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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きてゆくこの世の壁に爪立てて  香月みき




(拡大してご覧ください)

  里見八犬士
左から、犬江親兵衛、犬山道節、犬田小文吾、犬坂毛野、
犬塚信乃、犬村大角、犬飼現八、犬川荘助





「滝沢馬琴」-5 老いの一徹




インターネットを開けば、古今東西故事来歴のいろんな知識を手許で閲覧
できる現代と違い、当時の情報は自身の足で集めるのが普通だった。馬琴
の場合はメモ魔で「耽奇会」に出品された珍しい品々を絵に写したり「兎
園会」で語られた珍聞奇談を丁寧に書き残した。唐の小説「水滸伝」「三
国演義」「西遊記」「封神演義」や「軍記侠勇談」など名作を自家の薬籠
に収め、奇談・怪話、浄瑠璃や歌舞伎の冒険談・人情談に至るまで、あら
ゆる史料を蒐集した。仲間でもない江戸戯作者たちの評伝なども、根気よ
く調査してメモに書き留めている。自分の借覧した本で作品の種になりそ
うなものがあれば、これを自ら手写しする。執筆が多忙になると、筆耕を
雇って手写しさせた。それが何年も続いたわけだから、馬琴の部屋は5百
冊以上の写本で埋め尽くされていた。だから馬琴の小説は、読書や溜め込
んだ写本のなかから作り出された。
世界最大の長編伝奇小説『里見八犬伝』も多くの資料から生まれた。




青や角かなぐり捨てて君の前  酒井かがり







「安房国名所図」(英泉安房に遊歴せし日に写し得たりという真景なり)



『里見八犬伝』は、天保の改革の真っ最中であったため、幕府批判に取ら
れかねない内容も含まれるだけに、時代を足利幕府におきかえ筆を進めた。
物語は、足利衰退期各地で争いが絶えず、里見家の国主・里見義実は戦を
避けて、房総を領土としたところから始まる。たとえば次のような出来事。
 安房洲崎の大海に面して洲崎明神という古寺がある。ご神体は「アマヒ
リノメノ命」。その山麓の石窟に役の行者が祀られている。夜泣きが止ま
ず、日夜むずかり、三歳になってもモノが言えず、伏姫は、女房らにかし
ずかれ、八房犬とともに石窟に7日間祈願をした。異常を除去するための
祈願である。7日目、役の行者の化身と思われる老人から、護身用の数珠
を貰う。数珠には「仁義礼智忠信孝悌」の八字が刻まれている。その日か
ら伏姫はむずかることはなくなった。




バリバリを絞ると溢れ出る涙  合田瑠美子







  渓斎英泉房総図






馬琴は、上の文のように『八犬伝』物語の発端になる安房(千葉)のこと
綿密に書いている。しかし、馬琴は実際に実地調査に出向いたことがない。
また主要な舞台として描いている上州(群馬)荒芽山とか庚申山(こうし
んやま)も実在するものかどうかも疑われている。江戸を中心に関八州と
甲信越を除けば『八犬伝』に出てくる地理は、極めて怪しいのである。
また八犬士はそれぞれ仲間を探すために、伊豆七島や奥州まで彷徨ったこ
とになっている。チャンバラ場面の激しい小説が、そこでは一つの事件も
起こっていない。逆に馬琴が若い頃、旅をした京都での親兵衛の活躍は詳
しく表している。すなわち馬琴の狭い生活圏を飛び出た舞台は「兎園会」
「歴史書」などの資料などで得た産物なのである。房総のことは、その
地を遊歴した渓斎英泉から得た情報なのかもしれない。上記の挿絵を含め、
渓斎英泉は、この里見八犬伝の挿絵も数枚描いている。




格子の向こう花魁ですか神ですか  安土理恵             






「老いの一徹」
作家として実力・名声ともに絶頂にあった文政末年から天保初年にかけて
さえ、滝沢家の経済は苦しいとまでいえなくとも、裕福とは言えなかった。
が、いくら気丈な馬琴にも老いが迫ってくるのは、避けられない。
天保5年(1834)68歳の初冬、目脂が出て眼が霞み、行燈の灯りで
は読書が出来なくなった。それは老いてなお勉強をやめられない馬琴にと
って耐え難い不便だっただけでなく、続いておこる数々の不幸のはじまり
だった。天保6年の初夏、馬琴70歳に近く、期待して育てた長男・宗伯
が、一男二女を残し、38歳の若さで消えるように亡くなったのである。
さすがに気の強い馬琴もがっくりしたが、老妻・お百と宗伯の嫁・お路と
幼い孫3人合わせて6人の口すぎは、もっぱら彼の老いしなびた腕一本に
かかってきた。畢生(ひっせい)の大作『南総里見八犬伝』の完成も前途
はるかであった。




挽歌流れてオリオン父を引いてゆく   太田のりこ






しかし不幸は続いた。天保8年7月に娘婿清右衛門が亡くなったのである。
馬琴は清右衛門の出身が卑しいと軽蔑していたけれど、これほど忠実にこ
まめに馬琴のために動いた人はいなかった。実直な清右衛門は、長女・
と結婚していらい、毎日明神下の馬琴の宅を訪れて、雑用を聞き、これを
忠実に果たした。たとえば「半蔵門前三宅屋敷の渡辺崋山のところへ『百
八回本水滸伝』に刷りの悪い箇所があるから値引きするよう、手紙を持っ
て行って返事をもらってこい」と云いつければその通りにしたし、親戚の
誰を読んでこいといえば、すぐそこへ出かけるという具合で、馬琴の足と
なって江戸中を駆け回った。それだけでなく、馬琴の内職に拵える売薬も、
販売元は清右衛門で、月末には必ずきちんと勘定にやってくるし、たまに
は薬の製造をも手伝うほどだった。すなわち清右衛門の死は、馬琴の手と
足を奪ったも同じだったのである。



