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川柳的逍遥 人の世の一家言
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地図なんかいらない僕の歩き方  立蔵信子

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 寺田屋登勢

商都大坂と淀川の水運で、直結していた”伏見”は、当時の京の表玄関。

諸国から集まってきた志士たちの、活動拠点でもある。

船着場近辺には、旅籠が軒をつらねていたが、

なかでも「寺田屋」は、彼らの定宿としてよく利用された。

それは、女将である”お登勢”の人柄によるところが大きい。

龍馬も薩摩藩からの紹介で、寺田屋に滞在するようになった。

≪豆辞典ー寺田屋は、山城の国久世郡・寺田出身の出身者が、

 始めた船宿なので、寺田屋という名がついた≫

盛り場で憩う疲れた男たち  長江時子

お登勢は、近江大津の旅籠屋の娘で、龍馬より6歳年上だった。

18歳で伊助と結婚してから、

病弱な夫に代わり、女将として船宿を切り盛りしていた。

そして、気難しい姑によく仕え、姑が病に倒れたあとも、懸命に看病した。

そんなことで、姑は、最後には涙を流し、

感謝しながら、息を引きとったと伝えられている。

この世からあの世へゆれるものばかり  森中惠美子

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男勝りの度胸と気風の良さ、

お登勢は、姉の乙女に似た感じがある。

「彼女は、学問の素養もある一角の人物」 

と、龍馬は、かなり尊敬もしていたようである。

そして、お登勢のほうも、龍馬には、かなりの好感をもっていた。

彼女は、もともと面倒見がよく、

それもあって志士たちに、慕われていたのだが、

なかでも、龍馬について、とくに気をかけていたいたという。

みじん切りしたい男がひとりいる  井丸昌紀

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龍馬という人間、

声高に理想論を語るような、角ばった気負いがなく、

茫洋とした自然体。

そこが、他の志士たちと異質で目立つ。

大人物の片鱗が見え隠れするのだが、

しかし、隙だらけで、どこか危なっかしくて・・・つい世話を焼いてしまう。

いつの間にか、お登勢は京における、『母のような存在』 になっていた。

背中にも目がある母を騙されぬ  玉利三重子

龍馬は寺田屋での暮らしについて、

「お国にて安田順蔵さんのうちにおるような、こころもちにて候」 

と、姉の乙女への手紙に書いている。

安田順蔵は、坂本家の親戚で、龍馬は幼い頃に、

よく乙女に連れられ遊びにいった。

居心地の良い場所だったようだ。

母さんの愛は時々煮えすぎる  山岡冨美子 

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志士にとって京は危険地帯であり、

寺田屋とて、完全に気の許せる場所ではない。

みなが緊張していて、よそよそしいところはあった。

だが、龍馬だけは、まるで親戚の家に遊びにきたように、

こころの底から、くつろいでいる。

無防備で自分の懐に入ってくる相手には、こちらもつい心をゆるしてしまう。

これが、龍馬の甘え上手の秘訣だろうか?

現実を受け止め風に水になる   安土柾子

彼が意識して、それをやったかどうかは解らない。

しかしお登勢は、この子供のような大男を家族同然に・・・というよりも、

本当の家族として世話をした。

その何よりの証拠は、妻のおりょうを、お登勢に預けたことだろう。

お登勢は、おりょうを養女にしたばかりか、

おりょうの母と、弟妹も預かっている。

やわらかくとどくありがとうの角度  森中恵美子

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また、龍馬の危機に際しては、我が身を挺して守ろうとした。

龍馬が幕吏に襲撃された時のこと。

その直前に、お登勢は数回にわたり奉行所に呼ばれ、

厳しく尋問されたが、

質問が龍馬に及ぶと、頑として口を閉ざしつづけた。

これも、”子を守ろうという母の心境” だろうか?

