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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鏡台に与謝野晶子を眠らせる  市井美春






        姫君の邸を訪れた貴公子


ある日の夕暮れ、姫君の邸を訪れた貴公子は、お付きの女房の侍従を
ひそかに呼び出し語り明かす。本当のお目当ては 姫君。



「紫式部のひとりごと」
先に気のきいた歌ひとつ読めぬ者は、男女ともに、不調法者と申し上げました
が、男性の場合、この和歌に、漢詩の教養が加わってはじめて、才気あふれる
殿上人と評されるわけですから、それはもうたいへんでございます。
それにくらべ、私ども女は、漢字を書くことさえ、人目をしのぶような有様で
したから、もっぱら、仮名文字で記す「和歌の世界」が自らの思いを託す場と
なりました。 では、どのような和歌が、優れた歌といわれるのでしょうか。
これはたいへんに難しい問題でございます。
ただ、私の思いますのは、当代随一の歌詠みであらせられる、藤原公任さまの
仰せにあります「心」「詞」がよく調和した歌、表現する内容とそれを表す
コトバの両方に、心を尽くした歌ということになりましょうか。
それには『古今和歌集』を手本とすべきなのでございましょう。



点のある古い漢字をつい使う  楠本晃朗



式部ー恋の手立ては手紙から



            「住吉物語絵巻」   静嘉堂文庫美術館蔵
春の嵯峨野に遊ぶ姫君を垣間見て、その美しさに魅せられ車の際で早速に
紅梅重ねの薄様の紙に筆を走らせる貴公子。


「お会いしたい と、伝える手立ては、まずは手紙から」
源氏物語で、手紙に関することが出てこないのは少なく、「花散里」くらいで
しょうか。挨拶・案内・見舞い・贈り物など、社交の面での「文」「消息」
やりとりも綴られていますが、断然多いのが「恋愛や結婚」の場面です。
文、消息は、歌を中心に据え、前後に気のきいた時に応じた言葉を添える形を
とりますが、恋文においては、想いの丈を訴える和歌の出来、料紙や筆跡、送
り方などが特に大切です。
そうしたセンスのチェックを通過して初めて恋の実るチャンスが訪れるのです。
源氏物語におりなす恋の行方のカギは、恋文にあったと言ってもいいでしょう。





恋文を書けば黄砂が降りつづく  野田江実子




        垣間見をする若い貴公子

噂を確かめるべくまたお近づきになりたいものと姫君の邸の垣間見をする。



「まだ見ぬ女性に恋心を伝える」
たとえば末摘花の亡くなった父や、明石の君の父・明石の入道のように、立派
な男君から恋文が寄せられるよう、父親たるもの、わが娘の姫君に教養を授け、
住まいやインテリアも整え、才能ある女房たちを周りに配して、才色兼備かつ
育ちもよしという、娘の世評を高めることに努めます。
噂に惹かれて恋心をそそられた男君は、趣向を凝らした文を、姫君に送るわけ
ですが、まず側近に言付け、その文は側近から「文使い」の手に渡り、相手の
邸へ届けられます。


まだまだと高みを狙う腹の底  荒木薫子





           文 使 い

恋文は側近から、文使い、女房などとさまざまな手を経て相手に届く。
ほのめかす」「まぎらわす」など簡潔にして率直な中に余韻を残す文が
心得たされた。



「心利く文使いをつかわす」
源氏もかたくなになびかない空蝉に対しては、弟の子君などを文使いに使って、
懐柔しようと努めています。文使いは、機転の利く者でなくてはなりまっせん。
特に忍び文を届けるときはには、気に入りの従者や、先方に由縁のある童など
賢く取り継いでもらえそうな人物を選んで託します。
最初の受け手となるのは、姫君方の女房です。
そのため、これはと目をつけた女房に、男君は、日頃から近付きを持つよう心
がけます。言葉を交わしたり、贈り物をしたり、ある時は、その女房がひと時
の恋のお相手だったりもしたようです。



あらかじめ湯通しをする下心  河村啓子



「返事を書く」
恋文は仲立ちの女房の手になり、機を見て姫君に差し出されます。
読むのを恥ずかしがるような初心な姫君には、女房が読んでさし上げることも。
返歌をしようとしない姫君には、女房が変わって、さりげない歌を返します。
少し心が動かされると、姫君が詠んだ歌を女房の代筆で、これらもすべて、
その主人の器量と判断されるので、女房の質は大切です。
自ら筆をとられたとなると、これは相当に脈があろうというものです。



淀みない勘亭流の筆の冴え  徳山泰子






       「源氏物語画帖 赤石の君」 (土佐光吉画)



明石の君は、釣り合わない低い身分であることを省みて、源氏の恋文にも心を
開かずにいました。
初めての源氏の文は、格式高い舶来の高麗の胡桃色の紙
拝見さえしようとしない娘に代わり、父入道が仕方なく、陸奥紙に古風な手で
筆をとります。
「二度目は、ぜひお返事を」と、源氏から、たいそうしなやかな薄様の手紙が
届きました。心を打たれた明石の君は、入道に責められるままに、香を深く炊
きしめた紫の紙に、墨つぎ濃く薄く、身分の高い都人に、少しも劣らない見事
な文を書きました。



泡沫のぷくぷく幸せのリズム  森井克子





     『源氏物語画帖 「藤葉裏」』 (土佐光則筆 徳川美術館蔵)
源氏の子夕霧は、幼なじみで長年の想い人である雲居雁とようやく契りを結ぶ。
その翌朝夕霧から届けられた後朝の文を見る雲居雁とその父、内大臣。



「余韻を残しつつ」
「後朝(きぬぎぬ)の別れ」-------「衣々」とも書きます。
まだ明けやらぬ時刻に、男君は人目につかないよう帰って行きます。
夜具代わりに、ふたりの体に掛けていた衣を身につけ、相手のことを忍びつつ
帰ります。家に帰り着いてのち、女君へ、愛を込めた手紙を送ることが習わし
でした。 それが、ひとつ家に住まない男女の礼儀だったのです。
ひとり残され心乱れる女君にとって、細やかな心遣いの後朝の文は、どんなに
か心慰められたことでしょう。



行間を読めと付箋が貼ってある  池田みほ子



あらゆる方面に抜きん出たセンスを見せる当代随一流の趣味人だった光源氏。
時と状況、折々の心に叶う的確で、風雅な紙使いは、筆跡とともに手紙の受け
手に感動を呼び起こす恋文上手でした。
源氏はいかにも常識的な、通例の紙使いには飽き足らず、内容もあくまでさり
気なく、ほのめかす言葉のうちに、豊かで深い情趣を漂わせる手紙であるべき
と考えました。相手となる女君も、この繊細さと洗練を共有できる感覚の持ち
主であって初めて、源氏の心は動きます。
新婚の女三ノ宮にひとり寝をさせてしまった朝、源氏が送った文は、雪の朝に
ちなんで、白い薄様を白樺の折枝に結んだものでした。
しかし、その返事は、鮮やかな紅の薄様に包まれ、幼稚な筆跡で何ということ
もない歌が書いてあります。
源氏は落胆の心を隠しきれませんでした。



