川柳的逍遥 人の世の一家言
わたくしの余白貸します月極めで きりのきりこ
「往 来 物」
往来物は主として手習いに使用される。いわば当時の教科書である。
蔦重は往来物の出版を手掛け寛政期前半まで毎年のように新版を刊行し続ける。
往来物は、相対的に価格が一冊4文程度の安く設定されているので、利は薄い
ものの長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品である。
『夏柳夢睦言』 (松浦史料博物館蔵本)
新たな分野へ一歩進むことへ蔦重は、経営を下支えするような株を確保する
ことに意を持ち続けていた。安永7年(1778) に富本の株を取得し、正本・稽古 本の出版を始める。 この段階での版株取得は、まさに時宜を得たものであり「富本正本・稽古本の 出版、往来物」など、地味ではあるが、経営の一角を支えるものとなる。
正本とは、初演時に発行されるもので、共表紙で表紙には、その浄瑠璃による
所作事の場面が描かれる。 北風とみの虫ほどの生きる知恵 大槻和枝
『色時雨紅葉玉籬』 (松浦史料博物館蔵本)
稽古本は薄い藍色である縹色の表紙をつけた。俗に青表紙と呼ばれる。
蔦屋重三郎ー富本・稽古本 富 本 牛 之 助 「富本節」は江戸浄瑠璃豊後節の一つである。
江戸の芸能界を支えた人物の一人として富本牛之助がいる。
牛の助は、父・富本豊前太夫の実子で、その才能を受け継ぎ(1770)には、富本
豊志太夫を襲名。この美声の人気太夫の登場が、富本節に流行に火をつけた。 そして、安永後半期より、狂言作者・桜田治助の詞章による、道行き浄瑠璃の
大当たりが続いて富本節は、全盛期を迎えた。 当時の芸能界で名を馳せた牛の助の特徴は、美しい語り口と独特の節回し、
そして、もう一つ有名なのがそのご面相。
顔が面長だったことから「馬づら豊前」というあだ名で親しまれた。 江戸の庶民たちは、牛の助の浄瑠璃の語りをうっとりと聴きながら、その風貌
にも親しみを感じていたのである。 右肩にいつも乗せてる福の神 宮井元伸
富本節は、繊細で上品な節回し、豪快で力強いとは異なり、静かに語りかける
ような柔らかな旋律で、江戸の町人文化のなかでも、特に粋を重んじる人々の 間で人気を得た。 歌舞伎の伴奏音楽として使われ、特に、江戸の芝居小屋では、舞台の情感を盛
り上げる役割を果たし、顧客を物語の世界へと誘ってくるのである。 芝居小屋だけでなく、座敷での演奏としても、庶民の娯楽にもなった。
浄瑠璃は、単独で楽しむだけでなく、歌舞伎や人形浄瑠璃と深い関わりを持っ
ているほかに、商人や町人たちは、茶屋や宴席で三味線とともに語られる富本 節を楽しみ時には、自ら習うこともあったという。 富本豊志太夫(午之助)(寛一郎)
【べらぼう11話 ちょっとあらすじ】
『青楼美人合姿鏡』が高値で売れず頭を抱える蔦重(横浜流星)は、親父たち
から俄祭りの目玉に、浄瑠璃の人気太夫・富本豊志太夫(午之助)(寛一郎) を招きたいと依頼される。りつ(安達祐実)たちと芝居小屋を訪れ、午之助に
俄祭りの参加を求めるが、過去に吉原への出入り禁止を言い渡された午之助は、 蔦重を門前払いする。 ほおづきが津軽三味線奏でるし 酒井かがり
太夫の「直伝」
-----絵草紙屋に行くと、浄瑠璃の歌詞とメロディーが書かれた「正本」を見せら
れます。正本は浄瑠璃を嗜む人の教本の役割もしています。 その中でも、太夫の許可をとって出版している「直伝」がよく売れるとのこと。
芝居小屋で、馬面太夫こと富本午之助を鑑賞し、声の素晴らしさ、世界観などに
衝撃を受ける蔦重。
さらに出待ちには、ファンが押し寄せ、太夫はスターの輝きを放っていました。
そこに鱗形屋(片岡愛之助)が現れます。
太夫公認の「直伝」が出版されていない富本節。
馬面太夫には「富本豊前太夫」を襲名する話があるとのこと。
その機会に「直伝」を出せれば…と、蔦重は考えます。
宴たけなわこそばゆい程今ピンク 山本昌乃
後日、小田新之助(井之脇海)の屋敷に訪れてみると、屋敷では、平賀源内
(安田顕)が「エレキテル」を修理していました。 蔦重は、馬面太夫との仲介を源内に頼みますが、源内はエレキテルに夢中です。
馬面太夫の吉原嫌いは、売れていない頃に素性を隠して若手役者・二代目市川
門之助と吉原の若木屋で遊ぼうとした際、バレて、二度と来るんじゃねえぞと 追い出されたことが原因だという話です。 役者が吉原で遊ぶのはご法度、ですが、太夫は役者ではありません。
そんな折、他流派の横槍が入り、太夫の襲名の話が流れてしまいました。
ポケットに心機一転メモのまま 市井美春
瀬川(小芝風花)が嫁いだ鳥山検校(市原隼人)が、浄瑠璃の元締めだと聞い
た吉原の主人たちは、頼みに行くことにします。 瀬川は鳥山検校の妻となり「瀬以(せい)」と呼ばれています。
久しぶりに顔合わせた瀬以と蔦重。
その親しげな様子に嫉妬を覚えた鳥山検校は、瀬以にカマをかけてみます。
四つ角を右に曲がったばっかりに 津田照子
門之助(濱尾ノリタカ)
吉原での接待
襲名の件は、やはり他流との手前もあり、簡単ではなさそうです。
蔦重は、太夫と門之助を偽名で座敷に招き、ずらりそろった女郎とともに迎え、
かつての非礼を詫び、宴席を設けました。
外に出られない吉原の女たちは、本物の芝居も見たことがなく、富本節も聞い
たことがありません。 「最後に富本節を聴かせてほしい」という訴えを聞いた太夫は、
自分の歌と門之助の舞に涙する彼女たちの姿を見て、
「こんな涙を見て断る男がどこにいる」と、吉原の祭り「俄」に出演すること
を決意しました
そこへ検校から「襲名を認める」という文が届きます。
蔦重はすかさず「直伝」の出版許可を頼み込みました。
抜け道を探す発狂したふりで 森田律子
恋川春町(岡山天音) 鳥山検校の屋敷では、瀬以が、検校に感謝の言葉をかけています。
芝居小屋の出待ちに、鱗形屋が来ています。
