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川柳的逍遥 人の世の一家言
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きゅうりならとうに曲がっているころだ  米山明日歌





    「玄宗皇帝・楊貴妃」 (喜多川歌麿筆)東京国立博物館蔵
玄宗皇帝・楊貴妃の悲哀を詠った「長恨歌」が収められている白居易の
「白氏文集」が平安時代に大流行した。
平安京遷都(794年)より30年程前の、白居易の漢詩『長恨歌』で知られ
る、悲恋の物語がある。
主役は楊貴妃-----楊貴妃といえば、歴史に名を残す絶世の美人である。
唐の玄宗皇帝に見初められ、その愛を一身に受けた。
しかし、寵愛のあまり国の政治は、乱れ「安史の乱」を招くことに。
楊貴妃は、皇帝の目の前で殺され、残された皇帝は,
ひとり嘆き悲しむというものである。
これに似た話が日本にもある-------------宮廷に出入りする人々は、帝が桐壺更衣
ひとりに愛情をそそぎ、政務を疎かにしているさまを、楊貴妃の物語にダブらせ
て、世の人々は、明日の行方さえ案じた。





パンよりも愛を論じた若かった  藤井正雄










式部ー光源氏-入門 ① ~桐壺の巻  (紫式部渾身の第一巻)


いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、
   いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
 はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものに
 おとしめ 嫉みたまふ。同じほど、それより 下臈げろうの更衣たちは、
 ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし
 恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げ
 に里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、
 人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき
 御もてなしなり』


※ コトバの解釈
いづれの御時にか紫式部がこの物語を書き始める百年ほど前の醍醐天皇
御代のこと。時代も帝の名もぼかしてあるので、当時の読者は「いったいいつ?」
「誰のこと?」と連想をかきたてられ、心をそそられたに違いない。
やむごとなきそれほど高い身分ではない方で。
めざましきものにとにかく気にいらなくて、めざわりで。
心をのみ動かし心を動揺させるばかりで。
あつしく病気がちに。
水しぶ返して柔らかな拒絶  清水すみれ




『上達部かむだちめ、上人うえびとなども、あいなく目を側そばめつつ、
 「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、
 世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、
 人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、
 いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを
 頼みにてまじらひたまふ』


※ コトバの解釈
あいなく=いやはや困ったことだと思いながら。



奥の間で蠢く人の深い闇  宮内カツ子




『父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人のよしあるにて、
 親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう
 劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたてて
 はかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり』


※ コトバの解釈
いにしえのひとのよしある一流とまでいかないけれど由緒ありげな家柄、
嗜みがあるなどをあらわすことば。同じような意味で使う言葉に「ゆえあり」
があって、とにもかくにも一流を指す。
世の覚えはなやかなる世間の評判も際立っている。
はかばかしきしっかりした。



時々は陸橋となる父の腕  合田瑠美子



前の世にも、御契りや深かりけむ、世になくきよらなる玉の男御子
(をのこみこ)さへ生まれたまひぬ。
 いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、
 めづらかなる稚児の御容貌かたちなり。
 一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて寄せ重く疑ひなきまうけの君と、
 世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには、並びたまふべくも
 あらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、
 私物(わたくしもの)に思ほし、かしづきたまふこと限りなし。


※ コトバの解釈
前(さき)の世今の世にうまれる前の世。仏教でいう三世の一つ。  
(三世=前世・現世・来世)
きよら清く美しいこと。どこか華麗なという意味あいも含む。 
 美を「きよげ」と言ったりもするが、平安時代には「きよら」のほうが
「きよげ」より一段上の、輝くように美しいことを指した。
心もとながらせ給ひて待ち遠しくお思いになって。
参らせ参るは高貴なあるいは身分の高い所へ行くという意味。
めずらかなるきわめてめずらしい。
寄せ重く後ろ盾の力が強く、しっかりしていて。
疑いなきまうけの君準備のこと。ここでは世継ぎの皇太子のこと。
この御にほひ輝く宝石のような気高い美しさ。



廃屋の庭に木犀香りたつ  佐藤 瞳





         石山寺蒔絵箪笥 (彦根城博物館蔵)



ではここまでを今様に訳して、読み進めてみましょう。





 
                                      「光源氏誕生」




いつのころのことだったでしょうか。
それはたくさんの美しくお育ちのよい女性たちが帝にお仕えしていました。
そのなかで、たいした身分でもないのに、帝にみそめられ、その深い深い愛を
一身にあびている更衣がいました。
その名を桐壺更衣といいます。
気にいらないのは先にお仕えしていた女御・更衣たち。
もとより「私こそが本命よ」と、自信たっぷりだった方々は、目ざわりでたま
らず、わざとさげすんだり妬んだり。
同じ身分か、それより下の更衣たちはさらにおさまりません。
何をするにつけても嫌な顔をされたり、鼻で笑われたりするものですから、
桐壺更衣はすっかり気が滅入ってしまい、病気がちになってしまいました。
心細げに実家へ帰ることが重なり、そんな姿がはますます愛しくてたまらず、
誰が何と言っていさめようともいっさいお構いなしで、ますます桐壺更衣ひと
すじの愛にはしろうとします。 



透きとおる真水なんかと遊ばない  中野六助





   世間の耳目も気にならず…愛を育む玄宗皇帝と楊貴妃




宮中の貴族たちも困ったものだと思いながらも、見て見ぬふり。
中国でも、玄宗皇帝が愛におぼれて国が乱れたのだなと言われはじめ、
世間でも、桐壺更衣楊貴妃になぞらえるようになりました。
もちろんその噂も桐壺更衣の耳に届きいたたまれません。
宮中でたったひとりで怯えながらも、の深い愛情、それだけを頼りに過ごし
ます。




約束の途中が火事になっている  中林典子



桐壺更衣の父の大納言はすでに亡くなっていましたが、母の北の方は、名家の
出で、たしなみも知性もある人でしたから、両親そろった華やかな家の妃たち
にひけをとらないよう、万事支度を整え、細やかに気配りを尽くしてきました。
とはいえ、これといった後見人のいない哀しさ、やはりあらたまったことがあ
るときは、頼るあてもなく心細い様子です。