字余りとこむら返りと逆まつげ  雨森茂樹





        『源氏物語画帖 若菜下』 (土佐光則筆 徳川美術館蔵)
訪れてきた源氏が部屋を、ちょっと退出した折に、まだ源氏は恋敵と気づいて
いない柏木から、浅緑色の文を小侍従がそっと女三ノ宮に見せている。
そこへ源氏が戻ってきて、宮と小侍従があわてている。



「個性と品格を表す紙選び」
薄様=雁皮を使ったごく薄い斐紙を「薄様」と呼び、なめらかで艶やかな薄様
は、かな書きに適し、手紙、特に恋文を書くのに好んで用いられました。
※ 男性の公用文、男同士の文は漢字ですが、男女間や女同士の文、私的な便
りには多くは仮名文字を使いました。
美しい紙に流れるが如くしたためた三十一文字。
わずか一首の歌と、それに添えるごく短いことばに、最大限自分をアピールし
ようと、教養と才知を尽くして趣向を凝らします。
野暮な方と思われて、相手の心を惹きつけることができなければ、お終いです。



アラビアの文字の坩堝にはまりこむ  吉松澄子

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とうりゃんせの体位で息をくっさめる  月波余生





                                      桓武天皇像 (延暦寺蔵)

内裏にある天皇の座る場所、高御座(たかみくら)には必ず椅子が置かれ、
椅子は、天皇の権威を象徴するものであった。




古来より、じかに座る生活をしていた日本では、椅子に座るのは身分の高い人
だけと決められていました。
当時は、椅子とかいて「いし」と読み、中納言以上の人々がこれに座りました。
なかでも、天皇の座る椅子は特別で、その名も「御椅子」
紫宸殿に置かれた御椅子は黒柿製で総朱塗、金メッキの金具と菊唐草模様が施
されていました。
座面には畳と茵(しとね)を敷いてここに腰かけるようになっていました。
また清涼殿の御椅子は紫宸殿で総黒塗でした。
ともに権力と権威を示すべく、贅をこらした装飾が特徴でした。




頂点の椅子へ孤独な風の音  恭子






  夜、二条の屋敷に向かう牛車の中で、若宮と靫負命婦

命婦「お祖母の尼君はどんなに若宮のことを案じておいでだったか。
   これからの若宮のたのみは父上の帝のお心だけ…。
   あの日から若宮は、お変わりになった」



式部ー夢枕 episode最終




「前号までのあらすじ」
一の皇子の立太子が決まり、喜びにわく右大臣家。
同じころ、左大臣の長男である直房と遠駈けに出た二の皇子は、魅力あふれる
年上の女と、生涯にわたる友情を誓います、そんな二の皇子の根強い人気に
危機感をつのらせる右大臣と弘徽殿女御は、一の皇子へ左大臣家の姫、
入内させようと画策します。




払っても払ってもある嫉妬心  柳田かおる




男の子にとって母親は特別な存在です。
けれど若宮には母親の記憶がありません。
その美しさや愛らしさ、人柄のすばらしさを他人から聞くだけで、若宮にとっ
て母親とは、甘えたくても実体のないイメージだけの存在でした。
しかも、父親は、立場上、頼りたくても我慢しなければならないことも多か
ったでしょう。 兄弟のような乳母子はいたものの、若宮は孤独でした。




ただひとり夕日を浴びて深呼吸  下林正夫





          「源氏物語絵巻 鈴虫」 (桜井清花筆 徳川美術館蔵)

出家して尼になった女三ノ宮(左)が念仏を唱えているそばで、尼君が、
閼伽棚(あかだな)に水や花を供えている。




死の時は、まだほんの幼子だった若宮ですが、今回は、祖母の死を理解できる
年頃に育っていました。
悲しみにくれる若宮ですが、当時は、死の穢れは何より忌むべきタブーと考え
られていたので、宮中のような神聖な場所からは即座に退出して、祖母の屋敷
で喪に服さなければなりません。
もまた、北の方の訃報に心を痛めます。
数少ない親族を失っていく若宮が、帝には不憫でなりません。




残されて孤独の夜をかみしめる  靏田寿子




※ 穢れは伝染する
当時、死は出血とともに最大の穢れとされてきました。
死ぬこと自体はもちろん血縁に死者が出た場合も神前をはばかったり、
不幸のあった家で、煮炊きしたものを食べた者、
その家に足を踏み入れた者にさえ、穢れが移ると考えていた。
当然、神にもひとしい帝の住まう内裏では絶対のタブー。
家族が死んだような時は、すみやかに退出しなければならなかったようです。




輪郭が見えないままの そうだよね  斉尾くにこ




若宮の祖母・北の方は悲運の女性です。
夫の大納言に先立たれたうえに、女手ひとつで育てた娘・桐壺更衣も宮中での
心労がたたり年若くして、亡くなってしまいました。
たび重なる不幸に「早く亡き人の側に行きたい」が、口癖のようになった北の
方、でも、さすがに若宮のことは気がかりだったらしく、たったひとりのこの
孫と別れる悲しさを、繰り返し口にしながら、亡くなったのです。




死ぬことを忘れたように死んでゆく  和田洋子






網代車はもっとも広い用途で使われた車だった。
牛車の後ろに置かれた黒い台が榻(しじ)。ここから牛車に乗りこむ。

       牛車の席次
車内に椅子は座席はなく、あぐらにに似た座りかたをしたと思われる。
4人乗りの場合は、向かい合わせに2人づつ乗り、席の序列は前方右、
同左、後方左、同右の順。ひとりで乗車する時は前方左側に右を向いて
座りました。





※ 乗客どうし顔つきあわせ、車中は意外に窮屈
牛車に乗り込む際は、榻(しじ)という踏み台を使って、車の後ろから乗車し
ます。通常は4人乗りのセダンが中心ですが、なかには2人乗りや、RVなみ
の6人のりもありました。
内部には座席などはなく、進行方向に対して横向きに座りますが「仁王乗り」
といって正面向きにのることもあったようです。




両手は上げたままでお願いいたします  竹内ゆみこ




桐壺更衣が亡くなってまもなくのころ、帝が靫負命婦(ゆげいのみょうふ)を
更衣の里、二条の屋敷に遣わす、様子をうかがわせたことがありました。
それまでは、娘に恥をかかせまいと、屋敷の手入れも念入りに行っていた北の
方でしたが、まるで糸の切れた凧のように放心したままで、庭は荒れ放題。
それは、まるで北の方の心の風景さながらでした。
「野分に庭も屋敷も荒れて…いいえちがう、最愛の娘を失い心の支えも崩れて
 荒れはてた二条の屋敷。その上、一の皇子の立坊で尼君は、生きる張りまで、
 無くされたのではないだろうか」
そのころから、北の方のわずかな生きる張り合いは、若宮のことだけでした。




叶うなら猫のとなりで雨やどり  前中知栄




※ 北の方が命婦に托した恨み言
悲しみに沈む北の方を見舞った靫負命婦
北の方は、命婦に胸の内を切々と述べますが、そのなかには「あれほどに帝が
御寵愛下さらなければ、こんなことにもならなかったかと------」と、
つい恨み言も…。これはある意味で批判、北の方が帝に直接申し上げられる
はずもないコトバです。
お遣いとしての命婦の第一の役割は、帝の真意を北の方へ、北の方の返事を帝
に正確に伝えるメッセンジャーなのですが、このような、面と向かっては言え
ないことをうまく伝える役割も果たしたのです。




