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川柳的逍遥 人の世の一家言
私は以下省略の中にいる 藤井康信
「里見八犬伝 行徳入江の場」 歌川豊国(三代) さて馬琴は武家出身で几帳面な性格の努力家であり、『南総里見八犬伝』や
『椿説弓張月』など、勧善懲悪の理念に基づいた長編小説を数多く執筆した
大作家である。
蔦谷重三郎ー曲亭馬琴ー②
「高 尾 船 字 文」 曲亭馬琴の読本の初作。歌舞伎の伽羅先代萩(伊達騒動)の世界に中国小説・ 忠義水滸伝を綯い混ぜた趣向で書かれている。 馬琴という人物は、洒落も滑稽もわからず、なにかあれば儒教や中国文学に
見立てて説教を垂れてくる。明烏の時次郎と同じ部類の人物だ。堅物。
しかし、蔦重は馬琴について匙を投げたわけでなはなかった。
馬琴には馬琴の良さあがある。それはこの「寛政の改革」である今だからこそ
光る長所と踏んだ。
これでいい不満はみんな捨ててきた 安土理恵
蔦重は黄表紙を堅物馬琴に書かせた。洒落や滑稽、見立てで読ませる黄表紙は、
馬琴の最も苦手とする分野だ。そこを敢えての黄表紙、実は、馬琴でなければ
書けない黄表紙の需要が高まっていたのである。
寛政の改革で、社会風刺や廓を舞台にする色事、不適切な表現が描かれる描か
れる黄表紙や洒落本はご法度となった。
恋川春町を亡くし、京伝に「筆を折る」とまで言わせ、且つ自分も身上半減の
咎めに遭い、さすがに蔦重も用心せざるを得ない。歌麿の美人画で浮世絵出版
が主になっていたのも、そうした事情があった。
美しく自粛 金魚が澄んでいる 山本早苗
とはいえ、本を出さずに書肆とはいえぬ。そこで目を付けたのが、教訓を分か
りやすく物語にして説く「草双紙」だった。
内容を孝行話や勧善懲悪、道徳などに変えた、絵本仕立ての黄表紙である。
これなら馬琴の得意とするところだ。馬琴が戯作者を目指したひとつに儒学や
国学、歴史、中国文学など自身の知識を役立てたいという思いがあった。
すでに心学の本については山東京伝が『心学早染草』というヒット作を出して
いた。しかし、これまで滑稽や洒落を書いてきた京伝にとって、教訓本は、
京伝の良さを活かしきれない。馬琴ならそれができるのだ。
いのち絞り この世鳴き急ぐ 太田のりこ
ただし、商業出版なら消費者に受ける本でなければならない。
売れなければならない。売れなければ耕書堂の儲けは出ず、馬琴の名も上がら
ない。だからこその黄表紙であった。いくら好みではないとしても、滑稽や洒
落が分からないでは、、戯作者は務まらない。この先読本に転向するとしても
馬琴が書くのは大衆文学だ。であれば、大衆に寄り添うことを考えねばならぬ。
「人情を知る」「世情を読む」ことが重要だ。蔦重は、いくつも黄表紙を書か
せた。多くは勧善懲悪や水滸伝(明王朝の中国でかかれた長編型の自話小説)
を取材したもので、教訓ぽさが出ているものの、学びもエンタメ化させている。
町人たちに意外と受け入れられて。馬琴の野暮な理屈っぽさも、大衆の知的好
奇心をくすぐった。
帽子から飛び出す鳩も私も いつ木もも花
馬琴作北斎画共作の水滸伝 ついに寛政8 (1796) 年、馬琴は蔦重を版元として読本『高尾船字文』を出版
した。『水滸伝』を『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の世界に付会し
た中本型読本で、歌舞伎を題材に使うなど、あの馬琴が大衆に寄り添っている。
なにより、大衆エンタメの親方である歌舞伎と伝奇物語(上代や中国から伝わ
った話を題材に、空想的な出来事を認めた物語)の水滸伝を綯い混ぜる趣向は
