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川柳的逍遥 人の世の一家言
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うつ伏せで流れて行ったつらい過去 西美和子

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偉人とあらば、

すぐに「銅像」を拵えてしまうのが、わが国の”ならい”ならば、

どういうわけか、永く勝海舟の銅像はなかった。

いや、なかったといえば嘘になるかもしれない。

彼の生誕地に近い”墨田区本所の「能勢妙見堂」”には、

小さな銅像がポツン、昭和49年に建てられている。

彼が為してきた功績を考えれば、

それは、”江戸城の無血開城”交渉で勝と対峙した西郷隆盛が、

上野公園で威容を誇るのに比べれば、明らかに見劣りする。 

墨田区役所のすぐ裏手、隅田川に臨んで立ち、眼前にそびえるアサヒビール、

炎のオブジェを頂くビルとのコントラストが、

この勝の後姿を見ても、胸の思いを象徴しているようだ。 

昨日より今日を忘れているのです  神野節子

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夜景に映える、アサヒビールビル・炎のオブジェ

24歳までの青春時代を、

このあたりで過ごした海舟にとっては、絶好の場所となるだろう。

生前、彼はこんな句を詠んでいる。

”たちかえる わが古里の隅田川 昔忘れぬ 花の色かな”

『若い頃の勝海舟は、おんぼろの家に住んでいた』

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 海舟正面からの銅像

勝家は、もと農民の出身である。

勝麟太郎(海舟)の親が、

この子の出世のためには、武士の身分がいると考え、

財布の底をはたいて、下級武士の位を買ったのだった。

裏を返せば、下級武士も生活に困窮し、「左様な武士の位などいらぬ」 と、

カネで売ったのである。

バレたら両者とも打ち首となるところであるが、

武士の位売りは、頻繁に行なわれていた。

幕末も近くなると、そういう時代背景があったのだ。

飾り物さっぱり棄てて丸裸  黒川孤遊

海舟が、いろんなタイプの人間たちと交わり、親しみ、世を動かしていったのは、

まさに、身分を越えて人を見る目が、肥えていたからであろう。

その海舟は、江戸赤坂に居住していたのだが、

結婚した23歳のころは、赤貧というべきか清貧というべきか、

家禄41石で、かなりの貧乏暮らしであった。

女房のお民にも、1両2分で買った古着1枚を3年間も着させていた。

それにまだ職にありつけなかったから、アルバイトに精を出していた。

そのアルバイトとは、家庭教師で、勝とほとんど同年代の若者たちに、

蘭学を教えていた。

勝に近づけば、いろいろな知識が得られると、

その評判を聞きつけてきた若者たちが相手だったのだ。

注目の的で力は抜けません  森口美羽

幕臣たちは、41石取りの貧乏人と聞くだけで、寄り付かない。

したがって勝のそばには、常に学問を真摯に受け止めようとする、

若者たちで賑わっていた。

しかし、勝の教え方は、一つ一つ手にとって教えるやり方ではなく、

家の中庭に鉄砲作りの名人を連れて来て、兵学のイロハを学ばせたり、

図面の書き方を教えたりと、蘭学といえども、語学オンリーではなかった。

「ア・べ・セ(ABC)は、杉に任せた」 と言っているから、

オランダ語を教えるような、暇もなく、忙しかったのかもしれない。

オレ流に徹して悔いを残さない  吉川卓 

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赤坂にあった勝海舟の邸宅跡は今、

昼は喫茶店、夜は酒場・「ギネス」(赤坂6丁目)というお店になっている。

今では超高級の一等地となった赤坂に、

海舟の住居はあったのだが、わが国統計学の草分けとなり、

海舟の塾で、語学教師を務めた杉享二(こうじ)によれば、

赤坂田町の勝邸を訪ねたところ、

家の内にも外にも、つっかえ棒が縦横にしてあって、

ちょっとした風雨にも、耐えかねる様であり、

「いかにも貧乏暮らしであったことを、覚えている」、という。

