善人の顔になかなかなってこぬ 新家完司
滝沢馬琴
「滝沢馬琴」ー① 山東京伝・葛飾北斎
明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保へと
江戸の暦が小刻みに変化する中で滝沢馬琴は生れ、そして死没するまでに
馬琴は非常に多くの著作を書き、また大都市江戸の日々の生活を知ること
ができる日記を残した。また馬琴の長男・鎮五郎(宗伯)の妻・路も目を
失った馬琴の目となり、自らも馬琴の意志を継いで、日記を書き続けた。
その日記の多くが散逸したり焼失したりしたが、馬琴の生涯や家族、暮ら
し、人柄などが十分かる程度に残る日記で読み取れる。それらを纏められ
た多くの馬琴研究者に敬意をはらい参考にしながら、京伝や北斎と同時代
に生きた馬琴を追いかけてみた。
浮雲に繋がる時のコンセント みつ木もも花
明和4年(1767)6月、馬琴は武士(父滝沢興義)の家に生まれた。
何故このように書くかと云えば馬琴は武士の家に生まれたことを、誇り
にしていたからである。しかし武士とは言え、滝沢家は代々一千石の松
平家に仕える家臣で、武士の身分に属してはいたけれど、主人が一千石
だからその家臣ともなれば、どのくらいの扶持をもらっていたか、想像
がつく。凡そ給与は、1年に2両2分2人扶持と狭い小屋だけであった。
2両2分とは、その頃、江戸では年季奉公の下女・折助・中間・六尺な
どの給金である。
しかし将来の息子の出世の期待をする父は、興邦(馬琴)の幼少期には、
亀田鵬斎に儒書を山本宗洪に医術を、儒者・黒沢右仲に論語を学ばせ、
竹庵吾山の門では俳諧の席にも出させた。さらに占星術や算術など様々
な学識を身につけさせた。この時に故事来歴・古今東西物知りの馬琴が
誕生したのである。
はるばると虹の根っこを狩りにゆく 木口雅裕
馬琴のその人生の出発点となるのは、寛政2年(1790)24歳の時
である。窮屈なお勤めや貧乏が嫌で家を飛び出し、親族・旗本や次兄の
興春のところなど転々としながら、15歳の時、叔父のもとで元服し、
通称・佐七郎を実名を興邦と称した。その後も馬琴は、定まった居所も
仕事も持たず、生業として、医師となるか儒者あるいは、俳諧師となる
かと迷い、医書よりも儒書の方が好きだったが、どれもこれも彼の肌に
合わず、無頼な青春時代を過ごした。
結果的に戯作を書く決意を固め、当時人気随一の戯作者・山東京伝の門
を叩き「弟子にしてほしい」と申し入れたたのが、24歳の時であった。
江戸っ子で気のいい京伝は、
「もの書きは、別に食えるだけの家業のかたわら、慰みにするものだ。
いまの作家は皆そうだ。また戯作は弟子として教えることは何もない。
私をはじめ、昔からいままでの戯作者には、師匠はひとりもいない。
だから弟子入りはお断り。しかし遊びに来たかったらきたまえ、作品が
できたら見てあげよう」
と言い、夢を諦めさせるべく馬琴を帰したという逸話がある。
幸か不幸か出会いのあとのそのあとの 安土理恵
しかしその後も馬琴は、よく京伝のところにやってきた。
が、そのうち占星術に覚えのある馬琴は、占い師で一稼ぎしようと神奈
川に出かけたまま、70日程京伝のところへ何の便りもよこさなかった。
「あの若者はどうしたのだろう。狼にでも食われたんだろうか」
ふと京伝が馬琴を思い出し、冗談を言っていると、ある日、
「ただいま帰りました」
と馬琴が現われた。
「留守中、洪水で畳は腐ってしまうし、壁も落ち、勝手のものも流れて
しまいました。占いのほうも儲からなんだし、どうしたらよいでしょう」
と本当なのか、お惚けなのか放蕩者の一面をのぞかせる。
食いつめた馬琴を、京伝は自分の家の居候において、戯作の代作をさせ
ることにした。馬琴の粘り勝ちで出入りを許されたのである。
翌年、馬琴は大栄山と名乗って黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはた
してにぶきょうげん)を初めて書いた。
A4からはみ出しB5になったは 山本昌乃
しかし京伝が、
「戯作者などになっても、素人の女房は養えない。まだ若いのだから、
武家に奉公するより本が好きなら本屋で働いたらどうだろう」
と忠告したところ、もとは松平家で武家奉公をしていて、それに見切り
をつけて逃げ出してきた馬琴が承知するはずがない。
「いまさら奉公という束縛を受けたくない」
と答を返した。
「それじゃどうして、生活をしていくんだね」
「じつは世渡りの道を二つ考えています。ひとつは太鼓持ち、ひとつは
講釈師です。どちらがよいでしょう」
京伝は呆れたが、
「二つのうちではまだ講釈師のほうがましだろう」
というと、馬琴は急に『伊達記』を呻りだし京伝に聞かせた。
それはとても聞かれたものじゃなかった。
まず今日の息を正しく吐いてみる 中野六助
結局、馬琴は寛政4年に京伝の紹介で興邦を瑣吉に改め、狂歌集や戯作
出版の耕書堂・蔦屋重三郎の手代となって奉公することになった。
奉公の傍ら執筆に精を出し、同5年耕書堂、甘泉堂などから出版した。
この頃は寛政の改革の真っ最中で、戯作の中でも女郎買いをもっぱら主
題とした「洒落本」は禁止となっていたので、馬琴は『花団子食気物語
(はなよりだんごくいけものがたり)』『御茶漬十二因縁』など、一冊
5枚の黄表紙を書いた。垢抜けのした才知を必要とする黄表紙は、堅苦