斬新で、蔦重もこの企画ならとゴーサインを出した。
用済みと捨てた言葉が駄々こねる 森井克子
結果は、馬琴が本気を出して語る水滸伝は、江戸の庶民たちに早すぎたことも
あり、馬琴ものちに「世間に受け入れられたとは言いがたい」と、珍しく自省
している。しかし、この蔦重と馬琴が世に問うた新しいタイプの読本が、その
後の読本ブームの嚆矢となったことは間違いない。そして、かつて師であった
ライバルの関係になるという、熱い展開がはじまるのだ。
正論を叫ぶ鉛筆振り立てて 宮井元伸 PR 私は以下省略の中にいる 藤井康信
さて馬琴は武家出身で几帳面な性格の努力家であり、『南総里見八犬伝』や
『椿説弓張月』など、「勧善懲悪」の理念に基づいた長編小説を数多く執筆
した大作家である。 蔦谷重三郎ー曲亭馬琴ー②
馬琴という人物は、洒落も滑稽もわからず、なにかあれば儒教や中国文学に
見立てて説教を垂れてくる。「明烏の時次郎」と同じ部類の人物だ。
堅物。しかし、蔦重は馬琴について匙を投げたわけでなはなかった。 馬琴には馬琴の良さあがある。それはこの「寛政の改革」である今だからこそ
光る長所と踏んだ。
これでいい不満はみんな捨ててきた 安土理恵
蔦重は黄表紙を堅物馬琴に書かせた。洒落や滑稽、見立てで読ませる黄表紙は、
馬琴の最も苦手とする分野だ。そこを敢えての黄表紙、実は、馬琴でなければ
書けない黄表紙の需要が高まっていたのである。
寛政の改革で、社会風刺や廓を舞台にする色事、不適切な表現が描かれる描か
れる黄表紙や洒落本はご法度となった。
恋川春町を亡くし、京伝に「筆を折る」とまで言わせ、且つ自分も身上半減の
咎めに遭い、さすがに蔦重も用心せざるを得ない。歌麿の美人画で浮世絵出版
が主になっていたのも、そうした事情があった。
美しく自粛 金魚が澄んでいる 山本早苗
とはいえ、本を出さずに書肆とはいえぬ。そこで目を付けたのが、教訓を分か
りやすく物語にして説く「草双紙」だった。
内容を孝行話や勧善懲悪、道徳などに変えた、絵本仕立ての黄表紙である。
これなら馬琴の得意とするところだ。馬琴が戯作者を目指したひとつに儒学や
国学、歴史、中国文学など自身の知識を役立てたいという思いがあった。
すでに心学の本については山東京伝が『心学早染草』というヒット作を出して
いた。しかし、これまで滑稽や洒落を書いてきた京伝にとって、教訓本は、
京伝の良さを活かしきれない。馬琴ならそれができるのだ。
いのち絞り この世鳴き急ぐ 太田のりこ
ただし、商業出版なら消費者に受ける本でなければならない。
売れなければならない。売れなければ耕書堂の儲けは出ず、馬琴の名も上がら
ない。だからこその黄表紙であった。いくら好みではないとしても、滑稽や洒
落が分からないでは、、戯作者は務まらない。この先読本に転向するとしても
馬琴が書くのは大衆文学だ。であれば、大衆に寄り添うことを考えねばならぬ。
「人情を知る」「世情を読む」ことが重要だ。蔦重は、いくつも黄表紙を書か
せた。多くは勧善懲悪や水滸伝(明王朝の中国でかかれた長編型の自話小説)
を取材したもので、教訓ぽさが出ているものの、学びもエンタメ化させている。
町人たちに意外と受け入れられて。馬琴の野暮な理屈っぽさも、大衆の知的好
奇心をくすぐった。
帽子から飛び出す鳩も私も いつ木もも花
ついに寛政8 (1796) 年、馬琴は蔦重を版元として読本『高尾船字文』を出版
した。『水滸伝』を『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の世界に付会し
