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川柳的逍遥 人の世の一家言
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のりたまを振りかけ過去は閉じておく  山本昌乃






           「亀山人家妖」(朋誠堂喜三二作北尾重政画?)(国立国会図書館)



「古事記」
「源氏物語」の文学作品に対して、戯れに書いた作品ということ
で、江戸後期文芸を「戯作」という。その中で、絵と文が一体となった漫画の
ようなものを,「黄表紙」といった。
自分自身をタイトルとした黄表紙「亀山人家妖」(いえのばけもの)は、朋誠
堂喜三二作、北尾重政画、天明7年 (1787) 蔦重刊。五十三歳の頃の自身を作
品に登場させている。
辛夷散る膝のボルトをゆるめつつ  八上桐子
「本の変遷」
北尾重政に結びつけられる黄表紙。朋誠堂喜三二北尾重政、蔦重の板元
から刊行された初期黄表紙作品を支えた人物である。
子供向けの絵入り本であった「草双紙」は、次第に恋愛や遊郭、滑稽などを
主体とした大人向けへと変わっていき、表紙の色から「赤本」「青本」、
「黒本」と呼ばれるようになった。恋川春町が、鱗形屋から刊行した『金々
先生栄花夢』を皮切りに、表紙の色から『黄表紙』と呼ばれる草双紙が人気
を博した。
黄表紙は毎年、新春に新版を刊行する慣わしとなっており、新年の縁起物と
いう意味あいも強かった。安永末から天明4年前後にかけて、黄表紙の刊行
点数は爆発的に増えていく。ここでも鱗形屋の衰退により、取って代わって
黄表紙の市場に参入したのが蔦重であった。
鱗形屋で活躍していた朋誠堂喜三二恋川春町らを起用し、多くの作品を世
に送り出した。
「寛政の改革」のもとでは、山東京伝を頼み、粘り強く、黄表紙を刊行した。



急ぐ人僕のうしろに立たないで  雨森茂樹



蔦屋重三郎ー山東京伝の奇天烈な黄表紙の世界




       まじめなる口上


「まじめなる口上」と題された序文では、狂歌名「蔦唐丸」こと、版元の蔦屋
重三郎が口上を述べていいる。
寛政元 (1789) 年、山東京伝北尾政演として挿絵を担当した『黒白水鏡』が、
発禁処分となり、京伝も過料処分(罰金刑)を受けていた。
勢いを増してくる「出版統制」に京伝も、分筆生活から遠ざかろう考えていた
ようだ。「そこをなんとか無理して書いてくれ」と頼みこんだのが蔦重であっ
たことがこの口上でほのめかされている。



グレーゾーンで帳尻を合わせます  和田洋子



         箱入娘面屋人魚 (山東京伝作・歌川豊国画)(国立国会図書館蔵)
竜宮の中州で茶屋女をしている鯉の「お鯉の」に恋する浦島太郎。
鯉のほうもまんざらではない。


 




漁師平次の舟に飛び込んできた浦島太郎と鯉の娘・人魚
山東京伝が蔦重のもとで寛政3 (1791) 年に刊行した黄表紙『箱入娘面屋人魚』
(歌川豊国画)は、童話で有名な浦島太郎を題材に、より大人向けに描いた荒
唐無稽な物語である。
舞台は、隅田川と箱崎川との分流地点を埋め立てて造られた町家富永町、いわ
ゆる中州新地に見立てた竜宮の繁華街。
私娼が横行する岡場所で、そこの利根川茶屋の茶屋女、鯉の「お鯉」に浦島太
郎は惚れてしまう。利根川茶屋の「お鯉の」とは、利根川の鯉が名物であった
ことに由来する。乙姫に隠れ逢引きする2人は、深い仲となり、やがて子供が
生まれた。人と鯉の間の子であるから、当然、人魚である。
浦島太郎は、わが子が見世物小屋に売られないよう、心配しつつも、品川沖で
捨ててしまう。



偶然ですかあなたはいつも濡れて来る  米山明日歌









浄瑠璃「ひらがな繁盛記」になぞらえて、300両のお金を工面するべく手水鉢
の代りにメダカ鉢を叩こうとする人魚。うしろで黒衣となって、小判を巻いて
いるのは女郎屋の主人・伝三
ある日、神田の八丁堀付近に住む漁師・平次が、品川沖で漁ををしていると、
釣舟に女の化け物が飛び込んできた。首から下が鯉で、顔は17,8歳のくら
いの美女である。浦島太郎と鯉との間に生まれた人魚の成長した姿であった。
平次が人魚を連れて帰ると、たちまち噂広がった。
噂に尾鰭もついて「釣舟平次宿」と書いた札が、疫病神払い効果があると人々
が殺到するようになり、平次も閉口してしまう。



口笛で浦島太郎オペラ版  森 茂俊








平次の留守中に女郎屋に身を売ることを決めた人魚は、口に筆を咥えて、
平次への書き置きを残そうとする。
平次は家賃の支払いも滞るほどの貧乏で、家財道具は、枕屏風と火鉢鉄瓶だけ
しかない。不憫に思った人魚は、浄瑠璃「ひらがな繁盛記」で登場人物の梅が
枝が手水鉢を打つと、300両の金が落ちてくる演出になぞらえて、メダカ鉢を
叩こうとする。黒衣となって、人魚のうしろで小判をばら撒く人があった。
女郎屋の主人・伝三である。物珍しさから人魚を女郎にしようと考えたのだ。
こうしてせめてもの恩返しと思い、平次の留守中に人魚は、身を売ることにな
ったのである。



鮮魚店に人魚の入荷聞いてみる  吉川幸子



人魚だとばれてはいけないと、人目を避けるように突き出しの花魁道中をする
人魚一行。女郎屋の男性使用人である「若い者」は、本来なら箱提灯で道中を
明るく照らすが、わざと暗くするために手には何も持っていない。
こうして舞鶴屋の「突き出し」の花魁になることとなった人魚は、「人魚」
逆さにして「魚人」という源氏名を得た。突き出しとは、見習い期間をおかず
に女郎として披露することを意味する。
原では、松葉屋の松人、扇屋の花人といった人気の遊女がおり、魚人という
名はそれにあやかったものであった。遊女になるには、足がなくてはならない
と、義足付きの股引を穿かせようと伝三は考える。



どうしても水に浮く大人の童話  山口ろっぱ












夕暮れ時になると、人目を避けるように、人魚は突き出しの花魁道中を行う。
「禿」や化粧を世話する若い女郎である「新造」使用人の「若い者」に加えて、
黒衣が人魚を支え、鱗が見えないように着物の乱れを直している。
やがて初めて客をとり、床入りとなったが、人魚の生臭さだけは隠せない。
閉口して逃げ出す客を、黒衣が手を出して引き止めるも、こんなに花魁の手は
長かったかと、余計に驚かせる始末。
「舞鶴屋には化け物が出る」という噂が流れ、人魚は、平次のもとに帰される
こととなった。



