川柳的逍遥 人の世の一家言
捨てられた男の会の幹事長 井上一筒
山 東 京 伝 の た ば こ 店 店の右奥で煙管を吹いている京伝は、吉原の名高い遊女花扇と話している。 左側には当代の人気役者、三代目・瀬川菊之丞、三代目・沢村宗十郎、三代目 市川八百蔵が客として訪れてている。 「生まれは深川 妻は吉原遊女」
山東京伝の生まれは深川木場である。現在の江東区の木場には面影は何ひとつ
ないが、当時はその名の通り木材置き場であった。ここで働く川並鳶は、水難 事故で命を落しても身元がわかるようにと、背中に「深川彫り」を入れていた。 神田の火消しに、川並の鳶。粋で鯔背な職人の代表だ。
周辺には、材木問屋が軒を並べ、豪商達は深川の料亭や花街で金に糸目をつけ
ずに派手に遊び倒す。そこにいるのは深川の芸者通称辰巳芸者だ。 男物の羽織で源氏名も男の名を使う。そして何より気風がいい。
粋で鯔背な深川の職人たちと、豪商たちの通名遊びを見て育っている京伝は、
息を吐くように「粋」を戯作に書き連ねた。 優しさが売り物になる男たち 菱木誠
「定信の統制時代の京伝」
京伝はいくつかの教養的な黄表紙を既に手がけていた。
しかし、洒落と穿ちが売りの黄表紙に、倫理的道徳を説く物語りを書くなどと
いう野暮は、江戸っ子の京伝にとって屈辱であった。 ならば、戯作以外で粋を追求しようと開店したのが「たばこ店」だ。
江戸の一等地である京橋は、現在の銀座一丁目、父親に店を任せつつ作家活動
を続けた。京伝は、「自分は店を持っていて、稿料のほかに収入があるので、 版元からの依頼を断ることができる」と述べている。 野暮な本を書くくらいなら、自分が監修デザインの喫煙道具店をやっているほ
うが良い、京伝なりの、統制に迎合しようとするメディアへの張りであった。 男ってしょせんメッキとかぐや姫 北出北朗
蔦屋重三郎ー山東京伝のドライ
『心 学 早 染 草』 (山東京伝作)(東京都立図書館)
板元たちが「もう書かない」という京伝に、無理に執筆を依頼しているのは、
作家不足のほかにも理由があった。京伝が書いた『心学早染草』の存在だ。
寛政2 (1790) 年に、大和田安兵衛を版元として出版された『心学早染草』は、
心学講釈の流行に当て込んだ教訓色の強い黄表紙である。
人間の心にある苦い心と悪い心を、善玉悪玉というキャラクターで表現した。
鉛筆が走るひらめき追いかけて 荻野浩子
松平定信の文武奨励は、実のところ庶民たちにも影響を与えていた。
教育が大衆にも開かれたことで、大人向けの学門所ができ、中でも、京都の石
田梅岩が唱えた実践道徳の心学がなぜか流行り始めたのだ。 江戸の人々はメディアが統制されていく中、押し付けられた政策でさえもエン
タメに変えていたのだ。 (善玉悪玉は評判を呼んだ。本は飛ぶように売れ、同じ「心学もの」
の本があちこちで書かれた。が、当時の日本には著作権はない)
正論を叫ぶ鉛筆振り立てて 宮井元伸
「堪 忍 袋 緒 〆 善 玉」 (東京都立中央図書館蔵) 寛政5年刊。冒頭に蔦重の訪問を受けた京伝宅の様子を描く。蔦重にお茶を 出しているのは、吉原扇屋の遊女だった菊園で、身請けされて今では京伝の 新妻お菊である。大好評の悪玉・善玉ものとはいえ、3作目で気乗りしない 作者に対して、蔦重は「いま一番先生のお株の悪玉の願わねばならぬ」と 引き下がりそうもない。 当然、蔦重もこの流行を逃すはずがなく、市場通笑に進学を題材とした『即席
耳学問』の版木を買い取った。 蔦重は京伝に『心学早染草』の続編『人間一生胸算用』を書かせ、これが好評 につき『堪忍袋緒〆の善玉』も依頼した。 「先の二冊はえらい評判。この調子で三段目行きましょう」
「いやもう、二番煎じならぬ三番煎じじゃ世間も飽きたからもう書け
ない」
「そんなこと言って先生、世間の評判がまだ高いのを知らないんですかぃ。
大丈夫、まだまだいける、先生ならいける」
