川柳的逍遥 人の世の一家言
マカロニの穴に詰めおく昨日今日 前中知栄
杉田玄白が源内を「非常の人」と形容した平賀源内発明のエレキテル
長崎遊学時に、和蘭通詞の家で所蔵していた壊れたエレキテルに興味を持った
平賀源内は、江戸に持ち帰り、それを直しては壊し、約6年の歳月をかけて、 「摩擦起電機」(エレキテル)を作り出しました。源内44歳のときです。 そのエレキテルは江戸の大名屋敷などで見世物として、また病気治療を目的と
して使用していたといいます。 蔦屋重三郎ー非常の人・平賀源内 源内と蔦重が最初で最後の出会いとなった『細見嗚呼御江戸』
安永3(1774)年7月刊行の「細見嗚呼御江戸」に平賀源内は「福内鬼外」
の名で序文を寄せている。 『女衒、女を見るには法あり。一に目、二に鼻筋、三に口、四にはえぎわ、
次いで肌は、歯は、となるそうで、吉原は女をそりゃ念入りに選びます。 とはいえ、牙あるものは角なく、柳の緑には花なく、知恵のあるは醜く、
美しいのに馬鹿あり。静かな者は張りがなく、賑やかな者はおきゃんだ。
何かも揃った女なんて、まあ、いない。それどこか、とんでもねえのも
いやがんだ。骨太に毛むくじゃら、猪首、獅子鼻、棚尻の虫食栗。
ところがよ、引け四つ木戸の閉まる頃、これがみな誰かのいい人ってな。 摩訶不思議。世間ってなあ、まぁ広い。繁盛、繁盛、嗚呼御江戸』
福 内 鬼 外 戯 作
さあどうぞ奥へ奥へと万華鏡 市井美春
平賀 源内は、1728年(享保13年)白石家の三男として讃岐国志度浦
(香川県市志度)に生まれた。発明の才に富み、エレキテルの復元、燃えない 布、万歩計、磁針器など、多くの発明をしたことで知られる。 が、発明者のほかに本草学者、地質学者、蘭学者、戯作者、浄瑠璃作者など、
その肩書は数知れない。 薬効のある動植物や鉱物を研究する本草学で名が売れるうれると、その奇想天 外な才能に興味を抱いた田沼意次とも、覚え目出度い仲となる。 このように国益のために務めるも、封建社会の壁に遮られ、世には迎えられず、 「乾坤の手をちぢめたる氷かな」の一句を残し、1779年(安永8年)喧嘩
がもとで人を殺め獄中でその生涯を閉じた。 52歳だった。蔦屋重三郎より22歳若く、蔦重が29歳の頃である。
平賀源内の親友の蘭学者・杉田玄白」は、異才の友人の死を惜しみ、
「非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」
(好みも行動も常識を超えた人だった。なぜ死に際まで非常だったのか)
と、追悼文を綴っています。
蓮根をちょんまげに葱を脇差しに 酒井かがり
風来山人は、流行作家として話題作を量産
平賀源内は、江戸で興隆した大衆文芸の書き手としても活躍し、数多くの号を
使い分けた。雅号として鳩渓(きゅうけい)戯作者として「風来山人」「悟道
軒」「天竺浪人」「貧家銭内」(ひんかぜにない)浄瑠璃作者として「福内鬼 外」(ふくうちきがい)俳号は「李山」などである。 なぜこれだけ名を変えたのかは不明だが、彼の「変り者」伝説を裏付ける。
競馬の蹄はビビデバビデヴー 蟹口和枝
自身をモデルにした作品紹介
『根奈志具佐』 (風来山人作 挿絵)
『根奈志具佐』 作品は、人気絶頂だった歌舞伎俳優が舟遊び中に水死した事故を脚色した
フィクションで、若侍に化けた河童と女形が恋に落ちて心中しようとする
のを、くだんの歌舞伎俳優が止めに入ったあげく水死してしまというもの。
なお河童が、若侍に化けて女形を誘惑したのは、閻魔大王がこの女形に一
目惚れして、地獄に連れてくるように命じたからという。
平賀源内は、男色のもつれによる悲喜劇を創作し、そのなかで閻魔大王に
なぞらえて為政者の堕落を風刺した訳ですが、作品名の読みを「根無し草」
と同じにして、「根も葉もない話」とほのめかしているのです。
その物語りの内容はー後半にて。
ぬるま湯が僕にぴったり合っている 青木十九郎
『風流志道軒伝』 (天竺浪人作 挿絵) 足長族と手長族が窃盗を働いている。
実在の人気講釈師「深井志道軒」をモデルにした架空の諸国漫遊記。
『風流志道軒伝』は、当時江戸で大人気だった講釈師、深井志道軒の伝記です
──が、中身はすべてフィクション(デタラメ)です。 活躍中の人気講釈師の生涯をかってにでっち上げるという荒技を使った本です
が、このデタラメさが江戸っ子に大ウケして大ヒット。
『主人公の旅先は、巨人国や小人国、足長族と手長族が住む国、女性ばかりの
女護島、実在しない国々。」行く先々での異文化体験を、軽妙な文体で綴る、
また、藪医者が横行する愚医国、融通の利かない堅物が牛耳るぶざ国(ぶざは
武士の蔑称)といった国も登場させ、SF小説のような作風で、当時の実社会
を皮肉った。
注文通りにできてすっきりしない嘘 松下放天
「平賀源内と蔦屋重三郎」 蔦屋重三郎は、平賀源内より22歳年下の1750年生まれ。
蔦重が平賀源内に初めて接触したのは1774年、彼はまだ出版事業に乗り
出しておらず、江戸は吉原で書店を開業したばかりの頃。
この年蔦重は、吉原遊郭のガイドブックである「吉原細見」の「改め」と
呼ばれた業者の編集者だった。
吉原細見は、妓楼の所在地や遊女の名、揚代などを掲載する情報誌だから
どの版元の細見もみな同じようなもの。そこで、何か違った試みのものは
ないかと考えた蔦重は、時に話題を提供する有名人の平賀源内に吉原細見
の序文を依頼して、付加価値を高めようとしたのが二人のなりそめだった。
スクワット流れを変えに行くために 大石一粋
平賀源内が蔦重の依頼に応えて「福内鬼外」の筆名で寄せた吉原細見の 序文は、女衒と呼ばれた、女性を遊郭に仲介する業者が、女性のどこを
重視するかで始まっている。
「一に目、二に鼻すじ、三に口、四に生え際、肌は脂の塊のように白く