因縁の鱗が浮いている風呂場  平井美智子








平次を呼び出し、人魚を引き渡す伝三
突き出しにいかに費用がかかったかを、外郎売りのごとく伝三がまくしたてる。
長生きした思いにかられ、人々が平次宅に殺到する。
なめられる恥ずかしさから、人魚は頭巾をかぶっている。
平次の元へと戻って、再び女房となった人魚が、「ある博学者が、人魚の身体
をなめると寿命が延びる」という言い伝えを教え、これで商売をしたらどうか
と勧めてきた。そこで平次が「寿命薬 人魚おなめ所」という看板を門口に出
したところ、老若男女身分の違いも関係なく、長寿を願う人々が列を作る始末。
なかには、もっと下の方をなめたいと情事をほのめかす者もいる。



本当を知っているのは私だけ  津田照子










時分をものにしようとやってきた若者をはねつける人魚。
人魚なめすぎた平は子供となり、乳を飲みたいと言う始末。
平次の留守中には、美貌の人魚をものにしようと若者がやってきたりもするが、
貞魚の人魚はこれに応じない。
こうして平次夫婦は大金持ちとなったが、平次は自分も若返りたいと、昼夜問
わず、暇があれば女房の人魚を舐め続けた。
度が過ぎた結果、平次は子供になってしまう。
そんな夫婦のもとに、浦島太郎と鯉がやってきて玉手箱を与えた。
これを開けると、平次はたちまち色男となり、人魚は人間へと姿を変えたので
あった。
玉手箱の効用で、色男に変った平治。人魚も一皮むけて人間となった。
本書の結末に、この物語は7千9百年前のことで、不老不死の夫婦は今、
作者の山東京伝の隣家で、元気に暮らしているという落ちがつく。



森を出て森に還ってゆく人魚  井上恵津子












「べらぼう38話 ちょいかみ」



蔦重(横浜流星)は、歌麿(染谷将太)のもとを訪ねます。
そこで目にしたのは、体調を崩して、寝込むきよ(藤間爽子)の姿でした…。
いつも明るく支えてくれていたきよの弱った様子に、歌麿も表情を曇らせます。
そんな中、蔦重は鶴屋(風間俊介)のはからいで、口論の末、けんか別れした
政演(山東京伝)(古川雄大)と再会します。
互いに言葉は少なく、ぎこちない空気が流れますが、江戸の出版界を者同志の
誇りや信念がそこにはありました。ふたたび交わった視線の中に小さな和解の
兆しが見えはじめます。



くたくたになるまで愚痴を聞いてやる  清水すみれ








一方、定信(井上祐貴)長谷川平蔵(中村隼人)を呼び、昇進をちらつかせ、
人足寄場を作るよう命じます。無宿人を収容し労働に従事させる仕組みは、
江戸の治安維持を目的とした大胆な策でした。
さらに定信の改革は、学問や思想にまで及びます。
ついには出版統制令を発令させ、庶民の楽しみであった黄表紙や洒落本までも
厳しく規制の対象とします。文化の苦しさを増すなか、蔦重歌麿、京伝たち
は時代の荒波に翻弄されながらも、それぞれの道を模索するのでした。



でたらめが大きな顔でタクト振る  井本健治

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捨てられた男の会の幹事長  井上一筒






                              山 東 京 伝 の た ば こ 店

店の右奥で煙管を吹いている京伝は、吉原の名高い遊女花扇と話している。
左側には当代の人気役者、三代目・瀬川菊之丞、三代目・沢村宗十郎、三代目
市川八百蔵が客として訪れてている。



「生まれは深川 妻は吉原遊女」
山東京伝の生まれは深川木場である。現在の江東区の木場には面影は何ひとつ
ないが、当時はその名の通り木材置き場であった。ここで働く川並鳶は、水難
事故で命を落しても身元がわかるようにと、背中に「深川彫り」を入れていた。
神田の火消しに、川並の鳶。粋で鯔背な職人の代表だ。
周辺には、材木問屋が軒を並べ、豪商達は深川の料亭や花街で金に糸目をつけ
ずに派手に遊び倒す。そこにいるのは深川の芸者通称辰巳芸者だ。
男物の羽織で源氏名も男の名を使う。そして何より気風がいい。
粋で鯔背な深川の職人たちと、豪商たちの通名遊びを見て育っている京伝は、
息を吐くように「粋」を戯作に書き連ねた。




優しさが売り物になる男たち  菱木誠




「定信の統制時代の京伝」
京伝はいくつかの教養的な黄表紙を既に手がけていた。
しかし、洒落と穿ちが売りの黄表紙に、倫理的道徳を説く物語りを書くなどと
いう野暮は、江戸っ子の京伝にとって屈辱であった。
ならば、戯作以外で粋を追求しようと開店したのが「たばこ店」だ。
江戸の一等地である京橋は、現在の銀座一丁目、父親に店を任せつつ作家活動
を続けた。京伝は、「自分は店を持っていて、稿料のほかに収入があるので、
版元からの依頼を断ることができる」と述べている。
野暮な本を書くくらいなら、自分が監修デザインの喫煙道具店をやっているほ
うが良い、京伝なりの、統制に迎合しようとするメディアへの張りであった。



男ってしょせんメッキとかぐや姫  北出北朗



蔦屋重三郎ー山東京伝のドライ





                                         『心 学 早 染 草』  (山東京伝作)(東京都立図書館)


板元たちが「もう書かない」という京伝に、無理に執筆を依頼しているのは、
作家不足のほかにも理由があった。京伝が書いた『心学早染草』の存在だ。
寛政2 (1790) 年に、大和田安兵衛を版元として出版された『心学早染草』は、
心学講釈の流行に当て込んだ教訓色の強い黄表紙である。
人間の心にある苦い心と悪い心を、善玉悪玉というキャラクターで表現した。



鉛筆が走るひらめき追いかけて  荻野浩子




松平定信の文武奨励は、実のところ庶民たちにも影響を与えていた。
教育が大衆にも開かれたことで、大人向けの学門所ができ、中でも、京都の
田梅岩が唱えた実践道徳の心学がなぜか流行り始めたのだ。
江戸の人々はメディアが統制されていく中、押し付けられた政策でさえもエン
タメに変えていたのだ。
(善玉悪玉は評判を呼んだ。本は飛ぶように売れ、同じ「心学もの」
の本があちこちで書かれた。が、当時の日本には著作権はない)



正論を叫ぶ鉛筆振り立てて  宮井元伸






                                       「堪 忍 袋 緒 〆 善 玉」 (東京都立中央図書館蔵)