た中本型読本で、歌舞伎を題材に使うなど、あの馬琴が大衆に寄り添っている。
なにより、大衆エンタメの親方である歌舞伎と伝奇物語(上代や中国から伝わ
った話を題材に、空想的な出来事を認めた物語)の水滸伝を綯い混ぜる趣向は
斬新で、蔦重もこの企画ならとゴーサインを出した。
用済みと捨てた言葉が駄々こねる 森井克子
結果は、馬琴が本気を出して語る水滸伝は、江戸の庶民たちに早すぎたことも
あり、馬琴ものちに「世間に受け入れられたとは言いがたい」と、珍しく自省
している。しかし、この蔦重と馬琴が世に問うた新しいタイプの読本が、その
後の読本ブームの嚆矢となったことは間違いない。そして、かつて師であった
ライバルの関係になるという、熱い展開がはじまるのだ。
正論を叫ぶ鉛筆振り立てて 宮井元伸 ばあちゃんはじいちゃんなしで生きられる 助川和美
「滝沢馬琴とは」
明和4〈1767〉年6月9日、江戸深川海辺橋東の松平屋敷内長屋で父滝沢興義・
母門の5男として生まれる。幼名春蔵 (後に倉蔵)。長兄が家督をついだが,
翌年故あって浪人になり、2男3男は早世した。10歳で滝沢興邦(おきくに)
(のちに滝沢解)を名乗り、幼君八十五郎に仕えた。
興邦はひとり主家に起臥し,幼主の呵責に耐えるという少年時代を過ごしたが,
14歳のとき ”木がらしに思ひたちけり神の旅 ”の一句を障子に書きつけて
松平屋敷を出奔した。その後、兄の勧めもあって、戸田家の徒士かちになるが
18歳の時、再び出奔し市中を浮浪。24歳で山東京伝宅に転がり込むまで放蕩三
昧を繰り返した。
飾りボタン見栄を張らずに生きてゆく 堀尾順子
「滝沢馬琴の名前」
幼名は倉蔵(くらぞう)滝沢を継承して滝沢興邦(おきくに)。作家としての
筆名は、曲亭馬琴、他に笠翁や篁民(こうかんみん)など多くの号がある。
寛政4(1792) 年)3月、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代(番頭)として
雇われる。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名と身分を捨て、
通称を「瑣吉」に諱を「解」とした。
「馬琴の性格」
非常に几帳面で、毎日のスケジュールはほぼ同じだった。朝6時から8時
の間に起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側で徳川斉昭考
案の体操を一通りし朝食。客間で茶を飲んだあと、書斎に移り、前日の日
記を記したのち、執筆作業に入る。まず、筆耕者から上がってきた前日の
原稿のチェック。一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。
そのほかにも、出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆より
も校正に苦しめられた日々だったという。
あらすじの真ん中辺にだんご虫 北原照子
蔦谷重三郎ー曲亭馬琴
おそらく蔦重にとって扱いにくい作家の筆頭が曲亭馬琴だったのではないか。
喜多川歌麿、十返舎一九、馬琴、など蔦重が食客として面倒を見ながら、
無名から有名へとプロデュースした作家は多く、馬琴もその1人なのだが、
馬琴はその性格ゆえ、また蔦重の成功法則ゆえに、有り体にゆえば合わなか
ったと思われる。
ともかく馬琴は、性格的にかなりの難があり、交友関係は乏しく近寄りがたい
イメージの人物で、仲間であるべき文化たちからは「傲慢で性格最低な野郎だ」
と敬遠され、師匠である山東京伝との関係すらも、かなり複雑で、京伝の弟・