ドーナツの穴が気休めばかり言う  たむらあきこ

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後に勝海舟は、4年間の長崎伝習所勤務を終えて、

江戸へ戻ってきたときには、

同じ赤坂でも、氷川神社の裏手にある盛徳寺の隣に引っ越した。

そこは、旗本屋敷で相当に立派な作りであった。

そして江戸の地図にも、名前が載るようになり、

勝麟太郎の名がそこに見える。

龍馬が訪ねてきたのは、こちらの屋敷のほうである。

花いちもんめカラスが連れてきた夕陽  山口ろっぱ

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      龍馬と海舟

勝は、アッという間に大出世して、軍艦奉行という職にあった。

対して、その頃はまだ、単なる剣客に過ぎない龍馬は、野次馬根性ではなく、

それなりの心構えを持って、訪れたのだろう。

剣豪の千葉重太郎を連れているところなど、

まさに、勝を一刀のもとに、斬るつもりだったのかも知れない。

しかし、勝の念力にねじ伏せられたのか、

龍馬が、屋敷を出るときには、勝の弟子になっていた。

ためらっていると信号青になり  井上一筒      

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幸せのかたち他人と比べない  吉道あかね

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横井小楠を中心に海舟・龍馬ら幕末の英雄を顕彰した維新群像

「海軍操練所」

勝海舟は、攘夷論を一種の危険思想と考え、

欧米列強の軍事力に対抗するには、

国家規模で、西洋式海軍を創設することが必要だと考えていた。

そして、その人材育成のために、航海術を学ぶ「操練所」を開設したいとも思っていた。

そんな海舟にチャンスがめぐってきたのは、文久3年(1863)4月23日のこと。

その日、将軍・家茂が順動丸に乗り込み、大阪湾岸の警備状況を視察。

その後、海舟ら数人とボートに乗り移り、神戸へ向かったのである。

海舟はそのチャンスを逃さず、

家茂に、”海軍操練所”の必要性を訴え、その設立を直談判した。

すると、家茂は、操練所の設立を即断した。

いまのわたしどこに触られても笑う  前田咲二 

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  神戸海軍操練所跡 
       

翌24日には、幕府は、海舟を「御取建掛」に任命するとともに、

設立までの間、海舟に「海軍塾」を開くことを許可した。

そして、海軍士官の養成機関である、「神戸海軍操練所」が創設される。

その夢は大きく前進したが、

それには、彼の一番弟子である龍馬の活躍も大きい。

この頃、龍馬もまた、海舟の海軍構想に、自らの夢を重ね合わせ、

その建設の資金集めに奔走した。

開けるたびお金が増えている財布  井上一筒

幕府から、年間3000両の資金を与えられていたが、

訓練所設備の建設や軍艦の購入費など、金はいくらあっても足りない。

そこで龍馬が目をつけたのが、経済改革に成功して蓄えも潤沢だった福井藩。

藩主の松平春嶽に直談判して、5000両の資金供与を約束させるあたり、

のちにユニオン号事件の時にみせた、

タフ・ネゴシエイター(交渉人)の片鱗も垣間見られる。

そんな龍馬の活躍もあって、

2400坪の敷地に、訓練設備や4500人の塾生を収容する寮などが、完成し、

文久3年(1863)6月、神戸海軍操練所は完成した。

なけなしの一ドルかけるラスベガス  楠本晃朗

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海舟は、訓練生の塾頭に、龍馬を指名している。

幕府の士官養成機関で、氏素性知れぬ浪人者が、

塾頭になるなど前例がない。

慣例や常識など気にかけぬあたり、さすがに海舟は龍馬の師匠である。

また、塾生の募集に際しても、この師弟コンビ”非常識”は発揮され、

幕臣だけにこだわらず、広く門戸は開放された。

塾頭の龍馬が、脱藩浪人だけに、

土佐藩を中心とした脱藩浪人がこぞって参加する。

流れ星のひとつを横で受け止める  山口ろっぱ

はたしてまともな海軍士官が養成できるかどうか?