寛政5年刊。冒頭に蔦重の訪問を受けた京伝宅の様子を描く。蔦重にお茶を
出しているのは、吉原扇屋の遊女だった菊園で、身請けされて今では京伝の
新妻お菊である。大好評の悪玉・善玉ものとはいえ、3作目で気乗りしない
作者に対して、蔦重は「いま一番先生のお株の悪玉の願わねばならぬ」と
引き下がりそうもない。




当然、蔦重もこの流行を逃すはずがなく、市場通笑に進学を題材とした『即席
耳学問』
の版木を買い取った。
蔦重京伝『心学早染草』の続編『人間一生胸算用』を書かせ、これが好評
につき『堪忍袋緒〆の善玉』も依頼した。
「先の二冊はえらい評判。この調子で三段目行きましょう」
「いやもう、二番煎じならぬ三番煎じじゃ世間も飽きたからもう書け
ない」
「そんなこと言って先生、世間の評判がまだ高いのを知らないんですかぃ。
大丈夫、まだまだいける、先生ならいける」
といったようなやり取りがあったらしく『堪忍袋緒〆善玉』の冒頭で京伝が
ぼやいている。



月の裏くらいは描ける3H  くんじろう



京伝がぼやくのも当然で、これまで廓を舞台にした男女のあれこれを洒落本に
書いておいて「廓遊びなどしてはなりません」と、どの口が言うのか、という
思いが、京伝にもあっただろう。 市場通笑は、
『即席耳学問』の序文で「礼の教訓異見のうっとうしいも随分承知之助と版元
のほうからしゃれかけるを、どっこいそこを、虎の皮千里を走る大ぼやむきの
趣向」と述べている。
蔦重は、心学黄表紙を「うっとうしい」、つまり野暮を承知の上で出した。
吉原出自の耕書堂が心学を説くこと自体が、洒落だというのだ。




ペンケースの中でワタシを取り戻す  山本早苗






                    「 娼妓絹篩」(しょうぎきぬぶるい) (作画山東京伝)

洒落本「将棋定石の書『将棋絹籭』を捩り吉原を将棋の局面となぞらえている。



京伝はその洒落に乗り切れず、野暮になりきることも出来ずに「教訓黄表紙」
の執筆を続けるも、独自の穿ちは、ついぞ見ることはなかった。
(京伝美学の戯作への投影は、寛政11 (1790) 年の読本『忠臣水滸伝』まで
待たねばならない。蔦屋版心学シリーズの4作目『四遍摺心学草子』馬琴
書いた。馬琴にとって教訓本は何の苦もなかったようで、
後に「この頃耕書堂の主人、余にその四遍を求む」と誇らしげに記している)




「べらぼう37話 あらすじちょいかみ」









幕府の改革は着々と進行しています。
定信は、倹約の徹底を大奥にまで及ぼし、さらに債務を帳消しにする棄捐令
を強行。そして、中洲の遊郭取り壊しにも着手し、江戸の華やぎを揺るがし
ていきます。贅沢を許さない冷徹な方針は、町人の暮らしにも及び、吉原は
存亡の危機に追い込まれていきました。
吉原のため、そして、文化の火を絶やさぬため、蔦重はふたたび立ちあがり
ます。政演、歌麿に新しい企画を依頼し、江戸の町を明るくする一冊を世に
出そうと決意するのです。
(しかしその場にいたていが、女性の視点から反論をぶつけます)



華やかな花弁の奥は地獄かも  島田酪舟









一方、松平定信は大奥にも倹約すべしとの方向性を示します。
定信は、経費を三分の一に減らすことを決行します。
この頃大奥の経費は、幕府の蓄財の4分の1から5分の1である年間20万両。
将軍家斉の乳母・大崎、家斉の側室お万の叔母・高橋を含む大臈御年寄8人中
5人を解任しました。
また、借金を抱える旗本や御家人を救済するため、札差しに、債務放棄などを
させる棄損令を発動し、中洲の取り壊しを実行します。




つまんで引っ張って引っ張ってつまむ  雨森茂喜






      「日 本 橋 中 洲」


「日本橋中洲」
葦の繁る中洲は明和8年(1771) 8月、大伝馬町名主の馬込勘解由により、
伝馬助成地として浜町と地続きに9千坪が埋め立てられた。
地固めをするために認可した水茶屋から発展して、湯屋3軒、茶屋93軒、
料理屋などが建ち並び一大歓楽街となり賑わっていた。
しかし、質素倹約を唱える松平定信の寛政の改革で、取り壊され元の葦原の
浅瀬に戻された。掘り返した土砂は墨田川土手堤の盛土に利用した。








江戸三俣付近に二十年弱存在していたウォーターフロントの歓楽街。
東京都中央区・日本橋地域の南東に位置し、清洲橋の西詰めに当たります。
埋め立てによってできた人工の島でしたが、寛政元 (1789 ) 年に、取り壊
されました。「月見の名所」として有名で、舟遊びなどで賑わいます。
万治2 (1695) 年、吉原の遊女・高尾太夫が、中洲近くの船上で吊り斬りに
され、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話が残って
います。



過去なんて問わぬ土竜の一頻り  岸井ふさゑ

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絶滅危惧種ペンだこと座りだこ  小川はつこ






                            当 時 三 美  人





江戸のニュース 
浮世絵絵師の喜多川歌麿が「当時三美人」を発表
この当時の三美人は、「浅草随身門脇の水茶屋難波屋の娘おきた」、
江戸両国薬研堀米沢町二丁目の煎餅屋の娘・高島おひさ、富本節名取の豊雛
とされた。遊女ではなく町娘だったことが評判の理由だった。
この評判の町娘を、独特の大首絵で描いた喜多川歌麿『当時三美人』をこの
年、耕書堂が売り出して人気を博した。おひさは、右向きで団扇を顎の下に
持ち、理知的な顔つきをして大人びた雰囲気を漂わせ。
左向きで茶を運ぶ、おきたから感じられるのはどこかあどけない雰囲気です。
おきたやおひさは、大首絵のみならず、全身像や様々なポーズの作品として
描かれました。





太陽になってください僕だけの  笠嶋恵美子





おきたをモデルにした物では、浅草寺と枕引きをする様子を描いた
「仁王とおきたの枕引き」などのユニークな作品も残されています。
喜多川歌麿の浮世絵をきっかけに、江戸は明和の頃のように再び町娘ブームに
沸くことになります
喜多川歌麿の美人大首絵が、好評を博したと言うことは、そのモデルとなった
女性たちが広く認知されたことを意味していました。
モデルは吉原の花魁に限らず、下級の遊女屋芸者など、吉原や他の場所で働く
様々な女性達。なかには、実在する女性を名前入りで描いたものもあり、遊女
ではありませんが、吉原玉村屋抱えの芸者・富本豊雛も名前入りで描かれてい
ます。



