玉子酒玉子抜いたらもっと好き ふじのひろし
地口行灯
「江戸のことば遊び」-地口
江戸時代に庶民の間に流行り、現在でも親しまれている「ことば遊び」
に「地口」がある。地口とは世間で普通に使われているコトバに語呂を
合せた洒落、言葉遊びのことで、上方では「口合せ」と呼ばれる。
地口は「似口」「二口」口合せは「比談」「比言」というように、本
語に似寄った言葉という当て字をされたことからも分かる。
享保年間(1716-36)ころから流行り出したといい、当初は、
「下戸にご飯」(猫に小判)など掛詞を狙った単純なものであったが、
後に多様化、複雑化して様々な「言葉遊び」が創り出されていった。
この頃は笑い転げる事減って 荒井加寿
地口の流行のきっかけとなったのは、地口付きであったといわれる。
これは、江戸時代を通じて人気を博した俳諧の前句付けにあやかり、
雑俳の宗匠が金儲けのために知恵を絞って考え出したものである。
前句付けとは、点者(出題兼採点者)から与えられた前句に、投句者
が句を付けることである。
これに対し、より平易な地口付きは、点者から題を出さず、投句者が
自由に文句(地口)を作って投稿し、それを点者が評価するというも
のである。投句者は入花料と呼ばれる投稿料を添えて投句し、高得点
者には褒美として反物や塗物道具、煙草入れなどが与えられた。
キリンの絵キリンの首だけを描く くんじろう
バッハの親離れ 河童の川流れ
文政8年刊の『我衣』(加藤曳尾庵)に地口付きの実例が紹介されて
いる。代表的なものが謡曲『高砂』の「梅花を折って頭にさせば」の
地口で「梅花を付けて頬紅させば」(梅花は当時、有名な化粧品であ
った梅花油に掛けている)その下に女性の半身絵を載せている。この
絵から地口に掛けられた言葉を容易に読み取ることができたのであり、
のちに流行した「地口絵」の前身ともいえるものであった。このほか、
稲荷社の祭礼の際、地口付きを祭行灯に応用した地口行灯が、境内や
道筋に並べられた。地口とそれを意味する絵を描いた「行灯」で、作
者の機智を競うとともに、江戸の風物詩としてたのしまれたのである。
僥倖をハシビロコウは待っている 岸井ふさゑ
次に、地口などを収録した文化11年(1814)刊「冨久喜多留」
の中から摂津国一ノ谷の蕎麦屋における亭主と江戸からの旅行者との
やり取りの場面をみる。
『摂津の国一ノ谷は、古元歴のころ、源平の跡とて、平家の公達、無
官太夫敦盛の墓とて、何人が建てけん、五輪の石碑残れり、今はその
前並木の方に、海の面を見晴らしたるところに蕎麦を商う者ありて、
往来の旅人を日の丸の扇にて呼びかけ「ソバのあつもりあがらんか、
塩梅義経」という。
203高地で亡父みつけたわ 杉浦多津子
地口好きの江戸者、これを
聞きて喜び「代銭はいかほど」といえば「あつもり16歳の時」とい
う。「これは面白い。供にも食わせん」とも盛、これ盛と何杯も食い
「これでは平家の24もりも食うたであろう。外に酒もりがなくては
ならぬ」といえば、亭主「旦那、秀句口合はえらいもんじゃ。有盛有
盛」と出す。その時、江戸者、有合う呉水茶碗を押っ取り「イョ、喉
の守(かみ)呑つね公」と賞めれば「イヤ我こそは剣びし五位の上戸、
胸元の義経と名乗る上は、平家の一文も払いはなし」と駆け出す。
亭主肝をつぶし、供の者を引き止め「こなさんも酒を飲んだ。梶原の
三度の掛けは致さぬ。代物が浦の浪銭を、この場において払った払っ
た」といえば「イヤ、おれは梶原ではない。義経の御内において」
「なんと」「酒をただのむじゃ」