馬面太夫を追いかける鱗形屋は、「富本節の直伝を耕書堂から出すことを考え
直してほしい」と訴えます。 耕書堂は、地本問屋とトラブルを抱えているため、市中で売り広げられなくな
るという鱗形屋の主張に、馬面太夫は「義理が大事」と返します。 鱗型屋が浮かない面持ちで店に戻ると、倉橋格(恋川春町)が鱗形屋の次男・
万次郎に絵を描いてあげていました 小松松平家の武士である倉橋格は、家老がひどいことをしたという理由だけで
謝礼がろくに払えない鱗形屋に『金々先生栄花夢』を書き、次の原稿も持って きていました。 倉橋格(恋川春町)の男気に救われた鱗形屋は、このまま「青本」に力を入れ ていきます。
そして、蔦重は「富本正本」に注力してくのでした。
まだ少しかじかむ指に花菜漬 前中知栄 PR どん底になったら底を掘ってやる 黒田るみ子
式亭三馬・「浮世風呂・浮世床」
滑稽本『浮世風呂』『浮世床』では、庶民の社交場である湯屋と髪結床での
会話を江戸弁で活写した。三馬は、草双子を数冊とじた合巻ものの人気を高
めた端緒を開いたことでも知られる。
「江戸訛りはどうしてうまれた」
死語になってしまった感のある「ダンディ」という言葉を、江戸でさがすと
「粋」だろう。これは男だけでなく女にも使われ「ダンディ」が、死語なのと 違って今も生きている。「あの男(女)粋だねぇ」というのは最上の褒め言葉 であり、そんな相手に憧れて惚れてしまう。 また「粋」につながる言葉に「通」がある。
人情の機微がわかり、粋でさばけた人である。
可能なら男ならだれも粋人・通人になってモテたいと思うが「粋」も「通」も
人柄や財力ほかが備わっていないと身につかない。
「いきな深川、いなせな神田、人の悪いが麹町」といわれる。
「深川」は「日本橋」でもよく粋な旦那衆。「神田」は威勢がよくて勇ましく
格好もいい職人たち。それに対して武士が悪性で無粋だと批評したもの。
それでも男はみな自惚れがあり「オレはけっこうイケてるはずだ」と、
遊郭や岡場所へ繰り出す。
江戸っ子ー② 古本をめくると死語のなつかしさ 通利一遍
江戸っ子-①
江戸で格好いい男というと「粋人」のほかに「いなせ」「伊達」などがあり、 それに「江戸っ子」も挙げておかなければならないだろう。
「江戸っ子」は、江戸中期の田沼時代に生え抜きの先住町人たちの間で芽生え
た自意識である。 深川生まれで、銀座二丁目の町役人も務めていた戯作者の山東京伝は、 いやにこだわって「江戸っ子」の定義を並べたてた。 ① 江戸城徳川家のお膝元に生まれ、
② 宵越しの金を使わない、
③ 乳母日傘で育てられ、洗練された高級町人で、
④ 市川団十郎を贔屓とする「いき」と「はり」とに男を磨く生きのいい人間」
と表現した。このタイプの江戸っ子の最盛期は、天明期(1781-89)であった。
ところが江戸は、農村からの流入者や他国からの出稼ぎ人等の貧民が急増し、
江戸の都市化が進行すると、京伝の思惑をこえて膨張し、鼻っ柱が強くて威勢
のいい江戸根生(ねおい)の下層町人が、彼らとの差別化を図って、やたらと
「江戸っ子」を自称するようになったのである。 骨盤も背骨も日本製である 西澤知子
狂言田舎操芝居舞台正面
蔦屋重三郎ー江戸訛り・蔵訛り 「狂言田舎操」
式亭三馬の狂言「田舎操」は、江戸時代後期の滑稽本作家である式亭三馬が
書いた作品。
「荒っぽい江戸訛り・ワケあり廓訛り」
そんなこんなの風潮の中で使われるようになったのが「江戸言葉」である。
折よく今、大河ドラマのタイトル「べらぼう・べらんめい」と称される表現で
知られるのが「江戸訛り」である。
江戸に生まれたお歴々(旗本や御家人)が使う正真正銘の本江戸言葉に対して、
江戸の下町の町人が使う言葉は、式亭三馬の『狂言田舎操』に述べている。
新開地の江戸には、多くの国々から多数の人々が流入してきて、多様な表現が
なされたと思われるが、やがて江戸根生いの町人たちの間に共通する言語表現
が生み出されていった。
その状況は江戸歌舞伎などでの表現に始まり、宝暦年間 (1751-64) 以降に顕著
となり、洒落本・黄表紙・滑稽本・人情本や川柳などに取り上げられて、完成
されていった。 ともかく、明和から化政文化にかけて、江戸庶民の生活実感を如実に反映して
いる。「江戸訛り」なくしては成り立たなかったといえる。 いさぎよくいらないものはみな捨てる 荒井慶子
「べらぼうの語源」
「べらんめぇ」とは「べらぼうめ」がくずれた言い方で、人を罵るときに使わ
れるが、「べらぼう」は、江戸時代に見世物で人気を博した奇人・「便乱坊」 (可坊)が語源であるといわれる。 また「べらぼう」は、穀物を潰す「へら棒」が語源で「穀潰し」(ごくつぶし)
の意味であるともいう。ついでに引っ張り出せば、
「てやんでいべらぼうめ」は、相手の問いかけや失言に対して、威勢よく言い
返す言葉で、軽い罵倒を含む表現である。 「てやんでい」は、江戸弁で「何を言っていやがるのだえ」の転訛したもの。
「べらぼうめ」は「ばか・阿呆」といった意味で、相手を罵倒する言葉である。
「あたぼうよ」は「あたりまえよ、べらぼうめ」の縮めたもの。
何かと江戸っ子の訛りは荒っぽくきこえるが、根っからは「五月のの吹き流し」
のように、実際のところ「腹には何もない」のが江戸弁なのである。
投げ返す言葉の中にある縮図 近藤真奈
狂言田舎操
(式亭三馬、楽亭馬笑作 国直画) 「江戸訛り分類表」(江戸学辞典ゟ)
① aiの連母音を「エー」という。
迎酒(むけへざけ)大概(てへげへ)うるさい(うるせへ)世帯(しょてへ)
大事(でへじ)ない(ねへ)いい塩梅(いいあんべえ)一盃(いっぺへ)
② 「ヒ」が「シ」になる。
柄杓(ひしゃく→ししゃく)、日が暮れる(ひがくれる→しがくれる)
無筆(むひつ→むしつ)、百(ひゃく→しゃく)、人(ひと→しと)
③ 「ユ」が「イ」になる。
指切(いびきり)、亭主(てへしゅ)、寿命(じみょう)、野宿(のじく)
④ 音節が融合する。
