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川柳的逍遥 人の世の一家言
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大胆な脳が時代を切り開く  鳥居 宏

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亀山社中・名札(空所は近藤長次郎)

長崎で「亀山社中」を設立した慶応元年(1865)の9月、

龍馬は、土佐にいる姉の乙女に手紙を書いた。

その文面によると、

社員というべき仲間の人数は、20人ほどだったようだ。

龍馬のほかに、土佐出身者では

沢村惣乃丞、高松太郎、千屋寅之助、池内蔵太、新宮馬乃助、

石田英吉、中島作太郎、近藤長次郎 らがいた。

口笛を吹くと踵が浮かれだす  河津寅次郎

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沢村惣乃丞は、龍馬より先に脱藩しながら、

土佐勤皇党の武市半平太に現状を報告するため、いったん帰国し、

はじめて脱藩する龍馬に、同行した人物。

龍馬とともに勝海舟の門下生となり、

以後、龍馬と行動をともにした。

書き出してみる死ぬまでにしたい事  楠本充子

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千屋寅之助は、土佐の庄屋の三男として生まれ、

のちに土佐勤皇党に参加。

やはり、龍馬とともに勝海舟の弟子となり、龍馬と行動をともにした。

お龍の妹・君江の夫。

菅野覚兵衛の名でも知られる≫

これからを絵になる彩にしたふたり  中井アキ

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池内蔵太は、土佐勤皇党の結成に尽力するが、

武市半平太と路線が合わなくなり、

長州の桂小五郎らの主張に共鳴して脱藩、

長州の尊攘運動に参加する。

「禁門の変」に長州兵として出撃したあと、亀山社中に加わった。

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新宮馬乃助は、高知で河田小龍に師事して学問や絵を学んだあと、

江戸へ遊学。

そこで龍馬と知り合い、ともに海舟の門下生となった。

バイキングトマトキャベツの暴れ食い  倉 周三

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石田英吉は、土佐藩の医師の家庭に生まれ、医学を学んだ。

同郷の吉村寅太郎にしたがって、「天誅組」に参加。

大和挙兵で敗れたあとは、長州へ行き、禁門の変に参戦。

さらに、高杉晋作の奇兵隊創設にもかかわった。

龍馬との関わりは、亀山社中の創設のころ。

泣き笑い取り散かっている小骨  岩田多佳子

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中島作太郎は、土佐藩郷士の出身で、土佐勤皇党に参加。

ここで龍馬と知り合い、行動をともにする。

維新後には、政府の役人となり、

第一回衆議院議員選挙にも当選し、のちに、

初代・衆議院議長となった。

明日を唄うのど飴は買ってある  奥山晴生

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近藤長次郎は、龍馬の実家近くの饅頭屋の伜。

江戸に出て学問と砲術を学び、その優秀さを認められた。

神戸の海軍操練所で龍馬と知り合う。

社中で実績を認められつつも、イギリス留学の夢から覚めず、

間違いを犯し、家族や龍馬ら仲間を泣かせる、不幸な終を迎える。

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長次郎が家族宛に送った手紙

ぬくい手の仲間がいつもヘマをする  森中惠美子

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高松太郎は、龍馬の姉・千鶴の子で、龍馬にとっては甥にあたる。

19歳のとき、九州へ修業の旅に出て、旅先で半平太と出会う。

そして、土佐勤皇党に加盟し、尊攘運動をはじめるが、

叔父・龍馬の紹介で勝海舟の弟子となる。

海軍操練所で航海術を学び、その後、脱藩。

龍馬と行動をともにした。

≪明治維新後には、坂本家の養子となって家督を継ぎ「坂本直」(なお)と名乗った≫

新しい表札重い荷を背負う  森下鈴子

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坂本家一家・後列右から二人目が”坂本直”

「高松家について」

龍馬には、三人の姉がいた。

乙女については有名だが、

あとの二人については、あまり詳しく知られていない。

坂本家の長女は、千鶴(ちづ)といった。

龍馬が生まれたとき、19歳となっていた彼女は、

すでに安芸郡安田村の郷士・高松順蔵のもとへ、嫁いでいたとみられる。

少年のころの龍馬は、高松家を何度も訪れ、見晴らしのよい縁側で、

一日中、海を眺めて過ごしていたという。

温室の花は季節を忘れてる  森 廣子

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夫婦円満な高松家は、龍馬にとって、居心地がいい場所だったのだろう。

龍馬は、のちに京都伏見の船宿・寺田屋の居心地について、

手紙で、

「お国にて安田の順蔵さんの家にいるような・・・」 

と表現している。

また千鶴から、江戸修行中の龍馬宛に届いた手紙が、

一通残っている。

その中で千鶴は、

「じぶん二きを付んと、今ハきおつける人はいないぞよ」

≪自分に気をつけないと、今のお前には、気をつけてくれる人はいないのよ≫ 

と、母親のような優しさをみせている。

夕焼けの色ふるさとへ帰ろうか  杉本克子

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千鶴と順蔵の墓

その千鶴は、龍馬が脱藩する前年の文久元年(1861)、45歳で病死する。

のちに、千鶴の長男・太郎が龍馬の「海援隊」に参加。

士官として、長州藩船・”ユニオン号”を購入するなど活躍した。

明治4年(1871)、太郎は、

暗殺された龍馬の家督を継ぎ、朝廷から永世15人扶持を給せられ、

名前を「坂本直(なお)」と改めた。

千鶴は、長生きはしなかったが、よい家庭に恵まれ、

当時の女性としては、幸せな一生を送ったといえるだろう。

美味珍味尽くしたボクののり茶漬け  村岡義博

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   陸奥陽之助

社中の、上記・土佐人以外では、

龍馬が最も評価した紀州の陸奥陽之助(宗光)をはじめ、

越前や讃岐、因幡などの出身者もいた。

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