塩漬けにされてしまった空がある  みつ木もも花



前世の結びつきがよほど強かったのでしょうか、桐壺更衣のあいだに、
それはそれは清らかで美しい皇子までが生れました。
帝はわが皇子に会いたさに、里に帰っている桐壺を急いで呼び寄せ、ご対面に、
その類まれなる器量に目を細めます。
一の皇子の方には、右大臣という強力なバックがついていて、誰からもお世継
ぎとちやほやされていますが、美しさでは弟君のほうが断然上。
帝は、目の中に入れても痛くないような可愛がりようでした。





洗えない嬉し涙のハンカチは  杉浦多津子





        弘徽殿女御(こうきでんにょご)の住む館
「桐壺物語」

「 弘徽殿女御の企み」
あるの世のことでした。女御、更衣と呼ばれる帝のお妃たちは、家柄のよい
選りすぐりの女性ばかり。
気位も人一倍の方たちですが、帝の気を引こうと日ごろから並々ならぬ努力を
していました。そこへ、さほど格式ある家の出でもないひとりの更衣が、帝の
愛をひとり占めにし、愛の結晶を宿します。
幸せなはずのその人に、ひそやかに魔の手の忍び寄る気配です。

愛すとは舌をかむほどややこしい  宮本美致代





すでに第一皇子(のちの朱雀帝)をもうけていた 弘徽殿女御ですが、
の愛は実家の格も宮中の立場もずっと低い桐壺更衣ひとすじ。
ただでさえ、どろどろしていた弘徽殿のこころは桐壺の解任により、
さらに激しい憎悪でぬりつぶされます。 もし男の子が生れれば、
<帝は、最愛のわが子までないがしろにするかもしれない…>
嫉妬と猜疑心が恐ろしい謀略に火をつけます。




今しばらくはドクダミのままでいる  岡谷 樹





時は光源氏誕生まぢかのある夜、所は清涼殿の北、 弘徽殿女御の住まい。
弘徽殿に仕える女房 「連れてまいりました」
弘徽殿 「お前は退ってよい。大弐命婦はこれへ、ずっと近う」
命婦 「……」
弘徽殿 「桐壺更衣の御子の乳母にお前を推挙したのはこの私じゃ」
命婦 「ええっ こ 弘徽殿の女御さまが…!」
弘徽殿  「お前の心はその顔にでておるわ。よい!面をあげよ」
命婦おずおずと面をあげる。
弘徽殿 「これは 南蛮渡りの秘薬。これを お前の乳首に塗り
     桐壺更衣の御子に含ませるのじゃ」
命婦 「えっ!」
弘徽殿 「毎日 ほんの少しずつ……な」



うなずいただけ犯人にさせられる  山谷町子


ひっそりと静まりかえった弘徽殿の一室。
紙燭の薄明りのもと、悪事が顔をもたげる。
弘徽殿 「今は里邸へさがっている桐壺更衣に姫でなく皇子が生れたら」
命婦 「!」
弘徽殿 「わかるであろう!私はわが子・一の皇子を東宮にたて、
     やがては即位したい。このままでは帝の寵愛深い桐壺更衣にそれを
     奪われる。ここまで聞かせたのじゃ。
     背けば お前は当然一族も破滅!」
      <生まれてくるのが姫ではなく、息子だったら…> 
わが子・一の皇子を次の帝にしたい 弘徽殿女御は、桐壺更衣の産む御子を
恐れます。
このままでは東宮の座を、生まれてくる御子にとられてしまう。
恐ろしいその企みを聞かされ、大弐命婦はただただ苦しみ迷うほかありません。



おいでおいでと土砂降りに噴水  酒井かがり


弘徽殿 「案ずるな 御子の命までは奪わぬ 光もなく風もそよがぬ
     闇の世でお暮しになるまでのこと」
命婦 「そ、そんな…」
弘徽殿 「お前が疑われることはない その兆候の表れるのは、乳離れも
     終えたずっと後…推挙も人を介してじゃ。 
     私とお前の関係も誰にもわからぬ」
当時のお産は女性が実家に里帰りし、自分の親の世話になるのが普通。
桐壺更衣も里帰りをし、しずかな日々を暮らしています。
桐壺更衣の母である北の方も、身重の桐壺をあたたかく迎え、こまやかに
面倒をみます。格式の高い家で育ち、気品と教養をそなえた北の方は、
夫の大納言を亡くした後、女手ひとつで娘を育て、入内を果たしました。
しかし、<帝の寵愛をうけたばかりに>、いじめにあっているむすめが
不憫でなりません。





七十歳あたりで分かる砂の味  新家完司




桐壺更衣の里下がり先、二条邸。
「恐ろしい……おそろしいお方じゃ…」
震え怯えながら脳裏のなかに呟き命婦は、桐壺更衣の里下がり先、
二条邸に着くと、赤子の誕生をいまかと待つ北の方へ挨拶に赴いた。
北の方 「 誰 !?   生まれましたか?」
命婦 「いえ 乳母の大弐でございます」
北の方 「ああ…大弐命婦 よろしくお願いしますよ。娘はあの通りの
     弱弱しい体、御子を産みまいらすだけで精一杯のはず。
命婦 「……」
北の方 「それに内裏へ戻れば、帝のご寵愛がかえって仇で四面楚歌。
     味方は乳母のあまえだけです。力になってやってください」
命婦 「は…はい」

人間の奥を覗くと闇がある  山内美惠子





帝との間に男の子を産むこと。
それは後宮の女性のみならず、その一族の悲願でした。
帝と血縁を結び外戚となれば、男たちの地位もぐんと上がり、権力も強く
なります。桐壺更衣の父の大納言は、美貌の娘に一族繁栄の夢を託して亡
くなりました。北の方は、何の援助もないなかで支度を整え娘を入内させ、
帝の子をもうけさせるにいたりましたが、後見のない心細さは隠せず、
弘徽殿の思惑も気になる日々です。
(後見=幼い子どもなどの後ろ盾となって補佐すること)





省略は出来ぬ寿限無のフルネーム  岸井ふさゑ





命婦 「何を祈っておいででしたか」
北の方 「生まれる御子が どうぞ 姫宮でありますようにと…」
命婦 「なぜ 皇子より姫宮を?」
北の方 「弘徽殿の女御さまのお心が恐ろしいのです」
    <入内した娘の皇子が即位するのが一門の繁栄への一番確かな近道。
     世の人びとは、ひたすらそれを願いますのに……?
     いえそれが望みで娘を入内させようとしますのに>
北の方 「弘徽殿の女御さまは今を時めく右大臣の姫君です」
命婦 「他の女御さまも、更衣さま方も、それぞれ立派な後見がついていらっ
    しゃいます。桐壺更衣さまのお父上は、按察使大納言様、何の位負け
    も、
気おくれもございません」
北の方 「いいえ亡くなれば後見はないも同然です。
     女手ひとつで身の回り屋敷の手入れとがんばってはきましたが……
     