聞けば→ききゃァ、なんぞは→なんざァ、あれは→ありゃァ、せねば→せにゃァ、
⑤ 接頭語を多用する。
始める→おっぱじめる、殴る→ぶん殴る、ど真ん中→まん真ん中
⑦ 長音化・音便化
大根→でーこん、大概にしやがれ→てーげーにしやがれ張り倒す→はったおす、
嫌なことだ→やなこった
⑧ 促音化
事だ→こった、眠くて→ねむくって、今から→今っから、有るだけ→ありったけ
⑨ 發音化
者だぜ→もんだぜ、買い物→けへもん、おまえのところ→おめへ ン とこ
⑩ 音節の脱落
誰が→だが、聞きなさい→ききなさへし、どないしましたか→どないましたェ、
ばからしゅうございます→ばからしゅございます、来ないかしらん→来ないしらん
主語のない会話ばかりで日を暮らす 水野こずみ
式亭三馬 燈籠之図
「廓言葉」
現在では、訛りがあっても、言っていることがまったくわからないという事態は
起きない。しかし、明治半ばころまで、日本は「言語不通」------つまり一歩外に
でると言葉が通じない世界だったともいわれている。
遊女たちは、生まれた土地も親の身分もそれぞれで、遊女同士が互いにコミュニ
ケーションをとるのはもちろん、お客に応対するにあたって、共通の言語が必要と
されたのは当然であった。
通じないとはいかないまでも、遊女の訛りが嫌がられたのは、『満散利久佐』に
言うように「天女のように憧れていた遊女と、ようやく会えたと思ったら、もの
すごく訛っていて、田舎の貧しい出であることが丸わかりだった」----なんてこと
になれば、客の夢を壊しかねません。そうした言葉の問題を解決するために考案
されたのが「廓言葉」である。いつから使われるようになったのかは、定かでは
ないが、そのベースは、京都の島原遊廓で考案されたといわれている。
どこの生まれでも訛りが抜けやすい、勝手の良い言葉だったとか。
取り留めもない言葉が続くがらんどう 北原照子
花魁・松葉屋瀬川 「廓言葉」=江戸時代に遊女が遊郭で使用していた特殊な言葉で「花魁言葉」
「里詞」「ありんす言葉」とも呼ばれた。 上の段でも軽く述べたように、廓ことばを使うようになった理由は=
① 遊女の出身地の訛りを隠すため。
② 平等に客に接するようにとの配慮から生まれたアリンス国の国語になった。
「アリンス」「アリイス」「ゴザンス」「ザンス」「ワチキ」
「ワッチ」「ヌシ」などの言葉が含まれる。
【アリンス国の国語 紹介】
「よんできろ」(呼んでこい) 「はやくうつぱしろ」(急げ)
「いつてこよ」(行つてくる) 「あよびやれ」(ありき)
「ふつこぼす」(こぼす) 「けちなこと」(悪いこと)
「こうしろ」(さうせよ) 「うなさるる」(おそはるる)
「むしがいたい」(腹が痛い) 「よしやれ」(しやんな)
「こそつばい」(こそばゆい) 「おさらばえ」は「さようなら」など。
ドラマ「べらぼう」でも、「むしがいたい」や「けちなこと」「おさらばえ」
「さようなら」などのことばが出てきていました。
他でも
「ござりんせん」→ありません 「いりんせん」→「いりません」
「くんなんし」→ 「ください」 「しておくんなんし」→「してください」
「いたしんす・いたしんしょう」→「そうしましょう」
「どうともしなんし」→「あなたのお好きなように考えて」などがある。
下町で生まれ豊かな人情味 柴辻踈星
瀬川(小芝風花と蔦重(横浜流星)
大河ドラマ9話「玉菊燈籠恋の地獄」(ちょっとリピートして廓言葉実践)
貸本業で松葉屋を訪れていた蔦重に借りていた本の感想をいう瀬川。
「この本…馬鹿らしゅうありんした。
この話の女郎もマブも馬鹿さ。手に手をとって足抜けなんて、うまくいく
はずがない。この筋じゃ…誰も幸せになんかなれない」 「あーあ」と溜息をつき、蔦重は、
「悪かったな。つまんねぇ話すすめちまって」 「何言ってんだい。馬鹿らしくて面白かったって言ってんだよ」
と笑顔で蔦重に伝える瀬川。そして、
「このバカらしい話を重三(じゅうざ)がすすめてくれたこと、きっとわっちは
一生忘れないよ。とびきりの思い出になったさ」 といい、軽く蔦重の手に触れて瀬川は、 「じゃ、返したよ」と、本を手の上に乗せてその場を去っていく。
うなだれる蔦重。
本をめくると、瀬川に足抜けをするべく、黙って本に挟み手渡した通行切手が、 半分に破られて、挟まれているのだった。 現状を維持することの難しさ 吉岡 民江 油揚げこんがり焼いているキツネ 井上恵津子
『金々先生ー夢の始まり』 (恋川春町作画)
「金々先生そゝのかされ、吉原へ行って以来「かけの」といふ女郎に馴染み、 親の意見もなんのその、一寸先は闇の夜も、手代源四郎・万八を連れて、
ひたすら通い詰める。今宵もまた、八丈八端の羽織、縞縮緬の小袖、役者染
の下着、亀屋頭など流行りの出で立ちで吉原へ足をのばす金兵衛。
お気に入りの女郎の気を引こうと金銀を枡に入れてばらまきます。
お付きの連中は「やった」とばかりに必死にお金飛びつくけれど、
女郎は「お金ではなびかないよ」とそっぽを向いている」
そうなのか僕に興味はなかったか 徳山泰子
金々先生 金をばらまくが肝心の遊女はそっぽを向いている場面。
恋川春町は、もともと勝川春章、鳥山石燕門下の浮世絵師である。 でありながら『金々先生栄華夢』という戯作によって、自分でシナリオを作り、
自分で絵を描きながら、新しいジャンル「黄表紙」を確立-----ということを
やってのけた。しかし、この黄表紙の濫觴『金々先生栄華夢』は、蔦屋重三郎
ではなく、鱗形屋孫兵衛が刊行している。この時、蔦屋重三郎は25歳。
駆け出しの、鱗形屋の刊行物の小売業者に過ぎなかったのである。
恋川春町は、その後しばらく、鱗形屋だけで黄表紙を発刊している。
春町の鱗形屋刊作品は12作におよび、しかも他の出版元からは、
一切出していない。 ト書きになかったシナリオの隙間 近藤真奈
『金々先生 夢のお終い』
