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川柳的逍遥 人の世の一家言
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赤い耳で静かに病んでいく風を聴く  山口ろっぱ


氏康(右中央)氏政(右下)氏規(中央)

「外交坊主ー板部岡江雪斎」

外交坊主という異名を持つ江雪斎は天正17年(1599)7月に秀吉と会見し、

「真田家の上州沼田城を北条氏にくださるならば北条氏政を上洛させる」

という約束をもって、勇躍小田原に戻ってきた。

ところが同年11月、沼田城を受け取った北条家臣・猪俣邦憲が、

真田領とされた「名胡桃城」まで奪取してしまう。

これに激怒した秀吉は、一ヶ月も待たず、朱印状を発布し北条討伐を決行。

江雪斎を捕らえ約束違反を尋問したところ、

「北条が約束を違えたのではなく家臣の猪俣が勝手な振る舞いをしたもの。

   たとえ約束違反だとしても、主家がそれを敢えてしたものならば、

   家臣はそれに従うのが筋である。

   今さら何を申開きしても詮無きことであり、すみやかに首を刎ねられよ」

と、動じるところがなかった.

秀吉はこの江雪斎の才気煥発を気に入り、

罪を赦し自ら茶を点てて与えたという。

もう無理は効かない骨の叫びです  笠嶋恵美子

江雪斎は田中泰行の子に生まれ、板部岡康雄の後を継いで、

聞かん気の強い主君・北条氏政の右筆・評定衆として仕えた。

また寺社奉行として寺社の管理にも関わっており、

元亀2年(1571)に主君・北条氏康が病に倒れたとき、

鶴岡八幡宮にて病平癒の祈願を行なった。

後に、北条氏が武田氏と同盟決裂すると、

勢いに乗る織田信長と北条氏は同盟を結ぶが、この使者として赴いた。

信長の死後、信濃国をめぐって家康北条氏直が対立したときは、

家康の娘・督姫を氏直の正室に迎えることで和睦を取りまとめている。

これらで外交上手な坊主として、江雪斎の名が知られるようになった。

小賢しいメロンだセレブ語をしゃべる 美馬りゅうこ


江雪左文字
(刀工左文字作)〔国宝〕

北条氏家臣・板部岡江雪斎から豊臣秀吉に献上され、その後徳川家康を経て
紀州・徳川家に伝わった。名前の「江雪」は板部岡江雪斎から。

天正17年、北条氏と豊臣秀吉との間で対立が深まると、

北条氏規とともにその関係修復に尽力したことは先述の通り。

小田原征伐による北条氏の没落後は、秀吉の御伽衆となる。

この時、小田原北条氏に身を寄せていた茶人の山上宗二と親交を持ち、

後に自著の秘伝『山上宗二記』を贈られている。

秀吉没後は徳川家康に仕え、上杉景勝討伐戦に参加の直後の

石田三成挙兵に対して、本多忠勝井伊直政と共に関ヶ原へと先行して、

小早川秀秋の説得を担当した。

上の二枚しか使ったことがない器  島田握夢

しかし、彼の外交がすべて万々歳であったわけではない。

ちょんぼもやらかしている。

武田信玄が死去した際に、

その死を知らず、病と思っていた氏政の病気見舞いの
使者として

武田家に赴くも、「影武者を務めた武田信廉を見抜けなかった」


と言う失態を犯してしまったことがある。

江雪斎は、慶長14年(1609)6月3日に伏見で死去。

享年72歳。
彼に残された人となりは、

「宏才弁舌人に優れ、その上仁義の道ありて、文武に達せし人」 

であった。  (北条五代記)

後悔はしきりあの日の生返事  山本昌乃


  名胡桃城三の丸跡

「猪俣邦憲」

猪俣邦憲は、豊臣秀吉の小田原城攻撃のきっかけを作り、

戦国時代を終焉させた人物として、歴史上最も有名な武将である。

邦憲は北条氏邦の奉公人であった。

天正11年(1583)頃 、猪俣氏に養嗣子として入って、猪俣邦憲を名乗る。

天正15年、箕輪城在番城主・・箕輪城の第11代城代になる。

天正17年、秀吉の命により北条氏は沼田の3分の1の真田昌幸

利根川西への侵入をしないことを約束。

しかし、猪俣邦憲は真田領の「名胡桃城」を奪取したのである。

この名胡桃城攻略は、彼の独断だったのか、北条氏政の命令があったのか、

真実はどこにあるのだろう。

空腹の猫は荒野を一歩ずつ  山田ゆみ葉

「名胡桃城事件」について、『北条記』『吾妻記』『関八州古戦録』など、

江戸時代に著された軍記物語は、猪俣邦憲が単独犯だと断定している。

『北条記』には、

「ここに北条氏邦のうち猪俣小平六範綱が末葉・猪俣邦憲という者、

    知恵分別もなき田舎武者あり」

と紹介し、さらに、この事件が起こったあと、北条家は秀吉に、

「上州なくるみ(名胡桃城)の事はまったく北条下知にあらず。

     辺どの郎従ども不案内の慮外なり」、

(名胡桃のことは田舎者の家来(猪俣)が事情を知らずにやったことです)

と陳謝した、と記している。

人形は首から人形に還る  田中博造

ところが「猪俣文書」では、

実際の北条家は、名胡桃城のことを秀吉に責められた後も、

変わらずに猪俣邦憲を重用し、

上野における重要拠点、沼田城をそのまま預けている。

いよいよ秀吉軍との合戦も近づいた天正18年1月16日には、
               ほしこ  このわた
隠居の北条氏政がこの邦憲に、干海鼠、海鼠腸を贈って、

「上野のことは沼田一城に極まる」と激励し

翌日には、北条氏照(氏政の弟)が、

「その地の取り仕切りについては、

    そのほうが在城しているので安心している」

と邦憲に寄せる信頼を明かしている。

九本の指で暮らしている男  筒井祥文

名胡桃城の強奪については、歴史学者の間でも、

「猪俣邦憲が独断でやった」とする論と、

「裏で氏政が指示を出していた」とする意見に別れている。

どちらにしろ「猪俣邦憲が名胡桃城奪取に関った」

ことに変わりはないが、独断だったのか命令だったのか、

推理する楽しみは、あなたに委ねることにする。

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