一会の花 女はおんなへと変わる  黒田るみ子





                              松 平 定 信   心 の 草 紙




蔦屋重三郎ー松平定信時代ー筆禍




「世相」
田沼意次の重商主義政策は、自由な商売が許され、町人たちの発言が強くなり、
庶民でも何者かになれる世となった。大衆文化は発展し、庶民たちにもエンタ
メを楽しむ余裕が出来、江戸の町は、いよいよ、日本の首都として大きくなっ
ていく。
しかし、光があたれば影ができるもので、貧富の差が広がり、賄賂がはびこる。
大通人たちの豪遊は、影によってできた恩恵だ。
大衆はこれをよくわかっていたのだろう、彼らの金ではなくその男気や豪快さ
を賛美した。





虹は今無限の色を見せて夏  吉村久仁雄





ところが松平定信「こんな自堕落なことではいかん、世の中のトップに立つ
のは武士であり、米は何よりも尊いし、金を稼ぐ行為は、汚い」としたことで、
世の中がひっくり返った。
もちろん、下級武士や庶民にも、等しく学ぶチャンスを与え、能力のある人材
は登用するというキャリヤアップの制度の導入は、粋なはからいである。
だからといって、武士の借金を帳消しにして、札差や商人たちを困窮に陥れる
というのは、いけない。





誰かきて残り時間をカットする  大嶋都嗣子







                                            松平定信ー出版統制ー③ 武鑑



ただ松平定信は黙って改革を推し進めていけばよかった。
農政や福祉に重点を置いた政策は、実にすばらしい。
しかし、大衆文化にまで口を出したあたりから、様子がおかしくなってくる。
「世の中を惑わす」ものとして色里指南の洒落本や、ナンセンスで風刺的な
黄表紙が統制の対象となった。
なぜそこまで定信は「世の中のためにならない」メディアの統制にこだわっ
たのか。そこには定信の誇りがあった。






         寛政の改革と出版統制-④ 世相



美しい抜け殻という褒め言葉  大沼和子




定信は自伝を書いている。その名も『修行録』
この中で定信は、それとなく想いあっていたがプラトニックな腰元と
別れる晩、一緒の布団に寝たけれども情欲は起こらなかった。何もし
ないで「夜を明かした」と誇らしげに書いている。
つまり、定信にとって、禁欲こそ美しく、黄表紙や洒落本の笑いなど
は、自堕落の極みで、儒教の教えに則り生きる崇高な幕府を風刺する
ことなど、断じてあってはならなかったのだろう。




女の中で行方不明の句読点  近藤真奈






            狂 歌 百 人 一 首   (狂歌隆盛の頃)



「狂歌の衰退」
元号が天明から寛政へと変わると、「奢侈」に対する幕府の規制が強くなる。
「寛政の改革」である。天明7 (1787) 年、老中職についたのは、八代将軍吉
宗の孫として生まれた弱冠30歳の松平定信
若き老中は、飢饉の混乱を収め、幕藩体制の立て直しや、規律の粛正を狙った
改革を開始した。監視の目は出版界にも向けられ、狂歌サロンのメンバーの中
にも、処罰を受ける者が現れた。





頂上に立てば鋏が置いてある  桑名千華子







       太 田 南 畝





武士の土山孝之は、遊女を妾としたことや、前職在任中に買い米の公金を横領
したなどの理由で、死罪に処され、大田南畝も、定信の文武奨励を揶揄した狂
歌が役人のしるところとなり、呼び出されて尋問を受けた。
処罰までにはならなかったものの、友人である土山孝之の重い処分にショック
を受けていたことも重なり、狂歌サロンへの出入りを控えた。
朋誠堂喜三二も、狂歌サロンや戯作界から身を引き、浮世絵師であり戯作者・
恋川春町も取り調べを受けたあとに不審死を遂げた。
狂歌サロンからメンバーが、次々と姿を消し、狂歌ブームは終焉を迎えた。




吾亦紅しずかにゆれて追想の  片野智恵子





幕府の厳しい禁欲体制により狂歌絵本での活動ができない中、歌麿蔦重
世に送り出したのは、「歌まくら」と言う「春画」だった。春画は性風俗を
描くことから、表立って書店に並ぶ物ではなく、幕府に発覚すれば、当然処
分の対象になるもの。
歌麿と蔦重の決断は、持って生まれた反骨からか、驚くべき行動である。




予約しておこうピンクの霊柩車  真島久美子






           寛政の改革と出版統制ー⑤
寛政3年の3冊の発禁処分は、山東京伝の「筆禍事件」として歴史に刻まれている。
京伝は手鎖50日の刑(鉄製の手錠をかけて自宅謹慎)、蔦重は身上半減に処された。




しかし寛政時代が寛政に改元されると、幕府は、新たな出版統制令を発布、
検閲を通った物のみ出版を許可するとし、同時代の事件を浮世絵で扱うこと
や、高価な本を作ることなどが禁止した。
寛政3年には、蔦重が刊行した山東京伝の洒落本が、検閲に引っかかり絶版
を命じられた。
処分はこれにとどまらず、蔦重は財産の半分を没収される「身上半減刑」
処される。蔦重の処罰を目の当たりにし、歌麿も、新しい作品を描くことを
自粛した。(だが筆を折ったわけではない。約1年の空白をおいて「女達磨
図」など、複数の作品が発見されている)




忘却に抗う牛乳瓶の底  酒井かがり





「べらぼう36話あらすじ ちょいかみ」 





 





蔦屋の新作『鸚鵡返文武二道』『天下一面鏡梅鉢』が飛ぶように売れ
まくっている…が。老中・松平定信(井上祐貴)は、重三郎(横浜流星)
の本に激怒し、絶版を部下に命じます。
そして、日本橋通油町の蔦重の店に奉行所の一行が現われます
「『鸚鵡返文武二道』『天下一面鏡梅鉢』『文武二道万石通』の三作すべて
を絶版とする」と告げたのです。
人気作を一斉に失った蔦屋は、その日休業。暗い店内で皆が肩を落とします。
てい(橋本愛)が「もしかして、黄表紙好きという話は誤解だったのでは…」
と不安をこぼし、つよ(高岡早紀)も青ざめます。




チャタレーの発禁本を読む十九  野村賢悟





さらに怒りが収まらない定信は、「恋川春町=倉橋格」(岡山天音)
名指しを命じ、その報せが届きました。
蔦重「死んだことにして逃げ延びる」という案を提案。
最初は戸惑う春町でしたが、「戯作者として生きたい」という願いから、
名を捨て別人として生きる覚悟を固めます」
その決意の裏で、吉原では、筆を折る決断をしていた朋誠堂喜三二(尾
美としのり)の送別会が催されます。
かつての仲間や女郎たちが集い、別れを惜しみます。
皆が「次も書いて欲しい」と願いを託すなか、喜三二は、一度は断筆を
宣言するものの、仲間に背中を押され「やっぱり書く」と宣言。
会場は歓喜に湧くのでした。