山東京山からは「恩知らず」と罵倒されるなど、嫌われ者作家として孤高の人
だったようだ。
一方で馬琴は馬琴で苦しんでいた寂しい人という見方もある。
薬指紅塗る以外使わない 武良銀茶
馬琴が戯作者を志し、山東京伝の門を叩いたのは、寛政2 (1790) 年、24歳の
事だった。京伝は弟子を取らない考えだったが、まあまあ骨のある奴と見込ん
だのだろう、飯を食わせて(酒はいらないと断った)「弟子としてではなく、
同じ戯作者仲間としてならたまに見せに来てもよい」と伝えたら、「では師匠
と呼ばせていただきます」と言って、毎日、京伝宅に通い始めた。
だが、寛政3年黄表紙『尽用面二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)
でデビューを飾ったあと、何か考えるところがあったのか、「神奈川に行って
占い師になります」といって馬琴は旅に出てしまった。
傾いた船の絵がある心療科 平井美智子
2,3か月して戻ってみると、深川の馬琴の家は洪水で流されていた。
寝起きするところがないので、京伝家を頼ると京伝は、洒落本の咎めで手鎖の
刑になっている。
京伝の方も、弟子が(認めていないが)「家が流された」と言い、戻ってきて
無下に帰れともいえない。加えて自分も手鎖で執筆できない。
仕方がないので馬琴を食客とした。
蔦重はこれ幸いに、「馬琴に『実語教幼稚講釈』を書かせる。
京伝の代作で、挿絵は勝川春朗(葛飾北斎)だ。
蔦重が、そのつもりがあったかは分からないが、馬琴&北斎のバディもここに
誕生した。
上中下前後左右に動く首 通利一遍
馬琴は空気を読めないし、読もうともしない。
ちょうどこの時、京伝と菊園の夫婦はまだ新婚生活の真っ只中。
というわけで、京伝の勧めもあり、蔦重の耕書堂で手代(番頭)として、働く
こととなった。
蔦重としては、武士の戯作者が全滅の人材不足の中、書ける手は欲しかった。
馬琴には「執筆を優先させる働き方」を提案し、馬琴としても「戯作が書ける
のならば」ということで、蔦重の食客となった。
へそ踊りくらいがへその使い道 橋倉久美子
ところが馬琴が書きたいものは、剛健な勧善懲悪ものの読本。
ナンセンスな笑いの黄表紙や男女の色事の洒落本ではなかった。
そして、馬琴は「武士が商人に雇われる」ことを恥と考えていた。
武士の名を捨て「瑣吉」としたのもその理由だ。
こうしたプライドの高さなので、蔦重はどうにも扱い辛かったらしい。
蔦重流吉原研修が効かないのだ。
なにせ「洒落本は教育によろしくない」という堅物で酒も女も興味なし、
吉原で、めきめきと才能を伸ばした喜多川歌麿とは真逆である。
これまで武士作家と交流してきた蔦重だが、朋誠堂喜三二に恋川春町、
太田南畝とみな吉原に通じており、洒落がわかるクリエイターたちだ。
接待すればそれだけヒット作になって返ってくる。
蔦重にとって馬琴は「どうすりゃよいのか」なのである。
要らんものあり上唇と目蓋 井上一通
「とにかくマイペースの馬琴」
寛政5年(1793年)7月、27歳のとき、馬琴は、重三郎や京伝にも勧められて、
元飯田町中坂世継稲荷下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の3つ年上の未亡人
・百の婿となるが、会田姓でなく滝沢清右衛門を名のった。
結婚は、生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、
手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の大家をして生計を立てた。