すこうし疲れました」




学校が人が壊れる音がする  柳本恵子





          桐壺帝と光源氏御対面





自分の立場も忘れ、ただ一途にひとりの女性を愛した時の、帝と桐壺の間に
生まれた運命の皇子。 それが「光源氏」です。
皇子見たさに、早々に帝は、母子を実家から呼び寄せます。
最愛の女性が産んだ神々しいまでに美しい子ども。
第一皇子にはない、宝石のような輝きに、帝はひと目でこの皇子の虜になり
ます。




しゃぼん玉の中を独走したくなる   千島鉄男  





二条邸に仕える女房たちが、小走りに北の方のもとへ駈けてくる。
「お生まれになりました! 皇子がお生まれになりました」
北の方・命婦二人は、声をあわせるように「皇子!」と叫んでいた。
「玉のようにお美しい皇子であらせられます。更衣さまもおすこやかで」 
50日後-------内裏
 「なんと美しい 賢そうな瞳! 小さなかわいい唇! おうおう私の指
   を握りしめるよ 強い力だ!」
 「いい子だ 元気ないい子だよ」
桐壺 「ありがとう 大弐の良いちちのおかげです」
 「私からも礼をいう。乳の出るからには大弐にも赤子がいよう。
   なんという?」
命婦 「惟光(これみつ)と申します」
 「惟光か…乳母子として若宮の後盾を頼みますぞ」
命婦 「畏れ多いお言葉に……」
帝 「(桐壺へ)ひさしぶりに内裏に戻ってきたのじゃ。
   今夜は局には帰らずこのまま ここに居るがよい」
桐壺 「はい」





足の指グーパーさせてから起きる  大羽雄大




 弘徽殿の不安は、的中してしまいました。
桐壺が産んだ皇子はまだ、乳飲み子ながら、気品にあふれ、ただ美しいだけで
なく、一度見たら、人びとのこころをとらえて離さない不思議な魅力をそなえ
ていました。
<もし帝が自分の世継ぎとして、わが子よりこの子を選んでしまったら…>
じりじりとする弘徽殿をよそに、帝の桐壺への愛はますます、燃え上がるよう
です。




ネットの匿名に紛れ込む犯人  山口ろっぱ






                           お食い初めの儀式





「出産50日目のお祝い」
当時の出産は母子ともに危険がともない、乳幼児の死亡率も高い時代だった。
出産直前には産婦のまわりで祈祷僧が祈り、陰陽師が祓えを行い、
外では魔除けの米がまかれて、それで賑やかだったとか。
生れてからも「すこやかに」と祈る行事がにぎにぎしく行われた。
重湯の中に餅を入れ、子どもの口に含ませる儀式で、食膳には子どものサイズ
に合わせた小さな皿、箸台、飾りものが用意された。
乳母の大弐命婦惟光という幼子の母でした。
 弘徽殿に半ば脅されたようにして謀の片棒を担がされた大弐ですが、
桐壺の純粋さや、皇子のかわいらしさに触れると、その心は激しく揺れ動き
ます。帝は久々に会った桐壺と一時も離れがたく、昼夜の区別もなくかたわらに
置きたがります。 それは宮中では例のないことでした。





散歩から帰って来ない青い鳥  稲葉良岩

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今は昔にはならない闇の河  峯島 妙  





                                      北野天神縁起絵巻    (北野天満宮蔵)

1016(長和5)年6月、西隣の藤原惟憲邸からの出火で、藤原道長の栄華
を象徴する邸宅であった「土御門殿」が燃えた。
天井を走る紅蓮の炎、その上で屋根にのぼった雑人たちが、類焼を食い止める
べく板を剥がしている。
棒を手に叩き消している人もいる。
井戸の側から屋根まで、梯子をかけて水を運ぶ姿もあるが、当時の消火方法と
しては、毀ち消火がもっとも有効であった。
邸内に目を移すと、板戸や家財道具ほか琵琶や筝などを、運び出す人で混乱し
ている、様子が描かれている。




つぶコーンで良ければどうぞ鎮火まで  山本早苗





          『春日権現記絵』 (宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

京の大火あと、まだくすぶる火に水をかけ消火にはげむ男たち。
そばでは焼け跡から探し物をする人。京の大火後、このような光景が随所で
みられたことであろう。





式部ー平安京のざわめき



「カーン、カーン、コーン、コーン」
木を削る手斧や槍鉋の音が周囲に響き渡る。
工人たちの活気あふれた声。
これらの音は貴族たちの住宅地のそこかしこで聞かれたはずであり、
ひょっとすると加茂川辺まで届いていたかもしれない。
場所は平安京の東北隅に近い土御門殿
邸宅の主は、今をときめく藤原道長である。
この造作は、創建ではなく焼失にともなう再建であった。




ベランダに月の都の月あかり  佐藤真紀子





             土 御 門 殿 邸





「さて焼失後・土御門殿」
諸国の受領たち道長のもとへ火事見舞いに訪れている。
数日後には造作始めのことがあり、ほぼ2年後には、焼失前より大規模な殿舎
が出現した。
もっとも造作のほとんどを受領たちが共同で請け負ったものである。
新造なった道長の土御門殿には、生活に必要な家具・調度の一切を、伊予の守
源頼光が献上している。 その経費たるや計り知れない。
この一受領の寄進に、驚異をもった人たちは、次から次へと新邸に運び込まれ
てくる品々に目を見張ったという。
道長が「三后冊立」という前代未聞のことをやってのけ、
「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることも…」
と歌ったのは、移り住んで三ヵ月余り後の木の香も残る土御門殿での夜の宴席
においてであった。 道長邸の生活用具は華美に徹していた。




月光はすべて私のために降る  吉川幸子





                                         火事場泥棒     (神林寺蔵)

室内から猛炎が噴き上げている。
大きな箱様のものと、大きな包みを頭に載せた男2人がその中から飛び出して
きた、この2人は、家人ではなさそうで群盗か。だとすればまさに火事場泥棒
である。