めらかで、歯は瓜の種のように形良く」と、そういう女性は人気の遊女
になる」と、筆を走らせたのである。
これには江戸の庶民も驚いた。
なぜなら平賀源内は、男色家として知られており、女性や遊郭に興味が
ないと思われていたからで。世間の意表を突いて、耳目を集めるという
蔦重の狙いであった。
ただ、平賀源内と蔦重が組んだ仕事は、これ以外に確認はできない。
なぜならこの5年後、先に述べた通り、平賀源内は死んでしまったから。
さよならはパジャマのままでいいですか くんじろう
花ノ井(小芝風花)に見惚れる蔦重(横浜流星)と源内(安田顕) 大河ドラマ「べらぼう」2話に出てきた菊之丞→瀬川→花ノ井
花の井は「源内さんにとっての瀬川は菊之丞のこと。かりそめの姿でもいい
から役者の瀬川と再会したいのだ」と見抜き、自ら男装をして、 「わっちでよければ『瀬川』とお呼びください」と源内に訴えます。
源内は、花の井の舞い姿に、菊之丞との思い出の日々を重ね合わせます。
その記憶を反芻しながら、源内が吉原の街を彷徨い歩くのです。
妄想を煮込み続ける金曜日 平井美智子 『根奈志具佐』
根奈志具佐 (風来山人作 挿絵) 地獄に来た僧侶。 「あらすじ」 物語は、菊之丞と関係を持っていた若い僧侶があの世にやってきたことで始ま
ります。
僧は菊之丞という男娼に入れあげるあまり首が回らなくなり、師匠の金を盗む
罪を犯し、生臭坊主として閻魔大王の元にやってくるのです。
「この者の罪は何か?」と、大王が訊ると、人の善悪を記録する倶生神が
そそくさと現れて、調子よく罪をならべはじめた。
「ハイハイ、この坊主は大日本国、江戸の修行僧です。これが芝居と男色の街
の女形・瀬川菊之丞という男娼の色に染められちゃって、まあ、師匠の財産に 手をつけるわ、寺宝の錦の戸帳を道具市にひるがえすわ、行基の作の阿弥陀如 来は質屋の蔵へと、若衆の恋のしくじり、悪事がばれ、座敷牢に押し込められ てしまえば愛しい人にも逢えず、これを苦にしてあの世(シャバ)を去って、 めでたく地獄へやって参りました次第です」 しかし、死んでも忘れられぬは菊之丞の面影、肌身離さず腰につけたのは当代
きっての絵師・鳥居清信が画いた菊之丞の絵姿が僧の懐にあった。
門広く開けて待ってる地獄門 森 茂俊
「イヤイヤ」大王が不機嫌そうに答える。
「こいつの罪は軽いようにみえて、軽くない!シャバでは男色というものがあ
るらしいが、オレにはこれがさっぱりわからん。男女の道は、陰陽にもとづく
自然なことだが、男と男が交わるなんてことはありえん!
大王の怒りにみな委縮していたが、そのうち十王のひとり転輪王がおずおずと
進み出て「大王のご命令に逆らうのは、恐れ多きことですが、思ってることを
言わないと腹がふくれてしんどいので、ちょっと言わせてもらいやす。
大王は、男娼がお嫌いなので、酒好きに甘い餅を勧めるようなものですが、
菊之丞の評判、その艶美さは、この地獄にまで聞こえてきます。
坊主がこの世の思い出にと、抱いてきた絵姿を私も一目見たくてたまりません。
どうかこの願い、かなえさせてくだせい、ぜひ!ぜひ!」 目を血走らせて迫ってくる転輪王に、大王も少しひるんだ。
網の目を抜けた噂に追われている 前田芙巳代
「蓼たで食う虫も好き好きとは、おまえのことだ。そこまで願うなら、絵姿を
見るのは勝手にしろ。だが、オレは見ないぞ。男娼など見たくもないから、
オレは目をつぶる。さあ、目を閉じてる間にサッサと絵を開け」
大王がギュッと目をつぶると、転輪王は、急いで絵姿を柱にかけた。
” 清きこと春柳の初月を含むがごとく 艶えんなること桃花の暁烟(朝もや)を
帯びるに似たり " 皆がゾロゾロ集まって来て、絵をのぞきこんだが、その姿の艶あでやかさ------
なんとも言葉にもならず、誰もが「はっ」と息をのんで魅入るばかり。
聞きしにまさる菊之丞の姿、天下無双の美しさかな──と、十王をはじめ見る
目は、目ん玉光らせ、かぐ鼻は鼻の穴ふくらませ、牛頭(ごず)馬頭(めず)
などは、額の角をいきり立たせて興奮し、そこら中から、感嘆の声が鳴りやま ない。 奈落でもほのかににおうサロンパス 木口雅裕
周りのどよめきに、さすがの大王もガマンできなくなったのか、こっそり薄目
を開けてのぞいている──と、たちまち目がまん丸になって、その艶やかさから
目が離せない! さっきまでバカにしていたことも忘れ、魂の抜けがらのように
呆然と見惚れて、思わず身を乗り出した大王の目もウツロだ。
「皆の前で面目ないが…オレは、この絵姿の可愛らしさに胸がキュンとなった。
昔から、美人と聞こえが高いものは、大勢いたが、そんなものとは比べものに
ならん。 西施の目もと、小町の眉、楊貴妃の唇、かぐや姫の鼻、飛燕の腰つき、衣通姫
の着こなし------すべて引っくるめたこの姿、花にも月にも菩薩にさえ、かなう ものはない。 まして、 唐土でも日本でも、こんな美しいものが二度と生まれてくるとは思え
んから、オレは冥府の王位など捨てて、これからシャバに行ってこの若衆と枕
を共にする」 満月のプリンはとても姦しい 山本昌乃
「けしからん!」大王がのぼせてフラフラ出て行こうとすると、 邪淫の罪を裁
く宗帝王が立ちはだかって、しかめっ面で怒鳴りつけた。
「色に溺れて、冥府の王位を捨て、シャバで男と交わるなど言語道断!そんな
ことでは地獄、極楽の政を執り行うものもなくなり、善悪を正すこともできん。
三千世界の民は何をもって教えを乞うのか!」
宗帝王が顔を真っ赤にして迫ると、後ろから平等王が、いそいそと現れた。
「まあ、まあ、宗帝王さんのおっしゃることは、ごもっとも──まさに、木曽の
忠太が、義仲をいさめて腹を切ったような立派なご意見──ですが、大王さまは 意固地なお方、いったん口にしたことはテコでも曲げねぇときた。
