聞き流すため両側に耳がある 橋倉久美子
秀次郎
玄瑞と辰路の間に生まれた秀次郎は玄瑞の面影を残している。
ということから、
鉢巻姿の玄瑞・肖像画のモデルになった。
「母ちゃんは辰路 母上は美和」
長州藩士・
小幡高政が維新後に語っているところによると、
久坂玄瑞は美声で特に詩吟などは聞く者を感動させたという。
何よりも玄瑞は、身の丈が6尺
(182cm)という、
恵まれた体躯の持ち主である上に、ハンサムであった。
相当持てたことだろう。
ニシキゴイ優雅な腰と色艶と 田口和代
ベストキャスティング
「大河燃ゆ」の玄瑞役・東出昌大くんは秀次郎に何となく似ている。
そんな玄瑞は、茶屋通いが好きだったようで、
東山の
明保野亭や京都の藩邸に近い茶屋・
池庄などへ
しばしば足を向けている。
ある時、玄瑞と馴染みの芸者が明保野亭を出たところへ
玄瑞の命を付け狙う刺客が姿を現したという。
この時、玄瑞が大声を発すると逃げ去ったという話も伝わる。
ひと声はわたしの獏が発します 岩田多佳子
尚、玄瑞の傍らにいた芸者は
辰路とされているが、
玄瑞と辰路は深い仲で二人の間には、
秀次郎が生まれている程である。
一説に馴染みだった芸者は、今日までに判明しているところによると、
京都の花街・桔梗屋に籍を置く女性で、
佐々木ひろ子もしくは、
井筒(竹岡)タツであるという。
また、元治元年
(1864)7月、玄瑞が禁門の変で自刃後、
埋葬された遺骸を玄瑞ゆかりの女性が掘り起こし、
「頭部だけを持ち去った」 とする話も残る。
見たことは忘れてあげる磨りガラス 美馬りゅうこ
秀次郎に似ている東出昌大
この玄瑞ゆかりの女性を、辰路に擬する向きが多いが、
また玄瑞は辰路が自分の子を宿したことを知っていたかどうかも
不明で、玄瑞自刃の2ヶ月後に秀次郎が誕生した。
秀次郎は玄瑞に瓜二つで、その名前
は玄瑞の幼少の頃の名にちなんで
付けられたという。
そして秀次郎が6歳の時
(明治2年)、正式に玄瑞の子であることが、
長州藩に認知される。
しかし久坂家には、玄瑞の存命中に既に養子・
久坂米次郎がいた為、
秀次郎は玄瑞の縁者である長州藩徳佐村の酒造家に託されたと言う。
ステッキの曲り具合は父である 笠嶋恵美子
寝耳に水というべき報せが文のもとに届いたのは、
秀次郎認知からまもなくのことであった。
文(美和)と玄瑞の間に子はなかったため、
姉夫婦
(楫取素彦・寿)の子・久米次郎を養子とし、慈しんでいた。
しかし秀次郎の存在が発覚したため、
楫取素彦、美和の兄・
民治、母・
瀧ら親族一同が協議し、
久米次郎を楫取家に戻して、
秀次郎を久坂家の籍に入れることになる。
美和は亡夫への複雑な思いと、
息子を奪われる悲しみを味わうことになった。
せめてこの一瞬凍らせてみたい 立蔵信子
萩の乱
それでも美和は実家の杉家で兄・民治の厄介になりつつ、
かいがいしく老母・瀧の面倒を見ていた。
ところが明治9年、平穏を破る兵火が萩に上がる。
政府に不満を抱く士族らが起った、
「萩の乱」であった。
旗頭は松下村塾出身の
前原一誠で、500人ほどが従う。
その中に民治の長男で吉田家を継いだ
小太郎や、
まさよし
玉木文之進の後継ぎ、
正誼(乃木希典の弟)もいた。
しかし乱は十数日で鎮圧され、一誠は弟と共に処刑
(享年43歳)、
19歳の小太郎も、23歳の正誼も戦死した。
そして乱に正誼や門人の多くが加わった責任をとって文之進が自決。
民治は官を辞し、2年後に隠居する。
猫も月もどこかえ屋根だけが残る 藤本秋声
話を久米次郎・秀次郎に戻すと、
明治12年、正式に秀次郎が久坂家の後継ぎに決まり、
玄瑞が残した1人の男児によって起きた大騒動はひとまず、
落ち着きを見せた…のだが。
明治14年、楫取の妻・
寿が病没すると2年後、楫取は美和と再婚。
美和は再び、久米次郎の母になる。
一方、辰路は桔梗屋の女将らの仲介により、
竹岡甚之助と結婚をし、
3人の子を授かる。
その中の2番目の子は、烏丸四条の伊吹という呉服屋に養子になる。
この
「伊吹」は、江戸時代文久年間から続く京都室町の繊維商社で、
政治家・
伊吹文明氏に繋がっているという。(文明氏が孫ほんまか
ナ?)
なお、辰路は明治43年で病没、65歳まで生き。
また、美和は大正10年79歳まで生きた。
まっ白い煙で最期飾ります 黒田忠昭[7回]
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