といったようなやり取りがあったらしく『堪忍袋緒〆善玉』の冒頭で京伝が
ぼやいている。
月の裏くらいは描ける3H くんじろう
京伝がぼやくのも当然で、これまで廓を舞台にした男女のあれこれを洒落本に
書いておいて「廓遊びなどしてはなりません」と、どの口が言うのか、という 思いが、京伝にもあっただろう。 市場通笑は、 『即席耳学問』の序文で「礼の教訓異見のうっとうしいも随分承知之助と版元
のほうからしゃれかけるを、どっこいそこを、虎の皮千里を走る大ぼやむきの 趣向」と述べている。 蔦重は、心学黄表紙を「うっとうしい」、つまり野暮を承知の上で出した。
吉原出自の耕書堂が心学を説くこと自体が、洒落だというのだ。
ペンケースの中でワタシを取り戻す 山本早苗
「 娼妓絹篩」(しょうぎきぬぶるい) (作画山東京伝) 洒落本「将棋定石の書『将棋絹籭』を捩り吉原を将棋の局面となぞらえている。
京伝はその洒落に乗り切れず、野暮になりきることも出来ずに「教訓黄表紙」
の執筆を続けるも、独自の穿ちは、ついぞ見ることはなかった。 (京伝美学の戯作への投影は、寛政11 (1790) 年の読本『忠臣水滸伝』まで
待たねばならない。蔦屋版心学シリーズの4作目『四遍摺心学草子』は馬琴が
書いた。馬琴にとって教訓本は何の苦もなかったようで、 後に「この頃耕書堂の主人、余にその四遍を求む」と誇らしげに記している)
「べらぼう37話 あらすじちょいかみ」
幕府の改革は着々と進行しています。
定信は、倹約の徹底を大奥にまで及ぼし、さらに債務を帳消しにする棄捐令
を強行。そして、中洲の遊郭取り壊しにも着手し、江戸の華やぎを揺るがし ていきます。贅沢を許さない冷徹な方針は、町人の暮らしにも及び、吉原は 存亡の危機に追い込まれていきました。 吉原のため、そして、文化の火を絶やさぬため、蔦重はふたたび立ちあがり
ます。政演、歌麿に新しい企画を依頼し、江戸の町を明るくする一冊を世に 出そうと決意するのです。 (しかしその場にいたていが、女性の視点から反論をぶつけます)
華やかな花弁の奥は地獄かも 島田酪舟
一方、松平定信は大奥にも倹約すべしとの方向性を示します。
定信は、経費を三分の一に減らすことを決行します。
この頃大奥の経費は、幕府の蓄財の4分の1から5分の1である年間20万両。
将軍家斉の乳母・大崎、家斉の側室お万の叔母・高橋を含む大臈御年寄8人中
5人を解任しました。 また、借金を抱える旗本や御家人を救済するため、札差しに、債務放棄などを
させる棄損令を発動し、中洲の取り壊しを実行します。 つまんで引っ張って引っ張ってつまむ 雨森茂喜
「日 本 橋 中 洲」 「日本橋中洲」
葦の繁る中洲は明和8年(1771) 8月、大伝馬町名主の馬込勘解由により、
伝馬助成地として浜町と地続きに9千坪が埋め立てられた。
地固めをするために認可した水茶屋から発展して、湯屋3軒、茶屋93軒、
料理屋などが建ち並び一大歓楽街となり賑わっていた。 しかし、質素倹約を唱える松平定信の寛政の改革で、取り壊され元の葦原の
浅瀬に戻された。掘り返した土砂は墨田川土手堤の盛土に利用した。 江戸三俣付近に二十年弱存在していたウォーターフロントの歓楽街。
東京都中央区・日本橋地域の南東に位置し、清洲橋の西詰めに当たります。
埋め立てによってできた人工の島でしたが、寛政元 (1789 ) 年に、取り壊
されました。「月見の名所」として有名で、舟遊びなどで賑わいます。 万治2 (1695) 年、吉原の遊女・高尾太夫が、中洲近くの船上で吊り斬りに
され、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話が残って
います。
過去なんて問わぬ土竜の一頻り 岸井ふさゑ PR |
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