≪お登勢の孫・相部さんによれば、龍馬は土佐風に、「おかあ」と呼んでいたという≫

胸奥の余韻 括弧でとじておく  安土理恵

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寺田屋と、お登勢の名を有名にしたのが、

文久2年(1862)に起きた「寺田屋騒動」である。

この頃、公武合体路線に反発する薩摩藩の志士たちが、

京都所司代襲撃を企んで、寺田屋に集結していた。

薩摩藩主・島津久光は、この企てを察知して、

藩内でも、使い手で知られる9名の刺客を送り込む。

すなわち、薩摩藩士同士の激しい斬り合いが、始まったのだ。

2階の客間からは、刀が激しくぶつかりあう金属音が響き、

足音とともに、怒号や悲鳴も聞えてくる。

お登勢は、女中たちをかまどの中に隠れさせて、

自分は帳場に灯りを点して、平然と2階の乱闘を見守ったという。

忍耐を磨く地獄の一丁目  西美和子

やがて、斬り合いは終わり、

抜き身の血刀を手に持った薩摩藩士たちが、階下に降りてきても、

お登勢は、帳場から一歩も動かず、平然と応対してくる。

この態度には、さすがの剣客たちも驚いた。

薩摩の男は剛胆であることを、ことのほか尊ぶ気風がある。

以後、お登勢は薩摩藩士から、最も尊敬される京女となる。

それ以前からも薩摩藩士たちに、

定宿として利用されてきた寺田屋であるが、

この事件を契機に、いっそう信頼は深まるようになった。

生き抜いた証手のしわ顔のしわ  武内美佐子

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『龍馬伝』・第25回‐「寺田屋の母」 あらすじ

京から神戸村へ帰る途中、

伏見の船宿・「寺田屋」のそばを通りかかった龍馬(福山雅治)は、

おかみ・お登勢(草刈民代)を見て、驚愕する。

幼い頃に亡くなった生母・幸(草刈2役)に、うり二つだったからだ。

思わず寺田屋に泊まることにした龍馬は、

お登勢に、「自分の亡き母親とそっくり」 だと打ち明ける。

脱藩浪士となり、「もう土佐には戻れない」 という龍馬を優しく励ますお登勢。

彼女の言葉に力を得た龍馬は、

新たな気持ちで海軍操練所へ戻っていく。

そうとしか思えぬ幽霊からの手紙  有田晴子

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  燃える京都(禁門の変)

そのころ、京の町を震撼させる大事件が起きる。

池田屋で多くの同志を殺された長州藩が、帝を奪還するため、

京へ攻め入ったのだ。

長州を迎え撃ったのは薩摩、会津ら幕府軍。

激しい攻防の末、長州藩は総崩れとなり、

久坂玄瑞(やべきょうすけ)は自刃。

後に、「蛤御門の変」と呼ばれるこの戦いにより、

京の町は焼け野原と化した。

大風呂敷の中は溶けかけた氷  柿花和夫

「海軍操練所」にも、戦の様子が知らされ、

龍馬は、戦場を見るため京へ向かった。

焼け野原となった京で龍馬は、桂小五郎(谷原章介)と再会する。

彼は、長州の仲間を、死に追いやった薩摩を激しく憎んでいた。

 草笛を吹くとトラウマ疼き出す  清水久美子

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その後、龍馬は、お龍(真木よう子)のもとへ向かう。

幸い彼女の家は焼け残ったものの、働き口だった扇岩は焼けていた。

「どうしてうちらがこんな目に遭わされんの」

はき捨てるように言うお龍に、龍馬はかける言葉もない。

「おまんの言うとおりじゃ・・ こんなことはおかしい」

どうにか、お龍だけでも助けてやりたい。

龍馬は、お登勢に、お龍のことを相談する。

うねる物抱いて竜馬は懐手  菅野泰行

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一方、幕府内部では、長州の決起により、

「長州を徹底的に叩くべき」 だという一橋慶喜(田中哲司)と、

「内戦は避けるべき」 だという勝(武田鉄矢)とが対立する。

そんな中、勝の指揮する海軍操練所の訓練生の中に、

脱藩浪士が多数いること、

池田屋事件に、訓練生の1人であった亀弥太が関与していたことを理由に、

勝は、軍艦奉行を免職となる。

江戸での蟄居を命じられた上、

さらには、操練所まで、閉鎖されることになったのだ。

エンジンの無い自動車に乗っている  井上一筒    

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振り出しに戻った、「日本のために海軍を作る」 という龍馬の夢。

