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川柳的逍遥 人の世の一家言
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約束を破ったままの蛇の目傘  奥山晴生 



「苦労の人・お初」

は浅井三姉妹の次女。姉は秀吉の側室・茶々と、妹は徳川秀忠正室の

浅井長政と信長の妹・お市という美男・美女の間に生まれた三人は、

親の血を素直に引き継ぐ絶世の美女姉妹といわれる。

初が歴史の表舞台の登場するのは夫・京極高次の死後、

出家して
常高院となってからである。

三姉妹が十数年ぶりに再会を果たすのは、三人の最後の対面となる

江の娘・千姫豊臣秀頼に嫁ぐ時で、これを取り持ったのが常高院だった。

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冬の陣直前、豊臣と徳川との溝が深まる中で、常高院は懊悩していた。

淀と江の絆をつなぐのは、「自分しかいない・・・」 

常高院は、その一心で女の身でありながら、

徳川・豊臣両家の和睦の使者となるべく、両家の間を懸命に奔走した。

その努力も報われず、慶長19年(1614)大坂冬の陣が勃発すると、

常高院は豊臣方の使者となり、織田有楽斎と共に和睦交渉に臨んだ。
                     あちゃのつぼね
徳川方からの使者は、家康の側室、阿茶局本田正純である。

これにより、日本史上まれな女性同士の使者による和議となり、

講和条件も合意し、ひとときの和平が成立した。

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こうして和睦がなり、大阪城の堀は埋められることとなった。

ところが、和平から4ヶ月後、いまだ大阪城内にいた浪人たちの一部が、

堀や塀の復旧にかかり、乱暴や狼藉を働きはじめたのである。

それどころか城内では再び戦争するか否か、議論が湧き起こっていた。

こうした問題に腹をたてた家康に追いつめられて進退窮まったは、

ふたたび常高院を使者として、家康に詫びを入れるが、家康は聞かず、

次は常高院を家康の使者として、許すための条件を申し渡したのである。

徳川、豊臣と使い走りを一手に受けていた常高院をわき目に見ながら、

生き残りと逃げ足の早さに定評のある有楽斎は出奔してしまい、

一人で常高院は、両家の再戦を最後まで回避させようと努めた。

しかしそれも徒労に終わり、夏の陣が始まってしまうのである。

まだ修羅を踏ませるつもりですか 神  安土里恵

戦が始ると大坂城にいた常高院は、大坂方の侍女たちを引き連れて脱出。

そんな常高院を心配して、家康は迎えの者をつかわし、

常高院に付き従っていた者たちはみな、咎められることもなかった。

家康がいかに常高院のことを気遣い、認めていたかが分かる。

この後、常高院は京極家の江戸屋敷に住み、三姉妹の中で最も長生きしたが、

晩年は継子の京極忠高とその正室で江の四女・初姫の不仲に

悩まされるなど、苦悩が絶えない人生を送りつづけ、

寛永10年(1633)没、63年の生涯を閉じた。

描きおえて画家は昇天するつもり  筒井祥文



「逃げの織田有楽斎(如庵)」 

本名は織田長益。通称・源五郎。

43歳の時、剃髪して有楽斎と号しクリスチャンであった彼はポルトガル人に

多い名からジョアン(如庵)と称した。

武人であり、利休に学んだ茶人としても有名。

信長とは13歳年の離れた弟で、浅井三姉妹の茶々・初・江の叔父にあたる。

信長が本能寺で倒れるまでは、信長の長男・織田信忠の旗下にあり、

各地の戦線に帯同してきたが本能寺の変では、二条御所で自害して

果てた甥の信忠を見捨て、逃亡したことで、次のように歌で叩かれ、

一躍、
世間に知られる人になる。

"織田の源吾 (有楽斎)は 人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて

 我は安土へ飛び帰る ♪

向き合っているのにこころ分らない  早泉早人

関ヶ原の戦いでは、東軍について石田三成軍の猛将を討ち取る活躍をし

大和3万石を与えられる徳川方大名であったが、織田兄弟の4番目の

織田信包が大阪城で病死すると、兄弟の中で一番冴えなかった有楽斎が

唯一の織田の生き残りとして、大阪城に入り、淀、秀頼の後見人を務め、

又、一家言を持つ存在として、城内を
取り仕切りはじめるのである。

冬の陣の最中は、姪の淀を補佐しながら穏健派の立場をとり、

徳川方との講和交渉に尽力した。

が、徳川との絆は解けておらず、
内実は徳川家に通じ

豊臣家の情報を関東に流していたという噂がある。


嘘の味少し甘味がついてます  星井五郎


 有楽斎の木像(このおどけた表情をとくとくとごらんください)

まもなく再戦(大坂夏の陣)の機運が高まり出すと、有楽斎は家康秀忠

「誰も自分の下知を聞かず、もはや大坂城内にいても無意味」 と訴え、

夏の陣が勃発する直前、逃げるように大坂を離れ徳川家の許可を得て

京都正伝永源院を隠居所にして過ごした。

以後、茶道に専念し独自の茶風を確立すると有楽流を創始。

有楽斎は76歳で死去するが、織田・豊臣・徳川の時代を生き抜いた

世渡り
上手の血は子子孫孫に受け継がれ、小藩ながら明治維新まで続いた。

【余談】東京の有楽町の名は、この地に有楽斎の屋敷があったことに由来する。


ころあいは耳たぶほどのやわらかさ  山田紀代美

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