忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[676] [675] [674] [673] [672] [671] [670] [669] [668] [667] [666]
ひび割れてひび割れてイエローと叫ぶ  河村啓子


 聚楽第とその周辺

「聚楽第」

秀吉が京都御所近くに聚楽第を完成させたのは、天正15年9月だった。

本丸のほか、西の丸、南二の丸を設け、広い塀を巡らせた広大な平城で、

「聚楽城」とも呼ばれる。

金箔瓦を使った豪華な建物で、その後、北の丸も増築されている。

周辺には豊臣秀長、豊臣秀次、前田利家、細川忠興、黒田孝高(官兵衛)邸と

隣り合って千利休邸などの広壮な邸宅が並び、

一帯は天下人の居城にふさわしい街並みとなっていたといわれる。

虹までの高さに足場組んでいる  清水すみれ


 御陽成天皇行幸図

「聚楽第」は天正13年に秀吉が関白となったのを機に、

政庁兼邸宅として造営された。

ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスがその著書・「日本史」の中に、

「聚楽」の名は、「彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」

と記している。


聚楽第には、天正16年と20年の2度、御陽成天皇が行幸しているが、

同じ場所に続けて、2度も行幸が行なわれたことは、

秀吉にとって最高の名誉と栄光だった。

暖簾の向こうは後陽成トカゲなり  井上一筒

天正19年に、秀吉は後継者であった息子・鶴松を病で亡くした。

そのため、甥の秀次を後継者として関白につけ、聚楽第をその邸宅とした。

自身はその近くに伏見城を築いて移り住んだ。

新たに聚楽第に住んだ秀次は、何度か碁会・将棋会を開いている。

秀次は相当強かったようで多くの大名を将棋の相手に呼んでいる。

将棋に関して、如水も呼ばれ、次のような話を残している。

如水も将棋は強かったが、秀次には負けることも多かった。

如水が負けると秀次は、「お前わざと負けただろう。もうひと勝負しろ」

と言うのである。

一方、秀吉は将棋は下手だったが、

対局者は天下人が相手なので、
わざと負けることがあった。

秀吉は、もちろんそれをお見通しの上で、大袈裟に「勝った勝った」と喜ぶ。

この将棋に如水は、2人の器量の違いをみて、

「秀次は後継者の器ではない」 と悟ったという。

たらればはあんぽんたんの足跡ね  森田律子


  豊臣秀次
秀吉の姉・日秀の子で秀吉の養子となった。

この如水の判断が正しかったのか。

文禄2年(1593)に秀吉の次男の秀頼が誕生すると、

2年後の7月、秀次は、叔父・秀吉に謀反の疑いをかけられ、

高野山に追放のうえ、切腹させられたのである。

文禄4年2月7日の、いわゆる「秀次事件」である。

それに伴い、同年、聚楽第も破却された。

だが、建物の一部は被害を免れ、例えば大徳寺の唐門として移築され、

西本願寺の飛雲閣も聚楽第の遺構と伝えられている。

赤マムシに匙投げられてずっと冬  上田 仁


京都府聚楽第跡出土金箔瓦 (国宝・重要文化財)

聚楽第を破却した秀吉は、洛内での拠点として、京都新城を築いた。

慶長3年(1598)8月に秀吉が死去すると、翌4年9月から北の政所が、

大坂城から新城に移り、関ヶ原の戦いまで暮らした。

また、聚楽第の跡地では,勧進能が行われ,芸能興行の場となる。

やがて人家が立ち並び,「聚楽組」と呼ばれる上京の町組に編成される。

秀吉の後に続け言うのです  畑 照代

【豆辞典】ー(囲碁・将棋)

囲碁は古代中国、将棋は古代インドで発明され、

6~7世紀には、日本に伝わっていたと考えられている。

さまざまな国を経由する中で、各国に独自のルールや道具が発達した。

当初、日本では囲碁や将棋は主に公家や僧侶の趣味として広まった。

時代が下るにつれ、武士や庶民にも普及していった。

ドラマでも、昌幸信繁などが囲碁や将棋をするシーンが登場する。

なかでも戦国武将にとっての囲碁は、

戦いの疑似体験の場であると同時に


静かな空間で精神を研ぎ澄ます修行の場ともなった。

戦略の重要性、大局的なものの見方、的確な判断力、精神の集中など、

厳しい時代を生きる力を養うものと考えられたのである。

とりわけ秀吉は、「太閤碁」と呼ばれる打ち方を考えたり、

家臣に囲碁の戦略性を学ばせるため、

当代一の棋士・本因坊算砂に講義させたりしたという。

サプリメント三度の飯に欠かせない  菱木 誠

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開