加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。
寛政7(1795) 年に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むように
なり、履物商はやめた。
打算ありきで結婚した妻の百にしても何かとトラブルがちだった。
(結婚の翌年である寛政6年には、長女・幸、寛政8年(1796年)には
二女・祐が生まれた。のちの寛政9(1797年)には、長男・鎮五郎(宗伯興継)
が、寛政12年には三女・鍬が生まれ、馬琴は合わせて一男三女の父親となった。
行きづらい世の中知りつくすカラス 靍田寿子 よし、ヒトになろうと決めた2日前 中野六助
「定信の文化への嫌悪感」 松平定信は、30歳で老中首座に抜擢されて幕政のトップに立つと、社会の
模範となるべき武士の綱紀粛正を図って、質素倹約や学問・武芸を奨励する。
そのため、武士が小説を執筆したり狂歌を詠むなどの文化活動に走ることに
嫌悪感を画そうとしなかった。そのため肩書は武士である恋川春町こと駿河
小島藩士・倉橋格(いたる)は、非業の死に追い込まれ、御家人・太田南畝
(四方赤良)は、狂歌など執筆関係の活動を断念する。
文化活動への厳しいスタンスは町人についても同様だった。
風俗取締りを名目に、遊郭を舞台にした洒落本の著者・山東京伝、その出版
の仕掛け人だった版元・蔦屋重三郎も処罰した。
このように文化を敵視したイメージが強い定信だが、実のところは、文化に
たいへん理解のある人物でもあった。
神様の声をトサカで聴いている 井上恵津子 蔦屋重三郎ー寛政6年の出来事定信は、寛政5 (1793) 、政策の途中で老中を罷免される。
罷免の背景にある主な理由は、
① 尊号一件と家斉との対立
天皇が実父に太上天皇の尊号を贈ろうとした際、定信は「天皇の父は天皇に
なっていない」という論理で反対。これに定信は家斉の不興を買った。
② 家斉への大御所称号付与への反対
将軍家斉が実父・一橋治済に「大御所」の称号を与えようとしたが、定信は
これを「大御所は隠居した将軍にのみ許される」と反対、家斉との対立を深
めた。
③ 大奥との対立
大奥の予算を大幅に削減した。又、不良女中を厳しく罰したりした。
これで定信と大奥との対立が表面化した。
④ 民衆の不満の高まり。
倹約を強制された庶民の不満、統制の強化による反発、特に出版統制による
知識人や文化人の不満は、大きいものがあり、大騒動に発展する可能性含み。定信を風刺する落首が町にあふれた。
白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき
⑤ 華美で贅沢な生活を望む家斉と定信は、性格の面でも水と油だった。
こうして定信は老中在籍わずか7年で、その地位を失うこととなる。
大事なことはサイコロで決めている 竹内ゆみこ「江戸のニュース」
家斉のエピソード。(チーズを食した家斉は精力絶倫)
家斉は十四歳で将軍職を継ぎ、二十歳で松平定信をクビにして、自らが政を
行うと決意した。その親政は、天保八 (1837) 年まで続いたが、将軍職を長子
家慶(12代将軍)に譲ってからも、大御所として幕政の実験を五十年間に
わたり掌握した。しかし、次第に実際の政治は側近の水野忠成らに任せるよ
うになり、大奥を中心とした豪奢、隠微な生活を営んだ。
将軍家斉の乱脈政治のもと、世情は華美に流れる一方だった。
家斉には、十六歳頃に、夜のお伽相手をする奥女中が付けられたというが、
正室を迎える前に側室が解任している。
『大樹寺の歴史』によると、家斉の位牌から推定して死没当時の身長は156・