どうせ何を言ったって、馬の耳に念仏、牛の角のハチときて聞きゃしません。 男女の怪しげな魅力に取りつかれて、王位を捨てるたぁ-、俗世の息子衆のやる
こってす。地獄、極楽の主たる大王さまのやるこっちゃありません。
どうでやす、そんなに菊之丞がお望みなら、俗世に誰ぞ使いをやって、菊之丞
めをとっ捕まえて来るほうが手っ取り早くすみやすよ」
平等王の思わぬ提案に「そうだ、それがいい!」と、みなが賛同した。
この案には大王も納得し、さっそくみなで顔つきあわせて菊之丞をさらう作戦
を練りはじめた。
全会一致なぜか怪しい決まり方 水野黒兎
根奈志具佐 (風来山人作 挿絵) 舟遊びをする菊之丞と河童 大王はなんとかして菊之丞を、傍に置きたいと思うのですが、彼の寿命はまだ まだ先なので、自分の従えている神々を招集し会議をし、その中でも水を司る 龍神に、菊之丞を殺して連れてくるよう命じるのです。
命を受けた龍神は、竜宮城に戻り、眷属(けんぞく)を集めて、菊之丞誘拐の
計画を立てます。その中でも伊勢海老は、派手な歓楽街に出入りしており芸能
人事情にも詳しく、菊之丞が近日中に、隅田川で舟遊びする情報を掴んできま
した。 それをもとに、河童が、菊之丞をおびき寄せる実行人となります。
伊勢海老の情報の通り、菊之丞は、その日に隅田川で役者仲間たちと一緒に舟
遊びに来ていました。一同はシジミを取りに、小舟に乗り換えていましたが、
菊之丞は、俳諧の発句を思いつきそうだったので、舟にひとり留まりました。
モヤモヤに一度止まって考える 上坊幹子
そして、いい感じの発句を思いついて詠んでみると、どこからかもっといい感
じの脇句が返ってきます。その声の主を探していると、笠を深く被った24,
5歳ほどの若い侍が、小舟に乗ってこちらを見つめていました。 菊之丞はその侍に、少しときめいてしまいますが、あの亡くなった僧侶のこと
を思い出して戸惑うのでした。
「夏の風になりたい。君の服の中に忍び込める風に」おもむろに侍は、そう歌
を詠んだ。 菊之丞もまた、風を誘う扇を煽る手を止めて、
「私も、その骨の隙間から君を覗き見つめたいです」と返し、侍は自分の小舟
から菊之丞の舟に移って来て、ふたりは舟の上で結ばれます。
なんとその侍の正体は、龍王の密命を受けた河童でした。
河童もまた菊之丞に惚れてしまい、菊之丞を地獄へ連れていくのを躊躇い自死
しようとするのを、「それなら菊之丞もともに」と、もみ合いになります。
そこへ、くだんの歌舞伎俳優が止めに入ったあげく、水死してしまという…。
結末が待っていたのでした。 スマホが光るすぐ来いというエンマ 井上恵津子 PR 花園のところどころにある沼地 みつ木もも花
『吉原遊郭娼家之図』 (歌川国貞画 栄寿堂西村屋与八板)
原の妓楼の内部。上図を拡大すると。
上三枚目と下一枚目は同じです。 「流行・文化の発信地------、吉原」
吉原は江戸最大の観光地であり、ある意味文化の中心でもあった。
江戸見物に来た老若男女にとって、浅草の浅草寺に参詣したあと、原に立ち
寄るのは定番の観光コースになっていたし、藩主の参勤交代で江戸に出てきた 勤番武士がまず見物したがったのは「吉原」だった。 原の季節ごとのイベントには多くの女も見物に詰めかけた。
女もこだわりなく遊郭に足を踏み入れていたのである。
一種のテーマパークでもあった。
魂が地上五尺で燃えている 通り一遍
いざ、吉原へ 新吉原の賑わい 原を題材にした浮世絵・錦絵・戯作・歌舞伎・音曲・工芸品は多数あるし、
遊女の髪形や衣装は、江戸の女の流行の発信源だった。 ほとんどの文人学者は吉原で遊び、情報交換の場となっていた。
吉原を抜きにして江戸文化を語ることはできない。 とはいえ、男たちにとって吉原はなによりも女郎買いの場だった。
男の道楽を「呑む、打つ、買う」といった。
呑むは酒、打つは博打、買うは女郎買いである。 その女郎買いっでも吉原は最高の場所であり、上級遊女である花魁は男たちの 憧れでもあった。 当時「男の女郎買いは仕方がない」という考え方が支配的であり、若い男が吉 原に入り浸っていても年長者は寛容だった。 たとえ亭主が朝帰りをしても、女房は憤懣を押し殺し、笑って迎えた。
こうした風潮のもと、男は身分や職業、年齢、独身既婚を問わず、恥じること
も隠すこともなく勇んで吉原に出かけた。 擦れ違いざま赤い舌が見えた 酒井かがり
新 吉 原 一 覧
新吉原は約3万坪(10万㎡=東京ドーム約二個分)の広さを持つ特別区域
で周辺には、城郭のように堀があった。その堀で囲まれた廓の中に、遊女た
ちを抱えている抱え主が経営する傾城屋、女郎屋(妓楼)があり、そこで生
活する人のための商店や飯屋・床屋・銭湯など裏筋にある小さな町を成して
いた。
蔦屋重三郎ーいざ吉原へ 吉原の画像景色とともに
「吉原ってどんなところ」
江戸時代初期の元和4年(1618)、吉原(旧吉原)は、現在の中央区日本橋人形
町付近と江戸の中心地であったため、風紀の乱れを問題視をした幕府が、明暦 2年(1656)に郊外への移転を命令した。 翌明暦3年(1657)、4代将軍家綱の時代に千束村に移転して開業した。
現在の台東区千束4丁目一帯である。
以来、吉原遊郭(新吉原と呼ぶ)は、幕末までのおよそ2百年に亘ってこの地 で営業を続けた。 哀しみのかけらが落ちた水たまり 前田芙巳代
「新吉原」を俯瞰すると、直接内部が見えぬよう入り口を「く」の字”形に造り、
四方に堀(おはぐろどぶ)をめぐらし、遊女の逃亡と犯罪者の脱出を防ぐ為に要所 に9つの跳橋を設け、非常事に備え表裏の大門は、四っ時(午後10時)に閉じ、