龍馬たち訓練生は、予想だにしない状態に、

驚きを隠せない・・・。

日本の海軍を目指す龍馬たちの、行く末に暗雲がたちこめる。

歩いても歩いてもまだ藪の中  毛利元子

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一枚の舌の謀反を知る夜更け  山本芳男

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    以蔵役・佐藤健

長州が失脚、勤王派の衰退に合わせるように、

岡田以蔵は、しだいに酒色に溺れて、身を持ち崩していく。

「土井鉄蔵」 と名乗って、博奕打ちになり、強盗を働いたりした。

そして、元治元年(1864)、”無宿人狩り”の網にかかり、

幕吏によって捕えられた以蔵は、京から追放される。

寂しくていつもながらの酒に酔う   竹森雀舎 

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これを知った土佐藩に、放たれると同時に、捕えられ送還された。

その頃の土佐では、公武合体推進派の山内容堂による、

土佐勤王党への、弾圧の嵐が吹き荒れ、

武市半平太以下、多くの土佐勤王党士が投獄され、

厳しい取調べ、拷問を受けていた。

以蔵には、特に過酷な拷問が待っていた。

そして以蔵が、1年もの拷問にも耐えるなか、

半平太は、

「もし以蔵が自白した場合、自身や仲間の立場が危うくなるのでは・・・」

と考え、以蔵を毒殺しようと企んだ。

デコボコのボコヘすこうしずつ火薬  東おさむ

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が、半平太の企みは失敗、未遂に終わる。

そのことにより、以蔵は、

「自分が、武市半平太に道具のように、扱われていたんだ」

と気づき始める。

結果、仲間の毒殺計画に失望した以蔵は、次々と自白していった。

以蔵が、すべてを自白して、新たに投獄される者もでる。

また、党員への拷問は、過酷さを増していき、中には獄死する者も出た。

呪縛から解き放たれた赤トンボ  森口かな江

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武市半平太の取調べには、投獄から1年余りの間、

吉田東洋暗殺の犯人探しに、執念を燃やす後藤象二郎が、あたった。

しかし半平太は、最後まで吉田東洋暗殺を、否定し通した。

半平太の自白はないまま、周辺の証言から、罪状が決し、

慶応元年(1865年)5月11日、37歳で、切腹を命じられた。 

≪傀儡師の半平太は、身分の違いから正式な切腹を許され、

操り人形の以蔵の首は、土佐の雁切河原に三日間晒された≫

伝え聞くことは、どこまで正しいのか、二人の胸に悲しい悔恨が残る。

”君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空”

明太子レンジの中で自爆した  井上一筒

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友情は昼の月にも似てぬくい  津田一江

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「それぞれの幕末ー半平太 龍馬 そして以蔵ー」

2006年(平成18年)8月17日、高知新聞朝刊を読む。

三浦夏樹氏執筆、”それぞれの道、貫いた3人”

新聞には、次のような内容が書いてありました。

改革を抱く青雲の志  住田英比古

土佐藩の下級武士の家に生まれた、坂本龍馬、武市半平太、岡田以蔵の3人は、

日本を守るため、短い人生を全力で駆け抜けた。

龍馬は、33歳で暗殺され、

半平太は37歳で切腹した。

以蔵は、28歳で斬首の刑を受けた。

死に方は違うが、みな若くして命を落としている。

形状記憶の黒ネクタイが忙しい  木村良三

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半平太が切腹に使ったと伝えられている短刀

半平太
は、手紙(個人蔵)の中で、

「人は男でも女でも、道を守らねば役には立たない」  

と書いている。

江戸時代には、身分制度があり、身分や立場によっては、

守るべき道が全く違ってくる。

武士の中の武士である、半平太にとって、

”守るべき道は、主君に対する忠義と、親・先祖に対する孝行が、一番だった”