不安もあったが龍馬と海舟の夢は実現した。

しかし、希望あふれる時期だったが、幕府内に敵は多い。

「まるで過激派の巣窟ではないか!」

常識ある多くの幕府官僚たちは、海軍操練所を危険視するようになる。

操練所は、反対派の圧力で、翌年には閉鎖され、

海舟も海軍奉行を罷免されて、蟄居させられてしまう。

同時に龍馬は夢とともに、海舟という大きな後ろ盾を失って、

絶頂から一気に、失意の淵にたたき落とされるのである・・・。

食べものと空気ときどき仕分けミス  ふじのひろし

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「龍馬伝」・第17話‐「怪物、容堂」

勝麟太郎(武田鉄矢)の弟子となった龍馬(福山雅治)は、

ジョン万次郎(トータス松本)から、アメリカの大統領制について話を聞く。

勝は龍馬とともに人材を集め、

海軍塾を開き、日本の海軍を作ろうと計画していた。

龍馬は千葉道場に戻り、

佐那(貫地谷しほり)重太郎(渡辺いっけい)に、

自分の生きる道を見つけたと話す。

奇妙なほど素直になれる友がいる  上山堅坊

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京に戻った武市半平太(大森南朋)は、

慶喜(田中哲司)が上洛した時に、

慶喜に会えるように、「身分を引き上げてほしい」と、

三条卿(池内万作)に願い出る。

勝は、龍馬を連れて各藩の屋敷を訪ね、

海軍塾への人材提供を頼みこむ。

さらに、勝は土佐藩の前藩主・山内容堂(近藤正臣)の屋敷に龍馬を連れて行く。

勝は、土佐藩を脱藩した者たちの罪を免じてほしいと願い出るが、

容堂は許さない。
 
辛口の笑顔でボスは引き締める  三浦憩

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そのころ、弥太郎(香川照之)は、材木を仕入れて一儲けを狙っていた。

龍馬は、神戸に海軍塾をつくるために江戸を離れることとなり、

千葉家に別れの挨拶に行く。

佐那は涙をこらえて龍馬を見送り、生涯龍馬だけを思い続けようと心に誓う。

龍馬は、近藤長次郎(大泉洋)とともに、

江戸から大坂へと向かった。

生涯を赤い手帳と旅ガラス  紙屋クミエ

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横井小楠(1809-1869)

「豆辞典」

小楠は、熊本藩の儒学者。

鎖国体制の脱却と、幕政改革の必然性を説いた近代思考の持ち主。

橋本左内とも友人であり、その縁から松平春嶽の政治顧問となり、

福井藩の藩政改革にも加わる。

龍馬が春嶽と面談して、

「神戸海軍操練所創設資金」
を提供してもらえたのも、

彼のサポートによるところが、大きかったという。

明治新政府でも参与として働いたが、

明治2年(1869)京で暗殺される。

玄関から広がっていく日本地図  松谷大気   

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フィクションの日記に鍵はいりません 内藤光枝

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両手を懐に隠し、格好よく龍馬のポーズを決める福山雅治

衣装は和服にブーツ、”右手を懐に入れて” 威風堂々とみせる。

龍馬が、慶応3年(1867)11月15日に、近江屋で暗殺されてから、

まだ150年も経っていないのに、

龍馬について分かっていない事がいっぱいある。

例えば、「龍馬」、「竜馬」か? どう違うのか?

「リョウマ」なのか?、「リュウマ」なのか

カニの奴絶対にチョキワッハッハ  吉川 幸

龍馬自身は、たびたび変名を使っている。

姉・乙女への手紙では、「西郷伊三郎」

’馬関(下関)商社’を設立(1867)したときは、「才谷梅太郎」 

同じ年サムライ仲間への手紙では、「高坂龍次郎」

また、1867年4月寺田屋へ宛てた手紙では、

’大浜濤次郎’(とうじろう)事’才谷梅太郎’事’取巻抜六’』 と署名している。

”取巻抜六”とは、寺田屋遭難事件で、

多数の捕り方に取り巻かれながらも脱出したことを、

龍馬らしいユーモアで、名前にしたものである。

長生きのためにプラグは抜いている  いわさき妖子       

福山龍馬がなぜ懐手なのだろう?

