ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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最古の真田丸・絵図
足裏は今日の復習しています 合田瑠美子
(各画像は拡大してご覧下さい)
真田丸奮戦
大坂の陣直前に
幸村
が築いた真田丸、
その存在は以前から知られていたが、
近年、そのその構造や役割について見直しが進んでいる。
従来、真田丸は大阪城の弱点である南東平野口の防御を固めるべく、
あくまで惣構えの補強として設けられた「曲輪」だとされてきた。
しかし実は、およそ南北220m、東西140mにも威容を誇る、
惣構えの外に築かれた
「独立した城」
であった。
最新の研究によれば、真田丸の周囲には水堀ではなく空堀が巡っていた
ことが明らかになっている。
また南東口は地形的にも弱点というより、むしろ、
天然の要害であったという。
悲しみを瞳の底に書き留める 小池正博
松江歴史館で見つかった真田丸絵図
(上が南)
「真田丸最古の絵図見つかる」
今回見つかった真田丸の絵図は、元禄年間
(1688〜1704)
頃のもので、
真田丸を詳細に描いたこれまで最も古い絵図は、
広島中央図書館所蔵の「摂津・真田丸」宝暦3年
(1753)
とされてきた。
大坂冬の陣
(1614)
で豊臣方の武将・真田幸村が大坂城南側に
築いた出城
「真田丸」
の江戸時代の絵図
(縦28センチ、横41センチ)
が、
2016/10月12日、松江市の松江歴史館で見つかった。
真田丸の絵図は、戦時の布陣を示す略図が多いが、
今回のものは跡地で写実的に描かれたとみられ、専門家は、
「謎が多い真田丸の姿に迫ることができる重要な発見」
としている。
(各紙掲載文参照)
三日月の欠けた部分がわたしです 岩田多佳子
今回の絵図は、江戸時代の武士が研究に用いた城の絵図集で、
松江市の男性が市に寄贈した
「極秘諸国城図」
(74枚)の1枚。
絵画集の包み紙には作製時期を示すとみられる
「元禄」
(1688〜1704)
の
文字が書かれていた。
絵図の北側には
「出丸 廿五(二十五)間程」
と記載があり、
真田丸に
「本丸」
と
「出丸」
があったと解釈できる。
絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長
(城郭考古学)
は、
「真田丸自体に出丸と本丸があったとすれば、
大坂城から独立した軍事拠点といえる」
と話している。
屋台にはガラスの騎士の席がある ふじのひろし
大坂冬陣備立図
(大阪城と真田丸の位置関係)
真田丸の北側には大坂城があり、当時は防御の必要性が低かったと
こしぐるわ
みられるが、出丸の東側には側面を防御する
「腰曲輪」
も描かれている。
また真田丸の南側に一番外側の堀を意味する
「惣構堀」
と記れた堀があり、
堀の底に下りるようなスロープが描かれている。
こうしたことから、
「真田丸の独立性がうかがえる」
というのだ。
真田丸は、幸村が1614年の
「大坂・冬の陣」
で築いた砦で、
戦いのあとすぐに取り壊されたため、大坂城の中にあったのか、
独立した出城として建てられたのか解明されていなかった。
サランラップで包む私の急所 雨森茂樹
[4回]
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y2016/11/02 09:30 z
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