「天皇や日本のために、脱藩する若者が多い中、

半平太はぞれぞれが、主君に忠義を尽くす事が、真の尊王だ」

と主張した。

「脱藩して活動することは、主君や親・先祖に対して不忠・不孝にあたり、

 それに勝る忠義は行なえない」

とも書いている。

レンジでチン反戦論を更迭す  山口ろっぱ

しかし、郷土の次男に生まれた龍馬にとって、

”守るべき道は、家や土佐藩よりも、朝廷や日本そのものだった”

さらに、龍馬の場合は、自分の夢の実現のためにも動いた。

半平太が、土佐藩を勤王でまとめる「一藩勤王論」に、

命を懸けたのに対して、

龍馬は、藩という枠組みを脱し、身分すらも無くそう、と考えていた。

薬かも知れん爆弾かも知れん  谷垣郁郎

以蔵については、資料が少なく、明確には捉えられない。

しかし辞世の句には、

「君がため 尽くす心は水の泡 消えにしあとは 澄みわたる空」

とある。

これを読むと、無学で、信念も無かった人間とは、思えない。

以蔵もまた、信念を持って、剣を振るい続けたのでは、ないだろうか。

また、意外に思うかもしれないが、以蔵は、ピストルを持っていた。

弟のご子孫宅に、伝わるものだ。

ゆっくりと人の字書いてかみしめる  前田洋子

現代の日本は、将来に対する、希望を見出せない若者が、増えている。

やりたいことが見つからず、無気力な若者が多くなっている。

それに比べて、龍馬、半平太、以蔵は、短い人生ながら、

自分の「守るべき道」のために信念を貫き通した。

それゆえに、三人は、死に直面する危険に、追い込まれる事もあったが、

死に、怯えることはなかった。

このように、死をも超越し、信念を貫こうとする姿は、人を感動させる。

誰の考えが正しい、というのではなく、

それぞれが、信念を持って行動を起こしたことを、

資料を通じて知って欲しい。

ファイティングポーズ豆腐が立っている 岩田多佳子

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以蔵が所有していたという、フランス製のピストル

「どのようにして、岡田以蔵は、ピストルを手にいれたのだろうか?」

郷土の岡田家は、以蔵の弟が継ぎ、一族は代々農業を営んできた。

現在は、84歳の岡田義一さんが末裔である。

その義一さんが、語っておられる言葉。

「京都で勝海舟の護衛をしている時に、

『刀の時代は終わった、これからは、ピストルの時代じゃきに』

と、龍馬から渡されたそうです」

龍馬の米製ピストルは、

長州藩の高杉晋作から、護身用と贈られたが、

以蔵は、龍馬から、ピストルを譲り受けていたというのだ。

朝が来たなら人間になりなさい  壷内半酔

「龍馬は、人を殺める以蔵に対し、

『こんなことしてたら いかんきに』

と、心配していましたが、、以蔵は、義理堅く一途な性格だったんです。

龍馬より、3歳年下ながら、

2年も早く砲術を習うなど、実は以蔵には、先見の明があった。

龍馬に導かれていたら、

歴史に違う形で、功績を残していたかもしれませんね」

と、伝説を意味深く聞かせていただいた。

坊さんを引き摺る知恩院の鐘    井上一筒        

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さみしくてコンビニの蛾になっている たむらあきこ
 
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「龍馬とおりょうの恋人時代」

おりょう、龍馬と知り合って間もない頃、

妹が騙されて、大坂の女郎屋に売られる事件が起きた。

この時、おりょうは一人で、女郎屋に乗り込んで妹を救出している。

「死ぬる覚悟にて刃物をふところにして喧嘩をいたし・・・」

と、龍馬も手紙にその詳細を書いている。

彼女の大胆な行動に、よっぽど感心したのだろう。

その痛快な行動は、龍馬が恋に落ちるに、充分な衝撃だった。

センサーの休日知っているカラス  山口ろっぱ

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『おりょうというのは、遊芸は大好きだが家事は苦手、

政治向きのことには、口を出したがる・・・』 と、

当時の男たちには、敬遠されるタイプだった。

だが、女性を男の所有物ではなく、同じ人として向き合う

龍馬には、そこが魅力だったのだろう。

龍馬という男は、むしろ大人しい良妻賢母では、退屈してしまう。

手に負えぬ内弁慶の閉じこもり  薮内直人

龍馬とおりょうは、夜ごとに、鴨川べりをデートしたというが、

男女が寄り添って一緒に歩くなど、当時としては珍事に等しい。

そんなデートの最中にあった”怖い事件”を、おりょうが述懐している。

特ダネを黙っといてと言われても  太下和子

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[新撰組の話]