「金々先生所々にて大きくはめられ、今はすっかり威光も消え失せて、 昨日まで先生先生ともてはやしてくれた供の者も知らんぷりで寄り付かない。 無念至極に思けれども、すべては自業自得なのだ。
猪牙や四つ手に乗っていt身が、今はバッチを尻はしょりに日和下駄とでかけ、
心細くたゞひとり、夜な/\品川へ通う身になっている。
「変われば変わる世の中じやな~。アヽ いまいましい」
そんなところへ通行の男「駕寵の衆。こひ(声)かけて早めましやうぞ」
泣きべその男を包む女偏 東 おさむ
『頼光邪魔入』 (北尾政美画)
黄表紙は草双紙の一種である。もともと幼児向けの絵本であった草双紙を 戯作的な発想をもってパロディ化したもの。 恋川春町作「金々先生栄華夢」を刊行されたところからその歴史が始まる。 蔦屋重三郎ー恋川春町 & 朋誠堂喜三二 廃業前の孫の字が威勢のよい鱗形屋孫兵衛が描かれている。 表の春町と喜三二の二枚看板の字が大きい。 しかし安永9年(1780)、そのような春町の出版のかたちに異変が起こった。 春町が鱗形屋から離れ、この年以来、ほとんど全てが、蔦屋刊になるのである。
実は、この理由は、鱗形屋孫兵衛の、安永9年の出版元廃業にあった。
恋川春町という鱗形屋のスター絵師、スター黄表紙作者を、蔦重はそのまま
その知名度ごと鱗形屋の崩壊とともに、鱗形屋から受け継いだのである。
蔦重が鱗形屋から受け継いだものはそれだけではない。
そもそも蔦屋重三郎という出版業の始まりは、鱗形屋孫兵衛にその根拠がある。
好奇心いっぱい抱いて前を向く 柴辻踈星
蔦屋重三郎は安永2年(1773)に吉原大門口のガイドブック・細見業者として
出発するが、最初は、鱗形屋の発刊した吉原細見の、卸売り業者だった。
早くも次の年から出版業務を開始するが、それでも鱗形屋の小売りは
やめていない。そして周知のように、やがて細見出版元として蔦屋は鱗形屋を
しのぐようになるのである。
鱗形屋が細見の株を売ったからだと言われている。
春町の仕事も、鱗形屋廃業のあと蔦屋に移ってきた。
鱗形屋孫兵衛は蔦屋重三郎の、仕事上の父親に等しかった。
まるで、魚類や昆虫が遺伝子を受け渡したあと、自然と息絶えるように蔦屋の
独立に伴ってその勢力を失い、天明という時代を迎えた途端、
その命を終える。
したたかに計算されていた涙 原 洋志
蔦屋重三郎(左)と朋誠堂喜三二 黄表紙を創造した恋川春町は、安永9年に蔦屋の方に移ったが、
朋誠堂喜三二は、安永6年(1777)の冬から、蔦屋の仕事を始めている。
喜三二もやはり、鱗形屋から出発した黄表紙作家だった。
黄表紙というジャンルは、鱗形屋の多くは恋川春町の絵によって作られている。
喜三二は春町と違って絵師ではなかった。
雨後庵月成という俳人であり、手柄岡持という高名な狂歌師であり、韓長齢と
いう名の狂詩作者であった。であるから、朋誠堂喜三二として黄表紙を作る時 には、必ず相棒の絵師を必要とした。その最初の頃の相棒が恋川春町だった。 ただし、朋誠堂喜三二が蔦屋のために最初にした仕事は、黄表紙ではなく洒落
本だった。これは蔦屋にとって最初の洒落本経験である。
生きるのが趣味で特技は綱渡り 妻木寿美代
『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)
「もし、お頼みもうしやす。いまお誂えのそばが参りやした」と言って、
「かめ屋」の出前がそばを届けるという場面。
『見徳一炊夢』は、金持ちの息子・清太郎が親の金を盗んで「夢」を買い、
栄華の旅に明け暮れるが、70歳になって戻ってみると家は没落していた。
実はそれは、清太郎が出前を頼んで蕎麦が届くまでの「一炊の夢」だった、
というお話。
喜三二はこの時、『道陀楼麻阿』(どうだろうまあ)という洒落本用の名前を
使った。後に天明年間にも喜三二は、蔦屋のために洒落本を書いているが、
この時は「物からの不あんど」というもう一つの、洒落本用名前を使っている。
このように、ジャンルごとに名前を使い分け、それが時代ごとに変わってゆく
のが、このころの文人たちの当たり前の姿である。 名前の違いによって、ジャンルや時代を見分けることができるのだが、後世の
我々にとっては、どの名前とどの名前が同一人物であるか明確にするのが困難 で結局誰のことか分からない名前も多数ある。
逆に、蔦屋の出版物を見ていると、多くの人と仕事をしているように見えるが、
実は、複数の名前が同じ人間を指していて、特定のネットワークの中で仕事を
生みだしている様子が、見えてくるのである。
明るいトイレ埃飛ぶのがよくわかる 仲村陽子
秋田藩御留守居役・平沢常富=朋誠堂喜三二 喜三二は、鱗形屋の作家ではあるが、春町と違い、最初から他の版元とも仕事
をした。とは言っても、初めは鱗形屋に対する遠慮から、別名で洒落本を出す にとどまり、鱗形屋が廃業した安永9年から、やっと喜三二の名で、蔦屋から 黄表紙を出すようになる。 初期の蔦屋を支えた恋川春町も朋誠堂喜三二も、鱗形屋の廃業とともに蔦屋へ
移り、鱗形屋の黄表紙活動をそのまま蔦屋重三郎に伝授していった。
蔦屋に於る朋誠堂喜三二と恋川春町の仕事ぶりは、蔦屋の別の面を見せている。
「ジャンル」や「専門」や「分担」という区分けを無視して仕事が再編集されて
いくことである。
蔦屋が作った「狂歌絵本」も「黄表紙」もそのようなものとして現れた。
区分けの消滅と再編集、それは春町という稀有な、そして新しい時代の象徴の
ような存在によって、世に現れてきたのである。
共倒れにならないように手を離す 大橋啓子
『吾妻狂歌歌文庫』 (都立中央図書館)
宿屋飯盛(石川雅望) 鹿都部真顔(恋川好町)
恋川春町は絵師である。
しかし同時に、駿河小島藩江戸詰用人・倉橋格でもあった。
恋川春町とは、華やかな名前だが、実は小石川春日町に住んでいたから付けた。
というふざけた名前である。このふざけた浮世絵師が身分で言えば武士であり、
藩士であり、しかも狂歌師としては、酒上不埒として知られていた。