夜明けに開いた。 尚、門脇に設置された「四郎兵衛会所」の番人が出入りを厳しく監視した。 そして陰陽道の占術に基づき、五つの稲荷神社を設け、遊廓街へ入る五十間道の 曲がり方、見返りの柳、さらには、花魁道中における花魁の独特の歩行方までも 陰陽道のご託宣に従ったものという。 この隔絶された世界に約3千人、妓楼の関係者やその他の商人などを含めて1万
人近くが生活していた。
後ろからみれば裸の文化人 筒井祥文
『新吉原江戸町二丁目』 (古代絵集 佐野槌屋内黛突出の図)
花魁道中。本来は年始や祝日、新しい遊女のお披露目の際に行うものだが
客に呼び出された花魁が、振袖新造、禿、妓楼の若い者を従えて、黒塗り
の高下駄を外八文字に歩く姿は、日常的に見られる花魁道中として人々の
目をひいた。
吉原の遊女といえば、最高位である「太夫」がよく知られているが、実はこの
太夫という呼称は、宝暦年間(1751~64)に廃止されている。 ※ 時代小説や時代劇に描かれているのは、ほとんど宝暦期以降明治維新まで
のおよそ百年間の吉原である。 吉原というとすぐに「太夫」を連想するが、もっぱら時代小説や時代劇の舞台 となっている吉原には、太夫はいなかったことになる。 つまり、蔦屋重三郎が、「吉原細見」を手がけるようになった安永4年(1775)
にはすでに太夫の記載は「細見」になく、それに代わって記載されたのは遊女 の階級と揚代(料金)である。 昨日までなかった道が現われる 竹内ゆみこ
葛飾北斎娘・応為『吉原格子先之図』
「和泉屋」と記された妓楼の店先、艶やかな姿を見せる遊女たちの「張見世」
の様子。夜も更けて闇の色が深くなる中で、遊女たちのいる座敷だけは、煌々 と、昼間のような光で包まれている。
「呼出し昼三」
昼夜通しての揚題代が金三分。
遊女が姿を見せて客を待つ張見世はせず、引手茶屋を通した上客の指名のみ、 受ける。これに新造という、若い遊女が一緒につくと、一両一分(125,000)に 増額する。 「昼三」
昼夜通しの揚代が金三分(75,000)。夜だけなら、一分二朱。
「座敷持」
昼夜通しの揚代が金二分(50,000)。自分の起居する部屋と座敷を与えられた。
夜だけなら、金一分(25,000) 「部屋持」
昼夜通しの揚代が金一分(25,000)。
自分の起居する部屋を与えられ、そこで客を迎えた。
「振袖新造」
上級遊女の妹分で15歳過ぎの若い遊女。
「番頭新造」
上級遊女の雑用をつとめる年増の女性。
「禿(かむろ)」
10歳から15歳くらいの少女で、上級遊女のもとで雑用をつとめながら、
遊女としての躾を受けた。 ちょっと肩あんさん揉んでおくれやす 井上一筒
「吉原格子先之図 ②」 宮川長亀
この長亀の絵は、先に挙げた応為の作品の約100年前に描かれたもので、陰影
を付けず、妓楼の内外の様子を、フラットな光のもとで描いている。 ※1 揚代が現在のいくらくらいに相当するかを換算するときは、時期を文化
文政期、11代将軍家斉のころにしぼり、一両を10万円とした。 ※2 妓楼には通りに面して、格子張りの「張見世」と呼ばれる座敷があった。
男は、張見世に居並んだ遊女を格子越しにながめ、相手をきめる。 もし相手が下級遊女の新造で、酒宴も一切しない、いわゆる「床急ぎ」の遊び
をすれば、揚代の金二朱(12,500)で済んだ。 遊女や奉公人に祝儀をはずんだり、酒や料理の代金、宴席に呼んだ芸者や幇間
などの代金などを加算すると、最初の価格の数倍の金額になった。 その結果、一晩で百万円近い額が飛ぶこともあったというから、やはり吉原は
豪華な遊里であった。
ひとつ手前で折れると間違いなく迷路 松下放天
『江戸新吉原八朔白無垢の図』 (東京都立中央図書館特別文庫室蔵)
徳川家康の江戸入城を祝して八朔8月1日)に諸大名・旗本などが白帷子を
着て登城したのにならって、吉原の遊女が白無垢を着た。(画は歌川国貞 )
「江戸っ子最大の見栄」
もっとも金がかかったのが、引手茶屋を通した遊びだが、もっとも分かり難い
遊び方でもある。その手順は次の通り。 花魁の最高位を呼出昼三といい、揚代は一両一分、12万5千円ほどだったが、
それだけでは終わらない。 客はまず引手茶屋の二回座敷にあがり、男の奉公人を妓楼に走らせ目的の呼出 昼三を予約する。しばらくして、花魁は、複数の新造や禿を従えて引手茶屋に やってくる。ここで芸者や幇間を呼び、酒宴となる。 ころあいを見て、客と花魁は連れ立って妓楼に向かうが、このとき引手茶屋の 屋号入りの提灯を提げた女将や若い者が先導し、あとから、新造・禿に芸者や 幇間も従い、大人数で道中をする。 客は人びとの羨望の視線を集め、大尽気分を味わった。 妓楼でふたたび盛大な酒宴をひらき、深夜になって花魁と床入りした。 こうした遊びは一晩で、百万円ほどかかり、まさに豪遊だった。 不真面目なことば伏せ字にして愉悦 井上裕二
『春遊十二時 卯の刻』 (三代歌川豊国画 国立国会図書館蔵)
午前6時頃、朝帰りの客を見送る遊女を描いている。
なにより吉原は男の歓楽卿である-----遊女は房事で男を悦ばせなければならない。
そのため、遊女はさまざまな秘技を身につけており「床上手」だった。 楼主の女房や遊女の監督役である遣手(やりて)、先輩格の遊女に、男を悦ばせ、
心をくすぐる手練手管を教え込まれた遊女に、客は迷わされ耽溺し、生気を吸い 取られ、ついには身を滅ぼす男も少なくなかった。 原の遊女は、「二十七歳まで、年季は十年」が原則だった。
年季途中で遊女の身柄をもらい受けるのが「身請け」で、膨大な金がかかった。
元禄13年(1700)、三浦屋の太夫薄雲が350両で身請けされた例は有名で、
およそ3,500万円である。
原の遊女を身請けするのは、男にとって最大の見栄であり、世間の人びとは
軽蔑するどころか、みな羨ましがった。 原の遊女-----とくに花魁は、当時のアイドルだった。 金は腐るほどある というのが口癖 新家完司 銀河まで少しと感じる観覧車 木村良三