「夜の盗賊・世の不安」
とりもなおさず、金銀財宝を蓄えた有力貴族は盗賊の格好の標的となった。
道長邸とて例外はない。
1011(寛弘8)年12月には、二日連続で窃盗に入られ、衣装と銀製の提
(ひさげ)が盗まれた。
1017(寛仁元)には、倉にあった金銀二千両が盗まれたが、のちに盗賊は
逮捕され、盗品の半分ほどを取り戻すことができた。
犯人はどうやら道長の家司の郎党であったらしい。
この時代の群盗は、このように京中の貴族の邸宅に仕える下層の雑色、下人ら
である場合が多かった。




犯人とわかるその手の洗い方  蟹口和枝




一方、宮内の大蔵省・民部省・穀倉院などには、諸国より、運上の物資が保管
されていたから、当然のことながら盗人に狙われた。
内裏にまで潜入した記事が散見する。
ここには、天皇はじめ後宮の人たちの高級な衣装、調度が沢山あったので、
格好の狙い所となった。
ある時には、女の盗賊二人が清涼殿に潜入し、こともあろうに天皇の御在所に
近づき、これに愕然とした天皇が、蔵人を呼んで逮捕を命じるという一幕もあ
った。




片腕が置いてある京都の質屋  大橋允雄





                                       貴族の邸宅・大和絵屏風     (神護寺蔵)

広々とした自然の景観のなかにおかれた邸宅。
甍を並べる京内の邸とは趣を異にしているが、殿舎そのものはもっとも当時に
ちかいものであろう。




京内では、有力貴族の邸のほかに、受領の邸宅が狙われた例が多い。
かれらが任国で得た財は、逐次、京の屋敷に運び込まれた。
数か国の受領の経験者ともなると、巨万の富を得て倉はふくれあがり、
それは、盗賊の狙いの的となった。
例えば、件の頼光の父の満仲の場合、道長の土御門殿と内裏の中間点に位置し
ていた邸宅が焼失したが、これは強盗放火のためであった。
また、丹波守藤原資業(すけなり)は、騎兵10余人の襲撃を受けたが、その
理由は、任国における資業の苛酷な政治への遺恨によるものとされる。
受領宅を狙った盗犯の場合、その多くは このような恨みが原因となっていた。




消しゴムが私の過去を撫でたがる  鈴木かこ





           御斎会の夜の路上  (田中家蔵)

庶民の動静が貴族の日記などに記述されることは、ほとんどない。
そのため庶民を描いた絵画資料の意義は大きい。
特に『年中行事絵巻』に活写されている庶民の姿には目を見張るものがある




これらの犯罪に対し、治安に当たり、力のあったのが検非違使で、犯人逮捕の
効果もあがっているが、それにも増して時代とともに犯罪の比率は高くなって
いった。
一方、霖雨による河川の氾濫、旱魃による飢餓、疫病の流行、ときとして、
これらの天災が交錯しながら平安京を襲った。
とりわけ平安末期に相次いだ大火と、飢饉が人々に与えた不安は計り知れなか
った。




鼻濁音ばかりが耳につくお経  竹内ゆみこ






         洪水で逃げ惑う人々 (歓喜天霊験記・個人蔵)

いつの時代でも手のほどこしようのないものはない。ことに予知能力の未発達
な当時には尚更のこと。天災で最もよく起きたのは水害だろう。
ことに都の人たちを恐れさせたのは、東の鴨川と西の桂川の反乱であった。
ひとたび氾濫すると家財道具は押し流され、多くの人命が奪われた。





「世の末を感じて…鴨長明・方丈記」
『はてには、笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したるもの、
 ひたすらに家ごとに乞い歩く。
 かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、
 すなわち倒れ伏しぬ。
 築地のつら、道のほとりに飢え死ぬるもののたぐひ、数も知らず。
 取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、
 変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり』




うろこ雲敷きつめてから奈落  酒井かがり

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六条御息所に添寝する  木口雅裕






                                            安倍晴明・修行時代
唐の留学時代、伯道上人より陰陽道の奥義書「金鳥玉兎集」
を授けられる清明。




伝説上の安倍晴明は、「式神」といわれる鬼神を操り、物の怪を祓う超能力者
として知られるが、史実上は「陰陽寮」に属した官人、つまり役人だった。
陰陽寮とは、7〜10世紀の律令制の下に置かれた国家機関のひとつで、
「陰陽・暦・天文・漏刻」の4つの政務を司っていた。
例えば、貴族の女性が天皇の妻となるなどは、国家事業でもあり、それゆえ、
いつ入内したら良いか、「吉日陰陽道卜占」で占った。
また、屋敷に蛇が入り込んだなどの怪異(不思議な出来事)が起きると、
それが何かを予兆しているのではないかと、人々は恐れた。
そこで陰陽師の卜占に託したのである。
他にも、陰陽師は様々な禁忌(タブー)にも向かいあった。




禁という字にワセリンがぬってある  大島都嗣子





式部呪詛・安倍晴明





      卜占を最も得意とした安倍晴明 (国立国会図書所蔵)
晴明の手前に控えるのが式神。




平安時代は、藤原氏の時代である。 とはいえ一枚岩ではなかった。
北家、南家、式家、京家、という四つに分かれた藤原家が、一族内で権力の
争奪戦をくり広げていたのである。
平安時代の権力闘争は、自分の娘を天皇の子どもといかに結婚させ、
そして、男の子を生ませるかにあった。
男の子が生まれれば、いずれは天皇となるチャンスがあるからだ。
そして、娘の子が天皇になれば、一族は、天皇の親戚となる。
摂政関白として政治の実権を手にした者は、栄華に包まれる。
その栄華の陰には、同じ血を持つ者だけに、常に陰湿な謀略劇がつきまとう
ことになる。




犬語より難解な語を手繰り合う  稲葉良岩





      宮中に跋扈する怨霊





  謀略によって敗れた者は、恨みが残る。
  恨みを持った者は、死んで怨霊となる。
  怨霊は、栄華を怨み、それを呪う。
  呪われた者は、自分の栄華を奪った者を呪い、
  自分の死によって、栄華を横取りした者を恨んで、怨霊となる。
  権力闘争の中で生まれたものは、「怨霊」という形で平安時代を
  跋扈したのである。