天明の代表的狂歌師を絵入りで集めた百人一首パロディ『吾妻狂歌歌文庫』に、
その肖像と狂歌とが載せられている。
絵師としては勝川春章、鳥山石燕の教えを受け、歌麿や北斎の兄弟弟子に当る。
蜀山人=太田南畝とも親しい。
春町は、蔦屋の仕事の要だった。
春町は6歳下の重三郎を、鱗形屋のかわりに保護し育てるような気持ちで仕事 をしたのではないか。 世代から世代へと受け継がれる「連」には、必ずそのような面があった。
アリバイを貸し借りできる友がいる 山田恭正
『鸚鵡返文武二道』 (恋川春町作、北尾政美画)
時の老中・松平定信は文武二道、学問と武芸を奨励し倹約を勧めていた。
作品は、文武どちらにもすぐれないのらくら武士たちが,頼朝の命を受けた
畠山重忠によって箱根に湯治に行かせられ,そこで文武いずれかに入れられ
ようとする話-----寛政の改革に題材をとり,洒落やこじつけで滑稽に描いた。
心の狭い定信は、寛政の改革を茶化ちゃかしていると捉えたのである。
しかし寛政元年(1789)春町は、45歳の若さで死ぬ。
死因不明。『鸚鵡返文武二道』が松平定信によって咎められた。
小島格は幕府の呼び出しに応じなかったという。
平賀源内獄死事件の時も、小田野直武変死事件の時もそうだったが、底抜けに
明るい笑いの向こうに、暗闇の死が潜んでいた。 いつもどこかに、あの道徳家、松平定信の影があった。 真面目な顔をした道徳家には、気を付けなければいけない。
定信は、「笑い」というものを殺したかったのかもしれない。
死だけは免れたものの喜三二も重三郎も、京伝も南畝も変節を、遂げなければ、
生きるすべはなかった。
友が逝き白いカモメが飛んでゆく 吉永団風
「文武二道万石通」(朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画)
定信の文武奨励策を背景に「ぬらくら」武士判別のため箱根七湯めぐり。
「穿ち」ねらいも、穴を詳しく探したけれど、見る者には、「いちいちわかり
かねます」と微妙。
朋誠堂喜三二もまた、秋田藩御留守居役・平沢常富という藩士だった。
釣りが好きなことから「岡持=桶」と名乗ったそうで、のんびりした気分が伝
わってくる。
やはり『吾妻狂歌歌文庫』にカルタ型の肖像を載せる著名な狂歌師だった。
蔦屋に移ってからは、『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)で評判を
とったが、やはり『文武二道万石通』で、定信にやられ、秋田藩より止筆を命
じられて、筆を折った。
削っても結論の出ぬ鉛筆だ 木戸利枝 まっすぐをどこで落として来たのだろう 岩田多佳子
「吉原妓楼の図」 (葛飾北斎画 山口県浦上美術館所蔵)
図は鳥居清長「新吉原江戸町二丁目の図」と共通するものもあり、
吉原の大見世・丁子屋を描いたものともいわれている。 中央の長火鉢の前に忘八と火車が描かれている。
焼き鳥の串に時間が刺してある 桑名知華子
酒上不埒(さけのうえのふらち)こと恋川春町
「安永4年1月の江戸の瓦版(ニュース)より」ー金々先生のこと 駿河国小島藩士であり、勤務のかたわら絵を鳥山石燕に学び、絵師としても
有名だった恋川春町が、初の草双紙本を出し、大きな評判を呼んだ。 その本の標題は『金々先生栄花夢』-----内容は、人生の楽しみを極めようと
田舎から出てきた金村屋金兵衛の、ひと時の夢の物語-------。 夢を抱いて江戸に出てきた金村屋金兵衛は、一休みしようと思って目黒不動尊
の茶屋で粟餅を頼んだ。そして、ついうとうとしていると、いつの間にか、 金兵衛は裕福な町人の婿になっていたから大喜び。「それなら」とばかり吉原、 深川、品川の遊里で豪遊して楽しみを極めたのだが、金を使い過ぎて勘当され、 途方に暮れたところで目が覚め、ハッとしてあたりを見回したのち、 「人間一生の楽しみといっても、わずかに粟餅一臼の内の如し」と無常を悟っ て田舎に引き込む、というストーリー。 内容は、中国の「邯鄲の夢」に似た話で目新しくはないが、恋川春町は、
もとより絵師だっただけに、遊里での遊びの様子や、そこで用いられている粋 な言葉のやりとりなどが、写実的に再現されていたから、大きな評判を呼んだ。 この本の表紙が萌黄色だったことから以後、この種の洒落と風刺を織り込んだ
大人向けの草双紙は、「黄表紙」と呼ばれるようになった。 いい先生だった自転車でかよってた 高野末次
蔦屋重三郎ー吉原の舞台裏 「吉原の伝説の高級遊女ー5人」
「松葉屋内喜瀬川」 (東京国立図書館蔵)
占いに通じた松葉屋の看板高級遊女「花ノ井・喜瀬川」
「松葉屋・瀬川」 原の江戸町にあった松葉屋において、看板名妓とうたわれたのが瀬川である。
この源氏名は代々踏襲され、合計9名の瀬川がいた。
このうち4代目の瀬川は、易道にも詳しく、平沢佐内に弟子入りして、卜占を
学んでおり、部屋に算木と筮竹(ぜいちく)を常備して、毎日占いをしていた と伝えられている。また、後世に伝えられるほどの能書家でもあった。 山東京伝が記した洒落本の一冊には、評判の遊女の名前に加えて、各遊女たち
の得意分野が記されている。 松葉屋の瀬川の項には「書」「茶」「香」「和歌」「琴」とある。 安永4年(1775)には、五代目花ノ井・瀬川が、烏山検校に千四百両で身請けされ、
江戸中の評判となった。田螺金魚により戯作『契情買虎之巻』ができたほどである。 この五代目が大河ドラマ「べらぼう」の瀬川である。
(これから3年後のこと、鳥山検校は、悪徳高利貸し一味の首領であり、幕府から
咎められて全財産を没収されたうえ、江戸から追放されたという、瀬川にとって、 最悪の不幸話がのこる) 取っておきのウフフの座敷息ひそめ 山本美枝
「古今名婦伝・万治高尾」 (東京国立図書館蔵)
「三浦屋高尾」
高尾とは、京町三浦屋に代々踏襲された太夫名であり、あまたいる吉原の高級
