川柳的逍遥 人の世の一家言
「龍馬とおりょうを結びつけた寺田屋事件」 寺田屋騒動で、あやうく命拾いをした龍馬。 それは寺田屋の養女・おりょうの手助けによるものであった、 と、龍馬は土佐の実家に書き送っている。 「此の養女が居たればこそ、龍馬の命は助かりたり」 寺田屋は、薩摩藩士の常宿であったが、勤皇の志士も多数出入りするなど、 奉行所の捕り方に、マークされていた旅籠であった。 その寺田屋が、龍馬捕縛の捕り方に取り囲まれたおり、 おりょうは、京の凍りつくような夜道を、 そして、甲斐甲斐しく龍馬を看病した。 この一件があって二人は、めでたく結ばれる。 仲人は西郷隆盛。 龍馬は180cmを超える大男であったが、 お龍もそれにおとらず、背丈の高い女で、 彫りが深く肌も白いので、西洋人に見えたという。 彼女の気性は男まさりで、 龍馬は、お龍を大層かわいがっている。 お龍の教育のためにと、小笠原流の礼法を習わせたり、習字をさせたりと、 いろいろと女房教育に尽力したが、 当の本人は、これらの習い事には、とんと関心を寄せようとしない、 型破りな人間で、貞女の作法など、ほとんど身に付かなかったようである。 型破りな人間同士”似たもの夫婦”であった。 龍馬の友人、佐々木三四郎によれば、 「同人の妻は有名なる美人の事なれ供、賢婦人や否や知らず、 善悪共に、為し兼ねる様に思われたり」 妻は美人後顧に憂いなどはない 井上恵津子 ≪龍馬が京都近江屋で再度狙われ命を落としてから、 お龍は行商人の男に一目ぼれしてしまい、 「三吉慎蔵とは」 龍馬が寺田屋で捕り方に襲われたとき、居合わせたのは、 そのとき、龍馬と慎蔵は、まだ知り合ったばかりだったが、 その後、親友として深くつき合うことになる。 三吉慎蔵は、長州藩の支藩・長府藩の出身で、龍馬より四歳年上。 槍の名手であるとともに、頭脳明晰な人物だった。 龍馬が薩長同盟締結に向けて、奔走しているとき、 同じ長府藩士の印藤聿(いんどうのぼる)の紹介により、 下関で、ふたりは知り合った。 やんわりと結んだ紐がほどけない 神野節子 その後、龍馬は、印藤にたいして、 「薩長同盟が締結されるのは確実だから、 支藩からも使者を上京させ、締結の現場を見ておくほうがよい」 とアドバイスする。 慎蔵は、そのアドバイスに従がった長府藩から、 京都の情勢を探るようにと命じられ、龍馬とともに上京していた。 ≪薩長同盟締結に奔走する龍馬の身の危険を、心配した高杉晋作が、 護衛役として、槍の名手である慎蔵を付けたという説もある≫ 慎蔵が龍馬とともに、寺田屋で襲撃されたのは、 まさに薩長同盟締結の現場に立ち会った、直後のことだった。 そして、この事件をきっかけに、龍馬と慎蔵の仲は、一気に深まっていく。 寺田屋事件から、1ヶ月あまりのちの3月5日、 薩摩藩の藩船三邦丸に龍馬とおりょう、慎蔵の三人が乗り込み、大坂を出港。 龍馬とおりょうは、鹿児島への旅に向かったが、 慎蔵は下関で下船し、藩に京都の情勢を報告した。 また、6月に第二次長州征伐がはじまると、 慎蔵は、長府藩の報国隊軍監に就任。 奇兵隊らとともに戦い、幕府軍を破った。 翌・慶応3年(1867)、龍馬は、長崎から土佐に向かう途中、下関に寄港。 龍馬のパトロンだった廻船問屋の、伊藤家におりょうを預けた。 そして、慎蔵に、 「万一のご報知仕候時ハ、・・・略・・・愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」 という手紙を送っている。 ≪同年11月15日、龍馬が暗殺されると、慎蔵は約束どおり、 おりょうと起美(君江)姉妹を長府の自宅に引き取り、 3か月間面倒を見たあと、土佐の坂本家に送り届けた≫ そう言えば名前にダブルお人柄 吉富ひろし PR |
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