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川柳的逍遥 人の世の一家言
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非常口いくつかあってまだこの世  清水すみれ


    真 田 丸

「幸村の出城」

慶長19年初冬、豊臣秀頼を中央に大野治長ら豊臣の重臣に有楽斎

加わり、真田
幸村以下、五人衆との間で「軍評定」が開かれた。

徳川軍を迎え撃つ戦の方針を巡って討議は紛糾する。

大野治長をはじめとする秀頼の側近たちは、大阪城の堅固さを利用した

籠城を主張する一方、戦働きによる武功を望む五人衆は積極的に


徳川勢の出鼻を挫く策を主張した。

散々、議論が交わされたが、結果は、淀君の一言で方針が決まってしまう。

「これだけの城と兵を有しながら、上様自らが野に出て、

 戦う必要がどこにありましょうや」 

つまりは籠城だった。


それを見越していた幸村は、すかさず秀頼に出丸の造成を進言する。

風穴をあけて言いたいことを言う  平井玲子

「敵方は城の南側に主力を配すると考えまするが、一点に城攻めの狙いを

 定めるならば南惣構えの黒門と平野口の間が構えの薄き場所かと、

 そこに攻守両用の出丸を造ってはいかがにござりましょう」

「出丸とは、いかなるものか」 

と怪訝な面持ちで秀頼が問う。


 「黒門と平野口の間に丸馬出の形で幅10間(約18メートル)の砦を築き、

 正面に三日月の如き水掘を置きまする。そこから両端までを空堀とし、

 三段の土塁を盛り、三重の柵にて囲みまする。ただし、両側には馬出を

 設け、その外側に柵列と逆茂木を巡らせばよいかと。この出丸を造ります

 れば敵が背を見せた時に南側への出足を失うことはありませぬ」

幸村の意外な策に皆は驚いたが、秀頼と大野治長はそれを採用した。

能書きを端折ると笑う寒牡丹  オカダキキ

翌日から大阪城の東南角に槌音が響き始める。

幸村自らが人工や足軽を指揮し、突貫で出丸の造成が進められた。

その間に徳川勢は進軍を続け、各地で与力の将兵を加え、

総勢20万に膨れ上がった。

出城は何とか敵の布陣までに完成し、その物見櫓に立った幸村は、

やがてこの出城を取り囲むだろう徳川勢の旗幟を想像しながら、呟いた。

―何とか間に合ったようだ。これで少しは戦らしくなろう。

そしてこの出城が、いつの間にか「真田丸」と呼ばれるようになる。

守りから攻めに入った猫のひげ  松宮きらり

幸村は初陣となる息子の幸昌(大助)に言った。

「戦の方針は、籠城となった。

 されどわれらの狙いは、籠城に見せかけた出戦である。

 ここから戦いに持ち込み、この出丸に秘めた策をすべて解き放つ。

 そして、徳川に一度も負けたことのない真田の武名を、

 ふたたび世に知らし目ねばならない」

幸村は敢然と己の決意を伝える。

慶長19年12月4日、今まさに、「冬の陣」が始ろうとしていた。

【余談】
突貫工事で造られたという真田丸だが、近年の調査研究により、
この「真田の出城」は従来の説より精巧な要塞で、

また、かなり険しい地形に築かれたことが分かっている。

昨日今日守り明日への歩は変えぬ  上田 仁


   真田大助

「真田幸昌」

父・幸村が配流された九度山で生まれた。

母は大谷吉継の娘・竹林院。


慶長19年、父とともに大阪城に入り、

同年、冬の陣では、真田丸に攻め寄せた
幕府軍に突撃をかけたと伝わる。


翌年、夏の陣が起こると、5月7日天王寺・岡山の戦いで父の前陣を務め

奮戦、負傷した。

その後、父から秀頼の側を固めよと命じられ城内に戻り、


翌日、秀頼・淀君母子に殉死。弱冠14歳の最後であった。

畳みじわついたまんまで河口まで  笠嶋恵美子

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