遊女の中でも、もっとも伝説的な存在である。 11代続いた中で一番有名なのが、二代目高尾である。 伊達藩の藩主、伊達綱宗に身請けされたことから通称「仙台高尾」と呼ばれる。 身請け後、情人のいることを知った綱宗の怒りを買い斬殺されたと伝えられる。 が、「隠居した綱宗とともに天寿を全うした」「三浦屋主人の別宅で静養して いるうちに病没した」など史料によって相違がある。 万治に死没した「万治高尾」「仙台高尾」以外には徳川譜代の名門「榊原高尾」 産んだ子を伴って花魁道中をした「子持ち高尾」、染物職人の女房になった 「紺屋高尾」なども知られる。 複数の高尾がいるため、この伝説的名妓の墓は、関東に複数存在する。
覗いたことのない刻に出逢えるか 矢吹雅男
「当時全盛美人揃・滝川」 (東京国立博物館)
「扇屋内・滝川」
滝川は、大見世扇屋の花扇と並ぶ双璧である。
江戸町一丁目にある扇屋は、文政年間(1818-30)に廃業するまで、吉原で最高級
の格式を誇る大見世だった。 主は、扇屋宇右衛門。和歌や茶道を国学者の加藤千蔭(奉行所与力)に学んだ 教養人で、墨河の号を持つ俳人であり、棟上高見の名で狂歌師としても活動した。 この扇屋において、扇屋の双璧とうたわれたのが滝川と花扇だ。
宇右衛門は、遊女の教育にも熱心であり、滝川も加藤千蔭門下の教養ある女性だ
った。 山東京伝が記した洒落本では、評判の遊女として名前があり、滝川の得意分野と
して双六、碁、茶、琴、香とある。香とは香道のことで香片を焚いて香りをきき、
銘柄を当てるもの。特に公家が愛好したとされている。
小窓を覗く隣の枇杷は食べ頃に 太田のりこ
「扇屋内花扇」
「扇屋内・花扇」 花扇は扇屋の筆頭高級遊女だった。その名は代々踏襲された。
初代の花扇は、和歌、茶道、香道など幅広い教養を身につけた文化人だった。 能書家としても名高く、「俳風柳多留」には「扇屋の要東江流に書き」との 一句が掲載されている。 句中の東江流とは書の流派で、江戸中期の書道家・儒学者・漢学者、さらに
沢田東江が、自ら提唱した「古法書学」に基づいて起こしたものである。
「これは「明朝風の書から、よろしく魏晋の古風な書に帰すべし」という書の
復古主義である。この主張は、現今の書風に飽き足らない人々の歓迎するとこ
ろとなり、東江流として一世を風靡した。この一句からも、花扇の教養の高さ がうかがいしれる。 (3代目花扇は、大坂の豪商鴻池を振ったことで有名。また4代目は客と駆落
ちしたと伝わる) 物知りの人は活字をよく喰べる 木村良三
「新撰東錦絵・小紫比翼塚之話」
「三浦屋小紫」
小紫は京町一丁目にあった三浦屋の太夫であり、三代にわたって襲名された。
このうち、平井権八との悲哀で知られるのは2代目小紫のこと。
平井権八は元鳥取藩士。武家の嫡男であったが、国元で殺人を犯して出奔し、
江戸で武家に徒歩の士として奉公していた。三浦屋に通ううちに小紫の馴染みに
なるが、金に困って強盗殺人を繰り返した挙句、鈴ヶ森で処刑された。
その後、小紫は御大尽に身請けされるが、身請け当日、二世を誓いあった権八の
墓前で自害したという。
このエピソードは安永8年(1779)に「江戸名所縁曽我」で初めて歌舞伎化されて
以降、浮世絵などの題材で取り上げられるようになった。なお、平井権八は作中
では「白井権八」とぃう名で登場する。
夢の中いつも探しているばかり 上坊幹子
「娼家全図 新版(部分)」 (歌川国直 城西国際大学水田美術館蔵) 二度寝した遊女たちも起きだして本格的に一日がはじまる。 一階畳敷きの広間で食事しているのは新造や禿。 高級遊女は自分の部屋で食事をした。朝食後、朝風呂にでかける。 左下には見世に並ぶ高級遊女の姿が見える。 昼見世が終わって夜見世がはじまるまでは自由時間だった。 知っていても損はないー吉原楼内のミニ蘊蓄
「廓の明け暮・支度と診察」 (名古屋博物館所蔵)
見世の営業が始まる前の廓の様子。
左下の衝立の前には医師の診察を受けている遊女の姿が描かれている。
「医師だけが駕籠を許されていた」
楼内にも医師はいたが、外部から医師を呼ぶこともあった。
その際、医師は駕籠に乗ったまま大門をくぐることを許された。
大門の高札には「医師之外何者によらず、乗物一切無用たるべし」とあり、
大名であっても徒歩が義務づけられた。
オペ以後は月の砂漠に横たわる 井上裕二
忘八 火車 「吉原を支える人々」 吉原は遊女のみで成り立っていた訳ではない。彼女たちと妓楼の運営を支える
裏方たちが数多く働いていました。まず、吉原を支えた縁の下の力持ちたちを
見てみましょう。
忘八
妓楼の経営者。非情な決断を強いられることもあったため、「仁・義・礼・智・
忠・信、孝・悌」の八徳を忘れたという意味で「忘八」と呼ばれた。経営手腕と
管理能力が求められた。
火車
妓楼の女主人を指す隠語。妓楼の主人が不在の際には、陣頭指揮をとって見世の
切り盛りをした。楼主である忘八とは夫婦関係にあって妓楼内に在住していた。
番頭
番頭は妓楼の帳場を預かっており、妓楼内では楼主に次ぐ権限を有していた。
見世の経理や雇人の監督を担当するかたわら、来店客の善し悪しを判別する
役割も果たした。
注射針を捨てるなコール天の熊 酒井かがり
廻し方 やり手
廻し方 客と遊女の仲の取り持ち、客からのクレーム処理、酒宴の座の設定、揚げ代の
請求など、客と店の間を取り持った男性スタッフ。
二階の一切を取り仕切ったので「二階廻し」ともいう。
中郎
妓楼内外の雑用と掃除を担当した。
見世番
見世の入り口で客引きをする男性スタッフ。出入り客を見張っていた。
不寝番
火の用心を促しつつ、火を絶やさないために働いた男性スタッフ。
客と遊女がむつみあっている最中も部屋に入って油を注いだ。夜明けとともに
行灯を掃除してから、眠りの床についた。
遣り手
遊女を管理する老女。遊女上がりの老女が務めた。各妓楼に一人はおり、遊女から
恐れられた。
お針 台廻し 不寝番