7センチ。当時としては普通の体格である。にもかかわらず、子が五十三名、
側室十六名といわれている。二年後の寛政八年に幕府は、白牛酪(牛や羊の
乳を煮詰めたもの=チーズ)の販売を許可する。白牛酪は、薬種として竹橋
の厩で販売された。白牛酪は将軍家と大奥では健康の妙薬とされており、
(この当時、安房鴨川の幕府直轄牧場である嶺岡牧には、白牛が七十余頭い
たという。こののち牧場は、駿河国の駿東・富士両郡にもできている)
たてがみに少し残してある野生 大嶋都嗣子「江戸のニュース」「浮世絵師・東洲斎写楽が役者の大首絵を出版」 この年の5月、人気役者の大首絵の浮世絵多数を一気に発表し、たちまち姿
を消した。浮世絵師の東洲斎写楽は、長らく謎の存在だったが、現在は阿波
徳島藩の御抱え能役者の斎藤十郎兵衛説が有力である。
大首絵とは、画面一杯に顔を中心に描いた絵を指す。この手法は喜多川歌麿
によって美人顔のクローズアップとして創作されていたが、東洲斎写楽は、
歌舞伎役者をモデルにしたことで注目された。
要するに役者の似顔絵であるから、現代風に言えばプロマイドであある。
写楽は、江戸三座の時代狂言取材して描いたが、なかでも、都座興行の狂言
『花菖蒲文禄蘇我』など28枚が知られている。本作でデビューした写楽は、大首絵の浮世絵百四十四点を遺して、十ヶ月ごに忽然と消えた。
この浮世絵を出版したのは、日本橋通油町の板元耕書堂店主の蔦屋重三郎で
ある。蔦重は戦略的出版プロデューサーであり、喜多川歌麿、葛飾北斎を売
り出した。不思議なことに、発表当時には写楽の大首絵はそれほど人気はな
かった。(評判になるのは90年後、それも、海外の識者が写楽を評価した
ことにある。こうした現象は珍らしいことではないが、写楽は、無念のまま
文政(1820) 年に没したといわれている)
目を点にしたら写楽になれますか 福光二郎のりたまを振りかけ過去は閉じておく 山本昌乃
「亀山人家妖」(朋誠堂喜三二作北尾重政画?)(国立国会図書館)
「古事記」や「源氏物語」の文学作品に対して、戯れに書いた作品ということ で、江戸後期文芸を「戯作」という。その中で、絵と文が一体となった漫画の
ようなものを,「黄表紙」といった。
自分自身をタイトルとした黄表紙「亀山人家妖」(いえのばけもの)は、朋誠
堂喜三二作、北尾重政画、天明7年 (1787) 蔦重刊。五十三歳の頃の自身を作
品に登場させている。
辛夷散る膝のボルトをゆるめつつ 八上桐子
「本の変遷」
北尾重政に結びつけられる黄表紙。朋誠堂喜三二と北尾重政は、蔦重の板元
から刊行された初期黄表紙作品を支えた人物である。
子供向けの絵入り本であった「草双紙」は、次第に恋愛や遊郭、滑稽などを
主体とした大人向けへと変わっていき、表紙の色から「赤本」や「青本」、
「黒本」と呼ばれるようになった。恋川春町が、鱗形屋から刊行した『金々
先生栄花夢』を皮切りに、表紙の色から『黄表紙』と呼ばれる草双紙が人気
を博した。
黄表紙は毎年、新春に新版を刊行する慣わしとなっており、新年の縁起物と
いう意味あいも強かった。安永末から天明4年前後にかけて、黄表紙の刊行
点数は爆発的に増えていく。ここでも鱗形屋の衰退により、取って代わって
黄表紙の市場に参入したのが蔦重であった。
鱗形屋で活躍していた朋誠堂喜三二や恋川春町らを起用し、多くの作品を世
に送り出した。
「寛政の改革」のもとでは、山東京伝を頼み、粘り強く、黄表紙を刊行した。
急ぐ人僕のうしろに立たないで 雨森茂樹
蔦屋重三郎ー山東京伝の奇天烈な黄表紙の世界
まじめなる口上