正月の江戸地本問屋、鶴屋の店先 (都立中央図書館)
贈答用の本を求める客達に混じり、左端には地方配送の本商いや貸本屋の姿が みえる。正月初売りの景物本を頼む商店も少なくなかった。
江戸の地本屋の多くは経営規模が小さい上に、錦絵など扱う出版物は基本的に
一過性のもの、達成して売り抜けて利益を得る類のものが多い。
身軽な分、経営の基盤が得てして弱体ー栄枯盛衰の激しい業界であった。
そんな中で、蔦重の出版事業は、全体を眺めまわしても、投機的な仕事はまず
みられない。リスクを極力負わない形での出版を基本とした。 新たな展開は、しっかりとした経営基盤を固めた上で開始している。
見た目の華やかさとは裏腹に、石橋を叩いて渡るような商売が持ち味である。
こうした一貫した今でいうところの社是の理念を基盤に、新たな分野へと地道に
進んでいくのである。 凡人のくせに肩口に苔 酒井かがり
蔦屋重三郎ー江戸の版元へ10年
「富本節」 富本節は江戸浄瑠璃豊後節の一つである。
富本豊前太夫(とみもとぶぜんたゆう)という、美声の人気太夫の登場が流行
に火をつけた。 安永後半期より、狂言作者・桜田治助の詞章による道行き浄瑠璃の大当たりが 続いて富本節は全盛期を迎える。 蔦重は安永7年(1778)には、富本の株を取得し、正本・稽古本の出版を手掛け
始める。この段階での版株取得は、まさに時宜を得たものであり、富本正本・ 稽古本は蔦重の経営の一角を支えるものとなる。 正本とは、初演時に発行されるもので、共表紙で表紙には、その浄瑠璃による
所作事の場面が描かれる。 北尾政演(まさのぶー山東京伝の画名)や喜多川歌麿などが天明前半期までの 表紙絵に画筆を揮っている。 稽古本は縹色(はなだいろ)の表紙を付けた、俗に「青表紙」とよばれるもの
である。本文は太字で節付けがなされ、稽古に供される。 一冊4文程度の安い売値は、発行部数の多さに見合っている。
お日様が美化する蜘蛛の網である 有田晴代
『往来物』
往来物は、主として手習いに使用される。
いわば当時の「教科書」である。幼童向けの実用書という割り付けで、地本屋
が扱う商品なのである。 蔦重は、安永9年(1780)より、往来物の出版を手掛け、寛政期前半まで毎年の
ように新版を刊行し続ける。往来物は相対的に価格が安く設定されているので、 一冊当たりの利は薄いものの、長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品 である。 一見華々しい、錦絵や草双紙といった地本屋の商売物は、あくまでも、消耗品 的に使い捨てられる一過性のものであるが、これは長期に亘って経営の安定に 寄与できるものである。 蔦重は一方でこのような、経営基盤の強化をはかりながら、極力リスクの負わ ない形の出版活動を地道に展開していく。 とにかく「投機」「冒険」の語は、蔦重に似合わない、極めて優れた商人だっ
たといえる。 安全な場所から嗤う覗き穴 千田祥三
『青楼夜のにしき』 (松浦資料博物館蔵本)
吉原の灯籠は盆の行事である。
これを見物するために江戸市中から大勢の人間が詰めかける。 この絵本形式の行事番付は、そういった人達に向けて発行されたガイドブック である。 『青楼年中行事』 (喜多川歌麿画) 『俄番附・灯籠番附』
新吉原から、江戸市中に向けて発信する情報で構成される出版物には、今まで
紹介したもの以外にも、「俄かや灯篭の番附」がある。 これらが盛んに発行されるようになるのは、蔦重という版元が吉原に出現して
からである。岡場所などでの安直な遊びに客を取られるなどして、吉原は慢性 的な不況の中にあった。吉原はその存続を賭けて、吉原ならではの文化的要素 を前面に押し出し、江戸市中に向けて宣伝しようとする。 俄などの行事を復活させたりもするが、その一方で印刷物というメディアを使
っての広告を試みようとしたのであった。 吉原は地域全体の利益に貢献する、いわば『お抱え』の広告代理店のような機
能を蔦屋重三郎の登場で得たわけである。 花時を見逃すことを罪という 大沼和子
俄は仲の町を舞台に寸劇や舞踏が繰り広げられる八月の行事である。
番附は、安永6年(1777)の絵本形式『名月余情』がまず刊行される。
これは『一目千本』や『急戯花名寄』のように、配り物の匂いが強い。
灯籠は、七月の盆に昔年名妓玉菊の追善として行われる行事で、仲の町の両脇
の茶屋の軒先に工夫を凝らした豪華な灯籠が、夜の吉原を美しく演出する。 この番附も、安永九年(1780)には、冊子体の瀟洒なものが『青楼夜のにしき』
という標題で刊行されている。後には両者とも一枚摺りの番附となる。 凹と凸互いに照らしあっている 中山おさむ
『娼妃地理記』 (朋誠堂喜三二作 松浦資料博物館蔵) 娼妃地理記は、その年の正月に蔦重が刊行した洒落本。
吉原遊郭を「北仙婦州新吉原大日本國と洒落れ、五ヶ町を五州に、妓楼を郡、
楼中の名妓を名所旧跡に見立て、地誌のような形で、遊女の評判を書いたもの」 それまで蔦重が手がけた吉原関係本のレベルを超え、喜三二の才能を得て一級
の戯作に仕上がっている。 そして、この年以降、蔦重は咄本・洒落本・黄表紙といった喜三二作品を出版
していくのだが、「吉原に遊ぶ通人であり、その滑稽の才をもって、世の流行 を主導し始めた喜三二の才と名を取り込むことによって、蔦重は、これら蔦重 版草双紙に明確な傾向性を持たせ始めた」のである。 安永7年春から寛政元(1789)年秋まで、蔦重が刊行する『吉原細見』の序文
はすべて喜三二が書いた。 店を出た途端左は右になる 徳山泰子
蔦屋重三郎と朋誠堂喜三二
『戯作の版元へ』 『遊子方言』という吉原を舞台にした小説が明和7年(1770)頃刊行される。
これは、江戸における遊里小説の定型を以後に示す役割を果たし、後に追随す