お針 裁縫担当の女性スタッフ
台廻し・風呂番
妓楼内の風呂の管理のほか、部屋への料理運びも兼ねた。
飯炊き
原で働く人々や客の簡単な料理をつくる。宴席料理は「台屋」と呼ばれる仕出し
屋に任せた。
レジ袋ほどの男でございます 福光二郎
「その他・ミニ辞典」
廓 芸 者
幕府公認の遊女のいる遊廓において、優れた技芸で遊興の座を盛り上げた。
「吉原を支えた廓芸者」 吉原の主役は遊女であり、芸者の役割はあくまで宴を盛り上げるサポート役に
すぎない。天保2年(1831)刊行、『仮名文章娘節用』には、
「私はまた、座敷ばかりのはかない歌伎の身の上ゆえ、たとえどのような訳が
あっても弾者は抱えの女郎衆には勝たれぬが廓のならわし」
と芸者の嘆き節も聞こえる。
「若い衆」 妓楼の運営に携わる男性スタッフ。 年齢に関係なく「若い衆(者)」と呼ばれた。 妓楼が男性スタッフを雇う際は、浅草馬道の口入屋「大塚屋」を介した。
これは大塚屋の主が岡っ引きであり、雇った者が、悪さをした際に後始末をし
てくれたためである。 無音よりもっと侘しい音がする 高橋はるか
「原に出入りした商売人」
小物問屋
簪や化粧品など細々した商品を遊女相手に売り捌いた。吉原の遊女はブランドに
敏感だったため、商品の仕入れには気をつかった。
易者
通りを流している占い師。易者(うら屋)とのひと時は遊女にとって、こころ
ときめく時間だった。
貸本屋
遊女に教養を求められたこともあり、貸本屋は貸本屋は妓楼内に入ることが許さ
れた。
卵売り
一犯庶民の口にはなかなか入らなかった鶏卵も、吉原では精力剤として重宝され
登楼客が購入した。卵買いの使い走りは禿の仕事。
押し売りは売ってしまえばすぐ帰る 北原おさ虫
「籬(まがき)」 見世のランクは、「籬(格子)」の形で分かるようになっていた。
最高籬の大見世は「総籬」、中見世は「反籬」、小見世は下半分の「総半籬」 となっており、ここに並ぶことができた高級遊女は「格子」と呼ばれた。 因みに、宝暦年間(1751-64)まで、頂点に君臨したのが「太夫」。
元吉原時代この太夫と高級遊女である「格子」のことを「花魁」と呼んだ。
花魁は、新造や禿などの高級遊女付きの女性が、自身の主を「おいらの姉様」
と呼んだのが由来とされている。
窓は四つ折りになってから姦しい 山口ろっぱ
「べらぼう8話はこんな話です」
烏山検校(市原隼人)と瀬川(小芝風花) 蔦重(横浜流星)が手掛けた吉原細見「籬の花」は、瀬川(小芝風花)の名を 載せたことで評判となり、瀬川目当てに客が押し寄せ、吉原が賑わう。 蔦重刊の「吉原細見」は売れに売れた。 瀬川は客を捌ききれず、他の女郎たちが相手をする始末に、蔦重も一喜一憂する。 そんな中、瀬川の新たな客として盲目の大富豪、烏山検校(市原隼人)が現れる。
一方、偽版の罪を償った鱗形屋(片岡愛之助)は、青本の新作「金々先生栄花夢」 で再起をかけ、攻勢に出る。 同じ柄二度とは会えぬ万華鏡 山本智昭 肉球の跡がある六法全書 片岡加代
「永寿堂店先」 (初代歌川豊国 東京国立博物館蔵)
鱗形屋から代替わりで繁盛する版元・西村屋与八の店が「永寿堂」である。
江戸時代には「著作権」の概念がなかった。
あったのは版元の「出版権」である。 著者から原稿を受け取った版元は、彫師に「板木」を作らせて、それを所有す
ることで「出版権」を得た。これを「板株」という。 板株の権利は、とても強く、ある版元が新刊を出版する際には、過去に似たよ
うな内容がないかなどを「仲間」に計り、出版の了承を得る必要があった。 「著作権」はなかったが、「出版権」には、うるさかったのである。
いろいろな規制を加えようとしてくる「お上」に対しては、版元同士結束して、
自分たちの権利を守ろうともした。
さむ空へ陽の射す道を選りながら 細見さちこ
蔦屋重三郎ー江戸の本屋
須原屋通り一丁目店
須原屋は左に看板がみえるように薬屋も商っていた。 江戸の書物問屋の代表格は、須原屋茂兵衛で、万治年間(1658-61)初代茂兵衛は 紀州有田から江戸へ移住したと伝えられる。 その後、分家が多く出たので江戸で、須原屋を名乗る本屋はほぼ分家といって よい。茂兵衛から分家独立して、江戸の文人墨客の書を精力的に刊行した書物 問屋に、須原屋市兵衛がいる宝暦年間(1751-64)に独立した市兵衛は、平賀源内 の浄瑠璃本『神霊矢口渡し』等、太田南畝の『寝惚先生文集』等や森島中良の 『紅毛雑話』等を出して活躍する。 この市兵衛にやや遅れて、市兵衛が先鞭をつけた江戸在住の、武家知識階級の
著作意欲に便乗し、彼らの趣味的余技から始まった「戯作類」を刊行すること によって、急成長を遂げたのが、地本問屋・蔦屋重三郎にほかならない。 神様はきっと見てますその努力 津田照子
鱗 形 屋
店先で粋にかまえているのが鱗形屋孫兵衛 松会三四郎は、「江戸出版文化の代表」ともいうべき、戯作類とは無縁な版元 だったが、仮名草子などの初期教養書や浮世絵・菱川師宣の絵本類を刊行し、 江戸独自の文化の隆盛に貢献した点では、記憶される地方問屋である。 その松会三四郎と雁行して、江戸の出版界をリードしていったのが、須原屋と
同じく万治年間に開業されたとされる鱗形屋で、仮名草子や師宣の絵本はもと より、浄瑠璃本なども手がけていた。 鱗形屋は、八文字屋本の江戸売捌元となって、家業はいよいよ盛んになり、 何より江戸独自の草双紙類、つまり赤本・黒本・青本からやがて黄表紙時代を 告げる恋川春町の『金々先生栄花夢』を出して江戸版元の主導的役割を果した。 しかし番頭が今日でいう著作権問題を起こし、天明年間(1781-89)に家運は衰微、
没落後は、その孫兵衛の次男が同じ江戸の地方問屋・西村屋与八の養子となって 西村屋の隆盛を招くといった皮肉な巡り合わせとなった。
予感的中うれしいようなこわいよな 鮒子田嘉子