一色の紫陽花として枯れてゆく  高橋レニ





 





ところが翌日、春町が腹を切ったという知らせが届きます。
白装束の遺体を前に蔦重は、髷に付着した柔らかいものに気づきました。
それは豆腐。つまり春町は、「豆腐に頭をぶつけて自ら命を断った」
後日松平信義(林家正蔵)が定信のもとを訪れ、春町の死を伝えました。
「戯ければ腹を切られる世とは 誰のための世か」
と、蔦重の言葉も添えて。





前屈のたびに零れ出る悲しみ  清水すみれ

拍手[4回]

ふるさとは牛の涎と炭俵  井上恵津子






         「鸚鵡返文武二道」 (東京都立図書館蔵本)
松平定信の治世下の倹約ブーム、文武ブームを茶化す。この黄表紙は大いに
評判を呼び正月刊行から3月頃まで出回った。作者春町はこの「鸚鵡返し~」
によって幕府への出頭を命ぜられた。画は北尾政美。



江戸のニュース 
七月二十三日  松平定信が依願退職
老中の松平定信が寛政の改革に失敗、この日、病気を理由に老中補佐役を依願
退職した。この件については様々な推測がばされているが、幕閣の権力闘争に
敗れて罷免されたとの説もある。この見方に関連して、この退職には、大奥も
一役買ったというのである。
贅沢を禁じた定信は、大奥にとって、もともと煙たい存在だった。
定信が相模・伊豆沿岸の巡視中に、大奥が中心となって策略されたことなどが
挙げられている。
定信の自伝『宇下人言』には、退職については触れてはいない。
いずれにしても事実上の首である。
定信への期待が大きかったこともあり、細かすぎる定信に対する庶民の不平不
満は政権発足当時からあった。
それを代表するのが、次の狂歌である。
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶいふて夜も寝られず




大根の尻尾に意見されている  笠嶋恵美子






「文武二道万石通」 (東洋文庫蔵)
寛政の改革下の混乱と田沼一派の失脚劇に取材した黄表紙である。
喜三二は、佐竹藩の思惑もあってか、以後黄表紙に筆を執らなくなる。




「寛政の改革の失敗」
松平定信の寛政の改革は、時代の歯車を大きく元に戻す結果となった.
流通経済が発展し、庶民の生活も幾分かは余裕が出てきて、ささやかな娯楽を
楽しむこともできるようになった時代に、「貴穀賤金」(金よりも米穀を重ん
じるという思想)のもとで、商業活動を抑制して、米中心の社会に戻ることは、
経済活動を沈滞化させ、景気悪化へと導くこととなった。
さらに「祖法」を守るという名目で、鎖国政策を強化し蝦夷地開発も中断。
ついには、異学の禁によって、朱子学以外の学派を抑圧するという政策により、
田沼時代に芽生えた、自由で進歩的な学術・文化活動が、大きく後退すること
にもなった。
将軍の孫として、生まれた時から「お殿様」として育てられ、徳川幕府の正学
である朱子学を徹底的に叩き込まれた定信だからこそ、「祖法」の呪縛から逃
れられず、新しい発想に至ることができなかったのだろう。





帽子から飛び出す鳩も私も  いつ木もも花






   様々な書物を前に内容を吟味する、梅の小紋柄は松平定信




蔦屋重三郎ー定信の政治




田沼意次の失脚後、政権の座に就いた老中・松平定信は、それまで経済を
促進した田沼政権とは一転して、質素倹約を是とした。
武士には学門と武芸を促し、社会の風紀の引き締めを図る。
いわゆる「寛政の改革」である。庶民たちは、まだ経済的に活気のあった田沼
時代を偲び、寛政の改革下の息苦しさに喘いだ。
そんな社会の空気を感じ取った蔦重は、当時の倹約ブームや文武奨励ブームを
茶化して風刺する。





笑わせるギャグタイミングの間を計る  小林妻子






     蔦屋重三郎ー朋誠堂喜三二






時の将軍家斉と老中・松平定信を茶化した朋誠堂喜三二『文武二道万石通』
や寛政の改革を風刺し、恋川春町が文章、北尾政美が挿絵を描いた『鸚鵡返文
武二道』を相次いで出版し、いずれもベストセラーとなった。
その後、唐来参和『天下一面鏡梅鉢』もまた儒教思想を尊重する当時の改革
の風潮をパロディ化したものであったが、これが絶版処分となってしまう。
また、黄表紙の作者は主に武士たちであったが、圧力がかかり、喜三二は絶筆
を余儀なくされた。春町も、幕府の呼び出しを受けるが、病気を理由に応じず、
その後、病死する。





情に脆い芋であっさり煮崩れる  阪部文子





集古十種


              古 宝 物

       相 模 国 鎌 倉 鶴 岡 八 幡 宮 蔵 杏 葉 太 刀

             版 木




綱紀粛正・質素倹約、すなわち出版・風俗・奢侈の厳しい統制によって、江戸
市中は、火の消えたような状況となり、寛政の改革による歪が起っ
ていた。ついには在職六年目で定信は退場する。
退職後の定信は、陸奥白河藩主として藩政にあたり、こののち、中央政界には
復帰しなっかった。
定信は、政治家であると同時に文化人でもあったので『宇下人言』『国本論』
などを著し、古い書画や器物を模写した 『集古十種』も編集している。
定信は文政12 (1829) に没した。享年七十二。
以降、寛政の改革を推進していた松平信明が老中首座となり、将軍家斉の乱脈
政治のもと、世情は華美に流れていくことになる。





パンツを脱いでサルに戻ろう  岡田幸子




       『鸚鵡返文武二道』  (恋川春町著作)
『鸚鵡返〜』自体が「鸚鵡言」のパロディで、文武奨励・質素倹約などと声高
に叫んでも、人々は定信の言ったことをオウムのように真似ているだけ、と、
嘲笑する意図を込めている。 (画は頼朝と重忠)





恋川春町著作の絶版・『鸚鵡返文武二道』あらすじ
醍醐天皇を補佐する菅秀才(かんしゅうさい)は、武士が武芸を疎かにしてい
るため、源義経らを指南役に起用する。醍醐天皇と義経では、生きた時代が異
なり、そうした荒唐無稽の設定が、大衆には面白く受けた。
ところが武士たちは、牛若丸の千人斬りを模倣して、往来の人々に斬りかかっ
たり、乗馬の訓練と称して、遊女や男娼に馬乗りになったりと、悪逆・放蕩の
限りを尽くします。
見かねた秀才は、自著『九官鳥のことば』を教科書にして道徳を学ばせようと
するも、その中にある「天下国家を治めるは凧を上げるようなもの」という記
述を武士たちが勘違いし、正月でもないのに「凧あげ」に精を出す有様—。
(ここでも秀才が、梅鉢紋の装束を身にまとっている。極めつけは
『九官鳥のことば』これは定信選・著の『鸚鵡言』を茶化した題名なのだ)