る作品が続々刊行されることになる。 これが戯作の一ジャンルとして定着する「洒落本」である。
洒落本は、安永期に一つのピークを迎える。
一方、子供向けを建前として刊行され続けてきた「草双紙」は、安永4年刊の
『金々先生栄花夢』の出現によって、赤本以来続いてきた基本的な性格を一変 させられる。 作者・恋川春町は、草双紙のパロディという実権的試みをし、成功させたわけ
である。草双紙の戯作化がなされたと言い換えてもよい。 これが安永後半期以降、戯作の主要な一ジャンルとして定着する「黄表紙」で
ある。 笑ってる顔が一番だと思う 太下和子
『青楼年中行事』ー通 (十返舎一九著・喜多川歌麿画)
また、白鯉館卯雲(はくりかんぼううん)『鹿子餅』という咄本(はなしぼん) が刊行されるのは明和9年である。 上方の冗長なものとは違い、歯切れの良いテンポと、急転直下の「落ち」とを、
備えるもので、圧倒的な人気を博す。
すなわち「通」という美的理念が、時代を主導する感のあった安永期は、一種
通人のわざくれとも言える「戯作」が、各ジャンルとも、若々しく威勢の時代 でもあった。そして戯作はまだよい意味での趣味的な匂いを濃厚に残している。 この世界への参入は版元の名に脚光を浴びさせるに足るものとなる。
蔦重の戯作出版は、彼がこれまで刊行してきたような吉原関係の草紙を、戯作
風にアレンジするところから始まる。 感電死しそうな人に会いたいな 宇治田志津子
『身体開帳略縁起』 蔦屋重三郎ー自作の黄表紙。 蔦屋重三郎ー吉原に書店開業~日本橋通油町へ進出するまでの10年
23歳
・鱗形屋の独占状態の吉原細見販売権獲得し、吉原大門前の軒先にてて販売。
24歳
有名作家との人脈づくり。
・平賀源内に吉原細見の序文を頼みこみ承諾を得る。
25歳
・鱗形屋出版の恋川春町作『金々先生栄花夢』大ヒットを機に戯作の版元に。
・鱗形屋海賊版出版で罰金刑
26歳
1776年(26歳)
・『青楼美人合姿鏡』 出版 北尾重政、勝川春章
27歳
・独自の店舗を構える。俄・灯篭番附刊行。
※錦絵の出版は27、8歳で一旦終了。
勘だけが頼りでござりますモグラ 福光二郎
蔦重の仲間たち 朋誠堂喜三二と恋川春町 このころから
・吉原細見の出版権販売権独占によりビジネス拡大。
・朋誠堂喜三二とのタッグで黄表紙出版をスタートさせる。
・同年、往来物(教科書)富本節スタート。ほか流行小説出版。
・蔦屋重三郎の生涯・第2期 ビジネスを拡大し一般書の版元に。
1780年頃(30歳頃)
・吉原細見の出版権販売権独占によりビジネスさらに拡大(独占は33歳頃)
・浄瑠璃の正本(詞章)出版。細見も正本も定期刊行物に。
・吉原細見と正本を結びつけた浄瑠璃に遊女の名前を織り込む。
30歳
鱗形屋廃業。
・朋誠堂喜三二を起用して黄表紙出版スタート。
・狂歌ブーム。自らも蔦唐丸(つたのからまる)の号で狂歌界の仲間に。
・蔦重サロン設立。主なメンバーとして
朋誠堂喜三二、大田南畝(四方赤良)、喜多川歌麿、山東京伝など。
33歳
・日本橋に移転
流通網と製作関係の権利を購入する。
ゆくゆくは毛が生えそうな赤い鞠 筒井祥文 迷路にはひょいと喜劇の押しボタン 佐藤正昭
『文武二道万石通』(朋誠堂喜三二作/恋川春町画 国立国会図書館)
延喜の御代に補佐の任にあった菅秀才は、武芸を奨励するが、人々が武勇を誇
って洛中で騒動を繰り広げる。 そこで大江匡房を招いて聖賢の道を講じさせて 学問を奨励するが、その内容を勘違いした人々が再び洛中で騒動を引き起こす。 菅秀才は松平定信、大江匡房は柴野栗山をモデルにしており、寛政の改革によ る武家の変節を描いている。 ハンバーガーの具材に挟む江戸幕府 通利一遍
「吉原細見」は、安定した需要が見込めるジャンルとして、複数の版元が競う
ように出していたが、重三郎が出版した細見は、レイアウトやサイズの変更に より、他の細身よりも分かりやすく見やすかった。 読者サイドに立った編集方針を取った上に、吉原に生まれ育ったことで遊郭の
情報には詳しかったため、内容に対する信用度も高かった。 その結果、蔦屋版の細見シェアを拡大させ、天明三年(1783)には『吉原細見』
のマーケットを独占する。 リスクの少ない分野で売り上げを伸ばして、経営基盤を固めると、重三郎は攻 めに転じる。即、市場が拡大していたジャンルに参入していくのである。 天明八年(1788)、田沼意次の進める寛政改革への不満が、社会に広がりはじめ
た頃である。改革の柱である文武奨励の方針を揶揄する二つの作品を出版する。 ひとつは、黄表紙界の人気作家、朋誠堂喜三二の「文武二道万石通」である。
当時、重三郎の店で働いていた曲亭馬琴は「古今未曽有の大流行」と評したが、
それだけ寛政改革に対する不満が広がっており、同書を読んで人々は、溜飲を 下げた。もうひとつは、翌寛政元年(1789)、人気作家・恋川春町の「鸚鵡返し 文武二道」を出版した。これもまた大ヒットする。 不満いっぱい酸素不足になっている 岡田幸子
吉原細見を見る、蔦屋重三郎ー田沼意次
横浜流星 渡辺謙 駿河屋市衛門 田安賢丸 徳川家治 高橋克実 寺田心 眞島秀和 「べらぼう三話 ざっとあらすじ」 重三郎(横浜流星)、は吉原細見の改を行った後も、女郎たちから資金を集め、
新たな本作りに駆け回る。駿河屋(高橋克実)は、そんな蔦重が許せず激怒し、
家から追い出してしまう。 それでも本作りをあきらめない重三郎は、絵師・北尾重政(橋本淳)を訪ねる。 その頃、江戸城内では、田沼意次(渡辺謙)が一度白紙となった白河松平家へ の養子に、再び、田安賢丸(寺田心)を送り込もうと、将軍・家治(眞島秀和) に相談を持ち掛ける…。 斜めからほじくり回すのは誰だ 山本昌乃
蔦屋重三郎ー黄表紙の版元へ
手柄岡持は朋誠堂喜三二・酒上不埒は恋川春町、