あの島を消してと君は指を指す  宮井いずみ




「恨み」
藤原道長の前半生は、特に華やかなものではなかった。
だが、それが一転して、権力の頂点にたつことになったのは、
995年(長徳元)に、兄の関白・道隆、弟の右大臣・道兼、左大臣・重信、
大納言・藤原朝光が、続いて亡くなったことがきっかけであった。
正統な順位を辿れば道隆が死ねば、次の関白は、道隆長男の伊周(これちか)
が継承するのが順当だったが、道長は姉の詮子(せんし)の力で、本来なら
なれるはずのない右大臣の座を手に入れ、翌年には、最高権力を有する左大臣
となった。







壺の中には藤原詮子を呪う「呪符」がぎっしり…


        呪いの品々




数式に赤い糸屑夜長し  野口 裕





  いたるところから呪詛に用いる呪符が出てきた





改元されて長徳2年となった同年、怒りと恨みに狂った伊周道長を呪詛した
ことが発覚。
さらに1006年(寛弘3)にも、道長に対し二度目の呪詛をおこなっている。
(これは「呪詛事件」として公文書にも記録されている)
本来なら握ることの出来なかった権力を、道長は手にし、強大なものとしてい
ったため、多くの政敵をつくり、それによって呪われることになった。




用済みと捨てた言葉が駄々こねる  森井克子






          土御門邸へ赴く清明





「陰陽師・安倍晴明の繋がりは」
藤原道長安倍晴明との繋がりは、989年(永延3)の一条天皇が病気にな
ったときに清明が占ったという『小右記』の記録が最初である。
一条天皇の母は、道長の姉・詮子だから、関係ができたとすれば、この時期だ
ろう。 このころ道長は29歳だった。
まだ兼家の4男坊という立場で、権力の外にあった。
『御堂関白記』(道長日記)にも、清明の名は登場していない。
安部清明の名前が日記に登場するのは、1000年(長保2)道長の娘・彰子
が皇后となることが決まり、それを行うに相応しい日取りを清明に出させた時、
と記されている。
これは清明が亡くなる5年前である。
このことから藤原伊周の呪詛の祓いは清明が関わっていないことは、明白。




おぼろ月呼べば答えてくれそうで  藤本鈴菜




それから清明が亡くなるまでの5年間で、清明の名が「道長日記」に登場する
のは7回。
また、道長の権力基盤が固まるのは、彰子が天皇の子を出産する1008年
(寛弘5)だから、清明が没して3年後のことになる。
道長の日記に初登場した時期に、道長と清明の関係が始まったのだとすると、
清明は80歳だから、陰陽師の世界では最長老である。
道長の引きは、必要なかったはず、仮にそれ以前から関係があったとしても、
清明が65歳を超えたころには道長は20歳そこそこ。
その道長に、清明の人事を左右できる力は有していなかった。




動物の勘で明日の風を読む  武内幸子






         六条御息所の生霊
光源氏からの愛情が薄れ、妬心が極まったことで生霊となり、
恋敵を呪い殺してしまった女性もいる。




晴明は陰陽師として、自分が生きた平安時代をどう思っていたのだろうか。
怨霊や鬼を貴族たちのように、ただ怖れたり、大江山の酒呑童子を騙し討
ちした武士(坂田金時)のように、ただ退治すればいいとは、思っていな
かったはずである。
清明は怨霊たちを見るたびに、敵として見るのではなく、その後ろにある
「人間の業」というものを見ていたのではないか。
怨霊も人も、魂を持っている。
人が人を恨めば恨むほど、その人自身が鬼に近づいていくのと同様に、
怨霊もまた、人を恨めば恨むほど、救われる機会を失っていくことを、
清明は知っていた。
陰陽師の清明には、怨霊の生まれる原因も、そして鬼が現われる理由も
すべて人にあると分っていたのである。




空っぽの棺の中の温度調整  蟹口和枝




人が人を呪い、死にいたらしめ、人が人を怨んで祟り、
無念のままに死ねば魂がさまよい、怨みを残して死ねば人を祟り、
それらは人にあらざる鬼を呼び、もののけを、この世に生みだす。
実に、怨霊とは権力闘争によって人が生み、人が育てたものなのだ。




頭を激しくゆすって戻ってこんかいと叫ぶ 酒井かがり

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わたくしの鎖骨の下にゴビ砂漠  加藤ゆみ子






                           紫 式 部  (狩野為信 画)





「宮中の女房」
後宮の女性たちの勤務は、原則として宿直勤務である。
下級女官の場合は、勤務交替によって自宅に帰る場合も多いが、女房と呼ばれ
るような立場では、中宮に従ってながながと自宅を離れることが、少なくない。
紫式部も実家に帰って、別の世界に来たような感情を述べているし、
清少納言は、中宮定子が移御される折などに、やっと実家に帰ってくる機会を
見つけている。 しかし、
決まった職務があるわけではないから、気が向かないと出仕しなくてもよい。
が、それが原因で主家からの恩顧を失うこともある。




止まり木の隅に一人の別世界  安井紀代子






     自分は悲しい運命の女である-----紫式部





式部ー与謝野晶子・紫式部の心境 -②




『面白くも何ともない自分の家の庭をつくづくと眺め入つて、自分の心は重い
 圧迫を感じた。
 …中略…
 苦しい死別を経験した後の自分は、花の美しさも鳥の声も目や耳に入らない
 で、唯春秋をそれと見せる空の雲、月、霜、雪などによつて、ああこの時候
 になったかと知るだけであつた。
 どこまで此の心持が続くのであらう、自分の行末はどうなるのであらう、と
 思ふと、遣瀬(やるせ)ない気にもなるのであつた』
     (与謝野晶子訳『紫式部日記』 『鉄幹晶子全集』ゟ)




疲れているようだ梅干しが甘い  岸井ふさゑ




――紫式部は、苦しい死別を経験したと言っていますね。
頭木
「これは夫を亡くしたということです」
――結婚していたんですね。
頭木
「はい。当時の女性は、10代前半に裳着の儀式(成人式)を済ませると、
親の決めた相手と結婚していたそうです。でも紫式部は20代になっても結婚
していませんでした。結婚したのは29歳頃ともいわれています。
当時としては、相当遅かったと思います」




後ろからおしてやりたいカタツムリ  辻部さと子




――お相手はどういう方だったんですか。
頭木
「熱心に言い寄ってくる男性がいたんですね。
かなり年上で、紫式部と同じくらいの年の息子もいたんです。
つまり、親子ほど年が違ったんです。
正妻がいて、側室がいて、その他に愛人もいました。
でも、結婚して娘も生まれたんです。
ところがこの夫が、結婚して2年数か月で亡くなってしまうんです。
残された紫式部は、そんなふうに、思いがけなく変わっていく人生というもの
に無常を感じて、「この先どうなっていくのか」と、心細く思ったわけですね。
その寂しさの中で、物語を読んだり、さらに自分でも書いたりし始めるんです」




