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川柳的逍遥 人の世の一家言
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雲占い「今日は出るな」というお告げ  新家完司

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奈良絵本「平家物語絵巻」・殿上乗合事件

(画面をクリックすれば拡大されます)


「殿下乗合事件」

嘉応2年(1170)7月3日、

重盛の次男で13歳の資盛は、雪がまばらに降る中を、

若い侍30騎ばかりを連れて、鷹狩りに出かけた。

蓮台野や紫野で一日中狩りを楽しみ、

夕方になって、六波羅に帰ってきた資盛一行は、

大炊御門猪熊で参内途中の摂政・藤原基房

行列とであった。

いい顔をした時ふっと眼があった  松田俊彦

本来、貴族社会では身分の高い人に会ったとき、

下位の者が馬から降りて、礼をしなくてはいけない。

基房の従者たちは、

下馬の礼をとらない資盛一行の無礼を

とがめたが、平家の権勢をバックにおごり高ぶっていた

資盛の供の侍は、下馬するどころか、

行列をかけ破って、通りぬけようとした。

にんげんが小さい視野が狭過ぎる  内藤光枝

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怒った基房の従者たちは、あたりが暗かったこともあり、

まさか清盛の孫とも思わずに、

資盛をはじめ、供の侍たちを馬から引きずりおろし、

さんざんに辱しめた。

ほうほうの体で六波羅に逃げ帰った資盛は、

このことを祖父清盛に訴えた。

清盛は大いに怒り、

「いかに摂政といえども清盛の身内にこのような

  恥辱をお与えるとは許せぬ、他人にも見くびられるぞ」


と基房への報復を口にする。

プライドの高い鯨で臆病で  中村幸彦

しかし重盛は、

「そもそも下馬の礼をとらない資盛に非がある

  のだから、かえってこちらが謝りたいくらいだ」


と諌めた。

だが、重盛の諌言にも、清盛の怒りはおさまらない。

清盛は重盛に内緒で、難波経遠、瀬尾兼康をはじめ、

60余人の侍を集めて、基房への報復を命じる。

五百羅漢を伊勢えびのヒゲに吊る  井上一筒

そして事件から5日後、

完全武装した300余騎の六波羅兵は、

参内途中の基房一行を猪熊堀河辺で、

襲撃したのだった。

武者たちは逃げまどう従者たちを、

馬から引きずり落して乱暴したうえに

「お前の髻(もとどり)と思うな、主の髻だと思え」

といいながら、ことごとく髻を切り落した。

※ 髻=髪の毛を頭の上で結ったもの

真っ白になったとこまで覚えてる  喜多川やとみ

そして基房の牛車にまで弓を突きいれ、

簾を落すなどの狼藉を加えると、

兵たちは喜びの鬨をあげて、

六波羅に引きあげていった。

基房は参内することもできず泣く泣く邸へ帰ったという。

臣下として初めて摂政となった藤原良房以来このかた、

摂政関白がこのような目にあったのは、

初めてのことであり、

これこそ「平家の悪行のはじめ」であった。

人を憎めば河原の石もなま臭い  森中惠美子

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このことを知った重盛は大いに驚き、

関係した侍たちを罰した。

加えて、資盛に対して、

「このような無礼な振る舞いをして、

入道の悪名を立たせるとは、不孝のいたりである」


といって、資盛を伊勢国に下して謹慎させたので、

人々は大いに感心したという。

未来地図なぞって消して行く微罪  上田 仁

「実際は報復を命じたのは重盛だった」

・・・・物語がいうように、

資盛一行と基地房の行列が路上で鉢合わせして

乱闘におよんだのは事実だが、その後の経過はかなり違う。

実際に基房への報復を命じたのは清盛ではなく、

重盛自身だったのである。


当時の記録によると、

事件の経過は次のようなものだった。

すごすごと帰る胸部診断車  酒井かがり

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      藤原基房

その日(7月3日)は法勝寺の法華八講の初日で、

基房は法勝寺に参る途中だった。

そこで基房の行列は、女車に乗った資盛と出会った。

基房の従者は資盛の無礼をとがめ、

車をうち破るなどの恥辱を与えた。

それが重盛の子であることを知って、慌てた基房は、

乱暴を働いた従者を重盛に引き渡し、

勘当することで事件をおさめようとした。

恐縮しわびを入れたのはむしろ、

摂政基房の方だったのだ。

しゃべったのはペン僕は眠ってた  和田洋子

しかし、重盛はその従者たちを追い返した。

「その程度の謝罪では許さないぞ」

という重盛の無言の恫喝である。

震えあがった基房は、さらに多くの従者を勘当したり、

検非違使に引き渡したりして処罰した。

それでも重盛の怒りはおさまらない。

脱け殻もやっぱり怒り肩でした  山本早苗

7月16日には、二条京極に武者が集まって、

車を待ち受けているとの情報が入ったため、

基房は予定していた法成寺への参詣を中止している。

基房は外出もままならず、

おろおろと数ヶ月を過すばかりであったが、

3ヶ月後の10月21日、ついに事件は起こる。

預かっていたのは傷ついた夕陽  太田芙美代

基房が高倉天皇の元服の打ち合わせのために、

参内しようとしたところを重盛配下の武士達が襲撃し、

前駈5人が馬から引きずり落とされ、

4人が髻を切られたのである。

当時の社会において、

髻を切られるというのは、このうえない恥辱であったから、

基房を徹底的に辱しめようとする、

重盛のねらいは明らかだった。

小数点以下をしばらく泳ぎます  中 博司

この襲撃事件によって、基房の参内は中止され、

天皇の元服の打ち合わせは延期された。

24日には重盛、基房がともに参内したが、

この時は、重盛の方が報復を恐れて、

多数の武士を引き連れていたという。

基房は重盛によって、

泣き寝入りさせられたかたちとなってしまった。

取り巻きを連れてあんたの寂しがり  美馬りゅうこ

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