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川柳的逍遥 人の世の一家言
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猫死んで現場に月がある未明  筒井祥文

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    白河南殿跡

≪白河南殿は白河院が造営した御所。

    保元の乱で崇徳院が白河北殿と合わせ、白河殿と称された≫

「保元物語に描かれた合戦の様子」 と

              「保元の乱・史跡の京都を歩く」


7月11日未明、天皇軍が内裏・高松殿を出陣した。

清盛は最大勢力を率いて二条大路を進む。

従うのは経盛、教盛、頼盛、重盛、基盛など一門のほか、

有力家人の平家貞、貞能(さだよし)伊藤景綱、

難波経房(つねふさ)瀬尾兼康(せのおかねやす)など、

総勢300騎。

虹をあおぐ前頭葉に残る足おと  湊 圭史

義朝は、200騎を率いて、

大炊御門大路(おおいみおかどおおじ)を、

源義康は、100騎を率いて近衛大路を、

それぞれ東へ進軍する。

双方に純ななごりを纏う騎士  兵頭全郎


白河殿ではすでに、源為義、平忠正以下、

崇徳方の軍勢が守りを固めていた。

やがて、清盛軍が白河殿に近づくと、

伊藤景綱が名乗り出て、

「ここを固めるのは誰だ」

と大音声で呼ばわった。

切り口は緯度か経度か今日の玉葱  黒田忠昭


名乗り出たのは、

強弓で知られた源氏一の勇者・鎮西八郎為朝である。

「お前の主である清盛すら ふさわしい敵とは思われない。

  景綱なら引き退け」


と相手にしない。

怒った景綱は白河殿に向けて、矢を放ったが、


為朝は動ぜず、

「後生の思い出にせよ」

といいながら、得意の強弓をひきしぼる。

為朝の手元を離れた矢は、

たちまち景綱の子の伊藤六忠直(ろくただなお)の胸板を、

甲冑ごと貫き、


並んでいた兄の伊藤五忠清(ごただきよ)の鎧に突き刺さった。

ゲームセンターから持ち帰る駄目押し  高橋 蘭


これを見た平家軍は、

聞きしにまさる為朝の強弓におののいたが、

このときの清盛の台詞がふるっている。

「清盛がこの門を承って攻める必要はない。

  何となく押し寄せてみたまでのことだ。

  北の門へ向かおう」  


と撤退を命じた。

安全靴履くよう言われる家庭ゴミ  小林満寿夫

それに真っ向から反対したのが嫡子・重盛だ。

この年19歳の血気盛んな若者だった。

「勅命を賜った者が敵を恐れて退くなどということがあろうか。

  続けや若者ども」


と駆け出そうとする。

慌てた清盛が、

「あれ制せよ 者ども」

といい、郎党たちが立ちふさがったので、

やむを得ず、父とともに撤退したという。

うつぶせの空の左胸の勇気  酒井かがり


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      高松殿跡

≪鳥羽院の院御所であり、後白河院はここで即位して里内裏となった。

    保元の乱では、
「後白河天皇方」の拠点となった≫

合戦を勝利に導いたのは、

やはり意気盛んな義朝であった。

清盛に続いて、義朝の軍勢が為朝の守る門を攻めたが、

為朝の弓の勢いの前に、攻め手を欠いた。

勝報が届かないことに焦った後白河陣営は、

第二陣として、源頼政、平信兼らを白河殿に派遣したが、

それでも勝負がつかない。

セイタカアワダチソウの圧巻  山西佳子

そこで義朝が内裏に使者を派遣して、

許可を得たうえで白河殿に火を放ち、


ついに崇徳・頼長を敗走させた。

合戦からわずか4時間、

戦いは後白河方の、圧倒的勝利で幕を閉じた。

摘み取った火を回廊へ解き放つ  きゅういち


この戦いで清盛は終始消極的だった。

最大兵力を有する清盛には、

ここでわざわざ、命をかけなくても、

戦後の恩賞は、保証されているという余裕があった。

それが傍目には、臆病に見えたかもしれない。


武士としての名誉よりも実利をとる、

合理主義者の清盛の性格を垣間みる一幕である。

戦後、清盛の目論見通り、

最大の恩賞を手にしたのは、平家一門だった。


そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子

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      権現寺

≪保元の乱で斬首された源為義の墓と伝わる石塔。

    もともとは千本七条にあったが明治時代に京都停車場によって、

    現在の地に移転された。

    為義の墓は、山門の外にある≫


敵方の処罰は、勝者である清盛義朝にとっても、

つらいものになった。

7月28日、清盛が、

叔父・忠正とその息子たちを六波羅の近くで斬首した。

のに続き、
その二日後、

義朝も自らの手で父・為義と5人の弟を処刑した。

このとき、為朝は逃亡中であったが、

のちに捕らえられて、伊豆大島に流された。

幅寄せをしても線条痕がある  井上一筒


さして仲のよくない叔父一族を斬った清盛に比べて、

実の父や年若い弟たちに手をかけた義朝の心痛は、

大きかったはずだ。

「保元物語」によると、

清盛は自分が忠正を斬ったならば、

義朝も為義たちを斬らざるを得なくなることを見越して、

進んで叔父の処刑に踏み切ったという。

この死刑復活を主張したのは、

後白河の側近・信西だった。

こののち信西自身が、

処刑獄門にさらされるとは、知るよしもなく。


米粒のひとつひとつに遺言書  くんじろう

「その他、保元の乱の跡地ー京都を歩く」

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       成勝寺跡

崇徳院の御願寺で「勝」の字がつく六勝寺のうちの1つ。

応仁の乱で廃絶する。

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    崇徳天皇御廟

保元の乱で敗れて讃岐に配流された崇徳院が祀られている。

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       源氏六条堀川館跡

源頼義、義家、為義、義朝と代々源氏の館があった地と伝えられる。

屋敷の境内の井戸・「左女牛井」の跡を伝える碑が残る。

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            安井金比羅宮

崇徳院を祀った神社で、

後白河院が慰霊のために建立した光明院観勝寺が前身と伝える。

「縁切り神社」としても有名。

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相国寺(藤原頼長首塚)

保元の乱を起こして敗死した藤原頼長の首塚と伝えられる五輪塔。

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   得長寿院跡

鳥羽院の勅願を受けて、

清盛の父・
忠盛が造営した白河南殿に付随する御堂の一つ。

清盛の造営した三十三間堂は、この得長寿院跡を模している


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六波羅密寺(清盛首塚)

平氏の本拠地があった六波羅にある寺院。

 六波羅密寺境内にある清盛の供養塔。

 六波羅には平氏一門の
池殿泉殿などの邸宅が集中していた。

これら 史跡の一直線上に、

八坂神社・建仁寺・清水寺・三十三間堂、後白河天皇陵・法住寺、

があります。

見つめすぎたのか石の眠り  阪本きりり

「保元の乱・マップ」

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