忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[723] [722] [721] [720] [719] [718] [717] [716] [715] [714] [713]
控えめに生きておりますしつけ糸  新川弘子



「淀の方」 永禄12年(1569)~慶長20年(1615)

本名は茶々。妹に(常高院)(崇源院)がいる

織田信長の妹・お市浅井長政の三姉妹の長女である。
             ひろい
文禄2年(1593)(秀頼)を産んだ。

秀吉に正室・ねねや他の側室は豊臣秀吉の子を生んでいないため、

秀吉政権で「お世継ぎの母」となり、力を持つ。

秀吉から淀城を与えられたため茶々は「淀の方」と呼ばれるようになる。

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、秀頼が天下人の地位を受け継ぐが、

秀頼はまだ6歳。

当初は秀吉の正室ねねとともに秀頼の後見に当たったが、

翌年ねねが身を退いて大阪城を退去して京へ移住したことで、

淀が豊臣政権のトップとなった。

答出たのね靴ひもを結ぶふり  森田律子

しかし、この女性主導ともいうべき豊臣政権は政治・軍事面で遅れをとり、

次第に豊臣家臣団の筆頭に過ぎなかったはずの徳川家康の台頭を許す。

豊臣家臣団の内部分裂で「関が原の戦い」が起きるが、

淀は秀頼の出馬を許さず、中立の立場をとった。

慶長19年(1614)「大阪の陣」が勃発する。

その頃には、大名で豊臣家に味方する者はなく、

大阪城へ馳せ参じたのは「関が原の戦い」で家を失った浪人衆のみだった。

嗄れた耳は明日を培養中  河村啓子

淀は自ら甲冑を着込み城内を歩いて閲兵、督戦を行なう。

「秀頼は乳飲み子なり、お袋専制なり」

と評されたように、秀頼には意見を言わせなかったとされる。

幸村たち浪人衆の意見を退けて籠城を決する、

秀頼を出陣させないなど、
淀の判断は消極策に終始した。

一方で秀頼への愛情を何より優先した。

大阪城のトップとして采配を振るうには、いかにも力不足といえた。

ガラパゴスへ帰りたがっている背中  新家完司

後世の人は「大阪の陣」の結果をよく知っている。

大阪方が和議に応じたから負けた、

秀頼が出なかったから負けた、

とその敗因をいくらでも分析することができる。

だがそれは過ぎたことだから言える事で一分先のことも読めないのが現実。

幸村が「さだめなき浮世、明日のことはどうなるかわからない」

手紙でも述べているように、豊臣軍の武将たちは、

「まだまだ勝機はある」
と信じて戦っていた者が多かったはずだ。

豊臣軍の諸将は諦めず、家康を倒すための一手を考えていた。

徳川軍は総大将の家康と息子の秀忠が最前線近くまで出てきている。

「もう」言うな水はしばらく止められん きゅういち


 秀頼出馬を願う幸村

しかし豊臣軍の大将・秀頼はといえば開戦から一度も城内から出ていない。

幸村は秀頼の出馬を何度も願ったが、

その度に淀や首脳陣に渋られ、
実現せずにいた。


秀頼本人も血気盛んな23歳、

前線へ出て采配を振るいたいとの思いは
あったようだ。

だが側近が、淀の気持ちを慮って、それを留めた。

もし秀頼がそれを振り切るほどの気概を持っていたら、

まだ勝敗の行方は分からなかっただろう。

カラフルな画鋲握り潰してる  岩根彰子

敢えて擁護するならば、淀は大阪の陣が始まって以降、

城内では、家康の調略による「秀頼暗殺」の報が飛い謀反の噂が絶えず、

常に疑心暗鬼に陥っていた。

そのために淀は「秀頼を一歩も外へ出さない」という選択をせざるを得ず、

側に置いて離さなかったという。

その状況を打開できるような、頼りになる譜代の家臣が少なかったことが、

豊臣家と淀にとっては、不幸であった。

「定め無き浮世にて候へ者、一日先は不知事候。
 我々事など浮世にあるは おぼしめし候まじく候」

木霊響く振り向かないと決めたのに  加納美津子

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開