ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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義朝の最期
四角い雲は物置に積んでおく 井上一筒
義朝の墓
愛知県野間大坊にある義朝の墓。
義朝はここで家臣に殺された。
おびただしい数の木太刀が奉納されている。
(写真は観光として画面をクリックして大きく見てください)
大御堂寺
3月の涅槃会では、義朝の供養も行なわれる。
寺は義朝ゆかりと伝わる太刀などを所蔵する。
長い道歩いて人は人となる 田原喜久美
「義朝の最期」
永暦元年(1160)1月4日、
義朝
は、長男・
義平
・次男・
朝長
・三男・
頼朝
ほか、
一族郎党とともに、東国に逃げ落ちていった。
雪辱を果たすため、
本拠地で再起を期すつもりだったのだろう。
だが、執拗な落ち武者狩りによって、
朝長は深手を負って死を選び、
頼朝は途中で、一行からはぐれてしまう。
義朝は郎党の
鎌田正清
を従えて、
尾張に着いたところで、
正家の舅である
長田忠致
(おさだだだむね)
の館に宿を得た。
生と死を見つめ直して生きている 神野節子
しかし、
忠致は、義朝を襲って首を刎ねたのだった。
首は
清盛
に届けられ、9日に獄門に晒された。
再挙をめざした義平は、
近江の石山寺付近に隠れているところを捕縛され、
1月21日に六条河原で斬首された。
かなしみの言葉ばかりが地に溜まる 森中惠美子
同じ大坊にある義朝の首を洗ったという池
頼朝
もまた、2月9日に近江で捕まり、
処刑されるところだったが、
清盛の継母である
池禅尼
の、
「亡くなった実子に似ているからと助命を嘆願した」
の一言で死一等を減じられ、伊豆配流となった。
頼朝14歳、3月11日のことである。
人見知りする鏡だなすぐ曇る 谷垣郁郎
京都市北区の総神社
かってここに義朝の別荘があり、
常磐御前がここで義経を産んだとされる。
弟たちもみな助命され、
また義朝に従った東国武士も、
特に処罰された形跡がない。
ただし、生き残った彼らは、義朝という後ろ盾を失い、
それぞれに、厳しい立場を生きることになるのである。
今日中に咲かせるための腹話術 井上しのぶ
「藤原信頼の最期」
清盛の
二条天皇
の脱出作戦の一芝居に
引っかかって、
まんまと二条天皇をさらわれた
信頼
たちの、
あわてぶりは、ひどかった。
二条天皇を失った今、信頼たちの有効な手立ては、
もはや残されていなかった。
かっての主君である
後白河院
は、
自分たちで裏切ってしまったのだし、
関係を修復しようにも、
肝心の後白河院は、二条天皇よりも先に、
仁和寺に脱出してしまっていた。
てぶくろの中にて指が汚れだす 清水すみれ
慌てふためいて、
信頼
は仁和寺に逃げ込んだが、
同行した
藤原成親
とともに捉えられた。
六波羅の清盛の前に連れ出され、
助命を請うたものの、清盛は首を縦に振らない。
そのまま引き立てられて、六条河原で斬首された。
刃こぼれは月を削っただけのこと くんじろう
保元の乱で処刑されたのは、武士に限られていたが、
今回は貴族の信頼ですら、死罪を免れなかった。
その理由は、
信頼が乱の主導的役割を果たしたことと、
信頼自身が武装して参戦していたため、
戦闘員として扱われたことによる。
刻々と迫る私の持ち時間 佐藤后子
一方、
藤原成親
は死罪を免れ、流罪にもならず、
解官だけの処分ですまされたのは、
成親の妹が重盛の妻だったからだろう。
また、
「とるに足らない殿上人」
と見くびられたからともいう。
≪のちに成親は、打倒平家のクーデター(鹿ケ谷事件)の、
首謀者の一人に、なるが計画が発覚して失敗に終わり、
配流されることになる≫
万匹の狸一匹連れ帰る 黒田忠昭
これらの戦後処理によって、
「平治の乱」
は終りを告げたが、
最後の最後に、どんでん返しが待ち受けていた。
乱の余韻のまだ残る翌・永禄元年
(1160)
2月、
藤原経宗・惟方
の二人が捕らえられ、
経宗は阿波国へ、
惟方は長門国へと流罪にされたのである。
スキップで出かけて腹這いで帰る 森田律子
二人の直接の罪状は、後白河院に対する侮辱であった。
二条天皇脱出の功労者である二人は、
これでいよいよ自分達の時代の到来とばかりに、
後白河が街中の様子を見物していた桟敷に、
板を打ち付け、
視界を遮ってしまったのである。
同情の余地はあれども罪は罪 徳山泰子
これは公衆の面前で行なわれたわけで、
後白河の権威を、白昼堂々と否定してみせた行為である。
もちろん後白河院は激怒したが、
今となっては頼れる近臣もなく、
二人を処罰してくれるよう清盛に泣きついた。
雷が転げそうだよおーい雲 泉水冴子
泣きつかれた清盛は、二人をひっ捕らえただけでなく、
院の面前に引き据えて、拷問にかけている。
清盛がこれだけの仕打ちを行なったのは、
平治の乱の片棒を担いでおきながら、
乱平定の功労者面をし、
二条天皇の威をかりて、やりたい放題をする2人に、
対する周囲の憤懣が込められていた。
砂漠からとどく青色鳥語集 松本 泉
源氏ゆかりの銘刀・行平
こうして後白河派・二条天皇派の近臣たちは、
一掃された。
義朝など有力な武士たちも、ことごとく壊滅した。
この
「誰もいなくなった」
とでもいうべき状況で、
ただ一人、清盛だけが勝ち残ったのである。
清盛自身は事態を主導せず、
状況を受身に対応した結果ではあるが、
清盛がただ幸運に、恵まれていたというわけだはない。
こころざしのような背骨はもっている たむらあきこ
他のものたちが焦って自滅していく中で、
正盛以来蓄えられた実力を持つ清盛だからこそ、
状況を冷静に見極め、
判断を過たずに勝ち残ることができたのである。
その意味で清盛は、
勝つべくして勝ったのだといえよう。
乱後に清盛は従三位を飛び越えて、
正三位に昇進し、念願の公卿昇進を果たしている。
大の字で見る回天の一部始終 兵頭全郎
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y2012/07/15 10:33 z
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