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川柳的逍遥 人の世の一家言
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茹であがる刹那の蛸の溜息  酒井かがり




            関白秀吉主催の猿楽


関白就任の二日後、秀吉は天皇に拝謁したのち、御所の紫宸殿で大判振

る舞いの「猿楽」を主催した。
ところが、前久の子・信尹や前関白の二条昭実らは宴に出席したものの、
席順に不満を持つ親王や公家の多くがボイコットする。
その上、宴の途中で滝のような雨が降る始末。
秀吉の大セレモニーは、完全に水を差された形に終わった…宴だった。




てるてるぼうず本当は雨が好き  徳永 怜




「秀吉のど根性」
小田原攻め時、秀吉は鎌倉の白旗神社に詣で、鎌倉幕府を開いた源頼朝
の木像を見た秀吉は、頼朝像の背中を叩きながらこう語りかけたという。
「お前と俺とは、たった一人で天下を手に入れたことは同じだ。
 だが、お前さんは源満仲の子孫であり、王族と血縁がある。
 しかし、俺は違うぞ、卑賎の生まれで氏も系図もない。
 それでも天下をとったのだから、俺の功績のほうが、お前さんより高
 いことになる」
そんな秀吉も、関白になった後は、自分の素性を改めさせるべく、さま
ざまな伝説を流させている。
なかにはあたかも自分が「天皇の子である」かのように、記されたもの
もある。地位と相手によって、うまく切り換えているのだ。
いくら下剋上の戦国時代とはいえ、自分の壁は厚かった。
しかし、それをバネにするだけでなく、逆手にとって利用するほどの、
強かさを持っていたことが、秀吉が出世街道を驀進した理由だろう。




太陽は沈むわかっているんだよ  市井美春




      近衛前久




家康ー秀吉関白誕生の立役者・近衛前久




「史上初 関東に下った関白」
関白の近衛前久は、戦国乱世の主役や脇役たちと様々な交渉を持った。
当時の公家の中で、これほどまでに、武家と積極的に交わった人物は顔
を見ない。逆に、武家の側からすれば、天皇家に次いで高貴な彼の血は、
それだけ利用価値が高かったということであろう。
しかし、武士たちがわがもの顔で跋扈する戦国を起用に立ち回ってきた
はずの前久の前に、彼の思惑を超越する男が現れた。
24歳の若き関白・近衛前久は絶望していた。
天皇を補佐する重職にありながら、政治的実権がほとんどないことに気
付いたからである。将来に期待を持てない前久は職務をなげうち、西国
に下向しようと思っていた。その前久の眼前に頼もしい大名が出現する。
1559年(永禄2)、二度目の上洛を果たした越後の上杉謙信だ。




この一歩これが私の歩幅かな  津田照子




          謙信の起請文

近衛前嗣と長尾景虎は、そこである密約を交わした。
そのとき前嗣が血でもって「長尾(景虎)を一筋に頼み入る」と認めた
起請文が現存している。




室町13代将軍・足利義輝の要請を受けた前久は、「関東管領職」を望
謙信との交渉役を見事成し遂げる。
この交渉過程で意気投合した2人は、血を混ぜた墨で書いた起請文を取
り交わし、前久は謙信を、前久は謙信を頼り、東国へ下ろうと決心した。
さまざまな反対を乗り越え前久が越後へ下ったのは翌年の秋。
史上初の現職関白の東国下向であり、はた目には「かんぱくの東国出馬」
と映ったかもしれない。前久の遍歴の始まりであった。




そら豆の花が咲いたよあぶり餅  前中知栄




しかし鎌倉八幡宮社頭で関東管領襲名式を挙行したものの、謙信の関東
制圧戦は失敗に終わってしまう。
謙信の武力を背景に自らの権力回復をという期待が一挙に萎んだ前久は、
「血の盟約」を一方的に反故にして帰京、立腹した謙信との交流はその
後ぷっつりと絶える。




本気かと聞いてくるのは向かい風  柳本恵子





流浪の公家・前久の自筆新古今和歌集 松平不昧公正室蔵




「放浪後、信長の交渉役に就任」
前久にとって従兄弟で姉の夫でもある将軍・義輝が暗殺されて3年後―
1568年(永禄11)9月、義輝の弟でその後継者を自任する義昭
織田信長に守られて上洛する。
ほどなくして三好党が担ぎ出した14代将軍の義栄が病死し、幸運にも
義昭が将軍職を継ぐことになった。
「信長の軍事力を背景に京の治安を回復し、新将軍の義昭と関白の自分
 とで政権に関与できる」
ついに念願のときが到来した、と、前久は考えたかもしれない。




ゴミ箱の底で蚯蚓のスクワット  岩根彰子




しかし運命は暗転する。
同年11月、前久は、突如、京都を出奔、関白職を剥奪されるのである。
原因はよくわかっていないが、義輝の暗殺以来協力的でなかったことを
義昭に恨まれたためともいわれている。
いずれにせよ京を出た前久は、石山本願寺を頼り、河内の三好義継のも
とに立ち寄ったのち、丹波へと流れていった。
この間、隠密裏に越前の朝倉義景をも訪ねた、というから、反信長勢力
の間を渡り歩いていたことになる。




