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川柳的逍遥 人の世の一家言
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たてよこななめ桃源の風通し  山本早苗

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 『餓鬼草子』(東京国立博物館)

平安末に描かれたという「餓鬼草子」から、

崩れた塀や壁などの様子にも、

末法時代の京の町のありさまを窺いしれる。


「厳島神社の美」  

平安時代末期は仏教でいう、

仏の教えが行われない「末法」の世とされ、

世の中は乱れる一方と考えられていた。

そんな人々が先行きに希望の持てない時代にあって、

清盛は、確かな希望を見据えていた。

その視線の先にあったのは、「海」

盛り上げてと言われ未来の話など  夏井せいじ

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宋船が持ち込んだ陶磁器など

嘉応元年(1169)の頃、

瀬戸内の波は、どのような色をしていたのだろう。

恐らく透き通るような、

瑠璃色に煌めいていたことだろうが、

その光り輝く波の上を、見上げるような船が航ってくる。

頑丈な竜骨をもった「宋船」である。

積まれているのは、

数え切れないほどの「宋銭」を始として、

揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦

のほか、

陶磁器、香料、薬品、筆、硯、書画、経巻

といった、正に七珍万宝と呼ばれた品々だった。

曲尺で測る鯨の鼻の下  藤井孝作

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             日本側からの積載品

陸揚げした後には、

砂金、銅、硫黄、木材、扇、屏風、漆、蒔絵、

日本刀などが積み込まれる。

船楼を目が痛くなるほど、

鮮やかな赤や黄の原色に塗りこめられた宋船は、

やがて真紅に包まれた、壮麗な社の正面へと導かれた。

安芸の「厳島神社」である。

対極の悲哀に天の林とも  きゅういち

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濛気に包まれたこの国を代表する建築物と言っていい。

「・・・・・・おお!」  

と、声を上げるところからしても、

宋船に乗り込んだ商人や水夫は、

海の彼方に浮ぶ小さな島国が、

予想を遥かに超えた文化を持っていることに、

驚嘆したにちがいない。

少し待てば五段活用いたします  山口ろっぱ

こうした貿易相手の目を瞠らせるような、

仕掛けを創り出したのは、

当時、静海入道前太政大臣・平朝臣清盛公と呼ばれた、

平清盛である。

祖父・正盛や父・忠盛に倣って西海を拠り所とした清盛は、

安芸守を拝命した頃に、

厳島神社の主祭神・宗像三女神を信奉するようになり、

太政大臣を辞して、

摂津福原に別荘「雪見御所」を造営するのと、

時を一にして、

老朽化していた厳島神社の大改修を行なった。

A座標に流星群を連れてくる  蟹口和枝

海上楼閣という、これまでに誰一人、

夢にも思わなかった建築物を造り上げたのは、

清盛が備えていた美意識によるものであろう。

清盛の美に対する才能は、

当社に奉納された「平家納経」の芸術性の高さからも、

容易に察せられるが、

同時に、清盛は土木技術においても

抜きん出た才能を持っていたことも充分に想像できる。

揺らす風ならば揺られてもみようか  下谷憲子

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      宋 銭

瀬戸は元々船が通れるだけの深さを持ち、

大船の往来に何の支障もなかった。

ただ、伝説は何らかの真実を語っている。

「わしは航路を開かせられるだけの

  権勢を手に入れたのだ」


という絶対的な自負と事実である。

自負は、就任三か月にして、

太政大臣を退いたことからも窺い知れる。

うわずみの灰汁に命をためされる  皆本 雅

「名誉職的な地位など、余計なものだ」

といわんばかりに辞意を表明し、

前大相国となって、国政に参与する覚悟を固めた。

そして、院政を執る後白河上皇藤原基房との、

合議によって政事を推し進めていった。

とはいえ、地位や立場だけでは、

絶対的な権力たりえない。

「金が要る」

清盛はそれを「日宋貿易」に求めた。

宝石箱になるハコフグの系図  井上一筒


(秋月達郎・「歴史街道」)-Ⅰ  (Ⅱへつづく)

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