神さまはずっと熟睡中である  新家完司





 
     高麗からの相人(ひだり)を迎える父帝と若宮





高麗から来た人相見は、きわめて重要な予言をします。
その報告を聞いた帝は考えました。
------若宮を親王にしたところで、自分がいなくなれば、腹の悪い者どもが足を
引っ張り、人相見の見立て通り政治も乱れるだろう。
臣籍に下せば、親王よりかなり身分は低くなるが、この才能の器量を逆に世間
が放っておくはずがない。
臣下となり、「自ら道を切り拓いていくほうがこの子には、向いているのでは
ないか------」と。




装飾は同系色と決めている  杉浦多津子





          「源氏物語画帖 更衣」 (土佐光吉筆 京都国立博物館蔵)

高麗の相人と対面。左に座る相人が若宮の将来予言をする。




※ 高麗の相人の大予言
若宮の人相を見て、おおいに驚いた高麗の相人が、
「このような優れた相の御子に対面できたのは大変喜ばしいこと」と、感激し
ますが、人相を見る人相学、観相学はもともと古代インドにはじまり、中国も
観相学の先進国でした。
この高麗の相人は、おそらく渤海人だったと考えられますが、朝鮮半島の北部
にあった渤海は、中国との関係も深く、日本人の人相見とは、またひと味違う
鑑定ができたに違いありません。
だからこそ、帝も若宮の将来を占わせたのでしょう。




誰にでも合う占いを聴いている  松田千鶴




は、若宮をいずれ政治の中枢に置きたいのです。
けれど無理を通せば不吉なことを呼び起こすのは、桐壺更衣の一件で、身に染
みてわかっています。臣下にするのは惜しいのですが、優れた人相見も宿曜道
の名人も、若宮が親王になるのは危険だ、と見立てているのだし、ここはリス
クを避ける判断をしました。その代わり、若宮には、いずれ朝廷の補佐をさせ
たいと考え、必要な学問をみっちり習わせることにします。




幸せはここらへんだと思います  平井美智子






            最愛の人との別れ





「嫁枕 最終の章」



宮中に戻った命婦は、がまだ、お休みになっていないのをおいたわしく思い
ます。見事な庭先の植え込みをみながら、奥ゆかしい女房ばかり4,5人を、
お側に召し、帝はお話をしています。
このごろは、宇多法皇が絵を描かせ、伊勢を紀貫之が歌を詠んだ『長恨歌』
絵ばかり見ています。
話題も、和歌にしても漢詩にしても、もっぱらこの悲恋物語のことばかりです。
帝は更衣の里の様子をこまごまと尋ねます。
命婦は母君の哀れなさまを伝え、帝は返書を見ます。
そこには、
「まことに畏れ多いお言葉を承るにつけても、心は暗く想いは乱るるばかりです」
とあり、
「若宮を守っていた更衣が亡くなってからは幼い宮の身の上が心配でなりません」
と、歌が添えられていました。
" 荒き風 防ぎしかげの 枯れしより 小萩が上ぞ 静心なき "
(荒い風を防いでいた木が枯れてしまって以来、小萩の上は心静かでありません)
(世間のきびしい風当りを防いでいた桐壺の更衣が亡くなってから、若宮の上が
 心配で、落ち着きません)




健やかに育てと祈る千歳飴  桑原ひさ子




取り乱して無礼なところもある手紙でしたが、はそれをお許しになります。
更衣とはじめて会った時のことなどが心に浮かんできて、こらえようとしても、
また悲しみがこみあげてきます。
ひと時さえ離れることなど考えられなかったのに、ひとり残されてからも月日
はながれていく。 それが帝には、信じられない気持ちです。
「よくぞ更衣を宮仕えに出してくれた。その礼にと、いろいろと心にかけてき
 たが、今となってはどうにも仕方ない」
と、帝は母君を憐れみます。
「されど、若君が成人でもすれば、よきこともあるだろう。ぜひ、長生きして
 もらいたいものだ」
命婦は母君から渡された形見をお見せします。 それを見て帝は
「長恨歌のように、これが亡き人の住処を探しあてた証拠の簪であったならば」
と、ため息をつき、

" たづねゆくまぼろしもがなつてにても 魂のありかをそことしるべく "
「更衣の魂を探してくれる幻術士がいてほしいものよ、人伝にでもその場所が
 わかればうれしいのに」
と、お詠みになりました。




肩に手が背中に腕がきて初冬  清水すみれ





         楊貴妃図   (鈴木晴信)





玄宗皇帝楊貴妃が7月7日に誓い合ったという言葉。
在天願作比翼鳥=天に在りては 願わくば比翼の鳥と作(な)り
在地願爲連理枝=地に在りては 願わくば連理の枝と為らんことを…
(比翼の鳥は、翼がつながった二羽の鳥)
(連理の枝は、枝がつながった二本の木をあらわしている)
唐の詩人、白居易の作品は王朝人の必須教養でした。
そのひとつ『長恨歌』が、桐壺更衣と帝の悲恋物語にしばしば登場します。
更衣の形見の櫛を見て、帝の心に浮かんだのも、長恨歌の一節でした。






    鈴木春信「玄宗皇帝楊貴妃圖」





絵の中の楊貴妃に、いきいきした美しさを求めるのは、無理でしたが、太液地
に咲く蓮、未央宮の前の柳にたとえられた。
唐風に装った楊貴妃は、端麗で美しかったことでしょう。
しかし、更衣の優しく可愛らしかったことを思い浮かべるにつけ、には、
その様子は、花の色にも、鳥の声にも、たとえるものがないほど素敵に思える
のでした。
「比翼の鳥、連理の枝のようにずっといっしょに」、と朝に夕に約束したのに、
その願いが叶えられなかった命の儚さが恨めしい帝でした。
帝は、風の音や虫の音にも悲しさがつのります。
それに対して、もう随分と長い間お召しのない弘徽殿女御は、月が美しいからと、
夜の更けるまで、琴など慣らして遊び、帝の神経を逆なでします。
このごろの帝の様子をよく知る殿上人や女房などは、はらはらしながら、その音
を聞いています。弘徽殿女御という方は、気が強く、角のある人で、亡き更衣に
寄せる帝の気持ちを踏みにじるなど、何でもない人でした。




次はもうないとデビルの声がする  渡邊真由美

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三日月や粉おしろいの姉の香よ  くんじろう






            模範的平安美女


平安時代での美人の条件は、キメの細かい白い肌 ・ふっくらした頬 ・目は細く
て切れ長・おちょぼ口、サラサラした艶のある黒髪 ・ふくよかな体型 ・大顔 で
小鼻 。「わたしこの時代に生まれてくればよかった」っていう人いませんか。






      小 野 小 町


百人一首しかり、うしろ姿しかあまり見せない小野小町。
その正面の顔は、後半に出てきます。
小野小町が、世界の三大美女のひとりと認定されたのは、時代が大正になって
から。黒岩涙香(るいこう)が『小野小町論』を書いたのが、決め手となった。