ペテン師のぺを掬うスプーンはあるか 酒井かがり
二回三回と読み直さないと分かり難いですね。大意は次の通り。
平家滅亡へと続く摂津国福原での一ノ谷の戦いは、江戸時代において
も軍記物の『平家物語』や『吾妻鏡』謡曲『敦盛』などで広く知られ
ていた。一ノ谷の戦場跡に誰とも知らず平敦盛の墓が建立され、その
前で「敦盛蕎麦」を売る店があった。
これは「温かいもりそば」(熱盛り)と「敦盛」をもじった掛詞であ
り「そばのあつもり…」の口上で当時有名であったという。
地口の好きな江戸からの旅人は、口上を聞いて喜び、供のものも二
名と店に入ったのである。平家一門に多い「〇盛」という名に掛けて、
供の者を「とも盛」「これ盛」と呼び、何杯も食べた様子を「平家の
二四もり」と喩え、客が蕎麦の他に「酒もり」が欲しいというと「有
難有難」と答えている。
腕組みをして思慮深く見せている 新家完司
また、喉の守(かみ)呑つねは「能登(のと)守教経(のりつね)」
剣びし五位の上戸は「検非違使五位府(けんびしごいのじょう)
胸元の義経は、源義経のこと。
「剣びしは、摂津の銘酒・剣菱」が掛詞になっている。
梶原の三度の掛けは、平家物語で有名な「梶原の二度かけを引用。」
これは一ノ谷の戦いで梶原景時が、生田の陣営に突入した際に、平家
方の反撃に遭って一旦は引き上げるが、息子景季(かげすえ)を助け
に引き返すという逸話である。
代金を請求してくる亭主に対し、供の者が「自分は助けられた景季で
はなく「酒をただのむ」(佐藤忠信)と言っているのである。
見開いた目は摩周湖になった 和田洋子
アイ―ンしたい アインシュタイン
本来、日本語は洒落向きに出来ている言葉である。
とにかく日本人は、記紀・万葉の時代から洒落好きであった。そこで、
枕詞・序詞・掛詞・縁語などという和歌の技法が発達し、他の文芸に
対しても大きな影響を与え続けてきた。そして、これらの技法は、今
もやはり中核的な基礎的な技法である。文学史を繙けば、江戸時代が
洒落の文芸の時代であったことは、一目瞭然である。洒落は「洒落本
滑稽本・咄本・狂歌・また読本や俳諧連句にも、もちろん古川柳」の
中にも、庶民の日常生活の中にも満ち溢れていた。
そんな洒落の中でも、一番単純な技巧である「地口」は洒落の基本と
もいえるもので、長屋暮らしの八さんや熊さん達にもよく解ってもら
えるもらえる洒落であった。では、ここで地口面白世界を覗いてみる。
第4の胃から戻ってきた昨日 中野六郎
地口とは広辞苑に「俚諺・俗語などに同音または声音の似通った別の
語をあてて、違った意味を表す洒落。秀句、口合、語呂合」とある。
例をあげてみると、次のようなものがある。
「舌切り雀」 着た切り雀 来た切り雀
「柿本人麻呂」 垣の外の四斗樽
「一富士二鷹三茄子」 雪見に出たか三谷舟
「ふぐは食いたし命はおしし」 九月朔日命はおしし
「あぶり餅こがしやかとなる摩耶夫人」 焦がしゃ堅となる
「沖の暗いのに白帆が見える」 年の若いのに白髪が見える
ご存知でしたかとカラスの薄笑い 佐藤正昭
川柳には、
田楽の悪い地口は「みそをつけ」
「雨こんこん」と地口行灯仕舞
「鳩の祭り」は石橋で出た地口
「さかな売りまちかね山のほととぎす」 初鰹売りを待ちかねて
「持てぬ奴待兼山のからすなり」 上と同じような意味
などがある。
昔の人は機智や頓智に才能があった。
いやいや「恐れ入りやの鬼子母神」だ。
神様はいかが壺も付いてます 中岡千代美
[5回]
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