びしょ濡れになっても別の靴がある  新家完司




重忠が武士を集めて文・武に分けている場面。上座に頼朝、
中央の梅鉢紋の装束が重忠で、定信に見立てている。




『文武二道万石通』あらすじ
時は鎌倉時代初期。世の中が平和になり、武士が戦への備えをおろそかにする
ことを憂慮した源頼朝は、御家人の畠山重忠に武士を「文」「武」に振り分け、
各々精進させよと命じます。
そこで重忠は「文」が得意な者「武」に長けた者に分けようとしました。
ところが、どちらも不得手な「ぬらくら者」が最も多いと判明。
重忠は、再教育を試みますが、ぬらくらは、文を茶道・蹴鞠・俳句、武を将棋・
囲碁・釣りなどの遊びにこじつけ、一向に上達しないというもの。





たこはくらげくらげはたこにあこがれる  藤本秋声





自分が揶揄されているとも知らず、黄表紙「文武二道万石通」
を嬉しそうに読んでいる定信




「べらぼう35話 あらすじちょいかみ」





年が明け、朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通』を読む松平定信
鎌倉時代、源頼朝に請われ、忠臣・畠山重忠が鎌倉武士を、「文に長けた者」、
「武に長けた者」、どちらでもない「ぬらくら」に選り分けるという内容です。
忠臣・重忠の絵には、松平家の家紋(梅鉢)が入り「ぬらくら」は、土山宗次
ら田沼派をモデルにしているようで、定信は感激します。





マイウェイ昭和の靴を履いたまま  津田照子





蔦重大明神がそれがしを励ましてくれているということ!
大明神は、私がぬらくら武士どもを鍛え直し、田沼病に冒された世を見事立て
直すことをお望みだ!はりきる定信は、朱子学者・柴野栗山をブレーンに加え、
徳川家斉に紹介します。
栗山は、家斉の隣りにいる一橋治済から、邪悪な気を感じていました。
 外れた思惑……
『文武二道万石通』は大ヒット。
ただし、思惑は外れます。
皮肉が伝わらず「田沼派=ぬらくら」と捉えられてしまい、歌麿『画本虫撰』
にいたっては、良品にしては安く作られ、金持ち達が定信に感謝する始末。
定信は、将軍が成人するまで代わりに政を行う「将軍補佐」となり、ますます
ヒーロー扱いされていきます。





悪筆も様になってる哲学者  橋倉久美子





      蔦重は作戦会議を開いています。


 伝わらない真意…
蔦重は作戦会議を開いています。
恋川春町は、12月に出した黄表紙のうち、自分の本が一番売れていないといじけ
ています。春町の主君は、定信の改革について
「志は立派だが、はたしてしかと伝わるものなのか、とは思うかのう」
と危ぶんでいます。
主君の読み通り、耕書堂の黄表紙同様に定信の真意は、伝わっていませんでした。
文武に励む侍も飽きてしまい、威張り散らしたり、知ったかぶりをしたり…。





にほんばしからにっぽんばしにお引越し  くんじろう

拍手[3回]

説教を暗記するほど聞かされる   菊地政勝





       狂歌五十人一首 (画図北尾政演・剞判関治右衛門刀・刊元蔦屋重三郎)
唐衣橘洲は狂歌の会を立ち上げた人である。



明和の年間、内山賀邸門下の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)や太田南畝
(四方赤良)などを中心として「狂歌の会」が生まれる。
狂歌とは、簡単に言えば「和歌のパロディ」である。
「雅文化」の極みである和歌の形式・手法をなぞりつつ、そこに卑俗な要素を
盛り込むことによって生ずる落差に興ずる戯れである。
この同好の士たちの集まりは、徐々に輪を広げていった。
四方赤良(よものあから)こと太田南畝は社交の巧さ、人心を惹きつける力と
明るい詠みぶりとで、狂歌の中心的存在となる。
南畝は、狂詩や洒落本においても注目を浴びている人間であり、また「会」
いう通人の集いには世間の関心も厚く、この狂歌の会が脚光を浴びて江戸市中
に狂歌人気が沸き起るのにさしたる時間は要しない。
極論すれば、この文芸活動は「会」すなわち、狂歌を出しにして、楽しく集う
ことに本質があった。詠まれた狂歌そのものには第二義的な意義しかない。
極めて自由な発想で、様々な分野の才人が、この世界に取り込まれていくこと
になる。



しゃがれた声で鳴く江戸前の猫  酒井かがり




蔦屋重三郎ー吾妻曲狂歌文庫






  盃の うかむ趣向にまかせたる 狂歌は何の曲水もなし 土山宗次郎

太田南畝のような貧乏御家人が狂歌会を開いたり、吉原で宴会したりできた
のは、旗本の土山宗次郎が、パトロンだったからである。土山は田沼意次
側近として、勘定組頭に抜擢され金回りが良く、その派手な暮らしぶりは、
評判の人だった。



狂歌ブームとともに、それまでのその場限りで詠まれる狂歌を収録した狂歌集
・狂歌本を各版元が出版するようになった。
狂歌集の出版には、やや遅れて参入した蔦重は、自ら「蔦唐丸」という狂名で
狂歌師として「連」に出入りしながら、狂歌集・狂歌本の制作をはじめた。
では、狂歌サロンの面々の狂歌を鑑賞してみましょう。




好奇心まだまだあって途中下車  荒井眞理子





 四方赤良(太田南畝)
 あなうなぎいつくの山のいもとせを  さかれて後のちに身をこかすとは
〔ああ、つらいことだな、鰻は。以前は、どこかの山の芋だったのに、今は
背を裂かれ、そして焼かれて、身を焦がすことになってしまったことよ〕
 (山のいもとせ=以前は妹背と呼び合い、愛し合う仲だったのに)





 朱楽菅江   
紅葉々ハ千しほ百しほしほしみて  からにしきとや人のみるらん
〔=紅葉の葉は(遊女は客を沢山取り)何度も何度も染め釜を潜らせるうちに、
華やかな色になり、世間の人はそれを見て「唐錦」みたいと賞賛している〕





宿屋飯盛 (やどやのめしもり)
 などてかくわかれの足のおもたきや 首ハ自由にふりかへれども
〔後朝(きぬぎぬ)の別れの時の足は、どうしてこのように重たいのだろうか。
首は自由に振り返れるのに〕