『伏見に居た時分、夏の事で暑いから、

  一晩龍馬と二人で、ぶらぶら涼みがてら、散歩へ出かけまして、

 段々夜も更けたから、話もって帰って来る途中、5・6人の新撰組と出会いました。

 夜だからまさか、坂本とは知らぬのでせうが、

 浪人と見れば、何でも彼でも叩き斬ると云う、奴らですから、

 故意 私らに突き当たって、喧嘩をしかけたのです。

 すると龍馬は、ぷいと何処へ行ったか、分からなくなったので、

 私は困ったが、ここぞ臍の据え時と思って、平気な風をして、

 「あなたら大きな声で何ですねえ」 と懐手で澄まして居ると、

 「浪人は何処へ逃げたか」などと、ブツブツ怒りながら私には、

 何もせず行き過ぎてしまいました。

目を凝らすとざわざわ白い物が見え  島田握夢

 私は、ほっと安心し、3・4丁行きますと、

 町の角で、龍馬が立ち止まって、待っていてくれましたかね、

 「あなた私を置き去りにして、あんまり水臭いぢゃありませんか」 

 と云うと、

 「いんにゃそういう訳ぢゃないが、きゃつらに引っかかると、
 
 どうせ刀を抜かねば済まぬからそれが面倒で隠れたのだ。
 
 お前も、これ位の事はふだんから、心得ているだろう」

 と云いました。』

口髭に隠してキャビア食べている  井上一筒

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『龍馬伝』・第24回‐「愛の蛍」 あらすじ

京の池田屋に向かった龍馬(福山雅治)は、

亀弥太(音尾琢真)の死を目の当たりにする。

池田屋を襲撃したのは、新選組だった。

怒りに震える龍馬は、引き上げていく新選組に挑もうとするが、

居合わせた桂小五郎(谷原章介)に止められる。

桂は、池田屋で殺された者たちの無念を、いつか必ず晴らすと誓う。

では海はしばらく蓋をいたします  酒井暁美

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龍馬は、新撰組から逃れるため、お龍(真木よう子)の家に身を隠す。

そこには、病弱な母親と4人の弟妹がいた。

お龍は父親亡き後、女手ひとつで一家を支えていたのだ。

そんな彼女に、龍馬は、

「自分は家を捨てた身、好き勝手なことをやって家族に申し訳ない」

ともらす。

横向いて居てくれボクの泣くあいだ  太田扶美代

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反面、亀弥太の死を防げなかった自分自身にも、いらだっていた。

