ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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淀の方は悪女だったか
勢いのまま沈んでいく夕日 辻内次根
京都妙心寺に残る鶴丸の舟のオモチャ
「淀殿は悪女だったのか」
1588年秋、
豊臣秀吉
は52歳、
茶々
は秀吉の子を身篭ると、
家臣と浮気をした淫乱な女という噂が流れた。
父親は、豊臣家の家臣・
大野治長
か
石田三成
、
歌舞伎役者
か、
という記述が残されている。
この時、秀吉は茶々が好奇の目に晒されず静かに子が生めるように、
京都の淀に城を築かせ、そこに住まわせた。
これをきっかけに茶々は
「淀の方」
と呼ばれるようになる。
翌年5月、豊臣家待望の男児・
鶴松
を出産。
が、僅か3歳で夭折、初子を失い悲しみに暮れる秀吉は、
その年の12月、
自らは
「太閤」
となり、
関白の職を甥の秀次に譲っている。
はいいろにみちる うつつにてさまよう 大海幸生
文禄3年
(1593)
8月、淀の方が2人目の男児・
秀頼
を出産する。
しかし、このときも、淀の方が不倫して出来た子だと噂された。
『萩藩閥閲録』
には、
「淀殿と大野治長は乳兄妹であり、
二人の密通が噂されていた」
という記録が残されている。
そのため、秀頼は秀吉の実子ではなく、
治長と淀の方の子であるとする説が、
当時から囁かれていた。
すべからく仮の器のボクとタコ 田口和代
淀の母・
市の方
は、当時の女性としては非常に長身であったとされる。
淀の方も比較的大柄で、秀頼も大柄だったことでも知られている。
因に歴史研究科が調べた其々の身長は、淀君168cm、お市の方165cm、
豊臣秀吉150cm、浅井長政182cm、豊臣秀頼197cm、石田三成150cm、
(それから茶々の実父ではないかとされる織田信長は170cmである)
即ち、小柄な秀吉から長身の秀頼が生まれるとは、考えにくいのである。
ルイス・フロイス
が聚楽第で秀吉と会見したとき、
「秀吉は150cmほどもないチビであった」
と自身の日本史に記している。
ご連絡ください真っ白な裏へ くんじろう
「絵本太閤記」
によると、こんな逸話が記されている。
ある日、貴重な黒百合の花を献上された
北政所
(寧々)
は、
茶会を開き、茶々にそれを見せて自慢しようと考えた。
しかしそれを見た茶々は、驚きもせず花の説明までしてみせたという。
その3日後、今度は茶々が北政所を招くと、
そこには無数の黒百合が活けられていた。
茶々は北政所の目論見を事前に知り、
使いを山に走らせて同じ黒百合を大量に摘んでこさせたという。
ここに淀の方の傲慢さと意地の悪さを垣間見る。
焼いてみて煮てみて枕草子かな 鳴海賢治
醍醐の花見
(秀吉の左横が淀の方)
「家康に振り回される淀の方」
慶長3年
(1598)
3月、天下の豪遊と言われた
「醍醐の花見」
が行われ、
淀の方も秀吉と一世一代の花見を楽しんだ。
しかし、その直後に秀吉は病に倒れ、62年の生涯を閉じた。
秀吉没後の政治は五大老と五奉行の手に委ねられていたが、
次第に双方第一の実力者、
徳川家康
と
石田三成
の対立が表面化する。
それの歯止めになっていた五大老筆頭のひとり
前田利家
が
没すると、
双方の対立はますます激化し、一気に
「関が原の戦」
へと加速する。
そして慶長5年9月15日、徳川東軍対石田西軍の戦いの火蓋が切られた。
しかし、この戦いは徳川の勝利をもって、たった一日で決着する。
モノローグなのよ雪の匂い火の匂い 山口ろっぱ
徳川勝利の後、家康は淀殿の信頼の厚い
大野治長
を大坂城に送り、
「淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じている」
ことを述べさせ、淀の方は、これに対して感謝の旨を返答している。
毛利輝元
の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、
そこで家康を饗応した際に、淀の方は自らの酒盃を家康に下した後に、
その盃を秀頼に与えるよう強く求め、
家康は、
「秀頼の父親代わりたるべき」
と公に宣言した。
これが淀の方の、未熟であまりにも甘い失政のスタートとなるのである。
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慶長8年2月、征夷大将軍となった家康が、
江戸に幕府を開くと、
淀の方は激しく動揺したという。
しかし家康は秀吉との間で、
「秀頼の成人後、政権を豊臣家へ戻す」
という約束を取り交わしていたため、
次の将軍は秀頼であると信じていた。
7月には、秀頼のもとに家康の孫・
千姫
が嫁ぎ、
秀吉の七回忌には、秀頼とともに家康が施主となって、
豊国神社での臨時祭が盛大に開かれた。
しかしその信頼も脆く、慶長10年家康は、息子の
秀忠
に将軍職を譲る。
このとき家康は、当時13歳の秀頼を二条城に上洛させ、
賀詞を呈するよう促した。
これに対し、淀殿は
「強いて求めるなら秀頼を殺して自害する」
と言い放ち、断固拒んだ。
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片桐且元と淀の方
慶長19年7月の
「方広寺鐘銘事件」
でも、
淀の方は家康に逆らった。
豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘に
「国家安康」
とあることに対し、
「家康を『安』の字で分断しており、不吉」
と家康が難癖をつけ、
交渉役の
片桐且元
は、
「大坂を国替えし、秀頼が大坂城を退去するか、
人質として秀頼公を江戸に詰めさせるか、
あるいは淀殿を江戸詰めにするか」
と大変な三つの難題を突き付けた。
「太閤様の築かれた大坂城を明け渡せとは何事ぞ。
わらわ
秀頼や妾を江戸に人質とは何事ぞ」
淀の方は激怒し、これを拒否したのである。
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方広寺大仏殿の梵鐘事件とは、家康が、秀吉が子の秀頼のために残した
莫大な資金を使わせて、経済的に疲弊させようと企んだことに始まる。
関が原の戦後処理を終えた家康は、
淀の方に京都にある寺社の修復、
再建を促した。
寺社の再建には多額の資金が必要になる。
その並びに家康は、火災で焼失した京都方広寺の大仏の再建を提案。
大仏はかつて秀吉が造立したものであるから、
淀の方は即座に、
その提案を受け慶長13年から再建を開始した。
そして、同19年に大仏開眼供養が行われた。
多額の資金を使い再建した大仏だが、
釣鐘に
「国家安康」
と
「君臣豊楽」
の
文字が刻まれていたことに
家康が噛み付き、難癖をつけたのである。
これが「大坂の陣」の引き金になったのは、言うまでもない。
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こうした淀の君と家康とのやりとりが、
「権力欲に満ちた高慢な女」
として、
今日にも
「淀殿は悪女」
としてのイメージが強く残っているのである。
しかし、家康に近侍した儒学者・
林羅山
の
『大坂冬陣記』
には、
「大坂冬の陣の講和交渉で自ら人質となることも受け入れていた」
捨て身の姿勢が記されている。
淀の方の失政に繋がる秀頼への愛情は、
自身が、父・
長政
、母・
市
との縁の薄さの裏返しとして、
わが子には、絶対に同じ思いをせないという、決意があったのだろう。
終章が割れる守りを見せてから 上田 仁
[5回]
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y2016/05/18 09:30 z
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