答は、坂本龍馬がそのようなポーズをしていたから・・・、

忠実に倣っただけと簡単なのだが・・・、

実は、本物の龍馬が、手を懐に入れているのには、理由があった。

もしもからついにまで抱く寒たまご  山本早苗

上野彦馬という人が、長崎で写真館を開いた。

幕末の志士を名乗る人たちが、彼のカメラに収まった。

当時は、写真があまりにも写実的であったために、

自分の姿をレンズに通すと、命まで吸い取られるという、迷信がはびこり、

敬遠された写真撮影であった。

しかし、命知らずの志士たちは、銅版に自分の姿を残し遺影にしたのだという。

龍馬もその中の一人であったのだが、

ブーツを履いて写真に収まったいる。

下駄か草履の時代であるから、かなりのスタイリストであるか、

和装にブーツとは全体的に評価してヘンテコリンな格好である。

何着ても品格ぶれぬ心がけ  田頭良子

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土佐桂浜の「龍馬像」も、上野彦馬撮影の写真を見本に造られたものだ。

写真のモデルの龍馬は、なぜ手を懐に入れているのか?

その立ち姿は、見慣れているものの、

良く見れば可笑しい。

実は龍馬は、慶応2年(1866)1月24日未明、

寺田屋で夜襲を受けた際、右手親指に深い傷を負ったのだ。

その傷は動脈まで達し、一時は命も危ぶまれたほどだった。

あくまでも無色の立場と通す風  新川弘子

写真を見ても窺える通り、手の様子がぎこちない。

傷は簡単に癒えず、

しだいに龍馬は、無意識に右手をかばうようになった。

龍馬自身も手紙で、”右手親指に機能障害が残った” と記している。

写真を撮られるときも、

おシャレに格好つけるというよりも、

つい右手を、庇うように懐に入れてしまったのではないか・・・

とみられる。

モノクロの隅に私の影を置く  谷垣郁郎

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桂浜の龍馬像のモデルになったとみられるのは、

右手を懐に入れている写真で、

慶応3年(1867)1月、撮影されたものである。

すでに寺田屋事件から一年が過ぎようとしているが、

それでも傷の痛みは残っていた。

また別の写真では、両手を懐に入れているものもある。

じつは寺田屋事件で、龍馬は、左手も負傷していた・・・。

ひいおじいちゃんのケータイにも絵文字  井上一筒

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坂本龍馬が、

伏見奉行所に襲撃され重傷を負った「寺田屋事件」について、

事件直後の龍馬の足取りを詳細に記した伏見奉行所の「報告書の写し」。

”手前に「余程血をしたたらし左の腕」と書かれてある”

調査にかかわった青山忠正・佛教大教授は龍馬が、

「単なる浪士から要注意の大物として幕府にマークされ始めたことを示す重要な資料」

として評価している。

封印の土佐弁糸がほつれ出し  坂本常意

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ふくらんだ封筒微熱を帯びている   三村舞

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龍馬が、生涯にわたって大きな影響を受けた人物に、3歳上の姉・乙女がいる。