馬場金埒(ばばきんらち)
 我心あけてミせたき折々ハ 腹に穴ある島もなつかし
〔疑われて、我が心を開けて見せたい折々は、腹に穴が明いている人間が住む
という島も懐かしい=腹に穴はないので、我が心を見せることはむずかしい〕



物欲は無限長生きしなければ  川端六点




唐衣橘洲(からごろもきつしう)
 世にたつはくるしかりけり腰屏風まがり なりにハ折かゞめども
(=腰は曲がりなりにも、腰屏風のように折り屈めるけれども、年を取った
ことだなあ。夜に立つのが難しくなったことよ





手柄岡持 (てがらのおかもち) (朋誠堂喜三二)
 とし波のよするひたひのしハみより くるゝハいたくをしまれにけり
〔=年を重ねて額の皺が増えるのと、年の暮れるのは惜しまれるが、御歳暮
にものを呉れるのはいたく捨てがたい〕





酒上不埒(さけうえのふらち) (恋川春町)
 もろともにふりぬるものは書出しと くれ行としと我身なりけり
〔=そろって疎ましく嫌いになるものは、請求書の束と迫ってくる年の暮れ
と、また一つ歳をとる我が身〕





尻焼猿人 (しりやけのさるんど)
 御簾ほどになかば霞のかゝる時 さくらや花の王と見ゆらん  
(御簾を通して眺めるように、うっすらと霞〔霞と酒をあたためる湯気)がか
かるとき、桜はまことに美しく、花の王と見えるだろう〕



酒という字が夕暮れにポッと点く  新家完司





鹿都部真顔(しかつべのまがお)
 思ひきや十ふの菅ごも七ふぐり 女にまけてひとりねんとは
〔思っただろうか。あの十符の菅薦(とふのすがこも)の歌を。愛しいお前を
七符に寝かせ、自分は三符に寝ようと思っていたのに、だらしなくも、女との
喧嘩に負けて七ふぐり、まさかひとりで寝ることになろうとは〕





万象亭(まんぞうてい)
 千金の花のうハはとミゆるかな 小粒となりてふれる春雨
〔一分金は千両に比べたらはした金と見えるだろうな〕
 (昔は千両の花代を払えたのが、今は端金しか持ち合わせがなくなり、一分金
「小粒」で買える遊女しか買えなくなった)





山手白人(やまてのしろひと)
 中々になきたまならばとばかりに かけはたらるゝ盆のくりこと
〔いっそのこと、亡霊か精霊になったら、どんなに楽だろうと思う。溜まった
掛金を厳しく取立てられる盆の繰り言〕





平秩東作(へづつとうさく)
 辻番ハ下座のかた手のつくり松 日に十かへりもはひつはハせつ
(辻番は暇な仕事だなあ。せいぜい殿様の登下城の時くらいしか平伏しない
じゃないか。その平伏と平伏の合間には盆栽いじりしかしていない)
(=松は千年に十返り〔千年に十回花が咲く〕と、いわれるが、辻番は日に
十回も平伏することはなく、平伏の仕事の片手間に十返り、松を作っている)




ひだり手は水栽培で育てます  徳長 怜






糟句齋(かすくさいよたん坊)
 うき涙ふるき屏風の蝶つがひ はなればなれになるぞかなしき
〔=憂き涙。二人の仲があたかも岸を離れて漂う泡沫のように、また古屏風
の蝶番が壊れてばらになるように、そんな風に離れ離れになることは悲しい
ことだ〕






玉子香久女(たまごのかくぢよ)
 染るやらちるやら木々ハらちもない いかに葉守の神無月とて
〔染めるやら散るやら木々=思い悩むやら別れるやら女の気心は順序はない。
いかに葉守の神が不在の神無月だからとて。なんとも滅茶苦茶だ〕





算木有政(さんぎありまさ)
 やうやうとたづねあふても後家鞘の ながしミじかしあはぬこい口
〔やっと訪ねあてても、後家鞘の様に長し短しだし、鯉口も合わない〕





腹唐秋人(はらからのあきんど)
 春きてハ野も青土佐のはつかすみ ひとはけひくや山のこし張
〔春が来て野も青々と、青土佐の一刷毛を引いたように美しく色づく。
初霞が山の麓にかゝって、まるで腰ばりのようにみえる〕





浜辺黒人(はまべのくろひと)
 くひたらぬうハさもきかずから(唐)大和 たつたひとつのもちの月影
〔不満足と云う噂は唐大和でも聞いたことがない。すべての人がたったひ
とつの望月の月影を堪能している〕



天国は此処かもしれぬ花の下  柳岡睦子






花道つらね (五代目市川団十郎。号白猿、俳名三升)
たのしみハ春の桜に秋の月 夫婦仲よく三度くふめし
〔=そのまま楽しみは春の桜に秋の月。夫婦仲良く三度食う飯〕





加陪仲塗(かべのなかぬり)
 秋の野になく小男(さを)鹿の角なれば さいになりてもめや恋ぬらん
〔秋の野に分け入り、雌鹿を恋いて鳴くさ牡鹿であるので、その角でつくる賽
(サイコロは、博打打から目を乞われるように、雌鹿を恋い慕うことだろう。





油杜氏祢り方(あぶらのとうじねりかた)
 また若き身をやつしろの紙子には うつて付たる世をしのぶ摺
〔まだ若いから、身をやつし、世を忍ぶには紙子がうってつけだ。
白い紙子には信夫摺りがよくつくから)






門限面倒(もんげんめんどう)
 色香にはあらはれねともなま鯛の ちとござつたとみゆる目のうち
〔=生鯛は時間が経っても皮や色に変化がないものの、腐ったかどうかは目を
見リゃ分る。それと同じで、恋心は外には現れないが、目を見れば分る。
ふたごころがあるようだな〕



限りある命へやりたいこと無限  鈴木いさお





唐来参和(たうらいさんな)
 ない袖のふられぬ身にハゆるせかし 七夕づめの物きぼしでも
〔=ない袖は振れぬ身の私だから許してくれ。お前だけでなく、たとえば
七夕姫が「爪に物きぼしができた」と言ってきても、私にはどうもしてあげ
られないのだ〕





子子孫彦(このこのまごひこ)
 月雪のミたてもあまりしらじらし しらけていはゞこれは卯花
〔=月と雪に見立てるとはあまりに白々しい。白けてこれは卯の花かえ。
卯の花とは憂の花〕




山道高彦(やまみちのたかひこ)
 橋の名の柳がもとにつくだ船 かけて四ツ手をあげ汐の魚
〔=柳橋に着く佃島通いの船に乗り。四ッ手網のように大きく網をはっている
と沢山の男がかかった。芸者が多く住む柳橋である〕






今田部屋住(いまだへやずみ)
 春になりてのこりすくなの塩鮭を 去年のかたみと思ひぬるかな
〔=正月になって残り少なくなった塩鮭の片身を これは去年の形見と思った
ことだなあ)