「まじめなる口上」と題された序文では、狂歌名「蔦唐丸」こと、版元の蔦屋
重三郎が口上を述べていいる。
寛政元 (1789) 年、山東京伝が北尾政演として挿絵を担当した『黒白水鏡』が、
発禁処分となり、京伝も過料処分(罰金刑)を受けていた。 勢いを増してくる「出版統制」に京伝も、分筆生活から遠ざかろう考えていた
ようだ。「そこをなんとか無理して書いてくれ」と頼みこんだのが蔦重であっ
たことがこの口上でほのめかされている。 グレーゾーンで帳尻を合わせます 和田洋子
箱入娘面屋人魚 (山東京伝作・歌川豊国画)(国立国会図書館蔵)
竜宮の中州で茶屋女をしている鯉の「お鯉の」に恋する浦島太郎。
鯉のほうもまんざらではない。
漁師平次の舟に飛び込んできた浦島太郎と鯉の娘・人魚 山東京伝が蔦重のもとで寛政3 (1791) 年に刊行した黄表紙『箱入娘面屋人魚』
(歌川豊国画)は、童話で有名な浦島太郎を題材に、より大人向けに描いた荒
唐無稽な物語である。
舞台は、隅田川と箱崎川との分流地点を埋め立てて造られた町家富永町、いわ
ゆる中州新地に見立てた竜宮の繁華街。
私娼が横行する岡場所で、そこの利根川茶屋の茶屋女、鯉の「お鯉」に浦島太
郎は惚れてしまう。利根川茶屋の「お鯉の」とは、利根川の鯉が名物であった
ことに由来する。乙姫に隠れ逢引きする2人は、深い仲となり、やがて子供が
生まれた。人と鯉の間の子であるから、当然、人魚である。
浦島太郎は、わが子が見世物小屋に売られないよう、心配しつつも、品川沖で
捨ててしまう。
偶然ですかあなたはいつも濡れて来る 米山明日歌
浄瑠璃「ひらがな繁盛記」になぞらえて、300両のお金を工面するべく手水鉢
の代りにメダカ鉢を叩こうとする人魚。うしろで黒衣となって、小判を巻いて
いるのは女郎屋の主人・伝三。
ある日、神田の八丁堀付近に住む漁師・平次が、品川沖で漁ををしていると、
釣舟に女の化け物が飛び込んできた。首から下が鯉で、顔は17,8歳のくら
いの美女である。浦島太郎と鯉との間に生まれた人魚の成長した姿であった。
平次が人魚を連れて帰ると、たちまち噂広がった。
噂に尾鰭もついて「釣舟平次宿」と書いた札が、疫病神払い効果があると人々
が殺到するようになり、平次も閉口してしまう。
口笛で浦島太郎オペラ版 森 茂俊
平次の留守中に女郎屋に身を売ることを決めた人魚は、口に筆を咥えて、
平次への書き置きを残そうとする。 平次は家賃の支払いも滞るほどの貧乏で、家財道具は、枕屏風と火鉢鉄瓶だけ
しかない。不憫に思った人魚は、浄瑠璃「ひらがな繁盛記」で登場人物の梅が 枝が手水鉢を打つと、300両の金が落ちてくる演出になぞらえて、メダカ鉢を 叩こうとする。黒衣となって、人魚のうしろで小判をばら撒く人があった。 女郎屋の主人・伝三である。物珍しさから人魚を女郎にしようと考えたのだ。 こうしてせめてもの恩返しと思い、平次の留守中に人魚は、身を売ることにな ったのである。 鮮魚店に人魚の入荷聞いてみる 吉川幸子
人魚だとばれてはいけないと、人目を避けるように突き出しの花魁道中をする
人魚一行。女郎屋の男性使用人である「若い者」は、本来なら箱提灯で道中を 明るく照らすが、わざと暗くするために手には何も持っていない。 こうして舞鶴屋の「突き出し」の花魁になることとなった人魚は、「人魚」を
逆さにして「魚人」という源氏名を得た。突き出しとは、見習い期間をおかず に女郎として披露することを意味する。 原では、松葉屋の松人、扇屋の花人といった人気の遊女がおり、魚人という
名はそれにあやかったものであった。遊女になるには、足がなくてはならない と、義足付きの股引を穿かせようと伝三は考える。 どうしても水に浮く大人の童話 山口ろっぱ