母親の幸が、龍馬をうんだころには体調をくずしていたため、

龍馬はいつも、姉の乙女と一緒にいたし、

母親が亡くなってからは、乙女が、母親代わりをつとめた。

乙女は一説に、身長5尺7寸(約173cm)、体重30貫(約112kg)といわれ、

「坂本の仁王様」 と仇名され、剣術、馬術、弓術、水練を得意としていた。

龍馬とは、姉弟というより、兄弟のようだったという。

文武両道にすぐれ、男勝りだった乙女は、年ごろになると、

武士の妻になりたいと思うようになった。

しかし、理想が、自分より剣術にすぐれたお武家様ということ、

また巨体にしてお転婆ということもあって、相手がなかなか見つからず、

「一生独り身を通して、龍馬の世話をする」 

という心境に傾きつつあった。

手塩にかけて育てた愛は渇かない  荻野浩子

龍馬も、こんな快活な姉が大好きであった。

龍馬の性格の半分は、

この姉の影響を受けていると言っても過言ではないだろう。

あっけらかんとした性格も、ユーモアのセンスも姉ゆずりだ。

尊敬する姉だから、離れた土地で何か新しい出来事があると、

たいてい姉・乙女に手紙で知らせた。

勝麟太郎に初めて対面し、弟子になったことも喜色満面に報告をしている。

観音の眼差し迷い抱きとめる  三村一子

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「脱藩後初めて、三歳年上の姉・乙女宛ての手紙」

”坂本乙女宛 文久三年(1863)三月二十日”