そんな龍馬に、お龍は、

「亀弥太が志を貫いて死んだのだから、誉めるべきだ」 

と龍馬を諭す。

その言葉を聞き、龍馬も自分の志を取り戻す。

こうして、すこしづつ変化をみせる2人の仲。

弱気になった天狗の鼻を撫でられる  奥山晴生

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一方、勝(武田鉄矢)は、

操練所の訓練生だった亀弥太が、池田屋の策謀に加わっていたことで、

幕府の老中に呼び出され、詰問される。

その頃土佐では、以蔵(佐藤健)が厳しい拷問を受けていた。

吉田東洋殺しの犯人を吐かせようという、

後藤象二郎(青木崇高)の追及が、続いていた。

武市半平太(大森南朋)は、以蔵が拷問で苦しむ声を、間近に聞きながら、

じっと堪え忍ぶしかなかった。

消しゴムで消せぬ一行過去一つ  横山達矢

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だが、苦しんでいたのは、獄中の彼らだけではなかった。

半平太の妻・冨(奥貫薫)もまた、夫の苦しみを、我がことのように受け止め、

誰にも助けを求めることなく、それに耐えていたのだ。

それを知る、坂本家の伊與(松原智恵子)は、

武市家を訪ねて、冨を慰める。

幕末期、奔走する男たちの陰で、女たちもまた闘っていた。

ひとりじゃないよとさすりつづけた部屋  浜田さつき

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わが影を撫ぜれば地べたあたたかし  後藤柳允

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   菅菅しい笑顔

新首相・菅直人氏の尊敬する人が、『高杉晋作』 なのかどうかは、知らないが、

菅氏の座右の銘は、高杉晋作の名言で、

『人生 ただ一度』 だ。

高杉晋作が、数多残している名言の中に、次のようなのがある・・・

『苦しいという言葉だけは、どんなことがあっても、言わないでおこうじゃないか』

”人間、窮地におちいるのはよい。

 意外な方角に活路が、見出せるからだ。

 しかし、死地におちいれば、それで、おしまいだ。

 だから、おれは、困ったの一言は吐かない”

≪菅氏が、言いそうな言葉でもある≫

人肌のことばじんわり効いてくる  森吉瑠里恵

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 市川房枝(中央)と菅直人

「菅直人新首相は、高杉晋作化していく・・・か?」

少し、菅氏に触れてみる。

菅直人氏は、政界入りを志してから、3回の国政選挙の落選を、経験している。

女性の地位向上に尽くした市川房枝参院議員の、選挙事務長を務め、

80年に、市民運動家から衆院議員に転じた。

民主党内で見ても、鳩山首相小沢幹事長のような世襲議員でも、

岡田外相のような、官僚出身でも、

興石東参院議員会長のような、労相出身でもない。

運命を知っていたのは流れ星  杉本克子

菅氏の父は、会社員。

1994年6月、村山富市(漁師の父)以来、橋本竜太郎~鳩山由紀夫前首相まで、

16年間・8代続いた世襲議員を考えれば、よい意味で、、

「変り種」 かもしれない。

民主党で何度か代表を務めるうちに、「変わり身の早さ」 を身に着け、

「バルカン政治家」、になぞらえて「バル菅」とも、呼ばれるようにもなった。

≪「バンザイとダルマの目玉入れは、市民的ではない」

として、「拍手とVサインと胴上げ」 に替えたことや、

今も呼ばれる、「イラ菅」 というあだ名を、

早くも選挙の運動員から、つけられていることなどが、

初当選の直後の、

「市民ゲリラ国会に挑む」(読売新聞社・1980刊)という本に紹介されている≫

一日一生今日の主役はにぎり飯  板尾岳人

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「高杉晋作とは、どんな男だったか?物語」

高杉晋作の松下村塾入門は、さして思想的にどうこういうものではなかった。

むしろ、のうのうと生きている現状からの脱皮が、高杉の心をとらえた。

そういう心の動きは、

後の、高杉の変節する生き方に、表れてくる。

特定の思想なり考え方をもって、変革にかかわるのではなく、

変動する社会状況に合わせた考え方を、切り開いて幕末の舞台に上り、

いつの間にやら主役を演じている。

そのような巧みさが高杉晋作にはあった。

触れ合いの中で学んだ生きる知恵  広岡栄二

身の危険を感じれば、とにかく逃げる。

変装もする。

髷を剃り落とし、東行と名のり、武士から僧侶の姿に、変身するのも、

高杉はいとわなかった。

四国にも、田舎侍の夫婦を装って、愛人・おうのを連れ出して逃亡する。

今は、自分の出る幕ではないと判断するや、

あらゆる手段を使って、自分の命を守った。

”西へ行く 人を慕いて 東行く 我が心ぞ 神や知るらむ”

≪西行法師を慕って、頭を丸めたのだが、私の心は東に行くのだ。

 その心は、神だけがしっているだろう≫

月光の曲が流れる窓を持つ  山本早苗

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 日和山に立つ高杉晋作

高杉晋作の変節は、環境適応の巧みな生き方に、通ずる。

激動の幕末社会にあって、節を曲げず、

信念なり、思想を貫いた志士たちの、

多くは、志を遂げることも少なく、遭難しやすかった。

そんななかで、

”変節を、いわば生き方の手段とする高杉は、抜きん出て、異端ではあったが、

 賢明だった。”

