には
二女・祐が生まれた。のちの寛政9(1797年)には、長男・鎮五郎(宗伯興継)
が、寛政12年には三女・鍬が生まれ、馬琴は合わせて一男三女の父親となった。
行きづらい世の中知りつくすカラス 靍田寿子 PR
HOME 蔦屋重三郎ー寛政6年
>>
|
最新記事
(10/19)
(10/12)
(10/05)
(09/28)
(09/21)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|