『源氏物語』が書かれた平安の中期には、何より色の白いことが女性の美しさ
の条件でした。ひたすら白粉を塗りたてる美白メイクがよしとされ、白粉のの
りをよくするために眉毛まで抜いたほどでした。
かわりに額の上の方に、眉墨で円形や楕円形のぽってりした眉を描き、歯には
お歯黒、口元にはわずかに紅をさす…。
化粧というより、キャンバスに新しい顔をつくるという感覚です。
一見すると、真っ白の顔に、太い眉だけが目立つ能面のような顔も、廂の部分
が長く、採光の悪い寝殿造りの屋内では、薄暗がりにほんのり浮かびあがって、
殿方の心を惹きつけたのでしょう。
日に焼けていない肌は、文字通り「深窓の姫君」証しであり、採光のチャーム
ポイントでもあったのです。




わけてあげましょうワタイの爪の垢  中村幸彦






          唐風の紅粧




そもそも大陸からわが国に「白粉製造」の方法が伝来したのは、持統天皇6年
(692)のこと。渡来僧観成から鉛白粉(=鉛を酢で蒸したもの)の製法を
献上された持統女帝は、おおいに喜び、以後、日本女性の化粧法は急速に発展
します。鉛や水銀を含む当時の白粉は、続けて使うと、肌の炎症や白粉焼けを
起こすものの、米粉や粟粉製の白粉よりもずっとのびがよく、女性たちはこれ
を手放せませんでした。
平安のはじめまで、主流だった唐風の紅粧(=顔全体を紅めにっした化粧)や
酔粧(=白粉の上に頬紅を濃いめにさす化粧)から、国風文化の浸透とともに、
より白く、平面的な王朝流の化粧法へ。流行が変わるなかで、ファッションリ
ーダーたる後宮の女性、貴族の女性たちは、最新のメイク術を身につけていっ
たのです。




話が長いそれって誉め言葉ですか  竹内いそこ





     「美女がひとつ、出来上がりました」





式部ー平安女性の女を磨くコスメ
いつの世も美人顔に憧れを持つのは同じようです。
輪郭=ふくよかな二重アゴに、殿方は大喜び、無理なダイエットはこの時代に
   存在せず、下膨れのふっくらと豊満な顔をめざした。
=手入れしない眉はだらしないもの。
  白粉ののりをよくするためにもしっかり抜く。
=白粉のむらがあるのはとても見苦しいもの。しっかりとのばして塗った。
=白粉で唇の輪郭を消し、口紅は小さくさす。おちょぼ口の語源。
お歯黒=当時は、年若い者もこれを用いるのが一般的だった。
  鉄屑や米屑を3日ー7日ほど水にとくと黄赤な汁になる。
  それを刷毛で歯に塗るのだが、口中は相当に不快だったらしく、実際には、
  酒や飴を加えて使いやすくした。
※ (お歯黒は染め始めると歯に沈着し白い歯に戻らない。女性にとっては、
  「二夫にまみえず」の貞節をしめすものとなった)




イグアナだった頃のお化粧の仕方  井上一筒





平安中期以降、絵巻物に登場する貴族の顔は、多くひきめかぎはな(引目鉤鼻)
という、特徴的な描き方をされています。
これは、下ぶくれの顔に目はあくまで細長く、眉は細い墨線を何度も引き重ね、
鼻は短く「く」の字形に描くという、大和絵の伝統的技法。
あくまで高貴な人を象徴する描き方であり、もちろん当時の美男美女がみんな
こういう顔をしていたわけではありません。
ここにとりあげた「早蕨」の帖に出てくる、美人の誉れ高かった中の君もまた
典型的な「引目鉤鼻」の技法で描かれています。




怪しいものではありませんという鏡  蟹口和枝






         紫式部の肖像画





「紫式部が書いた紫式部の容姿」
源氏物語の中で紫式部は、末摘花の姫の容姿だけが、モデルがいたのではない
かと思わせるほど、細部にわたって克明に書いている。
紫式部は、源氏物語には「自分も登場させている」とも言っている。
それは、この末摘花のことではないだろうか、
紫式部は、プライドは高いわりに自己肯定感は低い-----
-式部日記では、ことごとく清少納言をこき下ろすくせに、その倍くらいの熱量
で自虐文を綴る------、徹頭徹尾、自分を自虐するのである。
末摘花の章は、この類ではなかったのだろうか。




デッサンという未完成の生き様  森井克子






         「源氏物語画帖 蓬生」  (土佐光吉画)


須磨より帰京した光源氏は、花散里邸を訪れる途中で荒れ果てた邸を見つける。
そこには、末摘花が住んでいた。





「末摘花」
『源氏物語』に、末摘花の姫という女性が登場する。
親王常陸宮が亡くなった後、姫君がひとり残されたと聞いた18歳の光源氏
興味津津、文を送り垣間見にでかけた。
その日はうまく垣間見できなかった光源氏は、あきらめずに8月、美しい深窓
の令嬢を思い描きながら、また邸を訪れた。そして今度は一夜をともにした。
ただし、夜明け前に帰ったので姫君の顔は見ずじまい。





大切な瞬間 素顔を見落とす  佐藤正昭





冬になり、雪の降る冷え冷えとした夜、源氏は久しぶりに邸を訪れ、また姫君
と逢瀬の一夜を過ごす。
夜があけてきたので光源氏は自ら格子を上げて庭を眺め…
<前の前裁の雪をみたまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、
 いみじうさびしげなる>
庭には雪が降り積もっていて足跡もない。
むこうの方まで一面、荒れはてていてひどく寂しげ。
雪に覆われてもなお荒れた感じとは、よほどの寂れ方だろう。
「趣きのある朝の空をあなたも 御覧なさいよ」と誘った姫君を横目に見た源氏
はびっくりする。




蛇穴を覗けば闇に睨まれる  木口雅裕





第一に胴長。鼻は象のように長く、先の方が少し垂れていて赤い。
鼻が赤いので、この姫君は「末摘花」と呼ばれる。
末摘花とは紅花(紅鼻)の別名だ。
顔は青白く、額は広すぎて、あごが長い。痛々しく痩せ細り、肩はいかつい。
着ているものもひどい。色褪せた襲(かさね)にすすけて黒い袿(うちぎ)、
その上に、黒テンの皮衣。この皮衣は舶来品で、おそらく常陸宮の遺品だ。
紫式部が、自身の自虐にあてはめたこととは別に、末摘花のモデルと目される
人物がいる。
男性なのだが「宇治拾遺物語」「今昔物語集」に出てくる源邦正がそれ、
重明親王の息子なので、親王の子というところが、末摘花と同じだ。




蓄膿の象のいびきは聞き分ける  宮井元伸






  正倉院宝物の「酔胡王」(ペルシャ系ソグド人の顔)
左は、中国西安で出土した装具に表されたソグド人の首領。




邦正は後頭部が出っ張り、顔色は青色の染料を塗ったように青白。
「青侍従」「青常」とからかわれた。
目のまわりは窪み、鼻は際立って高く、赤い。
その顔つきは西洋人に近く、ペルシャ系のゾグド人との指摘もある。
「紫式部も、国司の父に付いて赴いた越前で、その頃には滅んでいた渤海国の
 遺民をみたかもしれない。その中にソグド人がいた可能性はゼロではない」
末摘花がどうだったかは別として、その特異な容貌を具体的に書くため、
ソグド人を記憶の中から、引っ張り出したのではないだろうか。