おもしろい遊びを今日もしませんか   前中知栄
 




飛塵馬蹄(とぶちりのばてい)
 をしなべてやまやまそむる紅葉々の 朱にまじハれば赤松もあり
〔吉原の女すべてが紅葉色の装いだ。紅葉の秋だが、朱に交わったので赤く
なったようだ。その中に私を待っている遊女・赤松もいる〕





頭(つふり)光
 母の乳父のすねこそ恋しけれ  ひとりでくらふ事のならねば
〔=たらちねの母、脛を齧った父が恋しい。親元を離れたら暮らし向きが
容易ではない〕





邊越方人(へこしのかたうど)
 棹姫のお入とミえてむらさきの 霞の幕をはるの山々
〔春の女神とも称される佐保姫が、この奈良の都に入って来られた様子。
薄紫の霞が広がり、山々を包んでいるようだ〕
 


薄氷張ったバケツと泣いていた  山本美枝






紀定丸(きのさだまる) (大田南畝の甥)
 大井川の水よりまさる大晦日 丸はたかでもさすかこされす
〔大晦日に押し掛けてくる掛取りの圧力は、押し寄せてくる大井川の水の勢い
よりも凄まじい。丸裸・文なしになっても、その勢いは止められない。





土師掻安(はじのかきやす)
 時鳥ほとゝぎす一声ないてくれ六ツの かねからかぞへあかすみじか夜
〔=ほととぎす一声鳴いておくれ。暮れ六つの鐘から数えて明け六つまでの
短い一夜の間に〕





倉部行澄(くらべのゆきすみ)
 月日をもふるひつくほど恋しくて とかくはの根のあハぬ身ぞうき
〔=震えつくほどに恋して過ごした頃もあったのに、月日も経てみればとか
く歯の根が合わない身こそ、憂きものだ〕





古瀬勝雄(ふるせのかつを)
 船出せしうれし涙の水まして 明日はねかわん天のかわどめ
〔=船出させ恋人に逢えた。嬉し涙が洪水のように溢れ、明日は川留めになっ
てくれたらいいのに。




ぼうふらが浮いてきたから別れよう  井上恵津子





遊女歌姫(ゆうぢようたひめ)
 ふるかゞみ施主にはつかじかくばかり わかれにつらき鐘としりせば
〔=自分の魂が宿っている古鏡。大切な鏡を手放すことがこんなにつらいと知
っていたなら、私は鏡を寄進しなかったのに。新しい鐘はつらくて撞くこと
も出来ない〕





高利刈主(こうりのかりぬし)
 のぼるまでこぞの空なる鐘つきの 今年へおりる明六つの春
〔日が昇るまでは去年だったが、明六つの鐘が鳴って、新しい年の春になった〕





一富士二鷹(いちふじにたか)
 世のうさをのがれていらん観音の 山のおくなるよし原の里
〔世の憂さや世のしがらみから逃れて人は入るのだろう。浅草観音の山の
奥にある吉原の郭の里へ〕




世もすがらメガネが顔をかけている  通利一遍






銀杏満門(いちようのみつかど)
 よばずともかきねをこして這出る となりや竹の子ぼんなうなる
〔=隣の家から招かれたのではないが、竹の子は、隣を慕って垣根を越して
這い出る。隣は子煩悩なる人だから。





勘定疎人(かんぢやううとんど)
 よしあしの日はともかくもあふ夜半を 六十刻にさだめ置たき
〔=善いも悪いも、ともかく恋人に逢ふ夜は、時間を六刻を倍の六十刻に定め
て置きたいものよ〕
 




多田人成(ただひとなり)
 いひよればひんとはねたるかけ茶碗 つぎめのあわぬ身こそつらけれ
〔=口説いてみれば肘鉄喰らったが、女は茶碗でキズモノ。相手に合わせられ
ない自分がつらい〕





榎雨露住(えのきのうろずみ)
 我恋はお留場にすむ鴨なれや 目に見たばかり指もさゝれず
〔=我が恋は、禁猟区の鴨を相手にしてるようだ。ただ眺めるだけで指も触れ
られない〕




一日の愚痴は三つと決めている  清水すみれ







谷水音(たにのみづおと)
 行としのうしろみするもことハりや この光陰の矢つぎばやには
〔=自分の過ぎ去った歳月をふり返ると、この光陰の矢継早さに、おどろく
ばかり〕





遊女はた巻
 天の戸もしばしなあけそきぬぎぬの このあかつきをとこやみにして
〔=天の岩戸を今しばし開けないで。後朝の別れをしなくてすむように、
ずっと闇にしておいて〕



柳直成(やなぎのすぐなり)
 我恋ハ闇路をたどる火縄にて ふらるゝたびに猶ぞこがるゝ
〔=わが恋は、闇夜をたどる火縄のようだ。火縄を振るとよく燃えるように、
女にふられると、ますます恋の炎が燃え上がる)





豊年雪丸(ほうねんゆきまる
 としの坂のぼる車のわがよはひ 油断をしても跡へもどらず)
〔=年の坂、のぼる車の私の齢は、油断しても決して後へは戻らず。
歳月は人を待たずだ)




全身が砂丘になってくる齢   句ノ一





酒月米人(さかづきのこめんど) 
 鴬の羽風もいとふばかりなり あんじすぎ田の梅の盛は
〔=鴬の羽風にも花が散るのではと、案じ過ぎるくらい案じたものだった。
杉田の梅の盛りは〕





齋藤満永(さいとうみつなが) 
 うわかわの目もとにしほはこほるれと たゝ心中の水くさきかな
〔=うわべは、上瞼の目元に愛嬌があふれているのだが、ただ心の中はよそ
よそしく水くさいことだなあ。





小川町住(をがはまちずみ)
 ふた声ときかでぞ沖をはしり船 なごりをしさの山ほとゝぎす
〔=ほととぎすの声を一度しか聞かないうちに、帰りの猪牙舟は、吉原から
漕ぎ出し、走るように隅田川を下っている。名残惜しいことよ〕





大屋裏住(おほやのうらずみ)
 ともし火にせんと思へはたちまちに たちきえのする窓のあは雪
〔=蛍雪の功の故事にならって、積もった雪を明りにしようと思ったが、
窓辺の雪は、たちまちに消えてしまった〕





問屋酒船(とんやのさけふね)
 聾しひの身もうら山し待宵まつよいの 鐘とわかれの鳥の声には〕
〔=鐘の音を聞きながらいまか、いまかと待っていた。やっと逢えても、
すぐに鳥が鳴き別れの朝がくる。鐘の音も鳥の声も、聞こえない人が羨ま
しい〕




野ざらしの地蔵は修行中だろう   安井貴子 

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