仏像を間近に罪を数えてる  松本としこ








馬琴の目になるお路



翌年に入ると「老眼いよいよ衰え、細字見えわかず」校正もお路に読ませ
て聞いて誤りを訂正させることになったし、数少ない友人からの手紙も、
路と養子の二郎に読ませるが、2人とも字を知らないから読むことが出来
ない。いまや馬琴は孫の太郎の成長と「八犬伝」の完成だけに生きがいを
感じていた。やがて微かに見えていた左目もいよいよ暗く、もはや自分で
書くことは不可能となった。孫の太郎は14歳ともなれば、鉄砲同心とし
て勤めに出なくてはならなかったから、お路に口述筆記させるよりほかは
ない。お路は医者の娘だから、無学文盲というわけではなかったとはいえ、
和漢古今東西にわたる博学の、馬琴の注文通りの難しい漢字をすべて知っ
ているはずがなかった。特に『八犬伝』には難解な文字が多かった。一字
ごとに仮名づかいを教えて初めて筆記できた。




お互いの斜線重ねていく日暮れ  みつ木もも花



女の教養は仮名文字であり、漢文にまでは及んでいないのが普通である。
ところが馬琴は、中国の小説や儒学からいろんな事例を引用するのが得
意だった。典拠はどの本のどこにあると暗記力の強い馬琴が指摘しても、
漢文がろくに読めないお路では、探し当てようもないことがしばしばだ
った。そして一枚書き終わると読み返させ、いちいち教えてフリガナを
つけさせる。もちろん一寸した熟語や句読点のこともよく心得ていない
ので、読み落したり、余計な字を添えて読んだり、教えるほうが、苛々
すれば、教わって書くものは、頭がぼおっとなって泣きだす始末。さす
がの馬琴も筆を折ろうかと考えたことさえあった。




血まみれの旗はそろそろ降ろそうか  桑原伸吉






 

お路の代筆草稿 目が悪化した馬琴の草稿 (早稲田大学総合図書館所蔵)





だが八犬伝の完成は目の前に迫っている。なんとしてでも完成したいと
いう執念で、馬琴はお路を励まし、お路に励まされて口述筆記を続けた。
お路もお百や宗伯のヒステリーに耐えた気の強い女だった。どんなに分
からなくても屈せず、舅に追いつこうと努力した。そして僅かのあいだ
に馬琴の求める通りに筆記ができ、はじめ満足に読めなかった難読文章
や手紙をやすやすと通読するようになっただけでなく、返信もすらすら
書き認めるまで進歩したのである。こうして馬琴にとってお路は自分の
眼であり、手足になった。




思い切り右脳で煎餅をかじる  郷田みや






だから天保12年2月に妻のお百が78歳で亡くなった時、さほどショ
ックを受けなかった。お百はすでに馬琴の生活の圏外にいたからである。
それよりお路の手を借りて『八犬伝』を進めることに没頭した。
そしてお百が死んで半年後、文化11年(1814)48歳にして初輯
を出版してから28年、馬琴75歳、天保12年8月8日ついに『南総
里見八犬伝』(全9集53巻)が完成を見た。
なんと400字詰め原稿用紙で6千6百枚、世界屈指の大長編作品の誕
生である。ただ馬琴の几帳面な性格と老人のもつ気性に従って、作品は
後半から少しだれ気味で、また八犬士の子の時代まで丁寧に書き添えた
ために、読者の興味を削いだ、としても盲目となってからも倦まず弛ま
ず精魂を傾け尽くして不朽の大作を仕上げたところが馬琴なのである。






時どきは水母になっている頭  谷口 義






江戸の町人文化を根こそぎ滅ぼした天保の最中、80に近づく馬琴は狭い
同心屋敷でお路に支えられて、ぼつぼつ合巻や読本の口述を続けた。
が、そこには特筆するような作品は生まれなかった。あるいは琴童と号し
たお路の作かもしれない。孫の太郎は鉄砲同心として朝早く鉄砲の稽古に
赴いたり、当番で勤務に出るようになった。しかし同心の扶持では、一家
の生活が成り立ちにくかった。馬琴はいままで売り惜しんできた『兎園小
説』の原本まで売り払わなくてはならなかった。
この後、馬琴は嘉永元年(1848)11月6日、82歳で老衰死した。






千の風になるからお墓いりません  藤井康信






生涯、馬琴は人付き合いが嫌いで、偏狭で、尊大傲慢だった。狂歌師宿屋
飯盛で同門の柳亭種彦が、若いころ、読本『綟手摺昔木偶』(もじてずり
むかしにんぎょう)を出したとき「この作者、これほどまでには至らじと
思いしが思うにまして上達せり、別人の作れるが如し」と持ち上げた。が、
『偐紫田舎源氏』で大当たりをとると、種彦の作品はみんな「誨淫導慾の
悪書」で風俗を害するものだと攻撃してやまなかった。
為永春水の人情本『春告鳥』では「聞くに堪えずして、捨てさらしむ」と
言った。相手にもこういう態度は伝わるものだから、戯作者の間で馬琴が
敬愛されなかったとしても不思議ではない。
馬琴の葬式は寂しいものになった。




魚群探知機を置く斜線のど真ん中  山本早苗

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