異邦人の瞳でふるさとへ帰る  吉川幸子




源氏物語の中で紫式部は、末摘花の姫の容姿だけが、モデルがいたのではない
かと思わせるほど、細部にわたって克明に書いている。
紫式部は源氏物語には「自分も登場させている」とも言っている。
実は、この末摘花のことではないだろうか、紫式部は、プライドは高いわりに
自己肯定感は低い------式部日記では、ことごとく清少納言をこき下ろすくせに、
その倍くらいの熱量で、自虐文を綴る。徹頭徹尾、自分を自虐するのである。
末摘花の章はこの類ではなかろうか。




     源氏物語画帖』  「若紫」(紫の上)  土佐光起筆)

飼っていた雀の子を逃がしてしまった紫の上と、北山の柴垣から隙見する光源氏




「天然美少女、紫の上」
数多くの魅力的な女性が登場する『源氏物語』だが、化粧に関する記述は意外
なほど少ない。これは当時の恋愛が多く、顔を見ることなく始まるため、また
教養や家柄といった魅力が、ルックス以上に重視されたせいではなかろうか。
なかでは、後に源氏の正妻となる紫の上に関する記述が要注目。
北山ではじめて垣間見られた、まだ10歳の若い若紫は、「眉のわたりうちけ
ぶり」と眉毛も抜かず、幼い素肌を見せていたのが------(「若紫」)。
源氏に引き取られたのちには「眉の毛ざやかになりたる」と、眉を整えて大人
の風情に(「末摘花」)------。
もともと古風な祖母・尼君の方針で、お歯黒をつけていなかったというあたり、
当時は珍しかったナチュラルメイクが、光のハートを射止めたのかもしれない。





ラシクアレそんな呪文をかけられて  柴田桂子







        小 野 小 町 の 顔


 

「若紫」(紫の上)
病を患った源氏は、北山を訪ねる。
そのとき、憧れの女性である藤壺に生き写しの少女を垣間見た。
その後、少女を育てた尼君が死去すると、源氏は彼女を引き取った。
少女は後の「紫の上」である。





ゼロという数字泣いたり笑ったり  下戸松子

拍手[3回]

都大路追うていたのは陽炎か  柴田桂子






         光源氏12歳





『源氏物語』には、主要な人物だけでも500人に余る人物の人間模様が描かれ
ている。試みにいえば、光源氏は、幼いころに母親(桐壺更衣)を亡くし、
祖母(北の方)とも死別して、ほとんど、孤児同然の立場で、桐壺帝のもとで
育てられた。宮中の艶やかな女性たちの中にあって、軽口を叩きながら華やか
に振舞っておられる帝の姿だけを見て成長した光源氏は、夫と妻の情愛や親子
の情などを感得する機会を、持つことが出来なかった。(桐壺の第一巻)

そのような成長過程をたどった場合、「どのような人物になるであろうか」と、
紫式部は、突き詰めて考えただろう。
その結果、紫式部は「自己中心的で自分以外の者は、あくまでも他人である」
としてしか見ることのできない、浮薄な人物像を光源氏のなかに見つめ------、
身勝手で、ウソをつくことを恥ずかしいとも思わない男性は、光源氏だけでは
ない------世の中は「虚」なるもので満ち溢れていると、いうのである。




体内のさびしい炎売り歩く  田中博造




式部ー源氏物語に登場する主なキャスト







 尼君、侍女らがいる僧都の家を外から垣間見る光源氏





「紫の上」
紫の上は、聡明ではあるが世間のことをよく知らない純情な少女であった。
光源氏によって二条院に連れ込まれ、いつのまにか、源氏の愛妻の立場に置か
れている。
母親を亡くし、父親に頼ることができない以上、源氏を頼りにする以外にない。
だから、源氏が須磨に退去した際には、必死になって留守を守ったし、源氏の
身の上を案じ続けた。だが、源氏にとって大事なことは、我が身である。
だから須磨への退去の理由について、紫の上に平気で「ウソ」をつくし、明石
明石の君の側からみれば、裏切りである。




あらかじめ湯通しをする下心  河村啓子






       自由に木に止まるスズメを見つめる紫の上





紫の上は、身勝手な光源氏に振り回され続けた。
このような不誠実な男とともにあることが、つくづく嫌になった。
「今はもう、このようなありきたりの普通の生活でなく、仏様にお仕えして
 過ごしたいと思います。この世の中は、およそ、このようなものだという
 ことを、よく見たという気持ちになる年齢になりました」
しかし、光源氏は、紫の上の出家を許そうとしない。
この後、病身の紫の上は、死ぬ際には「源氏と決別しよう、その上で死のう」
と決意した、自らの死の準備をする。
そして最終的に、その意志を貫いて、紫の上は、光源氏と決別して死んだ。




しがらみがやっと切れたか流れ星  靏田寿子






     『焔』 (上村松園画・東京国立博物館所蔵)


まひろが書く物語に夢中になりつつある一条天皇が、
「白い夕顔の咲く家の女は、なぜ死ななければならなかったのだ?」と聞き、
まひろが「生霊の仕業にございます」。と答えると、一条帝は
「光る君の夢に現れた女が、取りついたのか?」
と少し怖がりながら興味津々。 まひろは、
「誰かがその心持ちの苦しさゆえに、生霊になったのやもしれませぬ」
と語り、今後、源氏物語おなじみの「生霊」が登場する伏線のような会話だった




「六条御息所」
『源氏物語』には、数多くの女性たちが登場する。
その多くは、悩み苦しみ、悶えながら生き、そして死んでいった。
その中で、最も無残に生き、無残に死んだのは六条御息所である。
御息所は、前の東宮妃で、美貌と教養を備えた人であった。
しかし、同時に自分は、男性から粗末に扱われるはずがないという「うぬぼれ」
の心と、自分が世間から、どのように見られているかを気にする「みえ」の心を
備えた人でもあった。
あれほど熱心に言い寄った光源氏が、一転して冷たくなるという現実を「うぬぼ
れ」の心は、冷静に受け入れることを拒否する。
また、源氏が冷たくなったことが世間に知られて、噂の種になったり同情や嘲笑
の対象になったりすることを「みえ」の心は許さない。
 





       物の怪になった六条御息所




御息所は、亡くなった後、源氏の前に物の怪となって姿を現わす。
そして、娘である秋好中宮(あきこのむ)に、次のように伝えてほしいと、
源氏に頼む。
「宮仕えしている間、決してほかの人と競ったり、妬んだり、するような気を
 起こしてはなりません」
御息所は、生前、自らの「人ときしろひそねむ心」(人と競ったり、妬んだり
する心)のゆえに、苦しみつづけた人である。
その人の物の怪に、このように言わせる紫式部のイタズラ心には、苦笑をして
しまうが、いずれにせよ、「人と競ったり、妬んだりする心」「うぬぼれ」
の心及び「みえ」の心と、表裏の関係にある。
女性の生き方として「うぬぼれ」「みえ」の心は、女性の目を曇らせ、冷静な
判断をできなくするものであると、紫式部はいうのである。