シーソーの片方にあるエデン  くんじろう





               中 宮 彰 子 と 紫 式 部




残された紫式部は、そんな風に思いがけなく変わっていく人生に
無常を感じて、この先どうなっていくのかと心細く、思いに耽っている時、
その寂寥感の中で、いままで以上に、読書にふけり、自分でも筆を執ったり
し始めた…。  これが『源氏物語』が生まれていくきっかけになった。
それを友達に読んでもらったり、文学好きに読んでもらったりしている内に、
評判になっていった。
それが藤原道長の目にとまり、スカウトされて中宮彰子に仕えることになる。
彰子は、藤原道長の娘である。




ポケットの中にポケットもうひとつ  津田照子




――紫式部は、そういうすごい人に選ばれて、中宮のそばに仕えるという
名誉なことになって、喜んだことでしょうね。
頭木
「それが、そうではないんですね。
紫式部は宮仕えなんかしたくなかったんです。
内向的で、人づきあいが苦手なわけですから、そんな気を遣うところにひっぱ
り出されたくないですよね。
いくら偉い人だからといったって、仕えてその下で働くわけですから」
時の左大臣に望まれては、なかなか断れるものじゃなく、逆らうこともできない。
こうして紫式部は、女房として宮中に宮仕えすることになる。




棺桶の入り心地を試さねば  新家完司




「しばらくして宮仕えにも慣れて……」
『初めて御奉公に出たのも、この十二月の二十九日と云ふ日であつたと思ひ
 出して、その時分に比べて人間が別なほど宮仕えに馴れたものになつて居る。
 自分は悲しい運命の女である、などとしみじみと思つた』
――慣れたならよかったと思うんですけれども、どうして紫式部は、
自分は悲しい運命の女であるなどと思ったんでしょう
頭木
「好きではない仕事に慣れていくって、悲しくないですか? 
ただ仕事に慣れるだけならいいんですけど、その仕事向きの人間に、自分も
変わっていってしまうわけですよね」




日本には水に流すという文化   大福利彦 




「ぼーっとしたキャラは悔しくも本望である」
『自分は他から見て呆けたやうな人間になつて居るのである。
 それを人が見て、あなたは斯(こ)う云ふ方だとは想像しなかつた、
 艶な美人らしくして居る人で、交際(つきあひ)にくい風な、何時もしんみ
 りとした真実の調子を見せてくれない人で、小説ばかり読んで居て、
 華やか
なことを、人に言ひかけたりすることが好きで、なんぞと云ふと思つ
 たこと
を歌で述べる人で、人を人とも思はず、軽蔑するやうな人であらうと、
 皆が
評判して憎んで居たのです、
 今あなたを見ると、不思議な程、大(おお)やうで、そんな人では無い気が
 すると、自分のことを云ふのを聞くと、自分は恥ずかしくなつて、
 他から与
みし易すい女として、軽蔑されて居るのであると思ふ一面に、また
 さう云わ
れるのが自分の本懐であるとも思ひ、猶さう思われたいと云ふこと
 を望みに
して日を送つて居る』




馬鹿になろ馬鹿になったら楽になる  通利一遍





  親王誕生の五夜ー中宮彰子の部屋の御簾に立つ女房たち




――これは宮仕えをしているときの、他の女房たちのことですね。
頭木
「そうです。中宮彰子のところに出仕したときに、先にたくさん女房たちが、
いたわけですね。前からいる女房たちにしてみたら、『源氏物語』を書いた
女性がスカウトされてやってくるというので、どんな人が来るのか、それは
気になりますよね。ツンとすました、人を見下すような人が来るんじゃない
かと恐れていたわけです」
――「皆が評判して憎んで居た」というんですから、そこにやってきた紫式
部も大変だったでしょうね。
頭木
「そうなんです。紫式部は他の女房たちとうまくいかなくて、初出仕の後、
数日で実家に逃げ帰って、5か月近くも家にひきこもっていたんです。
でも、道長に呼ばれたのに、そのまま引き籠っているわけにはいきませんから、
なんとかまた出仕したみたいですけど、紫式部は、ちょっとボーっとしたキャ
ラを演じるわけです」




額縁のせいで身動きとれません  竹内ゆみこ




――周りから反感を買わないようにしたわけですね。
頭木
「そうですね。私の知り合いで「擬態」と、言っている人がいました。
――擬態。他のものに姿を似せることですから、本当の自分を隠すということ
でしょうか。
頭木
「そうですね。本当の自分のままでは周囲とうまくいかないから、うまくいく
キャラクターを演じるということですよね。だから紫式部も、擬態をして、
ずっと暮らしていたということですよね」





     小宰相、中将と呼ばれる女房たちがはべる貴族の館




――フリをして。苦労しましたね、紫式部さんは。
頭木
「ぼーっとしたキャラを演じることで、見下されているんだろうな、と悔しく
もあり、でも、それこそ望んでいることでもあり、両方の気持ちがあって、
そこは複雑ですよね。だから本当は、人からどう思われても、気にしないのが
一番いいわけですけど、紫式部もこう言っているんです」
『もう自分は人の評判などに構つて居ないことにしよう、
 人がどう云はうとも、斯(こ)う云はうとも、頓着せずに…』




都合よくボケた振りする過去のこと  靏田寿子




頭木
「こういうふうに思うわけですが、やっぱりそうもいかなくて、また人目を気
にしてしまうわけです。人目を気にしないほうがいいからといって、気にしな
いようにできる人なら、そもそも気にしてないですよね。
そうはいかないところが人間の弱さであり、その弱さが、また人間の魅力でも
ありますよね。そういう人の心の機微がわかっていたからこそ、紫式部はいい
小説が書けたんじゃないでしょうか」




ラブソング全身麻酔かけられる  原 洋志




「みこしの担ぎ手、その苦労は自分も同じ」
『着御(ちやくぎよ)遊ばされたのを見ると、駕輿丁(かよちやう)は、下賤ながら
 も階段(きざはし)の上に昇つて居て、そして勿体なささうに、身の置き所
 無いと云つた様子でひれ伏して居た。自分はそれを人事とは思へなかった。
…中略…
 苦労の尽きないことは、自分も同じであると思ふのである』




