白旗をうつくしく持つときもある 森中惠美子
≪清風亭は、龍馬と対立していた後藤象二郎が初めて会談を行った料亭≫
第二次長幕戦争で、幕府は、長州一藩に敗北する。
その途中、将軍・家茂が亡くなり、
将軍空位の時期がしばらく続くという、異常事態でもあった。
その結果、”割拠の時代”といえるような状況が、現出したのである。
諸藩で、「これからは割拠の時代だ」 という、叫びにも似た言葉が綴られるようになる。
「もう幕府の言うことは聞かなくてもよい」
「藩が独自に富国強兵を目指すべきだ」
ということが、平気で語られるようになった。
おかしくて実から笑いがこぼれおち 河たけこ
鉄砲の音がゴマをいるように聞える(長幕戦争)
それは、
「これからは軍事力を持たない藩は、政治的発言力もない」
という裏返しにも繋がる。
こうした世情を受け、薩摩や長州に遅れをとった土佐藩でも、
龍馬たちの価値を、評価しようという機運が出てくる。
≪それまで土佐藩は、土佐勤皇党の弾圧などによる分裂状態が続き、
国事に積極的に参加することが出来なかった。
ところが、気がついてみると、
郷土の土佐出身で土佐勤皇党の一員でもあった龍馬が、
脱藩浪士となって、薩摩や長州の薩長の間を取り持つなど、
政局の行く末に大きな影響力を、発揮していた・・・≫
今や今 今この波を逃したら 杉山ひさゆき
龍馬に近づいたのは、
土佐勤皇党によって暗殺された吉田東洋の甥・後藤象二郎である。
後藤は東洋の暗殺後、一時失脚したが、
のちに藩政に復帰して、大監察という重職につき、
武市半平太ら、土佐勤皇党の弾圧を主導した。
つまり龍馬にとって、”仇敵”といっていい男である。
ところが藩の参政となった後藤は、
土佐藩が、中央政局で存在感を増していくためには、
”龍馬の海軍”を無視できない現実に直面していた。
そもそも、土佐は、船で海を渡らなければ、
畿内や江戸といった、日本の中枢に、でることが出来なかったのだから、
どうしても、海軍を入手しなければならなかった。
ソロバンを弾き尻尾が飾られる 谷垣郁郎
龍馬から後藤象二郎に宛てた手紙
≪坂本龍馬の手紙には、
鎌倉幕府以来、700年近く続いた武家政権を、返上させる大政奉還への思いが、
強い筆致で記されている≫
龍馬にとっても、後藤は、不倶戴天の敵である。
しかし、亀山社中の経営が危機に瀕した今、
龍馬の目指す海軍を、維持するためには、
是非とも、土佐藩を後ろ盾にしておきたかった。
また、薩摩と長州だけが暴走することを、抑えようとしていた龍馬にとって、
土佐が海軍力を手に入れて、発言力を増すことは、
重要な意味を持っていたのだ。
くちばしの先を伸ばせばオフサイド 井上一筒
海援隊本部・酢屋(京都三条)
≪酢屋の二階の左窓側に龍馬の机がある≫
そして、慶応3年(1867)1月、
龍馬と後藤は、長崎の”料亭・清風亭”で、
恩讐を超えた歴史的な会談を行い、
利害が一致したこともあり、
両者は、たちまち意気投合をした。
後藤は、龍馬の先進的な考えや、藩の枠に囚われない、
広い視野に感嘆し、脱藩の罪を解いて、
土佐藩支配下の「海援隊」隊長に任命した。
≪酢屋に本隊をおく海援隊の誕生である≫
≪この後、後藤象二郎は、
龍馬の大政奉還策を藩論として、”大政奉還”の実現に寄与することになる≫
維新という大歯車を廻した龍馬 木村良三
『龍馬伝』・第40回-清風邸の対決 あらすじ
馬関での戦いを終え、龍馬(福山雅治)は、長崎に戻るが、
奉行所のお尋ね者になっていて、出歩けない。
一方、”土佐商会”の主任として、長崎で商売をしたい弥太郎(香川照之)は、
どこでも龍馬の紹介が必要と言われ、
後藤象二郎(青木崇高)に言い出せない。
そこへ時勢を見極めた土佐の山内容堂(近藤正臣)から、
「薩長と密かに繋がれ」
との命が下る。
点線で割る濡れおかきの領域 山口ろっぱ
小曽根乾堂(本田博太郎)やお慶(余貴美子)から、
「どうして龍馬に頼まないのか」
と言われた象二郎は、これまでの私怨をこえて龍馬に会うと決心。
しかし、会談がうまくいかなかった場合は、
「龍馬を斬れ」
という命令も出す。
腹に一物作り笑顔がぎこちない 倉 周三
龍馬の居場所を探す弥太郎だったが、
引田屋に、龍馬が突然現れて、
「象二郎と会おう」 と言う。
龍馬は”大政奉還”のためには、
徳川家を大事にする土佐藩を、薩長側にひきこんで、
武力討幕を止めるという、もくろみがあった。
清風亭で、対決する2人。
話の展開次第では、象二郎側の上士や社中の面々が、
斬りこもうと部屋の外で構える、
長い沈黙コーヒーがさめてます 荒井慶子
そして・・・・・
弥太郎が見守る中、龍馬は、象二郎に、
「徳川の世はもう終わる、徳川家を守るには大政奉還しかない、
薩長と繋がるのなら、しっかり、手を組む覚悟でなければだめで、
土佐が新しい日本を作る要になるのだ」
と説くが・・・。
黄昏の手前で捨てる破れ傘 荻原鹿声
後藤象二郎の邸宅跡(長崎)
象二郎は土佐に”開成館”を設置すると、
その出先機関である「土佐商会」を長崎に設け、
自ら代表となり、土佐の特産品である”樟脳”輸出している。
≪後藤象二郎宅は、後に、岩崎弥太郎が譲り受けた≫
中島川に架かる長久橋のたもとにある、土佐商会跡の碑
土佐商会の運営は、岩崎弥太郎が任され、武器の輸入などの貿易を行った。
弥太郎は、海援隊の資金管理なども担当した。
≪土佐商会が閉鎖された後、弥太郎は
大阪商会、九十九商会を経て、三菱商会を設立している≫
美しい国へ目薬二階から たむらあきこ[8回]