蔦屋重三郎の店・蔦屋 その鱗形屋より版権を譲渡され、鱗形屋に取って代わるように、出版界をリー ドしたのが蔦屋重三郎であった。蔦屋もまた、山本九左衛門の最期の当主浮世 絵師・富川吟雪より、店をそっくり譲り受け鶴屋喜右衛門と並んで、江戸戯作 の出版界におけるバックボーン的役割を果たした。 一方、鶴屋喜右衛門は、はじめ京都鶴屋の江戸出店だったようだが、独立した
初代喜衛門時代に逸早く草双紙出版に手を染めて成功し、書物問屋兼地本問屋 として中心的な活躍をする。初代没後も二代目の才覚によって家運上昇は続き、 老舗として蔦屋と並立する版元として確たる地位を固め、五代目まで出版書肆 としての活動は続いた。 紆余曲折をただ真っ直ぐに突き進む 蟹口和枝
鶴 屋 喜 衛 門 の 店
これ等地本問屋に続く新興地本問屋は、蔦屋と西村屋に代表されるが、その他 に、浄瑠璃本の版元から草双紙まで広く手がけた西宮新六、寛政半ば頃に没落 するものの草双紙界では、多色刷りの絵題箋を工夫するなど独自の活躍をした 伊勢屋治助、そしてこれも浄瑠璃本から草双紙まで幅広い版行で幕末まで家業 を続けた伊賀屋勘右衛門等がいる。 こうした新興地本問屋のほとんどは、浮世絵の版行により財政的基盤を築いた ともいえる。 魂をざぶざぶ洗う本の中 竹岡訓恵
江戸川柳が詠む本屋
「須原屋」 本家は日本橋通り一丁目西側にあった江戸屈指の出版商である。
この店の特徴は、武士階級の職員録とでもいうべき『武鑑』の刊行で、柳多留
には次のような句がたくさん詠まれている。 「武蔵野と須原に諸侯名を列らね」 「武鑑」という書は、諸家大風のあらましを、市井にて記したる者ゆえに、
誤りも漏れもあるはずなり。後略」編集にはどんな人が当たったのだろうか。 同店の売薬順気散も有名である。また柳多留にも人気があった。
「吉原は重三 茂兵衛は丸の内」
「須原屋は袖へ纏を十本入れ」
「桜木へ武士を須原屋彫て売り」
「御役がへ茂兵衛ちくいちかしこまり」 など。
惚けにに効く薬本屋で買ってくる 岩本浅男
「蔦屋・耕書堂」
今や、蔦屋重三郎は、大河ドラマでも主役になって話題を集める。
安永の初め吉原50軒町に開店、吉原細見の株を買い刊行、天明3年に通油町
に移転。蔦唐丸で狂歌の作があるが、狂歌絵本、洒落本、黄表紙、錦絵の刊行 書が多く江戸地本屋の第一人者。柳多留に次のような句がある。 「蔦重は五葉の松を細く見せ」
「原の百姓蔦屋重三郎」
生真面目な干し大根の顔になる 田村ひろ子
鱗形屋発刊 吉原細見 (国立国会図書館蔵) 「鱗形屋」
鱗形屋は、大伝馬町にあった出版商で、川柳時代よりも古く、菱川師宣などの
絵本類の版元として知られる。元日の夜、枕の下に敷いて寝て、初春の吉夢を 祈った宝船を何枚と言わずに、欲深く、船を数える艘でいった 「数万艘鱗形屋は暮れに摺り」という柳多留がある。また、
「竜宮武鑑版元は鱗形」では…
魚族の王城である竜宮城で、武鑑のようなものを編集したら、鱗形屋が版元に なるだろう川柳子はみている。金儲けには、執念をみせた人だったようですな。 「かわらけへとなりの書物きざみこみ」
一言の重さ軽さを問うている 笠嶋恵美子
「鶴屋」「鶴喜」
鶴屋喜右衛門は日本橋通油町で<鶴屋><鶴喜>として商う。
柳亭種彦の「偽紫田舎源氏」の版元として著名。
元禄年代は、浄瑠璃本の版元としても名高く、明治維新後も、本石町3丁目で、
学術書・中学師範学校図書を販売、江戸の店は京都から移転したものという。
「廻り合ふ春を鶴屋は蔵で待ち」
「子を思ふ夜るの鶴やへ草さうし」 の柳多留がある。
お越しやす立ち読みできる本屋です 田中おさむ
地 本 問 屋 (十返舎一九作画)
「永寿堂」は、馬喰町2丁目南角に店「永寿堂西村屋」をかまえ、安永6年~ 天明2年(1777-1782年)にかけて活動した。 当初は、磯田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』を蔦重と合梓により版行したが、
まもなく袂を分かち西村屋は、鳥居清長の作品を中心に出版。 寛政には入ると、西村屋与八は美人画を、対して蔦重は歌麿や写楽を推して
対抗した。 二人は、西村屋の二代目も含めて、蔦重のライバルとして江戸の出版界を牽引し ていく。
「柳樽池の汀でひらくなり」
書店に並ぶ本の動きで知る世相 窪田善秋
「西宮新六」
本材木町一丁目に店をかまえ、俗に合巻物の権興といわれる『雷太郎極悪物語』
の版元であり、式亭三馬と関係の深い店で次の柳樽の句も、三馬の恵比寿講の 上客は西宮新六であろうと、兵庫県西ノ宮のエビス様を祭ってある広田神社を 頭においての作である。 「三馬が恵比寿講上客は西ノ宮」
幸運は多分歩いて来るんやね 肥田正法
「星運堂・花屋久次郎」
星運堂・花屋久次郎は下谷五条天神裏に店舗があったので、菅理という俳名で
川柳の作句もあり『柳樽』その他の俳書の版元でもあり、二代目雷成舎として 『ケイ』の編集にも当る。 「僕不思議花屋で本を売りますか」
「花屋の店に生茂る柳樽」
書店に並ぶ本の動きで知る世相 窪田善秋
蔦屋重三郎 須原屋市兵衛 西村屋与八
横浜流星 里見浩太朗 西村まさ彦 鱗形屋孫兵衛 鶴屋喜衛門 駿河屋市衛門 片岡愛之助 風間俊介 高橋克実 「べらぼうー第7話はこんな話」 片岡愛之助が演ずる地本問屋・鱗形屋の主人である孫兵衛が、字引『節用集』の
「偽板の罪」で捕まった第6話につづく------。
この機を逃すまいと動く蔦重(横浜流星)は、皆が「倍売れる」と思えるような 『吉原細見』(吉原のガイド本)を作ることを条件に、地本問屋の仲間に加えて もらえるよう約束を取り付ける。 しかし、老舗地本問屋は、それを快く思わず、西村屋の主人・与八(西村まさ彦) は、浅草の板元である小泉忠五郎(芹澤興人)と新しく『吉原細見』を別に作る ことで、蔦重の参入を阻もうとする…。 今でしょと明日は今日より若くない 靏田寿子 |
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