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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ふるさとは牛の涎と炭俵  井上恵津子






         「鸚鵡返文武二道」 (東京都立図書館蔵本)
松平定信の治世下の倹約ブーム、文武ブームを茶化す。この黄表紙は大いに
評判を呼び正月刊行から3月頃まで出回った。作者春町はこの「鸚鵡返し~」
によって幕府への出頭を命ぜられた。画は北尾政美。



江戸のニュース 
七月二十三日  松平定信が依願退職
老中の松平定信が寛政の改革に失敗、この日、病気を理由に老中補佐役を依願
退職した。この件については様々な推測がばされているが、幕閣の権力闘争に
敗れて罷免されたとの説もある。この見方に関連して、この退職には、大奥も
一役買ったというのである。
贅沢を禁じた定信は、大奥にとって、もともと煙たい存在だった。
定信が相模・伊豆沿岸の巡視中に、大奥が中心となって策略されたことなどが
挙げられている。
定信の自伝『宇下人言』には、退職については触れてはいない。
いずれにしても事実上の首である。
定信への期待が大きかったこともあり、細かすぎる定信に対する庶民の不平不
満は政権発足当時からあった。
それを代表するのが、次の狂歌である。
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶいふて夜も寝られず




大根の尻尾に意見されている  笠嶋恵美子






「文武二道万石通」 (東洋文庫蔵)
寛政の改革下の混乱と田沼一派の失脚劇に取材した黄表紙である。
喜三二は、佐竹藩の思惑もあってか、以後黄表紙に筆を執らなくなる。




「寛政の改革の失敗」
松平定信の寛政の改革は、時代の歯車を大きく元に戻す結果となった.
流通経済が発展し、庶民の生活も幾分かは余裕が出てきて、ささやかな娯楽を
楽しむこともできるようになった時代に、「貴穀賤金」(金よりも米穀を重ん
じるという思想)のもとで、商業活動を抑制して、米中心の社会に戻ることは、
経済活動を沈滞化させ、景気悪化へと導くこととなった。
さらに「祖法」を守るという名目で、鎖国政策を強化し蝦夷地開発も中断。
ついには、異学の禁によって、朱子学以外の学派を抑圧するという政策により、
田沼時代に芽生えた、自由で進歩的な学術・文化活動が、大きく後退すること
にもなった。
将軍の孫として、生まれた時から「お殿様」として育てられ、徳川幕府の正学
である朱子学を徹底的に叩き込まれた定信だからこそ、「祖法」の呪縛から逃
れられず、新しい発想に至ることができなかったのだろう。





帽子から飛び出す鳩も私も  いつ木もも花






   様々な書物を前に内容を吟味する、梅の小紋柄は松平定信




蔦屋重三郎ー定信の政治




田沼意次の失脚後、政権の座に就いた老中・松平定信は、それまで経済を
促進した田沼政権とは一転して、質素倹約を是とした。
武士には学門と武芸を促し、社会の風紀の引き締めを図る。
いわゆる「寛政の改革」である。庶民たちは、まだ経済的に活気のあった田沼
時代を偲び、寛政の改革下の息苦しさに喘いだ。
そんな社会の空気を感じ取った蔦重は、当時の倹約ブームや文武奨励ブームを
茶化して風刺する。





笑わせるギャグタイミングの間を計る  小林妻子






     蔦屋重三郎ー朋誠堂喜三二






時の将軍家斉と老中・松平定信を茶化した朋誠堂喜三二『文武二道万石通』
や寛政の改革を風刺し、恋川春町が文章、北尾政美が挿絵を描いた『鸚鵡返文
武二道』を相次いで出版し、いずれもベストセラーとなった。
その後、唐来参和『天下一面鏡梅鉢』もまた儒教思想を尊重する当時の改革
の風潮をパロディ化したものであったが、これが絶版処分となってしまう。
また、黄表紙の作者は主に武士たちであったが、圧力がかかり、喜三二は絶筆
を余儀なくされた。春町も、幕府の呼び出しを受けるが、病気を理由に応じず、
その後、病死する。





情に脆い芋であっさり煮崩れる  阪部文子





集古十種


              古 宝 物

       相 模 国 鎌 倉 鶴 岡 八 幡 宮 蔵 杏 葉 太 刀

             版 木




綱紀粛正・質素倹約、すなわち出版・風俗・奢侈の厳しい統制によって、江戸
市中は、火の消えたような状況となり、寛政の改革による歪が起っ
ていた。ついには在職六年目で定信は退場する。
退職後の定信は、陸奥白河藩主として藩政にあたり、こののち、中央政界には
復帰しなっかった。
定信は、政治家であると同時に文化人でもあったので『宇下人言』『国本論』
などを著し、古い書画や器物を模写した 『集古十種』も編集している。
定信は文政12 (1829) に没した。享年七十二。
以降、寛政の改革を推進していた松平信明が老中首座となり、将軍家斉の乱脈
政治のもと、世情は華美に流れていくことになる。