本気かと聞いてくるのは向かい風  柳本恵子




しかし、帰郷できたのは、その信長のお蔭だった。
1575年(天正3)前久は、7年もの放浪生活に別れを告げて京都に
戻る。
前久の出奔後信長と対立した義昭は、すでに京から追放されていた。
案に相違して、信長は前久を優遇する。もちろん信長流の理由があり、
五摂家の筆頭・近衛家の当主というサラブレッドの前久は、対公家のみ
ならず武家との交渉にも利用できる、と見ていたからである。
(五摂家=摂政・関白に任ぜられる五つの家柄)




言いたい事言えぬ男の傍に居る  中川伊都子





近衛家・旧邸




「秀吉に狙い撃ちされた名門・近衛家」
本能寺の変後、主君・信長を討った明智光秀との仲を羽柴秀吉らに疑わ
れた前久は、またもや苦境に陥って、三河の徳川家康を頼る。
家康には以前、松平から徳川への「改姓申請」の折に骨を折ってやった
貸しがあったからだ。
一方、信長の後継者としての地位を確定した秀吉は、源氏である前将軍・
足利義昭に自らを猶氏(仮の養子)とすることを願い出た。
源姓を名乗ることができれば、将軍となることができるからだ。
しかし義昭は、この申し出をきっぱりと拒否。
そこで秀吉は、藤原姓(五摂家)の関白・太政大臣として、政界に君臨
することにしたのである。




釦より少し小さなボタン穴  平井美智子




ちょうどその時、前久とその子・信尹(のぶただ)にとって不幸な出来
事が起きる。
当時、内大臣の秀吉はまず左大臣を望んだ。
そのときの左大臣は信尹である。
無官になりたくない信尹は、関白になろうとして、現職関白の二条昭実
に譲ってほしいと相談した。昭実が応じるはずがない。
2人が、関白職をめぐって押し問答しているうちに、事態は思いもかけ
ない方向へと進む。2家の仲裁を口実に、自らが関白になろうと秀吉が
策動し始めたのだ。




くちびるにツンツン春を試し食い  青砥たかこ





    近衛信尹・柿本人




秀吉に関白就任への同意を求められた信尹は、当然、「関白は五摂家の
職だ」と突っぱねる。ならばと秀吉は条件を出した。
それは、秀吉がまず前久の猶氏になり、関白職はやがて信尹に譲る。
また近衛家に千石、他の4摂家には、各五百石の知行を贈る、というも
のだった。さらに秀吉は追い打ちをかける。自分の提案を突っぱねても、
一条家から関白職を譲られる保証はないぞ――
秀吉の権力を考えれば、要請というよりは恫喝に等しい。
苦慮の末、前久親子は秀吉の提案に屈した。
彼らが条件を飲めば二条家も同意するしかない。
昭実は関白を辞任した。




「ん」と言えば流れは変わるはずだった  郷田みや




こうして羽柴秀吉藤原秀吉となり、関白に任官、公家筆頭の近衛家が
武家筆頭の秀吉に呑み込まれたのは、1585年(天正13)7月11
日のことである。
この年、50歳になった前久だが、数十年間、さまざまな有力武将と積
極的に関わってきた。それもこれも公家の政治力が衰退することに歯止
めをかけたい一心である。
その結果、公家社会が武家に併呑される事態を招来するとは、想像もし
なかったであろう。前久にしてみれば、秀吉が関白に就任したこの日は、
生涯最大の屈辱にまみれた日であった。
前久は関東から九州まで、全国各地へ下向するなど精力的に活動したが、
晩年は、慈照寺(京都市左京区)の東求堂に隠棲した。




人恋しくなるシュガーレスな日暮れ  清水すみれ





           「観能図屏風」  神戸市立博物館藏


観能会ー秀吉は後陽成天皇を聚楽第にまねき、能会をひらいた。
秀吉は聚楽第にきていた大名たちに、
「朝廷にたいして二心はいだきません。また秀吉の命令にもそむきま
せん」という誓いの文をかかせた。徳川家康もそれを記した。




1587年(天正15)に落成した聚楽第で、豊臣秀吉主宰の能楽の会が
開かれた。錚々たる武将の見守る中で秀吉をはじめ、信長次男・信雄や、
信長の弟・有楽斎らも舞い、家康「船弁慶・源義経」を舞った。
その時の逸話が『徳川実紀家康公伝』にある。
「君(家康)は、舟弁慶の義経を演じられたが、元より太っておられ、
 舞曲の節々にそれほどまで御心を傾けていらっしゃらないので、
 とても義経には見えないと諸人はどよめき笑った」





      「見立船弁慶」(3世歌川豊国・東京都立中央図書館)




『名将言行録』には、
「加藤清正・黒田長政・浅野幸長・石田三成・島津義弘らは『さてさて
 常真(織田信雄のこと)は馬鹿者よ。見事に舞ったからとてなんの益
 があるのだと』と、いって嘲った。 家康のことは、
『あの古狸が、作り馬鹿をして太閤様をなぶっている。
 あの姿をみろ。さてさて兵者(心臓男)よ。とにかくいけ好かぬ。
 恐ろしいことだ』と、みな心中に舌を巻いたという」 



蓋をする指に花柳流が出る  きゅういち

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