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川柳的逍遥 人の世の一家言
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丹頂のひと鳴き風穴があいた  森田律子


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 (吉野拓也氏撮影)

 

坂本龍馬が、長州を訪れた際に尊皇攘夷の志士・久坂玄瑞 に託され、

 

土佐へ持ち帰った武市半平太宛の手紙が、

 

土佐・山内家宝物資料館の収蔵資料から見つかり公開された。

 

矢印は正しいですか本当に  高岡宏子

 

手紙は、1862年(文久2年)1月21日付。

 

「諸大名も公卿も頼りにならず、草奔の志士を集めて立ち上がるしかない」

 

「大義のためならば、長州藩や土佐藩が滅亡しても苦しくない」

 

などの内容で、勤王党ら下級武士に決起を勧めている

 

武市半平太の使者として長州を訪ねてきた龍馬を、

 

久坂玄瑞、「坂本君」と呼び、

 

「腹を割って話し合ったので、しっかり聞き取って熟考してください」 と、

 

自分の思いを、龍馬から聞くよう頼んでいる。

 

乱世のイノシシ 枕元を奔る  加納美津子

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土佐勤王党を主宰した武市瑞山に宛てて、志士の決起を促す内容で、

 

「大義のためなら藩が滅んでもいい」 

 

という持論の部分を大きな字で、強調している。

 

龍馬も久坂の影響を受け、帰郷直後に、脱藩しており、

 

明治維新前の、緊迫した情勢を伝える文面になっている。

 

研いだ刃が突然くすくすと笑う  桑原伸吉

 

『豆辞典』ー草莽の志士とは・・・?

 

維新をめざし活動した人たちを、一般に「志士」と呼ぶ。

 

志士とは、「有志乃士」の略で、

天下を憂い、志をもって立ち上がる士分を意味している。

 

そもそも、志士なる言葉が出てきたのが、田沼意次の時代で、

 

幕藩体制がなんとなくおかしくなってきた、時代背景がそこにある。

 

しかし、時代が下がるにしたがって、

 

志士という意味合いは、もっと広く解釈されるようになり、

 

天下の時勢を考え、行動するものであれば、志士と呼ばれた。

 

つまり、「有志の徒」としての横の広がりが強まっていった。

 

『草莽の志士』というのが、

 

まさに幕末期の志士を代表する呼び方であり、

 

これを考案したのが、吉田松陰であった。

 

松陰は孟子の中にある『草莽』という語句を引き合いに出し、使うようになった。

 

草莽とはー「草むらに隠れている者」 と解釈され、

 

身を隠して志を立て行動できる者であれば、

 

だれでも草莽の志士になれたのである。

 

零一つ付けたら扱いが違う  藤井孝作

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『龍馬伝』・第19回「攘夷決行」-あらすじ

 

上洛した将軍・家茂(中村隼人)は、

 

孝明天皇に5月10日に、攘夷を決行すると約束する

 

「5月10日をもって、わが国にとどまるすべての異国人をひっ捕らえ、

 

 わが国の沿岸を航行する異国船をすべて打ち払います」

 

朝廷から攘夷決行の期日決定を迫られた将軍・家茂は、

 

しぶしぶながら決行日を宣言した。

 

稜線へ放った声が戻らない  山口ろっぱ

 

「長年の夢が叶う」と沸き立つ攘夷派。

 

だが、これらはすべて攘夷派をあざむく、幕府側の策略だった。

 

幕府は、朝廷には攘夷決行を約束しながら、外国と密通。

 

しかも各藩には、

 

「攘夷を決行するか否かは、幕府につくか、攘夷派の長州につくかの踏み絵だ」

 

と迫っていたのだ。

 

一方、長州にもどった久坂玄瑞(やべきょうすけ)は、

 

5月10日に、外国船の砲撃を始めるが、実際に攘夷を行ったのは、

 

長州藩のみだった。

 

万歳をしてから公約を省く  泉水冴子

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  半平太・収二郎・以蔵

 

そんな 裏のことは微塵も知らず、

 

半平太(大森南朋)は、突然の容堂(近藤正臣)の 帰国に右往左往していた。

 

「すべては大殿様のため・・・」

 

そう信 じて、攘夷を推し進めてきたにもかかわらず、

 

その旗 頭となるべき容堂が、京を去ってしまったのだ。

 

半平太 は、彼の真意をはかりかね、焦る。

 

刻々と 期日は迫るも、

容堂からは、一向に攘夷決行の命令が下されない。

 

半平太 は、まんじりともせず、沙汰を待っていた。

 

移り気な人で相手を降りまわす  栗田久子

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一方、龍馬(福山雅治)、収二郎(宮迫博之)以蔵(佐藤健)を、

 

半平太 に引き合わせる。

 

一度 は、半平太のもとを離れた二人だったが、

それは理由があってのこと。

 

龍馬は、「二人を許してほしい」 と訴えたかったのだ。

 

「収二郎も以蔵も、武市さんの駒ではなかったき」

 

だが、 龍馬の言葉は、もはや半平太には届かない。

 

そし て、ついに運命の5月10日がやってきた。

 

高のぞみした日ぎっくり腰になる  中井アキ

 

『5月10日の攘夷決行』ーうら話し

 

上洛し た将軍・家茂は、義兄の孝明天皇に、

 

「攘夷期限は文久3年(1863)5月10日といたします」

 

と答え た。

 

妹の和 宮を妻とする家茂の決断に、天皇は、

 

「公武一和これによって実現できる」 と喜んだ。

 

朝廷は 京都にいる大名を招集し、このことを示達した。

 

 シャー レの中で殖えていた薄笑い  井上一筒

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幕府のやり方に苦虫を噛みつぶす海舟 
           

 

「攘夷なんて実行できっこない」 

と考えていた大名たちは、心境ただならない。

 

攘夷を 行なえば、そのまま相手国との戦争になる。

 

日本の 軍事力では、勝てるはずがない。

 

「いま、大名の領地内にいる外国を、武力で追い出す」

 

となれ ば、戦うのは自分たちなのだ。

 

そんな ことから、この示達は、ほとんどの大名が本気では聞かなかった。

 

ところ が、この示達を、

「この日を待ちかねていたのだ!」 と大喜びした藩がある。

 

長州藩 だ。

 

長州藩 には、藩と北九州の間に、関門海峡がある。

 

日本に 出入りする外国船にとっても、重要な海の出入り口である。

 

コップから溢れた泡の泣き笑い  北原照子

 

尊皇攘 夷をはじめから唱えてきた長州藩は、この日のために、

 

砲台を 中心とした攻撃態勢を、着々と整えてきたのである。

 

この砲 撃陣に最初にひっかかったのが、

アメリカ船・ペンブローク号であった。

 

横浜港 を出て上海へ向かう途中、関門海峡で突然の砲撃をうけ、

 

ビック リしたそのアメリカ船は、緊急退避した。

 

禁猟句父の釦が落ちていた  宮本茂圭

 

「幕府の裏腹」

 

攘夷決行を5月10日とする というのは、

 

日本国 内における決定で、

幕府は、このことを外国側には伝えていない。

 

外国と 約束した条約があり、

 

「5月10日を期して、日本から出ていけ」 とは言えない。

 

しか し、長州藩の砲撃は、さらにフランス艦、オランダ艦におよぶ。

 

このた め、長州藩は、

その後、外国からすさまじい報復を受けることになる・・・。

 

下半身強化孤独な別メニュー 片岡加代


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