心にも種を播こうよ風は春  宮原せつ





         天皇の乗り物・鳳輦神輿




――ちょっと言葉が難しいですね。どういう状況でしょう。
頭木
「中宮彰子に男の子が生まれて、一条天皇が、親王との対面のためにお越しに
なったんです。もちろん、ご自身で歩いてはこられませんから、神輿に乗って
こられます。その神輿は、係の人たちが担いでいるわけですね。
その係の人たちが駕輿丁ですけど、担いだまま、階段を上がったわけです。
神輿を担いで階段を上がるって、大変ですよね。
そのまま上がったら、神輿が斜めになって、乗っている一条天皇が転げ落ちて
しまって大変ですから、階段を上がるときも、神輿を水平に保たなければなら
ないわけですね。つまり、前のほうを担いでいる人は、体をかがめなければな
らない。そういう姿勢で、重い神輿を担いで、階段を上がらなければならない
わけです」




バーチャルのアバター空を駆け巡る  山田恭正




「その苦しそうな姿に、紫式部は目がいくわけです。
でも、これ、すごいことだと思うんです。
たぶん、他の人はそこに目が向かないですよ。
だって一条天皇が来られたわけですから、普通、そちらに目を奪われますよね。
天皇の神輿は、鳳輦(ほうれん)と呼ばれる立派なものなんです。
屋根の上に、金色の鳳凰(ほうおう)が飾りつけてあったりして。
しかも、天皇を
迎えるために、船楽(ふながく)といって、すばらしい音楽も演奏
されているんです。

うっとりして、すてきだなぁとなるのが普通ですよね。
そういうときに紫式部は、神輿を担いでいる身分の低い人たちの苦しそうな姿に
目が向くわけです。 これ、すばらしいですよね」




今ここで泣いてわがまま言えたなら  鷹野末次





頭木
よく、ポジティブ・ネガティブの例え話で、同じ窓から外を見ていても、
ポジティブな人は、上の美しい星を見て、ネガティブな人は下の地面を見る、
だからポジティブなほうがいいでしょ、みたいな話をしますが、本当にそう
かなと思うんです。
みんなが美しい星を見ていて、本当にいいのかな、と。
地面を見る人も必要じゃないかなと思うんですよね。
少なくとも私は、天皇の行幸というきらびやかなシーンで、その神輿を担い
でいる身分の低い人たちの、苦しそうな姿のほうに目が向いてしまう、
そういう紫式部が好きです。
しかも、その身分の低い人たちに、かわいそうねと同情するだけでなく、
自分と同じと思っているんですよね。ひと事として同情しているわけじゃなく
て自分と同じだと、一緒に悲しんでいるわけです。
なかなかこういう人はいないですよね」




人生リセット素顔を光らせる  野邉富優葉




「とことんネガティブに」
『立派なこと、面白いことを見聞きしても、忘れ得ない悲哀に引かれる心の方が
 強いために、好いことや面白いことにも、心底から、さうと感じることの出来
 ないのが自分としては苦しいことに思つて居る。
…中略…
” 水鳥を水の上とやよそに見ん われも浮きたる世を過しつつ "
 あの鳥も、あんなに面白さうにして居るとは見えても、彼自身は苦しいのかも
 知れないと、自分に比べて思はれるのであつた』


人の悲しさに目が向けてしまう紫式部だが、人だけじゃなく、池にいる水鳥たち
を見ても、「ああして楽しく遊んでいるように見える…」 けれども
「実は内心は苦しいんじゃないの」と、自分を重ねて歌を詠んだりしてしまう。
何を見ても、悲しいほうに気持ちが向いてしまうので、そういう自分がまた苦しい
とも、嘆く紫式部なのである。
                       (紫式部・絶望名言ゟ)




来世へは猫か小鳥でまいります  高野末次

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星が降っているので浴びに来ませんか  みつ木もも花






     「因幡堂縁起絵巻」 (東京国立博物館蔵)
因幡国守となり、任国へ下向する橘行平の一行を描いたもの。





「越前への旅立ち」
紫式部の父・藤原為時は、
「寒い夜にも耐えて勉学に励んできたものの、人事異動で希望する官職に就く
ことが出来ず、赤い血の涙が袖を濡らすほど絶望しています」……と、自らの
心情を綴った詩を一条天皇に奏上。 苦しい胸の内をつらつら詩に託した。
「苦学の寒夜 紅涙襟をうるおす 除目の後朝 蒼天眼に在り」
苦しい思いが詰まった為時の詩を詠んで、一条天皇は感涙した。
当初、為時の任地は小国の淡路国だったが、適材適所を考えた道長によって、
除目の三日後には、先に越前守に任じられていた源国盛を外し、為時を越前守
に任じ直した。





地方にはないものがある蕗の薹  柴田比呂志




この頃、道長は、唐人来航の騒動に苦慮していた。
一条天皇自身も、道長の進言により、日本海沿岸への人材派遣の重要性には気
が付いていた。ただ問題は、適任者がいないことであった。
そこに奏上されてきたのが、漢詩文に長けたことで知られる為時の一文だった。
「これはまことに渡りに船。実に好都合な人物がいた」と、一条天皇も道長も
為時に飛びついた。
為時なら、漢詩を通じて宋人とコミュニケーションをとることも可能。
その才を交渉に生かしてもらいたいとの思いで、慌ただしく除目の変更となっ
たのである。こうして越前守に任ぜられた父・為時は、国司として娘・まひろ
とともに、越前の国へと旅立つことになる。
ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがへる




一言がこんないい日にしてくれた  佐藤 瞳






        紫式部資料館 (紫式部公園)
京から越前へと向かう紫式部らの行列を越前和紙で再現したもの





式部ー除目




清少納言の枕草子の「除目」前後を描いた文がある。
『雪が降ったり氷が張ったりしているのに、太政官へ提出する申文を、持っ
て歩く四、五位の者の、まだ若々しいのは前途有望で、はなはだ頼もしげで
あるが、年老いて頭も白くなった連中が、その筋の人に何のかのと手づるを
求め、また女房の局に立ち寄って、自分の身のえらいことを自慢して聞かせ
るのを、若い女房たちが馬鹿にして、その口真似をするのだが、ご本人は、
いっこうに御存知ない。
<よろしいように主上に奏上してください>などと女房に頼んでも、任官で
きた者はよいが、できなかった者はたいへん可哀そうである』
除目とは、前任者を「除」き、新任者を「目」録に記す意味で、諸司諸国
の官職を任命する儀式をいう)