蔦重を飛躍に導いた2人の人気戯作者 蔦屋重三郎が江戸で一、二を争う版元に飛躍する転機となったのか、18世紀
半ばに流行した黄表紙(当世風俗を扱った絵入りの娯楽小説)市場への参入で
あった。これを後押ししたのが戯作者・朋誠堂喜三二(1735-1813)と恋川春町 (1744-1789)である。 いずれも当代随一の人気作家であったが、れっきとした武士である。 朋誠堂喜三二は、秋田佐竹藩の江戸留守居役平沢平格の戯名である。
留守居はいわば接待族で、職務の必要上吉原には通じている。おそらくは吉原 の本屋とこの留守居役とは、この地ですでに知り合っていたのだろう。 蔦重版における最初の関りは安永6年(1777)3月刊の『手毎の清水』で、これ
には喜三二の序跋が添えられている。 「一目千本」の改鼠に喜三二も絡んでいるのである。 助動詞の部分に置いた薬瓶 みつ木もも花
黄表紙・さとのばかむら
滑稽・へりくつ・諧謔が堂々まかり通る黄表紙の世界。 一冊まるごと読み解けばナンセンスの裏に潜む江戸の機知に脱帽させられる。 この年には他に『娼妃地理記』を7月に出して吉原本の趣を一変し、蔦重版は 一気に戯作の世界に接近する。翌安永7年からは、蔦重版細見の序文の常連筆 者ともなる。 喜三二は、安永6年正月版のものより、黄表紙に手を染め、旧友恋川春町と強 調して黄表紙というジャンルを確立する才子である。 蔦重が戯作出版に乗り出して行くに際し、喜三二の力添えがあったことの意義
は極めて大きい。 先生と呼ばれるほどのタブレット 蟹口和枝
恋川春町は、本名を倉橋格(いたる)といい、徳川譜代の滝脇発平家が治める
駿河小島藩の重役であった。妖怪画で知られる鳥山石燕に学び、最初は、絵師 として活躍したが、安永4年(1775)、自ら文章と挿絵を手がけた黄表紙『金々 先生栄華夢』のヒットを機に人気作家となる。 もともと2人は江戸の版元・鱗形屋孫兵衛の専属作家に近い立場であった。
しかし安永4年、鱗形屋が幕府の法令に違反して摘発されると、蔦重はその隙
をついて喜三二を取り込み、黄表紙の市場へ参入。 少し遅れて春町とも手を組み、ヒット作を次々と世に送り出した。 黄表紙界の二大巨頭を引き込むことで、蔦重は江戸を代表する「版元」へ成長
していくのである。 血となり肉となり人間ができる 市井美春
寛政元年(1789)喜三二と春町は、堅苦しい世相を吹き飛ばそうと、蔦屋から、
松平定信の文武奨励策を揶揄する黄表紙を相次いで発表し、大当たりとなった。 これが定信の逆鱗に触れる。
喜三二は主家から執筆活動の中止を命じられ、以後、狂歌師・手柄岡持として 活動を続けた。 春町は小島藩を通じて、定信から出頭を命じられた直後に謎の死をとげる。
主家の立場を案じての自殺だったともいわれている。
スマホから指名手配のピーが鳴る 井上恵津子
『金々先生栄花夢』 (恋川春町作 版元鱗形屋孫兵衛 国立国会図書館)
金村屋金兵衛という田舎出の若者が目黒の粟餅屋で休むうちに,富商の養子に 迎えられ,金々先生と呼ばれて、遊里で栄華な生活を送るが,悪手代や女郎に だまされて元の姿で追い出される夢を見て,人生を悟るというストーリー。 『大通人好記』 (朋誠堂喜三二作 大東急記念文庫蔵本) 安永9年正月刊。算術の本『塵却記』のパロディで、吉原での遊びを中心に
遊びの世界をさなざまにこじつけた戯作である。
掲載図は「まま子立て」のパロディ。
『恒例形間違曽我』 (朋誠堂喜三二作 杉浦史料博物館蔵本)
天明2年(1782)正月刊。巻末に喜三二と蔦重が対座する場面を描く。
登場人物であったお廓喜三太の弟が喜三二という黄表紙作者となり同じく
堤判官重三が本屋になり重三郎と名乗って商売繁盛したとこじつける。
『伊達模様・見立蓬莱』
巻末の新版広告には、黄表紙出版に乗り出した蔦重の意気込みが読み取れる。 「黄表紙の版元としての出発」 蔦重の黄表紙出版は、安永9年(1780)より始まる。
芝居の舞台を模した奇抜な趣向の新版目録で、蔦重自身が幕引きとして登場し
ている。外題看板に擬した中に「耕書堂ときこえしは花のお江戸の新吉原大門 口と日本堤の中にまとふや蔦かづらつたや重三が商売の栄」と見える。 新しい分野に乗り込んでいく意気込みの表明と、これからの商売の予祝の表現
である。蔦重は、喜三二という戯作の名手を黄表紙作者に得て、当代もっとも 生きのよい文芸の出版に携わることになる。 流行の黄表紙を出版することは、「版元蔦屋」の名を高らしめる。
単に吉原情報を供給するだけの版元ではなく、江戸市中の老舗の地本問屋に混
じって当代をリードする版元が吉原という場所に生まれるのである。 隅田川の下半身は江戸だろう 徳山泰子 傘の角度で江戸っ子だとわかる 酒井かがり
浅草庵、葛飾北斎画『画本東都遊』に描かれた耕書堂(蔦屋重三郎)の様子 大河ドラマ令和7がはじまりました。
第一話「ありがた山の寒がらす(ホトトギス)」は当時の流行言葉で「ただで手 に入れること」を意味しており「火事ごときに負けてられるか」という蔦屋重三 郎の生涯のテーマになったようです。 明和5年(1768)4月6日の八つ時(午前2時頃)吉原江戸町2丁目から出火、
折からの大風で廓内から入口にあたる五十軒道まで悉く焼け落ちました。 3年後の明和8年4月23日、やはり、夜明け前の4時ごろ今度は、一筋北の
揚屋町から火が出て、やはり廓内全焼。 この2回とも、廓外に仮宅をつくらなければならないほどの被害だったという。
さらに1年もたたない安永元年(1772)2月29日、今度は、はるか西南の目黒
行人坂大円寺から出火した火が強風にのって燃え広がり、ほとんど江戸の中心 部を焼き尽くして、吉原まで焦土化しました。 危機感をいつも抱いてる非常口 通利一遍