振りむくと妙ちきりんな過去の悔い  森井克子





      桐 壺 更 衣





「桐壺更衣」
更衣は光源氏の母。桐壺帝の愛を一身に受け、光源氏を産むが、後宮の女性た
ちの嫉妬と嫌がらせに苦しみ、その心労から病死している。
もう一人、悲惨な人生を生き、死んだ人は、藤壺である。
この藤壺のドラマチックなストーリーは、後のページで登場します。




鼻歌で出かけて御詠歌で帰る  森田律子






母桐壺更衣そっくりの藤壺の側を離れない10歳の光源氏




  
「藤壺女御」 
12歳の元服を迎える頃、光源氏は決して許されることのない恋心を覚えた。
父帝のもとに入内した藤壺女御である。
3歳という幼さで死に別れた美しく優しい母、桐壺更衣によく似た人だった。
やがて源氏の初恋の女性となり、ついには、不義の子をなすまでの深い関係を
結んだのは11歳のときだった。その結果、藤壺は冷泉帝を産む。(17歳)


「葵の上」
光源氏の正妻。光源氏の後見役でもあった左大臣の娘であったが、年下の源氏
との結婚は、愛の薄いものだった。源氏との間に息子の夕霧をもうけるが、
物の怪に苦しめられ出産後急逝する。(16歳 )




水仙が色とりどりの庭に咲き  大橋恒雄




「空蝉」 
受領の妻という低い身分で、若くも美人でもなかった。
人妻でありながら、契りを結んだことを恥じ、ある夜、源氏の前から袿(うち
き)を残して逃げたので、空蝉と呼ばれた。(17歳)


「軒端荻」(のきばのおぎ) 
空蝉の継娘。
空蝉とともに寝ているところに源氏が忍び、逃げ出した空蝉に代わって源氏に
口説かれ、契りを結ぶ。(17歳)




サイダーのゲップが止まぬスナイパー  きゅういち






     葵の上と六条御息所の牛車の鉢合わせ




「六条御息所」 
前皇太子の未亡人で、六条の館に住むところから六条と呼ばれる。
6歳年上の身分も気位も高い恋人。葵の上との車争い、生霊となって葵の上に
憑りつく。(17歳)





         夕顔を訪れる頭の中将





「夕顔」 
頭中将の元恋人。
隠れ住んでいた住まいの夕顔の花が縁で、源氏がお忍びで通うちに、しかし、
源氏が、その素性を明かしたその夜に変死を遂げる薄幸の人。(17歳)





幸せは手のひら大がちょうど良い  宇都満知子




「朝顔の姫君」 
光源氏とは従姉妹にあたる姫で、六条御息所の二の舞になるまいと、源氏の
求愛を拒み続けたにもかかわらず、源氏に「思慮深く優しい」といわれ続け
た女性。(17歳)


「紫の上」 
藤壺女御の姪。幼くして源氏の元に引き取られ、理想の女性に養育される。
子供にこそ恵まれなかったが、源氏との愛は深く、彼女の死後、源氏は出家
を決意する。(18歳)



噛む程にほんのり甘くなる言葉  津田照子






     筝を奏でる末摘花を覗き見る源氏と頭の中将


 


「末摘花」
故常陸宮の娘。
源氏は、琴の名手との噂に心惹かれて、その元に通うが、古めかしいばかりの
うえに、赤鼻で不器量だった。しかし、その一途さに打たれ、源氏は晩年まで
面倒を見る。(18歳)


「源典侍」(げんのないしのすけ) 
家柄もよく才気もあり、60歳近くなるのに色香衰えずの女性。
源氏はさほどの気はなかったが、頭中将と張り合って言い寄る。(19歳)




ばあちゃんにピンクの髭が生えてきた  平井美智子




「朧月夜」 
右大臣の六の君。姉は、源氏の母・桐壺更衣を憎み通した弘微殿女御である。
源氏の異母兄・朱雀帝のもとに入内する身でありながら、源氏と恋に落ちる。
政敵・右大臣の娘・朧月夜の君と関係を結んだことから、朱雀帝への謀反を
疑われ、須磨へ追い払われる不遇の時を迎え破目になる。
姉は、源氏の母・桐壺更衣を憎み通した弘微殿女御である。(20歳)



   


           光源氏と花散里




「花散里」 
桐壺帝の女御のひとり。麗景殿女御の妹。
誠実な人柄で、熱い恋の相手ではないが、最後まで源氏の元に暮らす。
夕霧の養育や玉鬘の教育をまかされ、紫の上とも仲がよかった。(25歳)


「明石の君」 
明石の入道の一人娘で、明石に退去中の源氏と結ばれる。
源氏の帰京後、娘(のちの明石の中宮)を産む。(27歳)




満開で値段を下げていく花屋  奥山節子






    可愛い息子夕霧を抱く光源氏




「光源氏は おっさんになった」




「夕霧」
光源氏と葵の上との間に生まれた子。
生まれてすぐに葵の上が他界したため、祖母(葵の母)の元で育てられる。
源氏とは違って、真面目な性格。幼馴染の雲居雁を妻として迎える。


「雲居雁」
頭の中将の娘で、後に夕霧の妻となる。


「柏木」
頭中将の息子で、いとこの夕霧とは仲よし。
源氏の正室である女三の宮を偶然垣間見て一目惚れし、懐妊させてしまう。
女三の宮との関係が、光源氏にばれて嫌味を言われ、恐怖のあまり体を壊し
この世を去る。


「冷泉帝」
光源氏と藤壺が密通して出来た子で、光源氏そっくり。
表向きは桐壺帝の子として育ち、のちに帝になる。
母である藤壺がなくなった後に、自分が不義の子であることを知り苦しむ。


「女三ノ宮」 
葵の上に代わる源氏の正妻。朱雀院の第三皇女。
幼くして降嫁した皇女と源氏の間には、愛が深まらず、女三ノ宮は、柏木と
密通、不義の子。薫の誕生という悲劇をもたらす。




ジェンダーの波にクラゲが漂って  村山浩吉




「明石中宮」
匂宮の母。光源氏の長女で、母は明石の方。紫の上の養女となる。

「玉鬘」(たまかずら) 
頭中将との間にできた夕顔の忘れ形見。
母と死別後、筑紫で成長。夕顔の面影を残し美しい娘に成長し、上京後は源氏
の庇護を受け、その美しさに、多くの貴公子から求婚されるが、武骨な髭黒の
右大将に力づくで妻にされてしまう。(35歳)