あの頃はいっぱいあった笑い声  靏田寿子




「申文」は、思い入れたっぷりの名文調が多いのが特徴であるが、哀願型
高圧型に分れるのには興味を引く。
久しく職を離れて、生活に苦しんでいることを切々と訴えるのが、哀願型。
他人に勝る経歴と実績を誇り、時には、そんな自分を、放置するとは何事で
あるかと迫るのが高圧型である。
実際には、藤原為時の申分は、このどちらにも属さない名文で綴られていた
という。




水仙の強さで寒さ耐えてます  掛川徹明




思召除目の会議では、申文が国毎に束ねられて提出され、逐一審査された。
公正な考課が行われれば問題はないが、実際には、その採否に、時の有力者
との縁故の有無が大きく作用した。
幸いにして任命された受領が、任国に下るや早速「志」を送り届けたり、
任終に土産物を持ち帰ったのも、ゆえなしとしない。
上層貴族への追従は、四年ごとに、再就職を強いられていた受領層の宿命で
あった。




言い訳も嘘も無しでは生きられぬ  菊池政勝






    国司の館 (播磨守有忠の邸内)

有忠は刀の目利き、北の方は寝そべって物書きをしている。
女房らは火鉢を囲み雑談をしている様だ。 何とも気楽な
生活をしていたことがが伺える。





「国務条々事」境に入れば風を問へ
「国務条々事」とは、任命された受領が京都を出立する時から、任国へ下って
国務を執るまでの心掛けである。条々には、
「任国へは、前任者の仕事ぶりを知る上で、参考になる書類を役所へ行って
書き写し、それをもって下向せよ」というのに始まり「出立にはいい日を選べ
道中では旅の平安を祈って道祖神へ手向けせよ。
その日の宿所を選ぶには、従者のうち一両人を先発させて、点定(てんじょう)
することとし、決して民の愁いを招いてはいけない」
といったことなど、実に細かなことまで記されている。
これでみると赴任にあたり、必ずしも十分な官馬官船が提供されたとは思えず、
遠隔地への赴任は、一苦労であったろうと思われる。




枯れたひまわり甘栗の紙袋  藤本鈴菜






藤原為時・紫式部父娘と従僕らの越前への旅途中のレリーフ (紫式部公園)





そしてこの受領が、もっとも緊張する一瞬が、俗にいう「坂迎えの儀」である。
坂迎えとは、本来は「境迎え」、すなわち任国へ入境する際、任国の国庁の役
人たちが国境まで出向いて、新任の長官を歓迎する儀式であり、その際、簡単
な宴席が設けられたのである。条々には、
「吉日時でなければ、(国境の)近くで逗留してその日を待つがよい。
しかし在庁官人たちが、慮外にやってくることがあったら、会ってその国での
やり方を尋ねるがよい。しかし、無益なことをいってはならない。なぜなら、
外国の者は坂越えの日、必ず、長官の賢愚を推量するからである。」
(外国=在地の人間たちの品定めに用心せよ、与し易しとみくびられないために、
無用な言辞はつつしめ」というのである。




ひっそりと地方に眠る石仏  森 廣子




『今昔物語』「寸白(スバコ)、信濃守ニ任ジテトケウセタル語(コト)」
という一話がある。
寸白とは、寄生虫、サナダ虫のことで、胡桃を摺り入れた酒を飲むと、溶けて
しまうとされていたようである。その寸白をもった男が、信濃守となり、はじ
めて任国に下向したところ、坂迎えの饗が設けられ、守やその郎党たちと国の
者どもが多数集まって饗応した。
みれば前の机に胡桃が山と積まれている。
さっそく守は身を絞られるような症状を呈しはじめた。
これをみた介(すけ)在庁官人で物知りの古老が、一計をめぐらし、ことさら
胡桃を濃く摺りいれた旧酒を、いやがる守に無理矢理飲ませる-------と、
こはいかに、守は水になって流れ失せてしまった。人々の騒ぎを尻目に、介は
国人をつれて引きあげ、守の郎党たちも京へ帰っていった、というものである。
(現実にはありえない話だが、これは一種の寓話、すなわち「条々」にいうよ
うに、その賢愚を弁別された。無能受領の受けた手痛い仕打ちの説話である)




樹氷から耳のかたちで落ちてゆく  小池正博






平安時代の庭園や寝殿造の建物を再現した紫式部公園
藤原為時と紫式部が暮らした越前国府をイメージしている。





坂迎えの後、その日の夜に任地に着く。早速饗応を受けたのち、衣装を束帯に
あらためた上、在庁官人に都から持ってきた太政官符を示し、また鍵を受け取
るなど、「条々」にも記す、受領が行うべき最初の手続きをする。
そして国衙(こくが)に付属する「惣社」に赴く。
(国衙=律令制度の下で、国司が地方の政治を行うために国ごとに置いた地方
の役所)
その後、国守の神拝のあといよいよ国政を行う。
そこで「条々」には、さまざまな国務のことが書き上げられているが、それら
を読んで気付くことは「国風」「土風」の語がしきりに出てくることである。





     等身大の紫式部と越前旅のお駕籠





風になる前に一本ハイライト  高野末次




坂越えに先立ち、在庁官人から「国風を問うべし」、坂迎えの儀式は「土風に
随うのみ」新司歓迎の饗宴のことは「例によりこれを行わしむ」高年者に諸事
を聞き、「ひろく故事をたずねるようにすれば、善政の聞こえも生まれよう。
そのために「旧風」を改めてはならない」、など。要するに在地の動向を十分
に認識し、軽々に現状を変えてはいけない。
公損のない限り、在地の要求に従うようにせよというものである。
地方に赴任することは、給料も3倍になり、嬉しいこともあるが、難儀なこと
もいっぱいあった。


気休めのことばは要らぬ寒桜  荒井加寿




「国を去ること三年 孤館の月 帰程の万里 片帆の風」
(国を去って三年、あなたは一人で鴻臚館において、寂しく月を眺めておられる
のですね。帰路は万里の道のりではありますが、片寄せた帆でも、順風が吹けば
帰国することもできましょう)と、
為時が唐人(宋人の羌世昌とも)に送った文面が、それを物語っているかのよう
である。




地方には味わいきれぬ味がある  井本健治

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