『扠も扠も 人間の一世は、がてんの行ぬは元よりの事、

 うんのわるいものは、ふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて、死ぬるものもあり。

 夫とくらべて私などは、うんがつよく、なにほど死ぬるばへでゝも、しなれず、

 じぶんでしのふと思ふても、又いきねばならん事になり、

 今にては、日本第一の人物・勝憐太郎殿という人に、でしになり、

 日々兼而思付所を せいといたしおり申候。

 其故に、私、年四十歳になるころまでは、うちにはかへらんよふに、いたし申つもりにて、

 あにさんにもそふだんいたし候所、このごろはおゝきに御きげんよろしくなり、

 そのおゆるしがいで申候。

 国のため、天下のため、ちからおつくしおり申候。

 どふぞ おんよろこびねがいあげ、かしこ。

 三月廿日 龍       乙様 

 御つきあいの人にも、極御心安き人には内掌御見せ、かしこ。』

顔上げて龍馬は明日を凝視する  嶋澤喜八郎

『訳』―

≪さてもさても人間の一生は、合点がいかないのは、当然のことで、

 運の悪い人は風呂から出ようとして、キンタマを割って死ぬこともある。

 それと比べると私などは運が強く、いくら死ぬような場所へ行っても死なず、

 自分で死のうと思っても、また生きなければならなくなり、

 今では、日本第一の人物勝麟太郎殿という人の、弟子になり、

 日々兼がね思い付いていたところ、(海軍のこと)に精出しています。

 ですから、四十歳になる頃までは、うちには帰らないつもりで、

 兄さん(権平)にも相談したところ、この頃は大変ご機嫌が良く、

 そのことについてもお許しが出ました。

 国のため、天下のために力を尽くしています。

 どうぞお喜び下さい。さようなら。

 三月二十日  龍    乙女様

 おつきあいのある人のなかでも、特に心安い人には、内緒で見せてもいいですよ。 

 さようなら。

写メールでこの涼風を送ります  前田絢子

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「一生独り身を通して、龍馬の世話をする」 

というように、龍馬一辺倒になって、

結婚を考えない乙女を、心配した父親代わりの兄・権平は、

自分の友人で、独身だった山内家御典医の岡上樹庵との縁談をすすめ、

20歳近くも年上の医者へ嫁がせた。

その後、男女ふたりの子供をもうけるが、

家風の違いや夫の暴力、浮気などが原因となって、ふたりの子供を残し、

数年で実家に戻ることとなる。

丸木橋凌ぐと吊り橋に遭った  有田晴子

そんなこともあり、

乙女は、国事に奔走する龍馬を、手紙などで励ましつづけた。

おまけに、龍馬を通して、政治への関心が高まったようで、

一度、龍馬に、

「藩を出て、広い世界に雄飛したい」 という気持ちを、書き送ったことがある。

これに龍馬は大あわて。

「実に龍馬の名を(と)言ものハ、もはや諸国の人々知らぬものなし。

 その姉が、ふじゆう(不自由)おして出て来たち云てハ、天下の人にたいしてはずかしく」

とまじめに返事を書いたこともあったという。

鳥になる朝に減量間に合った  井上一筒

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信号は黄色だが右足は青  北原照子

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龍馬、勝海舟と運命の対面

龍馬は、交流した多くの人々との語らいの中で、

自分の進むべき道を、模索していた。

開国派と呼ばれる人々にも会った。

ワンパターンの精神主義者より、

むしろ、理路整然と攘夷の不可能と、海外貿易の必然性を説く、

開国派の人々に、龍馬はしだいに傾倒していく。

なかでも最も魅せられた人物が、「勝海舟」である。

当時、貧乏御家人から幕府軍艦奉行に、異例の出世をした海舟は、

なにかと注目される男だった。

逆境でスケールでかい人育つ  佐田房子

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    松平春嶽

『龍馬、勝海舟に会う手がかり』

文久2年(1862)8月ごろ、

龍馬は、公武合体を推進しようとしていた福井藩主・松平春嶽に謁見している。

龍馬は、同郷の岡本健三郎と霊岸島の福井藩邸を訪ねると、

春嶽は登城の準備中だった。

あわただしい時間の訪問に、国学者の中根雪江が応対した。

中根によって、二人は危険人物でないと判断され、春嶽との謁見が許される。

おしるこに体当たりした血糖値  井上一筒

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    龍馬・海舟・長次郎

龍馬らは、奥の間に通されると、

自分たちが勤皇の志士であり、攘夷思想の持ち主であることを自己紹介。

そして、天下国家に対する意見や疑問を述べたあと、

日本の未来に向けて何をなすべきかを問うた。

これに対して、春嶽は龍馬の話を聞いて、

その行動力や人柄に関心を持ち、

龍馬の求めに応じて、

軍艦操練所頭取の勝海舟や、福井藩・政治顧問の横井小楠への”紹介状”を、

手渡したとされている。

龍馬は、春嶽に面会することで、勝海舟への紹介状を手にし、

これが、志士活動の大きな転換点となった。

隅っこで雲行き見てる砂糖豆  合田瑠美子

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    勝海舟

海舟の『追賛一話』より、海舟の一言。

「坂本氏、かつて剣客・千葉重太郎を伴い、余を氷川の 寓居に訪ねえり。

 時に夜半。

 余、為にわが邦(くに)海軍の興起せざるべからざる所以を談じ、びび(根気よく)止まず、

 氏、大いに会する所ある如く、余に語りて曰く、

 『今宵のこと、ひそかに期する所あり。

 もし、公の説いかんによりては、あえて公を刺さんと決したり。

 今や公の説を聞き、大いに余の固陋(ころう)を恥づ。

 請う、これよりして公の門下生とならん』 と。

爾来(じらい)、氏、意を海軍に致す、寧日なし。  (寧日=平穏無事な日)

海舟はまた

「彼はオレを斬りにきた奴だったが、なかなかの人物さ。

 その時おれは笑って受けたが、

 落ちついていて、なんとなく冒しがたい威厳のある、いい男だったよ」

とも語っている。

抜きにくいところに雑草も必死  八尾和加子

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     海舟と龍馬

ところで、龍馬はなぜ春嶽に会えたのだろうか・・・?