冷泉帝の中宮の座を巡り、弘徽殿大后側と梅壺側絵合わせのやり取り




「梅壺女御」
六条御息所の娘。亡きあと源氏が養子として引き取った。
冷泉帝に入内し梅壺女御となる。絵が得意。





見てごらん斜め後ろの影法師  徳山泰子




「光源氏は爺さんになった」




「薫」
光源氏と女三宮の間の子(父親は、実は光源氏ではなく柏木)。
宇治十帖編の主役。生まれつきよい芳香を放つことからこの名で呼ばれた。


「匂宮」(におうのみや)
明石の中宮(源氏の娘)と帝の間に生まれた第三皇子。源氏の外孫。
薫とともに育った幼馴染みで、薫をライバル視している。




名ばかりの立秋として蕎麦の花  前中知栄






     いよいよ容態の悪くなった柏木を夕霧が見舞う。

同じような過ちを犯した源氏と柏木ですが、桐壺院の愛を疑うことのない
源氏は恐縮することはあっても、生き続けることができ、一方柏木は、
源氏に許されることを求めて死に向かうことになった。






柏木
柏木の一周忌が巡ってきた。
源氏は、〔源氏の妻女三宮と柏木の子〕の代わりに丁重な布施を贈った。
裏の事情を知らない柏木の父致仕太政大臣〔かつての頭中将〕はそれに感謝し、
悲しみを新たにする。
女三宮の出家、落葉の宮の夫の死と、相次ぐ姫宮たちの不幸を嘆く朱雀院から、
女三宮のところに筍が贈られてきた。
それを生えかけた歯でかじる薫を抱きながら、源氏は今までの人生を思い、
また薫の幼いながらも、高貴な面差に注目するのであった。
秋の夕暮れ、夕霧は、柏木の未亡人落葉の宮を見舞った。
その帰途、落葉の宮の母一条御息所は、柏木の形見の横笛を夕霧に贈る。
その夜の夢枕に柏木が立ち、笛を伝えたい人は、他にあると夕霧に語る。
後日、源氏のもとを訪れた夕霧は、明石の女御の御子たちと無心に遊ぶ
薫に、柏木の面影を見る。そして源氏に柏木の遺言と夢の話を伝えるが、
源氏は話をそらし「横笛」を預かるとだけ言うのだった。




樹木葬近くで遠い物語  下谷憲子





「桐壺」から「藤裏葉」までが源氏物語33帖・第1部です。
ドラマの中で紫式部は「33巻」までできましたと 語っていましたね。
その33巻目が「藤葉裏」です。





          「藤葉裏」
 "春日さす藤の裏葉のうらとけて  君し思はば我も頼まむ "


四月の初め、内大臣(頭の中将)は、「藤花の宴」夕霧の若君を招かれ、
雲居雁の姫君との結婚をお許しになった。
六年ぶりの再会を果たした二人は、ようやく結ばれます。
四月の二十日過ぎには、明石の姫さまが、春宮のもとにご入内なさって、
これを機に紫の上は、その後見役を実母の明石の君とお代わりになった。
八年ぶりの姫さまとのご対面に涙を流す実母の明石の君と、これまでその成長
を見守ってきた紫の上
源氏の大殿を支え抜いてきた、美しくも誇り高い二人の女性の、これが初めて
のご対面でした。




鉢巻きをきりりのんびり最後尾  森井克子




「その他」
弘徽殿女御(こきでんのにょうご)
桐壺帝の妃。朱雀帝の母。桐壺帝が、第一皇子を産んだ自分よりも
桐壺の更衣を溺愛することに強く嫉妬して、桐壺をいじめた。


「冷泉帝」
桐壺帝と藤壺の宮の子と認知されるが、実は光源氏と藤壺の子。
藤壺の没後に出生の秘密を知り、帝位を源氏に譲ろうとするが断られる。





         秋 好 中 宮




「秋好中宮」
六条御息所の娘。頭中将の娘(弘徽殿女御)を妃とする。
玉鬘に好意を抱くが妃にはできず、後に玉鬘の娘を寵愛する。


「頭中将(とうのちゅうじょう)」
左大臣家の息子であり、光源氏のいとこ、葵の上の兄。
光源氏にとっては親友であり、恋のライバルでもある。
「藤原惟光」(これみつ)
光源氏とは乳兄弟である。光源氏に誠実に仕え、
光源氏が最も信頼する家来である。


「藤典侍」(とうのないしのすけ)
惟光の娘、夕霧の妾。五節の舞姫をつとめたところ、
夕霧に見初められ、愛人となり、数人の子を出産する。


「髭黒の大将」
色黒の髭面であることから、髭黒の大将と呼ばれる。
玉鬘に恋焦がれ強引に結婚してしまう。今上帝の伯父。




本日の象のお風呂は右の脚  くんじろう

拍手[3回]

N極とN極だったわたしたち  森乃 鈴






          「源氏物語画帖  桐壺」  (土佐光吉)
第三章 光る源氏の物語 第三段 高麗人の観相、源姓賜わる。




母の更衣亡き後、宮中で幼い日々を過ごす若宮は、皇子でありながら、
親王から臣籍となり、源氏の姓を与えられた。
それは渡来の観相家に若宮を占わせたところ、一目見るなり稀有な相に驚き、
「若宮は帝王の相であるが、帝になれば、災難から逃れられない」
と、予言されたからであった。
この後、光り輝く美しさ故に光源氏と称され、光る君と呼ばれることになる。




搭乗ゲートで有酸素運動  森田律子




式部ー夢枕-③






            源氏元服(十二歳)
この君の御童姿いと変へまうく思せど12歳にて御元服したまふ
居起ち思しいとなみて限りある事に事を添へさせたまふ。





「夢枕-前号までのあらすじ」
すべてに優れた二の皇子に、弘徽殿女御右大臣は、気が気ではありあせん。
「一の皇子を早く皇太子に」と、つめよられ、なお迷うを見て、靫負命婦
「順序と分」が大切と説きます。
そんな大人たちの思惑をよそに、二の皇子(光る君)は心優しき少女、花散里
と出会い、はじめての温もりを感じていました。





結局はなぜかあなたにたどり着く  鈴木かこ




「一の皇子立坊の宣旨が下りた右大臣邸にて」
やはり皇太子は、弘徽殿女御から生まれた一の皇子でした。
右大臣に仕える女房や典侍たちが一の皇子の立坊を祝す宴に集まってきます。
「弘徽殿女御さまの一の皇子さま、御立坊おめでとうございます」
「おめでとうございます」
右大臣 「やれやれやっと宣旨が下りた。何年かのち孫が即位すれば私は
   外祖父。帝が幼ければ幼いほど、私は政治に関われるというもの…、
   帝の二の皇子への可愛がりよう、一時はどうなることかと思ったよ」
女房 「いくら才知にあふれ見目麗しくても、二の皇子が東宮に立てば
   世間が黙っておりませんよ」
帝があまりに二の皇子(光る君)に目をかけるものですから、もしや…と
疑心暗鬼になっていた右大臣も、思い通り孫一の皇子の立坊が決まり、
これで一安心、ご機嫌そのものといった様子です。
時の政局を左右する、もっとも強力なカードを握った右大臣、
さっそく胸中には、近い将来の政権構想がふくらんでいきます。




等身大のつもりの夢がふくれすぎ  青砥たか子





        催馬楽 宴楽図 古代歌謡 風俗画
催馬楽とは古代歌謡の一つで、各地の民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を
加えた形式の歌謡。遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われた。





