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長幕開戦図(龍馬使用)
慶応2年6月の「四境戦争」とも呼ばれる、幕府による”第二次長州征伐。
幕府の軍勢は、長州の4つの口、芸州口、小倉口、石見口、上関口から、
攻め込もうとした。
ところがすでに長州は、
2年前に幕府に戦わずして、屈服した”長州藩”ではなかった。
和睦後、高杉晋作らがクーデターを起こして、藩の実権を握り、
帰藩した桂小五郎が大村益次郎を起用して、
軍事装備を一新させていたのだ。
高杉や大村らに指揮された長州軍は、最新の兵器で幕府軍を迎撃。
幕府方をさんざんに破った。
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この戦争に、長州の海軍総督・高杉から参戦を求められ、
龍馬は、亀山社中を率いて長州側に加勢した。
龍馬の”乙丑丸(ユニオン号)”と、高杉の”丙辰丸”は、
門司と田ノ浦の敵陣めがけて、砲撃を開始、
敵側の砲台を沈黙させた。
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双方が生き残りをかけた、第2ラウンドではあったが、
この戦争の最中に、別のステージでは、
戦況に影響する重要な変化が起きている。
慶応2年(1866)12月、のことである。
大坂城で病死した将軍・家茂のあと、
第15代将軍に、慶喜が擁立されたこと、
そして同じ月、攘夷論者でありながら、
佐幕的立場をとっていた孝明天皇が突然死んだこと。
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孝明天皇の死は、毒殺の疑いがかけられているが、
可能性は非常に高い。
たしかな証拠があるわけではないが、
佐幕的立場をとる孝明天皇では、
長州藩、薩摩藩にしても、
倒幕を唱える急進的公家たちにしても、
やりにくかったはずだからだ。
幼少の新天皇を擁立し、それを「玉(ぎょく)」として使いながら、
自分たちの思う方向へ進ませようと、考えたのではなかろうか。
こうして新しい将軍・慶喜、新しい天皇(明治天皇)へ、
と幕府も朝廷も、代替わりしたのである。
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家茂が死んだため、長幕戦争は中止となったが、
幕府の威信をかけた軍事行動を、中止したことにより、
威信は、大きく低下することになった。
もはや幕府は、倒壊寸前のところまできていたのである。
事実、慶喜は京都で将軍になったが、
そのまま京都にとどまり、
江戸へ戻ることができないでいた。
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京都を離れれば、
その隙をついて薩長が、朝廷と幕府の間を割くことが考えられ、
朝廷が、
「幕府に政治を委任するのはやめる」
と言い出せば、
それで幕府は終ってしまうからだ。
そこで考え出されたのが”大政奉還”という手であった。
≪この大政奉還には、龍馬がからんでいた。
というよりは、この発想そのものは龍馬から出てきたものである≫
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さて、社中の同志とともに、下関へ参戦した龍馬であるが、
大きな心配事が一つあった。
「師の勝海舟が幕府海軍の司令官として、参戦すること」
そうなれば、海舟は幕府海軍を率いて、必ず、”関門海峡”を封鎖する。
海舟の優秀な弟子である龍馬は、
師がその立場に立ったら、
「当然そうするであろう」
と予想していた。
そして龍馬のこの予想は、半分当たっていた。
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というのは、それまで謹慎させられていた海舟は、
5月28日に突然、江戸城に呼び出され、
「もとのとおり軍艦奉行を命ずる」
と言われていたのである。
「このたびは、どんな仕事をするのか」
と驚きつつ海舟が聞くと、
「薩摩藩が、第二次長州征伐への出兵を拒否した。
会津藩(京都守護職)が怒っている。
両者の間で戦闘が起こるかも知れない。これを調停して来い」
というものだった。
「またそんなクダラナイ仕事をさせるのか」
と、海舟の胸のうち。
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関門海峡(現在)
あきれながらも海舟は、京都にいって調停にはいった。
ところで、元治元年(1864)の9月11日に、
海舟は、薩摩藩との会談で、
「幕府を見限って、西南雄藩が連合して新しい共和政府をつくりなさい」
と助言している。
それを聞いた西郷隆盛と大久保利通は、
「勝先生、冗談キツイですよ」
と一笑に臥しましたが、このときの海舟の心のなかには、
「幕府艦隊をまかせてくれれば、必ず関門海峡を封鎖する」
と考えていたといいます。
すなわち、龍馬の考えは、半分あたっていたのである。
勝海舟が、長伐戦争に加わらなかったことは、
龍馬にとって幸いした。
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