忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1090] [1089] [1088] [1087] [1086] [1085] [1084] [1083] [1082] [1081] [1080]
過去なんて問わぬ土竜の一頻り  岸井ふさゑ




                    石 尊 詣 青 雲 桟 道    韋 駄 天    (歌川国芳)



秀吉と柴田勝家の戦い------「中国大返し」から一ヵ月。
秀吉が、1万5千の主力部隊を1583年(天正11)4月20日 pm
4時ごろ。賤ケ岳の麓の木ノ本に到着したのが、pm9時ごろといわれて
いるから53㎞をたった53時間で走破したことになる。
 この驚異的なスピードを可能にしたのが、部隊の8割を占める足軽の
装備にあったと考えられる。
当時の足軽の軍装は、甲冑よりも軽い胴丸が主流であったが、それでも
5㎏近くの重さがあり、時速10㎞で走ることは不可能。
そこで秀吉は、足軽たちを、手甲や脚絆などの軽装で走りに走らせた。
戦場に到着してから、槍や胴丸を貸し与えるというシステム「レンタル
具足」を思いついた。 アイデアマン秀吉ならではの知恵である。



農道の端でイタチとご挨拶     斉尾くにこ





    月百姿 山城 小栗栖月    月岡芳年
山崎の戦いで秀吉に敗れ、落ち延びようとする光秀(左奥)と
小栗栖で落ち武者狩りをする村人。


家康ー本能寺の変・その後・episode




「本能寺の変」が起こったのは、1582年(天正10)6月2日の早朝。
その翌3日、信長の居城・安土城では、午後2時前後より信長の妻子ら
を退去させている。
因みに、身の危険を顧みずに行動したのは、蒲生賢秀・氏郷父子だった。
特に、蒲生氏郷は、信長がその才に惚れて、娘婿にした戦国武将である。
当時、氏郷は日野城にいたようだが、父の賢秀が安土城の留守役だった
ため、急遽、安土城へ、迫りくる明智軍と対峙することも覚悟しつつ、
父と共に、信長の妻子らを日野城へと避難させるのである。
                          『信長公記』


がちがちやないか熱湯かけたろか  藤井康信



  
実は、その中に信長の側室「お鍋の方」がいた。
最愛の人の死を知らされた彼女は、悲しみに暮れるのを後回しにして。
即刻、信長の位牌所の確保に乗り出した。
避難先の日野城から岐阜城へと向かい、こちらの神護山崇福寺宛てに
「黒印状」を出したのである。
内容は以下の通り。
「かくべつに折り紙に書いて申します。この崇福寺は、信長様の位牌所
 でありますので、何人といえども寺地を違乱しようとする者があれば、
 おことわりするのがよろしい。そのために一筆申し上げます。
                天正十年六月六日 なべ(黒印)」
                     (『戦国武将』楠戸義昭)



マイナンバー首に吊るして彼岸まで 平井美智子





            蒲 生 氏 郷

蒲生氏郷公の辞世の句。
「限りあれば 吹かねど 花は散るものを こころみじかき 春の山風」
「風なんか吹かなくたって、花の一生はそもそも限りがあり、そのうち
 いつかは散ってしまうもの。それをどおして春の山風は、短気に花を
    散らしてしまうのか。」




書状の日付けは、「本能寺の変」が起きた4日後。
あまりにも素早い動きとしか言いようがない。
ただ逆に、それほど事態は切迫していたとも……。
直ぐにも保護しなければ、大事な織田家の菩提寺が争いに巻込まれる。
そんな危機感がお鍋の方を突き動かしたのかもしれない。



戦場でぶらりと垂らすティーバッグ 西澤葉火




大徳寺総見院の織田一族の墓に眠るお鍋の方




「お鍋の方」
お鍋の方も、織田信長に救いを求めたうちの1人である。
もともと彼女は、山上城主の小倉賢治(かたはる)に嫁いでいたのだが。
小倉賢治は、六角氏に敗れて自刃、大事な息子2人も人質に取られる。
この悲劇に、彼女は果敢に立ち向かった。
なんとしても、息子を取り返すため、信長を頼ったのである。
これが縁で「お鍋の方」は信長の側室となり、人質となった息子2人も
無事救出されたのであった。
なお、信長との間には二男一女をもうけており、信長の家臣らも「お鍋
の方」に敬意を払っていたようである。