幕府は罹災した大名には、参勤交代の延期を認めたり貸与金を出したり、また
火災予防のために火消しの表彰、耐火建築の奨励などの措置をとるなど、人心
の安定に懸命に動いたものですが、この夏は冷夏で、その上、秋には風水害が 続き、全国的な凶作となって11月には、安永に改元したほどであった。 吉原の大火は、この後も天明元年(1781)、4年、7年と数年おきにあったから
珍しいことではなかったのだが、その度に店の持ち主は、店を手放さなければ ならない厳しい環境になっていました。 きのうの続きで元旦の朝が来る 前田芙巳代 五十軒道からつづく吉原大門口 店の経営者に移動の出るこうした不幸な出来事をも好機ととらえて、蔦屋本家
の養子だった蔦屋重三郎が、大門口に店をかまえる意欲をもったとしても何の 不思議はありません。吉原の入り口は一つ。その大門口から木戸までを「五十 軒道」と呼ぶが、ゆるや」かな坂道が「く」の字に曲がってつづく左側の、縁つ づきの、引手茶屋蔦屋次郎兵衛方の店先を借り、版元の1人として「五十軒道
左側蔦屋重三郎」と看板を掲げ、ささやかな細身の委託販売を業とする書店を 開いたのです。いよいよ重三郎の出版社としての活動がはじまります。 ときに蔦屋重三郎23歳であった。
指先から湧いてくる積乱雲 近藤真奈
江戸の貸本屋 (十返舎一九「倡客竅学問」(しょうかくあながくもん) 風呂敷に包んだ本を顧客の遊女に見せる貸本屋 蔦屋重三郎ー版元として出発
家業は飲食業(茶屋)でありながら、異業種の出版事業に参入した重三郎だが
いきなり版元(出版社)として活動を開始したわけだはない。
そのはじまりは貸本屋であった。当時、本は高価で、購買層は経済力のある者 に限られました。幕末の江戸では、本のレンタル料は一冊に6~30文。 (現代の米代に対比して50円~240円というところですか) レンタルならば左程の出費ではないが、本を購入するとなると、それをはるか に超える金額が必要だった。よって貸本屋の需要は、相当なもので、貸本屋が 江戸の読書環境を支えていたといえます。 貸本屋は、行商人のように各所に出入りし、本のレンタルに応じました。
江戸の町はもちろん、大名や旗本・御家人の屋敷にも出入りをし。武士・町人
といった身分の別に係わらず貸本屋は得意先に足しげく通うことで、おのずと 読者の好みを知ることが出来ました。それが出版に際してのマーケティングに 直結し、企画に活かせたのは言うまでもありません。 人脈の構築、つまりは販路の確保にも役立ちます。重三郎が話題作やヒット作
を連発できた理由を考える上で、「版元」として出版界に参入する前の貸本屋 という助走時間は外せないものでした。 工夫して使えば倍になる時間 橋倉久美子
平賀源内に吉原遊郭の序文をかかせた蔦重の発想力 安永2年(1773)の鱗形屋(うろこがたや)版「吉原細見」の春版である『這嬋
観玉盤(このふみづき)』の奥付きには、取次書として、はじめて蔦屋重三郎 の名が出ています。 ついで秋版の細身『嗚呼御江戸』では、鱗形屋版で蔦屋版ではなく、奥付きに
「細見おろし小売・新吉原五十軒道左側蔦屋重三郎」となっていましたが、 巻頭に何と平賀源内の序文を載せている。 この当時、平賀源内は、右に出るものもない文化人のトップの大物です。
蔦重は、吉原のガイドブック「吉原細見」で、吉原に再び人を呼び寄せる案を
思いつき。その序文を江戸の有名人・平賀源内に執筆してもらうため、鱗形屋 孫兵衛に相談にいくと「自ら説得できれば掲載を約束する」と言われ奔走した 成果であったのです。因みに、この離れ業に一枚加わったのは、当時18歳の 太田南畝と言われています。 蔦屋重三郎最初の出版物『一目千本』 遊女の名前と流行の挿し花の図とを取り合わせた遊女評判記。 冬を脱ぎながら地下街を抜ける 赤松蛍子
細見の売れ行きが予想以上であることに気をよくした重三郎は、つづいて遊女
評判記に目をつけます。細見に続いて、同じ年の7月に刊行した『一目千本花 すまひ』こそは蔦重単独刊行の処女出版だった。 「すまひ」とは相撲のことで、主な遊女を花くらべの相撲見立てで登場させる
評判記といったもの。たった一冊の細身づくりに、最新情報を盛り込むべく、 廓のなかを駆け回った重三郎は、それだけで細見編集のノウハウと売るに必要 な情報のコツを手に入れてしまったのである。 ひらめきの勢い斜面かけ降りる 山本美枝
「青楼美人合姿鏡」 安永5年正月刊。北尾重政と勝川春章という当時を代表する二大絵師 の競作による。豪華で華麗な絵本は出版印刷史上に残る名品である。
耕書堂主人(蔦屋重三郎)の序文が据えられている。蔦重自身の企画
構成によるもので、巻末には遊女の発句が掲載されている。
「青楼美人合姿鏡」 成立事情
この絵本は格別豪華な造本で仕立てられており、要した出版経費も相当
なものでした。この絵本は贅沢さに突出しています。いまだ資本の潤沢 でないこの版元が、一人ですべての経費を負担したとは考えられません。 経費の回収のあてが、不特定多数への販売によるものだけであったはず
はもい。収録されている遊女の選択が、客観的な評価によるものでない ことは明らかで、一図に3人ゆったりと描かれているところもあれば、 窮屈に5人描かれている図もある。 また高位の名妓で、ここに描かれていない遊女も少なくない。 これは『一目千本』『急戯花之名寄』にも同様に見られる傾向であった。
おそらく画像として描かれ、発句を掲載した遊女や、妓楼などが経費を
ある程度あらかじめ出資、重三郎の勢いに乗ったのだろう。 ジャンプすれば届く高さの熟し柿 雨森茂樹 |
最新記事
(06/29)
(06/22)
(06/15)
(06/08)
(06/01)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|