パンツを脱いでサルに戻ろう  岡田幸子




       『鸚鵡返文武二道』  (恋川春町著作)
『鸚鵡返〜』自体が「鸚鵡言」のパロディで、文武奨励・質素倹約などと声高
に叫んでも、人々は定信の言ったことをオウムのように真似ているだけ、と、
嘲笑する意図を込めている。 (画は頼朝と重忠)





恋川春町著作の絶版・『鸚鵡返文武二道』あらすじ
醍醐天皇を補佐する菅秀才(かんしゅうさい)は、武士が武芸を疎かにしてい
るため、源義経らを指南役に起用する。醍醐天皇と義経では、生きた時代が異
なり、そうした荒唐無稽の設定が、大衆には面白く受けた。
ところが武士たちは、牛若丸の千人斬りを模倣して、往来の人々に斬りかかっ
たり、乗馬の訓練と称して、遊女や男娼に馬乗りになったりと、悪逆・放蕩の
限りを尽くします。
見かねた秀才は、自著『九官鳥のことば』を教科書にして道徳を学ばせようと
するも、その中にある「天下国家を治めるは凧を上げるようなもの」という記
述を武士たちが勘違いし、正月でもないのに「凧あげ」に精を出す有様—。
(ここでも秀才が、梅鉢紋の装束を身にまとっている。極めつけは
『九官鳥のことば』これは定信選・著の『鸚鵡言』を茶化した題名なのだ)





びしょ濡れになっても別の靴がある  新家完司




重忠が武士を集めて文・武に分けている場面。上座に頼朝、
中央の梅鉢紋の装束が重忠で、定信に見立てている。




『文武二道万石通』あらすじ
時は鎌倉時代初期。世の中が平和になり、武士が戦への備えをおろそかにする
ことを憂慮した源頼朝は、御家人の畠山重忠に武士を「文」「武」に振り分け、
各々精進させよと命じます。
そこで重忠は「文」が得意な者「武」に長けた者に分けようとしました。
ところが、どちらも不得手な「ぬらくら者」が最も多いと判明。
重忠は、再教育を試みますが、ぬらくらは、文を茶道・蹴鞠・俳句、武を将棋・
囲碁・釣りなどの遊びにこじつけ、一向に上達しないというもの。





たこはくらげくらげはたこにあこがれる  藤本秋声





自分が揶揄されているとも知らず、黄表紙「文武二道万石通」
を嬉しそうに読んでいる定信




「べらぼう35話 あらすじちょいかみ」





年が明け、朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通』を読む松平定信
鎌倉時代、源頼朝に請われ、忠臣・畠山重忠が鎌倉武士を、「文に長けた者」、
「武に長けた者」、どちらでもない「ぬらくら」に選り分けるという内容です。
忠臣・重忠の絵には、松平家の家紋(梅鉢)が入り「ぬらくら」は、土山宗次
ら田沼派をモデルにしているようで、定信は感激します。





マイウェイ昭和の靴を履いたまま  津田照子





蔦重大明神がそれがしを励ましてくれているということ!
大明神は、私がぬらくら武士どもを鍛え直し、田沼病に冒された世を見事立て
直すことをお望みだ!はりきる定信は、朱子学者・柴野栗山をブレーンに加え、
徳川家斉に紹介します。
栗山は、家斉の隣りにいる一橋治済から、邪悪な気を感じていました。
 外れた思惑……
『文武二道万石通』は大ヒット。
ただし、思惑は外れます。
皮肉が伝わらず「田沼派=ぬらくら」と捉えられてしまい、歌麿『画本虫撰』
にいたっては、良品にしては安く作られ、金持ち達が定信に感謝する始末。
定信は、将軍が成人するまで代わりに政を行う「将軍補佐」となり、ますます
ヒーロー扱いされていきます。





悪筆も様になってる哲学者  橋倉久美子





      蔦重は作戦会議を開いています。


 伝わらない真意…
蔦重は作戦会議を開いています。
恋川春町は、12月に出した黄表紙のうち、自分の本が一番売れていないといじけ
ています。春町の主君は、定信の改革について
「志は立派だが、はたしてしかと伝わるものなのか、とは思うかのう」
と危ぶんでいます。
主君の読み通り、耕書堂の黄表紙同様に定信の真意は、伝わっていませんでした。
文武に励む侍も飽きてしまい、威張り散らしたり、知ったかぶりをしたり…。





にほんばしからにっぽんばしにお引越し  くんじろう

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