仏壇に飾るアリガトウを飾る 田口和代
二条窪観音堂
「二条窪(長門三隅)在住時代の素彦と寿」
楫取素彦は明治維新が成ると、中央を去って帰農の志を抱き、
山口県三隅村二条窪の桜楓山荘に妻・
寿と棲んだ。
そうじょう よじん
当時、幕末騒擾の余燼未だ治まらず、
村人に、ややもすれば不穏の空気さえ見られるので、
寿は、この際、自分が信奉する真宗の教えを聞信させることが、
平和への道であると考え、自宅に近く郷のほぼ中心にあたる地を選んで、
小さい堂
(観音堂)を建て、毎月二回、男女の集合をはかり、
僧侶を招いて、法座を開くことにした。
寿の法話に聴きいっている村人の姿は、
彼らの心を動かして、やまないものがあった。
これにより村内の気風が一変し、
大いに感化を及ぼしたと伝えられている。
さまよえり あれののはてをちのはてを 大海幸生
楫取 寿
寿は、天保10年
(1839)毛利藩士・
杉百合之助の二女として生れた。
母の
瀧は元来聡明な上に、豊かな教養もあり、早くから仏縁に恵まれ、
真宗の法義を仰信していた。
晩年に、真宗の
高徳、島地、大洲、赤松等の諸師の教えを受け、
明治23年、84才で逝去するが、その葬儀に際し、
時の本願寺法主・
光尊上人から、
特に使僧が派遣せられ、法名を
「実成院釈智覚乗蓮大姉」と諡られ、
"国のためつくしてのみか伝えつる みのりの道はふみもたがえず ”
という歌まで贈られている。
この母の姿を近くにみて、寿は信仰心に目覚めたものと思われる。
また憂国の士・松陰という兄がいたことも、
寿にとっては精神的訓化として影響したことも否めない。
紅葉散るあたりはきっと苦労性 原 洋志
二人が住み移った二条窪というところは、
戸数15、6戸という山あいの農林業の集落で藩政時代には、
遠く於福村から大ケ峠、渋木の坂水の峠を越えて二条窪から、
川下約3キロの豊原の舟戸まで年貢米などを運ぶ街道筋であった。
素彦と寿が、その二条窪に居を構えたのは、維新がなり、
明治に改元されて間もない頃
(明治4年)、寿三十才前後の頃である。
それより、素彦が熊谷県
(後の群馬県)の県令に任ぜられ、
同伴赴任するまで、数年間、この地に居住し、
清く美しく法味愛楽の日々を送ったと伝えられる。
仏飯と丸い会話をして生きる 岩根彰子
極楽寺に残っている寿自筆の書
野波瀬極楽寺 第17代住職・蒙照に贈ったとされる。
寿が極楽寺に送った自筆の書き物
(楮紙一枚に和歌が四首)が残る。
包装紙の表面には
のばせ
極楽寺様 楫取
とあり、寿が二條窪時代に、住職・
蒙照に贈ったものとされる。
筆跡は極めて女らしく、
しかも達筆で、女史の教養と人柄を想像させる。
その四首の和歌は、何れも彼女の自作ではなく、
読書や聴聞の上で自分が感動したものを抜萃し書き残したもの。
木綿の風呂敷にトキメキを包む 雨森茂喜
〔旗本一柳とよ姫の辞世に〕
"いざさらば浮世を捨てて法りの船 さとりの岸に今日やつくらん"
〔同行の口すさみに〕
"かんしゃくは持って生れし鈴の玉 あたりさわりになるぞかなしき"
"その中に他力の信の玉入れて またなりもどる弥陀の称名"
(この二首は『妙好人伝』「石見の国柚木の長三郎の口すさみに」)
〔女の身の弥陀の本願にあえる嬉しさは古歌に〕
"雨露にたたかれてこそ紅葉ばの にしきをかざる秋となりけり"
何れも、真宗安心の味わいを詠んだものである。
ともしびやひとりを眠る眠らせる 山本柳花
桜楓山荘跡地と案内板
「楫取素彦のこと」
楫取素彦の明治3年の時点では、三田尻管掌として三田尻在住。
明治4年正月7日には,勅使・
岩倉具視山口下向に付引請掛の任。
3月28日敬親公薨去。
そして葬儀に当っては、
4月28日、勅使・
堀河侍従山口下向に付引請掛を命じらるなど、
多事多用であわただしく、それを最後の大役として勤めた後、
新政府には参加せず、引退し、二条窪に移り住んでいる。
言い訳もせずにあんたは千切れ雲 美馬りゅうこ
素彦が二条窪に居住を構えると、間もなく荒地を開墾して、
村人に、不毛の地を食田に変え、
山林大火のあとへ植林することを教えた。
自ら百姓姿となって村人の間に混り、
率先開墾の鍬を揮いあるいは木を植えた。
少なかった採草場は自ら官に乞うて、
隣村深く入会権を獲得して与えるなど、
大いに村民の利益を増進した。
翌5年2月、足柄県参事
(副知事職)に任命されて赴任するまでが、
二条窪隠棲の日々であった。
ほんものはハートに届くホーホケキョ 新家完司[4回]
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