【蘊蓄】-①
邸では「酒じゃ酒じゃ」と、宴がはじまり、右大臣は催馬楽を歌い、踊りだす
始末です。催馬楽とは古来から伝わる民謡を、雅楽風にアレンジしたもので、
くだけた酒宴で歌われました。
曲によって家の繁栄を祝福したり、恋の駆け引きに使われるなど、様々な場面
で活用されていました。
 右大臣が浮かれるのも無理はありません。
「皇太子の外祖父」という、当時、野心を持つ男たちなら誰もが欲しがる切り
札を手に入れたのですから。孫の一の皇子が帝に即位すれば、自分は摂政、
関白になれる。当時は、帝の権威など飾り物で、この摂政・関白こそが政治の
最高権力者でした。それもこれも、帝との間に男の子をもうけるという、
娘のファインプレイのお蔭。右大臣と弘徽殿女御、政権レースは、この父娘が
大きくリードすることになったのです。




玉葱を刻むジョンガラ節に乗り  藤井孝作




【蘊蓄】-②
古来、お酒といえば祭礼に供えられる神聖なものでしたが、平安時代になると
楽しむためのものとなり、自然と種類も増えていきました。
宮中には、造酒司と呼ばれる部門があり、そこで、節会や神事の酒を醸造して
いました。
醸造された酒の種類は、十数種類にものぼり、甘口、辛口の清酒、濁り酒、水割
りで飲む酒、さらには、甘酒に似た酒までつくられていました。
 もはや天下を手に入れたかのような右大臣ですが、政権争いの最大のライバル
左大臣。その左大臣家の長男が直房こと、頭中将です。
良家の子弟らしい明るく屈託のない性格と、才能に恵まれ、後に光源氏と並ぶ
貴公子となります。
馬に乗り弓を射る姿は、じつに男性的で生き生きとしていて、それまで光る君
育った宮中の女性的な雰囲気とは違ったものです。




身体からたまに奇妙な音がする  青木ゆきみ





          「伊勢物語絵巻」  (東京国立博物館蔵)
伊勢守の屋敷にある厩の様子。
手前には鳥や魚を料理する人々が描かれている。
屋敷奥の厩では馬たちが餌代に置かれた草を食べている。




【蘊蓄】-③
平安時代の貴族たちは、徒歩で移動することは稀でした。
最も一般的な移動手段は牛車でしたが、時には馬にまたがることも、牛車より
も手軽、おつきの人数も最小限で済んだことから、人目を忍んだり、遠出を楽
しんだり、急用の場合は、りわけ利用されたようです。
さしずめ、牛車がリムジンなら、馬はセダンやスポーツカーというところです。
そのため平安の男たちは、馬を上手に乗りこなせるようにしておくことも、
必須の要件でもありました。
 周囲の大人たちの思惑通り、東宮に立つことになった一の皇子の皇子ですが、
学門にしろ武芸にしろ、どうもぱっとしません。
それなりに気品もあり、人柄もよかったのですが、気がつけば、いつも弟の
る君の引き立て役です。
頭がよく性格も強く、そのうえ政治力もあるスーパーウーマンの弘徽殿女御
息子にしては、万事控え目で消極的な性格でした。
それもこれも、あまりに強い母をもったせいなのでしょうか。



人間も塩でしめるとしゃんとする  井上恵津子






          「春日権現験記絵」  (東京国立博物館蔵)
鷹狩りに出かける若君が手に鷹をのせている。
そのそばに狩猟用の犬が鎮座している。




「町では人々は二人の皇子の噂でしきりです」
「やっぱり二の皇子のほうが、帝の器ではないかねえ」
「かえってダメじゃないかね。立派過ぎる器は、ほかを寄せ付けず寄り付き
 にくい」
「そう 国政の基の人の和が乱れることになるかも」
「二の皇子の身内は二条の屋敷で細々とお暮しの御祖母様だけに」
「右大臣一族の後見の力には敵わないさ」
「でも 何たってあの可愛さに度胸もいいしさ 鬼もにっこりだ」
「笑えないのは弘徽殿の女御と右大臣だな」
それぞれ好き勝手なウワサをして話がはずみます。




 世間にも、光る君が何をやらせても、ほれぼれするような才能を見せること
は知れわたっています。むしろ、その計り知れない潜在能力が、人々を不安に
陥れるほどでした。
はたしてこの神童は「将来が楽しみ」なのか「末恐ろしい」のか…人々はひそ
かに噂し合うのでした。それにつけても、その光る君を、孫の一の皇子と較べ
てしまう右大臣。その心中は、さぞかし歯痒かったでしょう。




聞き飽きたお伽ばなしが子守歌  古崎徳造






        「源氏物語画帖 末摘花」  (土佐光吉筆 京都国立博物館蔵)
ある日、末摘花邸に忍んだ光源氏のあとをつけた頭の中将は、
邸から出てきた源氏の前に現われ、驚かす。




雨夜の品定め 光源氏と頭の中将
直房(頭の中将)は、考えも自由な若者だったようです。
光る君と直房は、年の差、家柄や立場の違いなど気にせず、苦境に立った時も
助け合う友人となります。特に青春時代は昼も夜も一緒にいて、学問も遊びも
恋愛も、時には、一人の女性を競い合いながら過ごしていきます。
健康的な活力にあふれる直房は、ややもすると、なおやかな流れになりがちな
この物語に、溌剌とした風を吹き込みます。





ほらほらと笑い袋を持たされる  木口雅裕






          釣  殿
貴族たちが暮らす寝殿造のなかで、池に面して建てられていたのが釣殿です。
もとより釣殿は、釣りをする目的で建てられたものでしょうが、涼をとったり、
寛いだり、船を出したり、あるいは、宴、観月、詠詩詠歌、管絃、雪見花見、
時には紫式部などは執筆の場所にもなりました。





 帝位とは、孤独でしがらみの多いものです。桐壺帝もそうでした。
その点、一の皇子の立坊が決まり、光る君は、将来の帝へのパスポートは失う
ことになります。その代わり聡明なこの皇子は、直房との交遊など、皇太子で
あれば、味わうことのできない自由を楽しみ始めたようです。
さて右大臣邸では、寝殿の南の池にある風流な釣殿で、気の合う父娘が語り合
っています。なにやら悪意のある話のようです。




しがらみがやっと切れたか流れ星  靏田寿子



 光る君の才能のなかでも、右大臣が恐れたのは、その人間的な魅力でした。
人の目を惹きつけて離さないスター性。
こればかりは、持って生まれたもので、教えることはできません。
左大臣の長男・直房を婿に迎えるプランには、政治的な計算もありましたが、
二の皇子と同じ天性の輝きを放つこの若者を、自分の一族に入れることによって、
何か期することがあったに違いありません。


「血のつながりこそが繁栄のもと」という弘徽殿女御の感覚は、当時の貴族社会
ではごく普通のこと。愛こそがすべてだった桐壺帝更衣はむしろ異端でした。
権力欲が強い右大臣は、政略結婚という手段を使い、なんとかライバルの左大臣
も抱き込み、さらにパワーしようと目論みます。
しかし、左大臣は、公正な政治感覚の持ち主です。はたして右大臣の思い描いた
シナリオ通りに事が運ぶのか…。




妙案ださすが爺じの世迷言  北谷敦美

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