まだ魅力あってこの世の世話になる  笹山あつ子     

「黎明に臨んで斃(たお)れる」 

とは志士が好んだ、標語であった。

いわゆる、武士の美意識にある「男の死に方」としては、格好よいのだろうが、

高杉は冷めていた。

「武士の死に方がどうこうなんぞ、そんなもん、斬って捨てちゃる。

 よく生きて社会の変革にかかわり、事を成すことこそ、大事ちゅうもんじゃ。

 今や、藩とか殿さんなんぞ頼りにならん時代になりよる。

 松陰先生もそう言うておられる」

≪直情の久坂玄瑞を代表する尊攘派の急先鋒として、知られていた長州藩だったが、

藩士のすべてがそうだったわけではない。

なかには、高杉晋作や桂小五郎のように、外国の情勢を知るにつれて、

内心、「攘夷は不可能」と悟っていたものもいた。≫

タイムカプセルあの日の吐息まだ保留  山口ろっぱ

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  奇兵隊姿の高杉晋作

松門グループの動きを眺めていると、過激なところが目立つあまり、

一面で、”命知らずの集団”であるかのように、思えてくるが、

松陰、「よく生きてことを成せ」 とばかり言っている。

「命を散らせ」、などとはひとことも言っていない。

ただ、「人生、四季を悟れ」 とは言っている。

「若くして、人生を終えることがあっても、それはすでに四季を終えているのであり、

 悲しむべきことではない」 

と四季の意味を解説。

背中の傷に縫い込んであるむかし  井上一筒

村塾のもうひとり、久坂玄瑞、『直 の志士であった。

玄瑞は、高杉より一つ年下であったが、はやくから時代の動きに目覚め、

信ずるところを、そのまま押し通す、青年らしい多感さがあった。

そのため、尊皇攘夷運動に足を取られ過ぎ、

既成の秩序を破壊しようと京に乗り込んだものの、

薩摩と組んだ幕府勢力の長州狩りにひっかかった。

そして、ついに「禁門の変」で玉砕した。

方向音痴さっぱり私が見つからぬ  岩田多佳子

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 『風の預言者・高杉晋作』

対して、高杉は、『曲』 の志士である。

『維新』 という大業をなしていくには、

「時節の変化を読み切り、自分の節を、その変化に合わせて修正し、

行動の鉾先も差し替えなければならない」

と考えていた。

相対化した立場で、自らの方向性を客観視できたのが、

「高杉晋作」であった。

そして、維新の目的を、日本の改革より、長州の発展にこだわり続けたのが、

高杉の特徴なのである。

あんなことこんなことあり そしていま  有田晴子

「同志・伊藤博文が高杉晋作を評した言葉」

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。

 これ我が東行高杉君に非ずや」

おもしろき こともなき世を おもしろく  高杉晋作

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「菅氏の貢献をひとつ紹介すると」

1996年の「薬害エイズ問題」で、被害の拡大に対し、

「国の責任を明確にすべきだ」

とする菅氏に、官僚は抵抗した。

官僚が、「ない」と言っていたエイズ対策の重要資料が、

菅氏の指示で探した結果、役所のロッカーなどから、

見つかったこともある。

「世間向けのパフォーマンスが多い」 と冷ややかに見る官僚に対し、

菅氏は

「何を言われようと私は仕事をしにきている」
 と突っぱねた。

その姿勢が、厚生官僚の根深い隠蔽体質に、

風穴を空けたことは確かだろう。

≪菅氏が、今年最初に書いた言葉は、「志」である。≫

右足が右向いていてどこ悪い  合田瑠美子

『豆辞典』-「バルカン政治家」

小国家が反目し、駆け引きに明け暮れた東欧のバルカン半島の政情になぞらえ、

少数政党や小派閥を率いて政界を巧みに動き回る政治家を指す言葉。

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