夕暮れ時になると、人目を避けるように、人魚は突き出しの花魁道中を行う。
「禿」や化粧を世話する若い女郎である「新造」使用人の「若い者」に加えて、 黒衣が人魚を支え、鱗が見えないように着物の乱れを直している。 やがて初めて客をとり、床入りとなったが、人魚の生臭さだけは隠せない。 閉口して逃げ出す客を、黒衣が手を出して引き止めるも、こんなに花魁の手は 長かったかと、余計に驚かせる始末。 「舞鶴屋には化け物が出る」という噂が流れ、人魚は、平次のもとに帰される
こととなった。 因縁の鱗が浮いている風呂場 平井美智子
平次を呼び出し、人魚を引き渡す伝三。
突き出しにいかに費用がかかったかを、外郎売りのごとく伝三がまくしたてる。 長生きした思いにかられ、人々が平次宅に殺到する。
なめられる恥ずかしさから、人魚は頭巾をかぶっている。
平次の元へと戻って、再び女房となった人魚が、「ある博学者が、人魚の身体
をなめると寿命が延びる」という言い伝えを教え、これで商売をしたらどうか と勧めてきた。そこで平次が「寿命薬 人魚おなめ所」という看板を門口に出 したところ、老若男女身分の違いも関係なく、長寿を願う人々が列を作る始末。 なかには、もっと下の方をなめたいと情事をほのめかす者もいる。 本当を知っているのは私だけ 津田照子
時分をものにしようとやってきた若者をはねつける人魚。
人魚なめすぎた平次は子供となり、乳を飲みたいと言う始末。
平次の留守中には、美貌の人魚をものにしようと若者がやってきたりもするが、
貞魚の人魚はこれに応じない。 こうして平次夫婦は大金持ちとなったが、平次は自分も若返りたいと、昼夜問 わず、暇があれば女房の人魚を舐め続けた。 度が過ぎた結果、平次は子供になってしまう。 そんな夫婦のもとに、浦島太郎と鯉がやってきて玉手箱を与えた。
これを開けると、平次はたちまち色男となり、人魚は人間へと姿を変えたので
あった。 玉手箱の効用で、色男に変った平治。人魚も一皮むけて人間となった。
本書の結末に、この物語は7千9百年前のことで、不老不死の夫婦は今、
作者の山東京伝の隣家で、元気に暮らしているという落ちがつく。
森を出て森に還ってゆく人魚 井上恵津子
「べらぼう38話 ちょいかみ」
蔦重(横浜流星)は、歌麿(染谷将太)のもとを訪ねます。
そこで目にしたのは、体調を崩して、寝込むきよ(藤間爽子)の姿でした…。
いつも明るく支えてくれていたきよの弱った様子に、歌麿も表情を曇らせます。
そんな中、蔦重は鶴屋(風間俊介)のはからいで、口論の末、けんか別れした
政演(山東京伝)(古川雄大)と再会します。
互いに言葉は少なく、ぎこちない空気が流れますが、江戸の出版界を者同志の
誇りや信念がそこにはありました。ふたたび交わった視線の中に小さな和解の
兆しが見えはじめます。
くたくたになるまで愚痴を聞いてやる 清水すみれ
一方、定信(井上祐貴)は長谷川平蔵(中村隼人)を呼び、昇進をちらつかせ、
人足寄場を作るよう命じます。無宿人を収容し労働に従事させる仕組みは、
江戸の治安維持を目的とした大胆な策でした。
さらに定信の改革は、学問や思想にまで及びます。
ついには出版統制令を発令させ、庶民の楽しみであった黄表紙や洒落本までも
厳しく規制の対象とします。文化の苦しさを増すなか、蔦重や歌麿、京伝たち
は時代の荒波に翻弄されながらも、それぞれの道を模索するのでした。
でたらめが大きな顔でタクト振る 井本健治 |
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