押しピンをはずすと君は蝶になる  和田洋子



「殿のご恩を決して忘れてはいけません」
救出された2人の息子「甚五郎」「松千代」は、常々、母から言い聞
かせられていたという。 この2人は、信長の家臣となり、うち1人は
「本能寺の変」にて、信長のもとへと駆け付けて討死している。
最愛の人の死------その悲しみさえも、後回しにして奔走した「お鍋の方」
であった。信長に献身的だった彼女は、その後も、ひっそりと弔い続け
たに違いない。お鍋の方は、京都で没した。
今は、大徳寺総見院の織田一族の墓に眠っている。



時という忘れ薬もありました  平田元三








「中国大返しを検証する」
京都で味方集めに苦戦していた光秀に衝撃の情報が入った。
中国地方で毛利氏と対峙していたはずの秀吉が、
「明智討ちに京都に迫っている」というのである。
当時、信長旗下の主な軍団は、柴田勝家が北陸地方で上杉氏と、
羽柴秀吉が、中国地方で毛利氏とそれぞれ対峙し、
滝川一益は、関東地方で戦後処理に追われていたため、
光秀は、彼らがそう簡単に引き返して来られるはずがないと考えていた。
しかし秀吉は、いち早く本能寺の変の情報を知ると毛利氏と和議を結び、
軍を反転してきたのである。名高い「中国大返し」である。



「目的地周辺」ですっていったよね  須藤しんのすけ




だが、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城から、
2万人の軍勢を、光秀との決戦の場となった山崎までの行軍は生半可な
ものではない。
まず、2万人分の秀吉側の軍勢の食料の確保が必要になる。
すなわち、毎日約20万個のおにぎりを準備せねばならないことになる。
189㎞を6月5日に出て13日に重い鎧をつけ槍を提げ、山崎につく
まで、一日平均25㌔を走破しなければならない。
当時の山陽道は未整備で険しい山道が多く、とくに最大の難所とされる
船坂峠は高低差が大きく、道も狭くて滑りやすく、梅雨時でもあること
から行軍にはかなりの困難をともなったはずである。
(秀吉はこの時の苦労からレンタル武具を思いついたのだろう)



伸びて縮んでその場限りの理想論  高浜広川










「秀吉は光秀の謀反を知っていた」
織田家臣団のなかで生き残りを懸けて光秀との派閥抗争の渦中にあった
秀吉は、「本能寺の変」を事前に想定していたのではないか。
実際に、光秀の謀反の真因に関連して、変からわずか4ヵ月後の天正
10年『惟任退治記』(大村由己筆)に、
『光秀は、将軍足利義昭を推戴し、2万余騎の軍勢を編成して、備中に
 向かわずに、謀反をを企てた。これはまったく発作的な恨みからでは
 なく、年来の逆心があったことを(人々は)知り察していた』
大村らの秀吉側の人間にとっては、光秀が信長に対して「年来の逆心」
を抱いていることは、常識的範疇だったというのである。


偶然をよそおうための距離に居る  大葉美千代





           秀 吉 と 安 国 寺 恵 瓊
  


「秀吉と安国寺恵瓊の密談」
羽柴秀吉安国寺恵瓊を密かに石井山の陣所に呼んで、毛利氏の領国を
平定するための「私の謀を見せよう」と仰り、味方になった武将たちの
連判状を恵瓊に投げ広げた。
 そこに洩れている毛利家の主な武将は、五名にすぎなかった。
恵瓊は肝を潰し、膝を震わせた。
秀吉はこのような計略は、かつて日本にはなかったと思っていたところ、
「毛利輝元殿の謀が深かったため、信長公がお果てになってしまった」
と仰り、したがって、
「今は毛利・吉川・小早川の御三家と和睦して上方に戻り、明智光秀を
 討ち果たして信長の恩に報いたいので、御同心いただきたい」
と、起請文を作成のうえで申し出た。



ややこしい人にややこしいもの貰う  河村啓子




    南 光 房 天 海


「光秀は生きている」
明智光秀は、姿を変えて生き延び、天海であるという説がある。
天海の出自は不明だが、家康の側近として主に外交面で活躍したほか、
江戸城と江戸の街づくりに関して、宗教的な側面から家康に助言をした
といわれている。
家康没後には、「家康を東照大権現」として祀ることを提言し、
これが採用されるなど、家康死後も幕府において強い影響力を誇った。



今しばらくはドクダミのままでいる  岡谷 樹

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開