龍馬は脱藩浪人とはいえ、

もとは土佐藩の郷士であり、土佐藩主にすら会えない軽格。

その彼が、大名であり幕府の政事総裁職までつとめる春嶽に、

謁見できたのは、剣術の師匠である千葉定吉の息子・重太郎の、

口利きがあったからだった。

返せない恩が日記の中にある  鈴木栄子

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     龍馬と重太郎

龍馬は、江戸で重太郎と行動をともにしていた。

重太郎は、龍馬より11歳上で、当時38歳。

龍馬が千葉道場へ入門当初から、おもに剣術指南したのも、この重太郎だった。

その後、重太郎は鳥取藩に仕官し、江戸政界にもかかわり、

幕府の内外に人脈を築いていた。

その重太郎の紹介で、龍馬は、春嶽に謁見できたのである。

また、春嶽は、人材登用に積極的で、

「見どころあり」 と認めれば、

身分に関係なく、意見を聞き入れる人物だったことも幸いした。

春嶽が、懐の深い政治家だったことも、

龍馬が春嶽に謁見することができた、大きな理由だった。

それなりの効用ピンボケのメガネ  山口ろっぱ

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  勝海舟ー2

「浪人の龍馬が、幕府要職の海舟と面会できたもう一つのストーリー」

この頃、攘夷の熱情に感染していた千葉重太郎が、

「奸賊の勝海舟を斬ってしまおう!」

と、海舟の暗殺計画を打ち明けて龍馬を誘う。

龍馬は気がすすまなかったが、重太郎一人で行かせるわけにもいかず、

一緒に勝邸に向かった。

つまり龍馬は、刺客として海舟と会ったわけだ。

海舟はなにかと目立つ。

元来が口の悪い江戸っ子。

歯に衣着せぬ言動は、

尊皇攘夷論者を刺激して、常に暗殺者に狙われていた。

そんな人物が氏素姓の知れぬ自分たちに対して、

「まァ、入りなよ」

と、気軽に屋敷に招き入れてくれた。

部屋に入ると、重太郎や龍馬が放つ殺気をまったく無視して、

海舟は持論を熱く語った。

フルートから湧き出る蝶を見ている  上野多佳子    

「日本を他国の侵略から守るには、まず交易により外貨を稼ぎ、

 強力な軍艦を多数購入して海軍を整備しないといけない」

そう言いながら、海舟は地球儀を手に、

日本の小ささと世界の広さを示してみせた。

この海舟との出会いで、

龍馬は自分の心にわだかまっていた霧が、スッキリと晴れた。

貿易立国と精強なる海軍の建設を得て、

釈然としない思いで引きずられていた攘夷思想と、きっぱりと決別するこたができた。

他の志士たちが、龍馬と同じ思考に達するまでには、

まだ多少の年月を必要とした。

それだけ海舟の発想は、当時の常識を逸脱したものであり、

龍馬には、それを理解できる”柔軟さと先見性”があった。

≪この運命的な師弟の出会いは、日本の将来にとっても幸運なことだった≫

刺客にも運のいい人悪い人  幸松キサ

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        佐 那

『龍馬伝』 第16話・「勝麟太郎」-あらすじ

加尾(広末涼子)のすすめで江戸にやってきた龍馬(福山雅治)は、

かつて修業を積んだ千葉道場を訪ねる。

龍馬をいちずに待ち続けていた佐那(貫地谷しほり)は、

龍馬との再会に胸が高鳴る。

しかし、龍馬が江戸へやってきた目的は、

勝麟太郎(武田鉄矢)という人物に会うためだった。

そして、千葉定吉(里見浩太郎)の計らいで、

前越前藩主・松平春嶽(夏八木勲)からの、招待状を得た龍馬と重太郎は、

いよいよ赤坂にある勝の屋敷を訪れる。

大風呂敷の中は溶けかけた氷  柿花和夫

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     龍馬・採点表

勝の屋敷で、龍馬の前に現れたのは、

龍馬の幼なじみでまんじゅう屋の長次郎(大泉洋)だった。

長次郎は、日本のために役にたちたいという志を持って、江戸に出てきたのだった。

弟子入りを願い出る龍馬に、勝は、矢継ぎ早に質問する。

緊張で言葉に詰まる龍馬の前で、帳面に次々と記されていく×印。

なんとこれは、龍馬への面接試験だったのだ。

結果、龍馬は勝から弟子入りを断られる。

躓いた足に素足が文句言い  松瀬俊雄

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    表半平太と勝

その数日後、

三条実美(池内万作)を警護して、江戸に来た武市半平太(大森南朋)が、

岡田以蔵(佐藤健)平井収二郎(宮迫博之)を連れて勝の屋敷を訪れる。

武市は、開国派の勝を、

ことによっては、斬り捨てようという覚悟で、乗り込んできたのである。

勝は武市の言葉から、

龍馬が、他人とは違う考え方をもっていることを知る。

龍馬を呼び出した勝は、

龍馬が戦をしない攘夷の方法を考えていると聞いて、

弟子にすることを決める。

両の手を開けば何もない敵意  菱木 誠

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