しく融通の利かない馬琴のNGとするジャンルであった。ましてや笑話と
もなればなおさらである。
しかし嫌いであれ何であれ、書かねば食っていけない。このころペンネ
ームを「馬琴」にした。当初は「京伝門人・大栄山人」と言っていたが、
『花団子食気物語』では「曲亭馬琴」と明記している。
(因みに馬琴の名は『十訓抄』に小野篁(おののたかむら)の「才馬郷
に非ずして、琴を弾とも能はじ」からとったという)。
やがて挿絵の葛飾北斎とコンビを組んで『花の春虱の道行』が当たり、
ようやく戯作者の端っこの方とはいえ仲間入りを果たす。
すっぴんで今日はまあるい爪でいる 津田照子
だが蔦屋に住み込んで戯作を書いていても、小遣い程の銭が入るだけで
苦しさは浮浪生活と大した違いがなかった。
そうした折、養子の口がかかった。相手は飯田町中坂で下駄屋を商う伊
勢屋の娘でお百といった。お百は一度婿をとったが、うまくいかず別れ
再婚相手を探していたのである。馬琴27歳でお百は30歳、三つ年上
であったばかりでなく、すが目で容貌も芳しくなく、教養もなかった。
馬琴はあまり気乗りはしなかったが、京伝と蔦屋の勧めるままに伊勢屋
の入婿となった。決め手は伊勢屋が借家を持っていて、年20両という
家賃がきちんと入る魅力に惹かれたためである。
婿になった以上、伊勢屋清右衛門の看板を継いで、家業に精を出すのが
普通だが、馬琴はお百の無知につけこんで、滝沢の姓のまま押し押し、
履物商売には力を入れなかった。生活費はもっぱら家賃収入と片手間に
始めた手習師匠の収入である。
寛政7年の夏、百の養母が没すると下駄屋も廃業して、作家活動に専念、
翌8年から続々と本をだした。
胸突き八丁越えても茨道続く 武市柳章
享和2年(1802)5月から8月にかけて京坂への遊歴を終えたあと、
馬琴は読本作家として本格的に活動を始めた。間もない享和4年正月、
日本橋の老舗版元・鶴屋喜右衛門の要請で、読本『小説比翼文』(しょ
うせつひよくもん)を執筆することになった。黄表紙や読本の作者とし
て独り歩きを始めていた馬琴は、再び北斎とコンビを組むこととなる。
時に馬琴38歳。北斎45歳。
読本や合巻は挿絵が半分の力を持っていたし、婦女子向けだけに思う存
分和漢の故事来歴の知識の知識や儒教的教訓をひけらかすにはふさわし
くなかったから、馬琴には必ずしもお気に入りの仕事ではなかったが、
やるしかない。それでも馬琴・北斎が組んだ読本は18作品と最も多く、
このコンビが生み出す作品は、大いに人気を呼び江戸中に鳴り響いた。
まだ少し濡れている新しい風 雨森茂樹
『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』 <ちょい読み>
「阿曾忠國の娘、白縫は十六歳の美しい女性であったが、武術を好み、
腰元にまで長刀を習わせていた。その白縫は猴(さる)を飼っていたが、
腰元の若葉に欲情して襲い掛かり、捕えようとするが逃げられてしまう。
その夜若葉は殺され、白縫は猴の仕業であることに気づく。」
読本の世界が開けてから馬琴の名声は、世間の広く知るところとなり、
ほどなくして平林堂より読本の大作『椿説弓張月』を刊行することに
なる。読本とは、文が主体で筋書きが教訓的、かつ伝記的な内容をも
つ小説でポイントポイントに挿画が入る。
漢文調の馬琴の文章に釣り合う力感の漲った絵を描けるのは、当世、
北斎以外に見当たらない。
馬琴はその挿画お画家として迷うことなく北斎を指名した。
お誘いをいただけるならバリトンで 森田律子
「忠國大いに怒り、郎等たちを召し出して、猴を追わせたが、結局、猴は
文殊院という古寺の五重塔に登ってしまい、射ることも捕えることもで
きない。忠國が「塔の上の猴を射落としたものには、白縫を娶わせる」
と告げているところに現れたのが為朝だった。」
目下売り出し中の戯作者・馬琴と、絵師として人気鰻昇りの北斎。
この時期、二人は弓張月を含めて7つの読本を共作することになり、
互いに兎にも角にも時間がなく、お互い挿絵の打ち合わせする暇も
ないほどの忙しなさであった。そこで馬琴は双方の無駄な時間を省
くべく一計を案じた。
「為朝は忠國に許しを得て、強弓を引こうとするが、寺の住持に殺傷を止
められる。為朝は、夢を思い出して、鶴を放った。この鶴が見事に猴を仕
留め、南の空に飛んでいった。そして為朝が源氏の御曹司であることを知
った忠國は、為朝をよろこんで館に迎えた。」
それは馬琴27歳のとき、戯作に耽る方便として飯田町で下駄屋を
営む伊勢屋の入婿に納まっていたが、この自宅に本所林町の甚兵衛
店にいた北斎を「泊まり込みでどうか」と声をかけたのである。
これに北斎が応じた。引っ越し魔の北斎にとって、どこで寝ようが、
居候をするというのは何ら問題でない。馬琴が夜を徹して原稿を書き、
その横で北斎がその挿絵にとり掛かるという、一策である。
そして馬琴が著作堂と名付けた狭い二階の一室で二人は、寸暇を惜し
むように膝付き合わせての共同生活が始まった。
まるで性格の違う天才の二人、火花を散らして日夜、がむしゃらに
仕事に打ち込むが、何か不吉な予感がしないでもない。 つづく。
鎖骨から錆びたナイフがヌッと出る くんじろう
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